帝国海軍タンカー事情1~大和特攻の燃料~
大東亜戦争(太平洋戦争)は石油確保の戦争でした。
タンカー保有量
大日本帝國は大東亜戦争に突入したとき、111隻・58万トンのタンカーを保有していました(統計の仕方などにより48万トンとの記述もあり)。
同じ時点で貨物船、客船を含めた船舶(100総トン以上)の保有量は634万トンですから、僅か9%にしかなりません。
石油を確保するために南方へ進出したのに、その輸送手段は意外に貧弱だったのです。開戦の昭和16年度でもタンカーの建造量はほぼゼロです。
このタンカーの内、大型優良船の半数以上は海軍に徴用されています。
ある程度信用の置ける記述では、徴用船の内訳は海軍32万3千トン、陸軍1万4千トン、残りが内需です。
*海軍は自前のタンカーを保有していましたが、艦隊への給油用に使用されており、南方からの石油輸送には使っていません。
小型のタンカーでは外洋の航行は無理ですので、実際にパレンバンなど占領した南方油田の原油を国内に輸送できたのは昭和17年の前半で25万トン(原油1万トン=11,760キロリットル)前後でした。
当時のタンカーは1万トンが標準で、積載量は原油1万~1万4千キロリットルとされています。
このタンカーが年間10往復して450万キロリットル(企画院想定による戦争3年目の必要量)を輸送するとすれば、タンカーの必要量は38万トンで、1万トン級13隻が初めから不足していたのです。
南方からの原油輸送量(単位=キロリットル)
昭和17年 | 18年 | 19年 | 20年 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
1~3月 | 11万 | 1~3月 | 32万 | 1~3月 | 45万 | 1~3月 | 11万 |
4~6月 | 22万 | 4~6月 | 73万 | 4~6月 | 30万 |
3月以降 はゼロ |
|
7~9月 | 36万 | 7~9月 | 54万 | 7~9月 | 18万 | ||
10~12月 | 64万 | 10~12月 | 59万 | 10~12月 | 21万 |
『米国戦略爆撃調査団報告』より
1か月あたりの必要量、おおむね40万キロリットルどころか、その半分を輸送できたのも色付けした2期間だけであることが判ります。
タンカーを増やす
海軍は不足を補うため、既存の貨物船や鉱石船を改造すると同時に、簡易工法で建造できる戦時標準船(タンカーを含む)の建造を進めました。簡易工法を取り入れ、性能や耐用年数を低く抑えてでも量産にこだわった粗製濫造船です。
極端な表現をする人は「すぐ沈められるんだから、船体は3年、機関は1年が設計寿命」とまで言うほどなのでした。
米潜の攻撃
増勢する日本のタンカーに対し、米国の潜水艦等による通商破壊は当初は低調だったのです。
太平洋戦域に投入された米潜は、初めわずか51隻でした。魚雷にしても起爆装置や深度調整装置に故障が多く、大きな被害はありませんでした。
米海軍側も我が海軍に劣らず、情けない実態だったようで、魚雷の不発が相次いでいた時期、技術者は潜水艦側に責任をなすりつけ、 潜水艦側は技術者不信に陥っていたようです。
不発の有名な例として花魁船のエピソードがあります。
昭和18(1943)年、19,200総トンの特設油槽艦「第三図南丸」(元捕鯨母船)が、トラック島西方で米潜ティノサから15本のMK14型魚雷を撃たれました。その内12本の魚雷が命中します。
しかし爆発したのは僅かに2本(11本中1本の記述もあり)。
第三図南丸は自力航行は出来なくなったものの沈没をまぬかれ、軽巡五十鈴に曳航されトラックへ避難しました。
トラックに立ち寄った工作艦「明石」が早速調べたところ、吃水線下に10本の魚雷がまるで花魁の簪(かんざし)のように突き刺さっていたそうです。
当然のことですが、帰投するとすぐにティノサの艦長ローレンス・ランドール・ダスピット少佐は猛抗議。
太平洋艦隊司令長官のニミッツもこれらの事態を重視し、実験を命じたところ、結局「爆発尖に問題あり」と結論され、急速に改善される所となりました。
昭和18年も後半になると、これらの改善に加えて新型魚雷の投入、夜間潜望鏡や対艦船・航空機用のマイクロ波レーダーの装備、集団攻囲(狼群)攻撃の採用などで米潜の攻撃力は飛躍的に強化されていきます。
潜水艦の配備も昭和18年9月時点で118隻、19年8月には140隻、20年8月にはついに182隻にも達しています。
会敵率100パーセント以上?
対する大日本帝國海軍は大英帝国が採用して効果を上げた「大船団護送」方式を取るでもなく、それどころか護衛艦さえ付けない「独行」方式を長く続けました。
シーレーン防護の専門部署を作って、船団護送を始めたころはすでに手遅れになっていました。
さらに致命的だったのは、輸送船団の出発時刻・港湾名・会合点・船団編成などの暗号がほぼ解読されていたこと、しかも海軍がそれに気付かなかったことでしょう。
日本の輸送船団の会敵率は100%を越えています。
これは一航海中に必ず複数回も敵に攻撃される、という意味です。
この事態にも、海軍は何の疑問も持たずに暗号通信を行っていました。
私のFBFなら「日本破壊工作じゃね?」とおっしゃるでしょう。電脳大本営も少し疑っています。
日本のタンカー就航・建造・喪失数(単位=万トン)
(年度) | 昭和16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|
就航 | 57,5 | 62,8 | 83,4 | 78,5 | 24,8 | |
建造 | 0,1 | 19,7 | 38,0 | 55,5 | 1,0 | 114,3 |
喪失 | 0,1 | 0,4 | 38,8 | 75,4 | 32,5 | 147,2 |
*就航・建造・喪失は年度内で統計月度が異なり、就航数は沈船引き揚げ、貨物船などからの改造が加わるので、建造・喪失を加減しても一致しません。
『米国戦略爆撃調査団報告』より
輸送船の敵は潜水艦だけでなく、制海・制空権の喪失とともに航空機の脅威にもさらされるようになります。
昭和20年1月、ベトナムのブンタオ沖で「ヒ86」船団(ヒの付く船団はシンガポール、門司間の輸送)がハルゼー機動部隊の空襲で全滅し、南方からの石油はほぼ途絶しました。(南号作戦の放棄)
敵の機動部隊が大日本帝國のバスタブであるべき南シナ海まで侵入してきた事は、日本のシーレーンに終焉が近づいていることを物語っていました。
大和の燃料か?
最後に日本に届いた原油はその少し前に計画されていた「ヒ96」船団によるものでした。
ヒ96船団の輸送船は3隻で、光島丸(10,045総トン)には原油12,000t、重油1,300トン、錫60トン、ジルコン59トン。
富士山丸(10,238総トン)には原油16,000をトンを積載してもう一隻のあまと丸(10,238トン)とともに海防艦4隻に護られて2月22日にシンガポールを出航しました。
27日未明、インドシナ半島カムラン湾口付近でアメリカ潜水艦「ブレニー」に発見され、1時35分ごろにあまと丸が撃沈されました。
3月1日にはB-29の爆撃を受け、光島丸の船首に大穴が開いたため同船は海防艦8号、66号とともに香港に向ました。
船団は3月1日に後水湾、3日に雷白湾、5日に万山島西方、7日に廈門、8日に北開港、10日に泗礁山、11日に薪智島、12日に加徳水道に仮泊し(昼間の航行を避けるための仮泊)、13日に門司に到着したのです。
香港に向かっていた光島丸は、3月7日に香港に到着し積荷の一部を陸揚げし、船体の応急修理をしてから香港を出港、3月27日に門司に到着しました。
時期から考えると、この油が(確証はありませんが)、沖縄に向かう戦艦大和に搭載されたものと推測できます。
粗製濫造船しか与えられない民間船員たちは、決死の航海を続けましたが十分な原油を祖国に運ぶことは出来なかったのです。
何度も言いますが、大東亜戦争は(特に海軍が行動するための)石油を確保する戦争だった筈です。戦争指導部はいったいどこから石油を持ってくるつもりだったんでしょうか?
南シナ海の重要性
現代を考えます。
支那の南シナ海の「領有権」主張と人工島建設、アメリカの支那「領海」侵入が続いています。
一時は女性総理大臣候補と目された大物政治家の「南シナ海で何が起きてもカンケーねえ」発言もありましたね。
昭和20年も今も、日本を支える石油は産地は違えど南シナ海を通って運ばれています。
進歩のないことではありますが、この地政学上の位置関係は変えることが出来ないのです。
仮に石油に代るエネルギーが、今すぐに実用化できたとしても「原料」としての石油に代るモノはありません。
何度も繰り返して申し訳ありませんが、南シナ海経由の石油がなければ、現状の日本は立ち行きません。
何をもって「南シナ海はどうでも良い」などと言えるのか?
こんな政治家が自民党の大立者であることに絶望すら感じてしまいます。
大東亜戦争における石油問題はまだまだ
すみません、現代のアンポンタン政治家が腹立たし過ぎて、話がウロウロしてしまいました。
南シナ海の重要性は間違いのないところでありますが、大東亜戦争の敗因はもっと深刻なところにありました。
コチラの方も現代に通じる問題をはらんでいる様に思われますので、大急ぎで記事にしたいと思います。
って言うか、それを書くつもりだったんですけど、野田聖子たら言う馬鹿が悪いんです。