戦艦陸奥の爆沈から帝国海軍の体質が透けてくる
昭和18年6月8日正午、柱島泊地に停泊中の戦艦「陸奥」は突如大爆発を起こして一瞬のうちに沈没。
1474名の乗員のうち1121名もの海のつわものが死亡。大日本帝国海軍最大の爆沈事故とされています。
原因不明
大艦の建造が制限されていた軍縮条約下で、16インチ(40センチ)口径を持つ主力艦は全世界で7隻だけ。アメリカ3隻(コロラド・ウェストバージニア・メリーランド)、イギリス2隻(ネルソン・ロドニー)、そして我が海軍に「長門」「陸奥」の2巨艦があったのです。
「大和」「武蔵」の建造は国民には知らされていませんから、大東亜戦争を戦う大日本帝国の臣民にとって、「長門」と「陸奥」こそ最後の砦、希望のフネだったのです。
それが敵の一弾すら受けることも無く、敵に一発も報いることもなく内海に潰えるとは。
海軍がひた隠しに隠すのもわかる気がしますけれど、「陸奥」の爆沈の原因は今でも不明です。
有名なところで、吉村昭氏が「陸奥爆沈」で鋭く謎解きをしていますのでご存知の方も多いかと思います。
電脳大本営は謎解きミステリーが書きたいわけではなく、「せっかくの戦例を将来に役立てよう」を基本的な考え方として記述してますので、(吉村氏ほどの調査能力が欠落している事の言い訳です)陸奥だけでは材料が足りません。
我が海軍には軍艦の爆発事故(?)が何度かありました。
その中から、話の成り行きに都合のよい事故を取り上げて教訓としてみたいと思います。
帝国海軍、事故の系譜
大日本帝国海軍では「陸奥」以前にも、停泊中の艦船で火災や爆発により多数の殉職者を出した事故が7件も起こっていました。
明治38(1905)年の戦艦「三笠」爆沈を最初として、翌明治39年に巡洋艦「磐手」、明治41年には三景艦の「松島」。大正元(1911)年に再び「三笠」が火災、さらに「日進」、大正6年「筑波」、そして大正 7年には軍艦「河内」
明治39年の「磐手」と大正元年の「三笠」、「日進」は小規模の火災事故でしたが、それ以外は多くの犠牲者を出した爆沈事故。
海軍はその原因をどのように調査して、対策を練ったのか?
そこから海軍の悪しき体質を抉り出そう、というのがこの記事の目標であります。
もちろん、海軍を悪し様に言いたいわけではありません。来る支那、あるいは下朝鮮との戦争で必勝を期するための貴重な戦訓とするために、です。
「三笠」の爆沈~快勝直後の惨劇~
帝国海軍におけるこの種事故の最初のものとして記録されているのは、軍艦「三笠」の爆沈事故です。
日露戦争直後の明治38(1905)年9月11日の未明、佐世保軍港10番ブイに係留中に発生したもので、午前0時20分ころ、後部左舷6インチ副砲弾火薬庫内で最初の爆発が起こり、艦内に猛烈な火災が発生しました。
同艦乗員のほか、停泊中の他艦船からも防火隊が来援し消火作業に努めたのですが、火勢はいっこうに衰えず、隣接する12インチ主砲弾火薬庫に延焼してしまいました。
最初の火災発生から約1時間、ついに二度目の大爆発が起こり「三笠」は佐世保港の海底に沈座してしまいました。
栄光に包まれた戦艦が、当直の士官・兵員合わせて 251 名が殉職するという、帝国海軍創立以来の大爆発事故を起してしまったのです。
直ちに査問委員会が組織され、原因追及と更なる事故の防止に動いたのは申し上げるまでもありません。
幸い、この事故では少なからぬ生存者もあり、他艦の士官や水兵さんも乗艦していましたので、当時の状況についてはかなり正確に把握することが出来ました。
査問会は「同艦内后部ノ下辺ニ於テ弾薬若クハ火工品ノ如キ易燃焼性物品ノ急激ナル自燃焼ニ由リ遽然多量ノ煙焔発生シ」たものと推定、「三笠」の爆沈は弾火薬類の自然発火が原因と結論づけました。
「三笠」の2度目で
電脳大本営が取り上げた以上、「自然発火」で収まるはずの無いことはどなたもお判りだと存じます。
爆沈事故から7年、大正元年10月3日。またも「三笠」で、こんどは小規模な火災事故が起きました。この際の記録を集めた史料のなかに「三十八年三笠爆沈ニ就キ聞キタル事」と題する報告書があるのです。
大正元年の火災事故は、人為的要因つまり放火であることが明らかとなっていたのですが、その調査の段階で、当時「三笠」に乗り組みの松本善治中尉が、艦長大澤喜七郎大佐に対し、参考意見として提出した文書です。
「三十八年三笠爆沈ニ就キ聞キタル事」は松本中尉が「(海軍)兵學校一學年ノ折(三十九年)夏期休暇山梨縣ニ歸省シ帰校ノ途次品川停車場ニ汽車ヲ待合ス折柄一人ノ海軍卒」に出会ったとしています。
その兵卒は松本中尉に語りかけます。
「私ハ海軍満期前佐世保海軍病院ニ在勤セシカ」看護兵だったんですね。
「三笠爆沈ノ翌日同艦乗組ノ一重傷者ヲ看護セシニ火傷重クテ瀕死ノ折傷者ノ懺悔」を聞いた、と言うわけです。
「貴公方ハ後來ノ兵員ヲ監督セラルル方ナレハ参考迄ニ申上クル」と松本中尉に話をしてくれたそうです。
明治38年当時、兵員の間では発火信号用アルコールを飲用することが流行していたそうです。
「三笠」も例外ではなく、上陸できない水兵たちが艦内で一杯やろうとして誤ってアルコールに引火してしまい、爆発に至った。
そのように「火傷重クテ瀕死ノ」乗組員が告白した、と言うわけです。
この話を聞いた当時の松本生徒は帰校後に報告することもなく、そのまま放置してしまいました。
遅い報告
ところが何の因果か松本中尉は「三笠」乗組みとなり、大正元年の火災事故に遭遇してしまいました。流石に一中尉では事の重みに耐えかねたのか、艦長宛に報告書を提出した、と言うわけです。
ただ、この「話をしてくれた看護兵」が特定できませんので真偽のほどは?です。
昭和42(1967)年に防衛庁海上幕僚監部技術部が作成した、「旧海軍艦艇における弾薬の爆発・火災に関する資料」にも、松本中尉の証言に類似した内容(宇川中将の回想)があるとして真実とする人もおられます。
しかし宇川中将は(おそらく、ですが)大正元年に「三笠」乗り組みだった宇川少佐であり、松本中尉の報告を知っていた可能性を考えると複数証言とは言いがたいものでしょう。
松本報告と宇川回想の信憑性は判断することは今はもう不可能だと思います。
ただ明快に判明している事があります。
それは、このような重大な証言を得た海軍当局が、7年前の爆沈事故について再度の調査を実施した記録が無いことです。
火災事故の際の「三笠」艦長、大澤喜七郎大佐はその対応が不満だったようです。「今回ノ出来事ニ關シ得タル雑件」なる書類があります。
それは「三十八年本艦ノ爆發原因ハ詳知セスト雖トモ若シ松本中尉ノ聞キタルカ如キ朧氣ナル事ヲ眞トスレハ火薬ノ自爆ハ稀ニシテ人爲的行爲(自企的爆發ニアラサル意味)ノ結果大惨事ヲ生スルニ非サルカ」と書き出しているのです。
これは松本中尉の報告内容に着目、艦船における火薬類の爆発は自然発火によることは稀で、寧ろ人為的要因による可能性が高いものであると言っているわけですね。
自分のフネで火災を発生させた艦長ですから、大澤大佐にこれ以上の出世の目はありません(当時一戦級でない「三笠」艦長ですから、エリートコースでもないですし)。
自棄になって海軍に弓を引いたとも取れそうですが、大人しくしていれば一年くらいで「少将昇進、翌日後備役編入」は十分可能です。
つまりたんまりと年金を頂戴しながら、50台になるかならないかの年齢で悠々自適の引退生活、しかも元提督ですからそれなりの社会的地位と名誉も、もれなく付いてきます。
それを棒に振る覚悟でこんな文書を上申する、と言うのは余程の疑問があったんだろうと思いませんか?
装甲巡洋艦「日進」の火薬庫爆発
装甲巡洋艦「日進」は日露開戦の直前に完成したアルゼンチン海軍の軍艦を同型艦の「春日」とともに購入したものです。
この「日進」が静岡県清水港停泊中の大正元(1912)年の11月18日午後6時50分、火薬庫爆発事故が発生しました。
この時日進は、伊豆大島沖で艦隊演習を行い、その後横浜沖で観艦式に参加、11月17日午前に横浜を出港して母港の舞鶴軍港へ向かっていたものです。
翌18日の早朝に静岡県清水港に停泊し、訓練終了後の午後4時から当直以外に対して上陸が許可されました。
同日午後6時50分頃、後部8インチ砲塔付近で突然鉄板の落下したかのような音に続き爆発音が起こったのです。
後部火薬庫付近での異変を直感した当直士官は直ちに防火部署を発動、幸い在艦中だった艦長広瀬大佐が火薬庫への注水を命じた他、所要の初動処置をすばやく実施しました。
「日進」では、艦長以下の主要幹部が艦に残っていたことから、迅速に火薬庫へ注水することが出来て深刻な事態には至りませんでした。
フネは深刻な損害を避けることが出来ましたが、海軍は自らのいい加減な調査で深刻なダメージを受けてしまうことになります。
今回も「自然発火」で
この事故では現場付近にいた下士官兵のうち2名死亡、17名が負傷してしまいましたが、幸いなことに「日進」の艦体の損傷は軽微で、航行にも支障ありませんでした。
「日進」は事故調査のために横須賀軍港に回航されることに。
通常の査問は、当該事故艦船が所属する鎮守府、つまりこの場合は舞鶴鎮守府が実施するのですが、この時は何故か(距離的な問題?)横須賀鎮守府が事故調査を担当しています。
査問結果は「三笠」の爆沈事故と同様でした。
人為的形跡が認められないとし、「紐状火藥ニ起リ得ベキ自然的変質ニ基ク燃焼」が原因と結論づけたのです。「英国製 8 インチ砲常装薬」を発火元である、と決め込んでいます。
調査期間、たった10日。
異例とも言えそうな短期間の査問によって、この事故は幕が引かれることになりました。
しかし、これですんなり収まるなら私もこんな問題を取り上げて「現代と将来の戦訓に」等とは申しません。
悪い方の期待(?)に、ちゃんと応えてくれるのが日本のお役人(海軍軍人も上に行くほどお役人体質が丸出しです)なのであります。
真相は
装甲巡洋艦「日進」火薬庫爆発事故の真相は、ある殺人事件から判明することとなりました。
その事件とは大正2年8月28日の深夜、舞鶴市内を通りかかった人力車の乗客が射殺されて、金銭を強奪されたものです。
人力車夫は幸い難を逃れましたが、犯人は逃走していました。
当時民間にある銃は猟銃くらいのものです。犯人はともかく、犯行に使われたのは軍に関わりのある銃であることは明白でした。
捜査は進み、舞鶴海兵団に銃口蓋が紛失していて発射の形跡もある小銃が発見され、これが凶器と断定されました。
やがて二等兵曹某が返却した被服から、この銃口蓋が発見されて某が犯人と特定されたのです。
某二等兵曹は大正2年の10月31日付で現役満期除隊予定で、殺人事件を起こした当時は舞鶴海兵団の所属でした。
平素から勤務態度不良で貯蓄もなく、除隊後の生活に希望が持てなかったので、金品の強奪を計画したと言うのです。
某被告は、軍法会議で取り調べられ「死刑は免れない」と観念し、軍艦「日進」乗艦中の犯罪行為についても告白しました。
それによりますと某は、勤務成績不良のために進級もままならず、自分の処遇に不満を抱いていました。
そこで大正元年10月、「日進」艦長に「演習中大騒動ヲ惹起セシム」旨の匿名の脅迫状を郵送したというのです。
しかし、艦長からは何の反応もありません。某は脅迫を実行に移しました。
「同艦ヲ爆破シ乘員ヲ殺傷シ以テ鬱憤ヲ晴ラサント欲シ」た某は、弾火薬庫長だった経験から弾火薬庫付近の構造に精通していました。
そのために立哨中の番兵に気付かれることなく8インチ砲弾薬庫に侵入、「豫テ実験シタル燃焼時間ニ鑑ミ約二時間後ニ發火ス可キ一尺内外ノ喫煙用火縄」を用いて時限爆破装置を仕掛けた、と言うのです。
某被告は他の下士官・兵とともに上陸し海岸近くの飲食店で一杯やりながら、爆発を見物していたのです。
横鎮(横須賀鎮守府)の調査は完膚なきまでに否定されてしまったのです。
事件は内部乗務員の破壊工作と言う、「自然発火」などよりもはるかに最悪・深刻な問題となったのです。
内部の犯行よりさらに深刻な問題
こうして装甲巡洋艦「日進」の爆発は、海軍の柱石たるべき下士官の不満から引き起こされた、と言う最悪の原因が判明してしまいました。
しかし、この後の海軍の対応はさらに事態を悪い方向へと導いていきます。
つまり、軍法会議での取り調べで被告某が、艦長に破壊行為を予言する強迫文書を郵送していた事実が判明しました。
艦長は艦内に不穏分子が存在していて、テロ行為(当時はそんな言葉はなかったでしょうが)が発生する可能性を認識していたはずです。
それなのに「日進」艦長は、犯行前に脅迫状を発送した者の捜査であるとか、不測の事態への警戒等を指示したり実施した形跡が一切ありません(沢渡の調査不測である可能性は大いに有りですが)。
艦長は強迫文をどのように認識していたのか、更に艦上層部のどの範囲まで当該文書の存在を認識していたのか、コチラも確かな記録は無く不明なのです。
さらに理解に苦しむことは、実際に予告通りの火薬庫爆発が起きているのに、この強迫文の存在が査問の対象とならなかったことです。
普通、査問会が強迫状の存在を知っていれば、事故の原因が人為的犯罪行為である疑いが極めて濃厚であり、査問会としては当然この視点での調査を優先しなければいけないはずです。
ところが査問委員会の結論は「自然発火」でした。
査問会は強迫状の存在を把握していなかったのでしょうか。だとすれば艦長が文書の存在を隠していたことを意味しています。
それとも、強迫状の存在を把握していたのに、「内部犯行」を隠すために「自然発火」を結論にしたのでしょうか?
もう、今となっては真相はわかりません。
装甲巡洋艦「日進」艦長の広瀬大佐は、査問手続きが終了した後に「三笠」艦長に転出していました。「自然発火」ですからお咎めナシ、だったのです。
しかし、舞鶴軍法会議で被告某に対して死刑判決が出された直後に待命となってしまいます。
死刑判決と関係があったことを思わせるタイミングですが、本人さんはその後少将に昇進、直後に予備役編入となり 昭和 24(1949)年までけっこうな年金を貰い続けています。
退役から死亡まで、ずいぶんな時間があったはずですが。
そして大きな環境変化もあった筈ですが、広瀬艦長は公式には何も語らず。
電脳大本営的推測
「三笠」の爆沈についての査問は手がかりが無さ過ぎます。
しかしながら「日進」の査問については、横須賀鎮守府の調査が一つのポイントでしょう。
横須賀鎮守府が組織した査問委員会が、舞鶴鎮守府所属の大佐を断罪できたのか?
さらに言えば、事故地に至近であるとは言え、なぜ横須賀鎮守府が査問委員会を組織して調査に当たったのか?
すべては「内部の犯行」であることを隠匿するためではないのでしょうか?
以下は沢渡の推理です。推理を裏付ける史料は(たぶん)ありません。
でも、自信はあります。
艦長の広瀬大佐は強迫文を受け取って、ごく一部の自艦と舞鶴鎮守府の幹部に知らせていたのではないかと考えます。
広瀬大佐も舞鎮幹部も、海軍の下士官(か兵)から叛逆者が出ることは望んでいません。自身の管理責任や教育姿勢を問われることになりますから。
ですから大げさに差出人を探さなかった。脅しだけで済んでしまうことを期待していたんでしょう。
実際に爆発が起こってしまいました。
舞鎮で査問委員会を作ると、脅迫状の存在を知っている者が委員となる可能性が高いので、どうしても真実を隠しにくくなってしまいます。
そこで距離が近いから、と横鎮に押し付けたのではないでしょうか?
他の鎮守府や、所属士官の批判や断罪はやり難い、と言うことを計算に入れて…。
事によると、『自然発火で頼むわ』くらいは言ったかもしれません。
沢渡の推測は以上。
このことを裏付けてくれる記録なら、わずかですが存在します。
査問委員会に加わっていた火薬学の権威であり、当時の造兵廠火薬部長だった楠瀬熊治造兵大監が査問委員長あてに「軍艦日進八吋常装藥調査ノ件」と題する報告書を提出しているのです。
報告書は「日進」に残っていた火薬を全部引揚げて調査を実施した、詳細なものです。
その結論は「火薬に異状は認められず」。自然発火の可能性を否定するものでした。
それにも関わらず、査問委員会は科学的根拠のない結論を出したのです。
楠瀬委員は、「事故の原因は人為的要因である疑いが濃厚」と訴え続けたそうです。
しかし、なぜか委員長以下の査問会が押し切る格好で「自然発火」に集約したと思われるのです。
真実から目を逸らす、いや真実をねじ曲げてでもくさい物に蓋をする姿勢。
これこそが肝心なときの陸奥爆沈を呼んだように思えてなりません。
同じ姿勢が、戦局我に非なるときも、防衛的な作戦を取れなくさせてしまったと、私は考えています。