大東亜戦争の敗因~帝国海軍タンカー事情2~
大東亜戦争は石油確保のための戦争でした。
敗因と言っても、その内のひとつですけど。
石油禁輸で国が滅ぶ
当時のアメリカは世界最大の産油国で、大日本帝国は石油の消費量の80%を米国に依存していました。
陸海軍ともに潤滑油もほぼ全量を米国から輸入、オクタン価の高いガソリン(航空機用)の実用的な精製技術も設備も(徳山燃料廠に建設中)持っていませんでした。
この状況でアメリカに石油を止められて、国が生存できるわけがありません。
ここに至るまでの大日本帝国の危機感の無さは別に考えるとして、石油の禁輸は自衛権の発動としての戦争開始に十分な理由でした。
ただし、石油を確保すればよいのであって、アメリカを倒す必要はありません。
陸海軍が緒戦の目標として選択したのも、当然のように南方の油田地帯で、ここはオランダの支配下にありました。
そのオランダは同盟国ドイツに占領されたのですが、ロンドンに亡命政権が生き延びていました。
南方油田地帯はこの亡命政権の指示に従っていたので、ドイツの同盟国・日本が平和裏に石油を輸入できる可能性はなかったのです。
作戦は予定以上に順調に
石油が戦争の目的である以上、「南方資源地帯の確保」の中で最も重要なのは
蘭印(オランダ領インドネシア)です。
当時、蘭印の年間石油生産量は800万キロリットルで、パレンバン油田だけでも日本の年間消費量600万キロリットルを上回っていました。
インドネシアはボルネオ島・スマトラ島・セレベス島・ジャワ島という大きな島とその周辺の島々から国が出来ている列島国です。
スマトラ島には石油の大産地であるパレンバンがあり、ジャワ島は蘭印の政治経済の中心でした。
マレー半島・シンガポール(英領)もフィリピン(米領)の攻略も全てはこの蘭印攻略を円滑に進めるための事前作戦(攻略そのものは平行して実施)だったといえます。
電脳大本営的に言わせて頂くと、フィリピンに手を出す必要性は?ですが。
ジャワ島周辺の攻略が行われたのは昭和17年1月11日からで、2月10日にボルネオ島・1月31日、アンボン島・2月20日、チモール島と攻略して2月25日、スマトラ島を占領しました。
特に1月11日セレベス島メナドには海軍空挺部隊が、2月14日にはスマトラ島パレンバンに日本陸軍空挺部隊が降下攻撃した事が有名ですね。
空挺攻撃によってパレンバンでは油田施設をほぼ無傷で制圧できました。
残すは中心地ジャワ島だけでしたが、ここで大きな疑問が。
ジャワ島のスラバヤ港には米(A)・蘭(D)・英(B)・豪(A)海軍の艦隊計14隻(重巡洋艦2・軽巡洋艦3・駆逐艦9)が、日本軍艦隊と船団を待ち受けていたのです。大艦隊です。
もう一度日付を確認してください。
大日本帝国陸軍がパレンバンに空挺部隊を投入したのは2月14日。この時点ではスマトラ島の占領は完了していません。
そこへこの艦隊は出向かなかったんです。
どうもこのADBA艦隊はオランダだけがやる気(本国はドイツに占領されていて、もう逃げ場がなかった)で米英豪は逃げ腰なんですが、いずれもパレンバン油田の重要性が全く理解できていません。
パレンバンの占領を止められないまでも、油田を破壊できれば、いや精製施設だけでも破壊できていれば、大東亜戦争はこの後1年しか続かなかったでしょう。
日本海軍の艦艇が動かなくなりますからね。
ミスは艦隊と言うよりアメリカの戦争指導に原因を求めるべきですが。
アメリカは、自分で大日本帝国をして石油確保に走らせておいて、易々と大油田を精製施設付きで明け渡すなど、馬鹿としか言いようがありません。
いろいろ戦史を見ても指摘されない点なので、あえて脱線いたしました。
しかしこれ以上の「馬鹿」を、我が愛すべき海軍がやらかしてしまうのです。
陸軍の揚陸艦を撃沈したのとは別、もっと大きなミステークです。
別々に占領
1942年昭和17(1942)年1月11日、海軍横須賀鎮守府の「第一特別陸戦隊」がセレベス島メナドに敵前降下、オランダ軍が守る飛行場を制圧しました。
負けじと同年2月14日に陸軍の第1挺進団の挺進第2連隊がスマトラ島パレンバンに奇襲降下を敢行、大油田と付属の精製施設を無傷で奪取しました。
「空の神兵」として名高く、陸上自衛隊第1空挺団にも伝統が受け継がれる快挙です。
海軍も陸軍もよくやった!と大いに褒めたいところです。
何度も言いますが、陸軍の第1挺進団挺進第2連隊が占領確保した「パレンバン油田」だけの生産高でも大日本帝国の原油の必要量を上回っていたのですから。
付帯設備も無事。
これで石油を内地へ運び込めば、戦争目的は達成です。
目的を達成すれば、その戦争は「勝ち」です。
大日本帝国陸軍は、すぐさま様々な装置とともに国内の石油関係の技術者を根こそぎ送り込んで生産を開始したのです。
縄張り争い
海軍と陸軍は互いの占領地をそれぞれ占有して、その産物も優先的に使用する協定を結んでいました。
「南方油田の占領図」をご覧下さい。
パレンバン油田の生産が軌道に乗ったころ、海軍は重大なことに気づきました。
自分達が占領しているところには、ろくすっぽ油田がないのです。
たった2年ですが、南方資源地帯での陸海軍の原油生産高を比べて見ましょう。
昭和18年;海軍、121.6万キロリットルvs陸軍622.3万キロリットル
昭和19年;海軍、 63.6万キロリットルvs陸軍433.8万キロリットル
海軍は主力による艦隊決戦一回での石油の使用量を50万キロリットルと想定していました。
実際、ミッドウェイ(除くアリューシャン)作戦では概算60万キロリットルの石油を燃やしています。
一年分を溜め込んで、大きな海戦が2回分だけ。
実際には訓練、哨戒、輸送、移動などでも石油を使いますので、とても2回も決戦できるわけがないのです。
しかも、海軍は(しつこく指摘しているように)国内環送には努力してません。
これではなんの為に蘭印を占領したかわかりません。
交渉決裂
陸海軍別々、とはいえ同じ皇軍であります。
海軍は早速陸軍に話をつけに掛かります。
何しろ、戦う上でどうしても石油が必要なのは海軍であり、この大戦争も前に出て敵と戦うのは海軍なのです。
「陸さんはカラダ一つで鉄砲を担いで行けば戦える、油なんか要らんやろ!」って事なんでしょう。
しかし、陸軍は頑として譲りません。
実は、「空の神兵」の降下には陸海の先陣争いがありました。
中央で調整している間に、海軍が抜け駆け的にメナド降下を行い、陸軍はこれを冷たい目で見ていたのです。
その上(こっちの方が、実際には大きな理由ですが)海軍は油槽船の大多数を握り、精製した油の国内への輸送には非協力的だったのです。
前線で戦うことも重要ですが、国内で生産を維持するにも、新しい戦力を醸成するにも、石油が必要なことは言うまでもありません。
造った油は国内に環流させてこそ生きてくるのです。海軍にはその発想があったようには見えません。
陸軍は油を海軍に回す条件として油槽船(タンカー)の配分率を五分五分にするように提案するのですが、これは海軍側が拒否。
結局、せっかく占領した大油田も、作った油をどこにも運べぬままで戦争が通り過ぎていくことになります。
油田が立地する島々の治安はどうだったんでしょうか?
当時5000万人を数えたインドネシアの人たちはオランダの圧制に苦しんでいました。
日本軍を「解放軍」として熱狂的に迎えてくれました。
第十六軍司令官、今村均中将の人徳もありその後の軍政も南方占領地域のなかでも理想的な展開となったのです。
政治も治安も安定、油田は大日本帝国の必要量を上回る産出量、精製施設も順調に稼動。
何のための戦争だったのか
何が悪くて大日本帝国海軍は燃料の不足に悩む必要があったんでしょうか?
いや、大日本帝国そのものが物資不足に悩むことになってしまったのは何故なんでしょうか?
以下の記述は帝国海軍タンカー事情1もご参照ください。
油を切実に必要としているモノが油田を占領せずに精製施設だけ占領。
油田を占領したモノは環送手段を持たず。
タンカーや輸送船の護衛は貧弱を極めて、航行予定も漏れっぱなし。
これでは好条件を与えてくれた神様も、ソッポを向くのが当然でしょう。