イタ公と呼ばないで《海軍編2》~「キツネ」を救った「豚」~
前編では、イタリア海軍の大型艦(ばかりじゃないですが)の活躍を紹介させていただきました。
でも、イタリア海軍といえば「人間魚雷」だろう!ってツウの方のお声も聞こえてきそうなので…
イタリアの人間魚雷は生還前提の「豚」?
実は、世界初の「人間魚雷」は、イタリア海軍が開発し第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国海軍の戦艦「ヴィリプス・ユニティス」を撃沈するなど戦果をあげていました。
これが発展して、このお話の主人公「マイアーレ」(豚の意味)となって行きます。
「マイアーレ」はわが国の人間魚雷「回天」とは異なり、開放型の操縦席を持ったいわば水中スクーターです。
搭乗員は1、2名で、母艦(潜水艦)か陸上の港湾施設から発進するものです。
魚雷のように船首部に爆薬を搭載していて、敵艦船近くまで行き、爆薬を切り離して人力でセットするように設計されています。
魚雷にまたがってる、と思えばよろしいかと存じます。
ただし、速度は僅かに2~3ノット。
それ以上だと乗員が流されちゃいます。何せ開放座席ですから。のろまなので「豚」と言うらしいです。
その代わり、乗員(特殊部隊員)の水中装備は世界のトップレベルでした。英国の工作員なんぞはTシャツで水中に入ってた時代であります。
地中海の海軍バランスを変えた
1941年12月3日、イタリア王立海軍は地中海のラ・スペツィア海軍基地で3隻の「マイアーレ」を歴戦(これ以前もジブラルタル軍港を攻撃)の潜水艦『シィーレ』に搭載し、出撃させました。
途中のエーゲ海・レロス島で6人の特殊部隊員を乗艦させ、『シィーレ』は敵地へと向かいます。
『シィーレ』と三匹の豚が目指したのは、大英帝国の地中海支配の中心、エジプトはアレキサンドリア軍港でありました。
アレキサンドリアは「海軍の本家」の軍港らしく、また激烈な北アフリカ戦線への補給の水揚げ地として、厳重な防備が施されていました。
イタリア海軍の「豚」が易々と侵入できるような場所ではなかったのですが…
三隻の「人間魚雷」にまたがったイタリア海軍の特殊部隊員たちは、じっくりとイギリス軍の行動をよみます。
ついに、哨戒に当たっていた3隻の駆逐艦を港内に入れるタイミングを利用、港内に潜入する事に成功します。
幾つもの苦難がふりかかりますが、特殊部隊員ペンネとエミリオ・ピアッチは停泊していた英戦艦『ヴァリアント』の底に時限式の吸着機雷を設置することに成功します。
その直後、イギリス軍に気付かれて拘束されてしまいました。当然、イギリス軍は二人を尋問しましたが、彼らは氏名と階級、識別番号しか答えません。
呆れたイギリス軍は二人をヴァリアント艦内、それも艦底近くに軟禁しました。
今度はペンネとエミリオ・ピアッチが焦る番ですが、ペンネはギリギリまで粘ります。爆発予定時刻の10分前になって、やっと
「(ヴァリアントの)モーガン艦長と話をしたい」
と申告、モーガン艦長に「あと数分でこの戦艦は爆発する」と伝えたのです。
わずか数分ではヴァリアントを救うには短過ぎました。
ヴァリアントは爆発により擱座、ペンネとエミリオの二人は無事?に捕虜生活を続けたのでありました。
他の2匹の豚の隊員たちも、港内のノルウェーのタンカー『タゴナ』(7750トン)と英戦艦『クイーン・エリザベス』に吸着機雷を仕掛けていました。
まず、『タゴナ』が轟音と共に爆発、隣に停泊していた英駆逐艦『ジャーヴィス』も巻き込まれて大破。
続いて爆発した『クイーン・エリザベス』もヴァリアントと同じく着底してしまいました。
2隻の戦艦は引上げ作業が行われたのですが、戦列に復帰するまで1年以上もの時間を消費してしまいました。
このイタリア海軍の「豚」の活躍で、劣勢だった地中海の制海権は枢軸側に傾きました。
砂漠のキツネ率いる枢軸アフリカ軍団は、半年間にわたって安定した補給を受けられることになりました。これは戦術の名手のキツネさんにとって、生涯でめったに無い体験となったのでした。
イタリア海軍の特殊部隊員ペンネと英国海軍戦艦『ヴァリアント』のモーガン艦長の名前は覚えておいてくださいね。
スパイ映画以上?秘密基地は貨物船
地中海の奥で睨みを効かせているのがアレクサンドリアなら、大西洋と地中海の通路を扼して通商の鍵を握るのがジブラルタルでした。
当時のジブラルタルはスペインからイギリスが占領(英国海外領土)して、海軍の根拠地としていました。軍港だけイギリスで、その周りは枢軸寄り中立国のスペインです。
そのスペインの、ジブラルタルを見下ろすプエンテ・マホルガと言う町に、一軒のたいへん美しい山荘があったのでございます。
「ヴィラ・カルメラ」というのがこの美しい山荘の名前で、ジブラルタルのイギリス海軍基地から800メートルと離れていません。
このヴィラ・カルメラ山荘に住んでいたのはアントニオ・ラモニーノというイタリア人。アントニオ・ラモニーノは仕事もせず、せいぜい魚釣りをしたり内気そうな奥さんのコンキータに寄り添って暮らしているようでした。
たまに訪れる人といえばプエンテ・マホルガ近くのアルヘシラス市(ジブラルタルに隣接したスペインの港がありました)の市長であるモリノ将軍くらいだったそうです。
もちろん、このイタリア紳士は怠け者ではありませんでした。
アントニオ・ラモニーノは、イタリア海軍特殊部隊の中心人物、ヴァレリオ・ボルケーゼが送り込んだ工作員だったのです。
目的は、ジブラルタル港に碇泊しているイギリス艦船を攻撃するための基地を設営すること。ラモニーノは工作の策源地としてカルメラ山荘を選んだのでした。
イタリアが参戦した当時、アルヘシラス港には4900トンのイタリア船籍の貨物船「オルテラ」が停泊していたのですが、乗組員が開戦と同時に逃げてしまい、放置された状態でした。
これに目をつけたヴァレリオ・ボルケーゼとアントニオ・ラモニーノは海軍士官や技術者たちをスペインへ送り込みました。ヴィラ・カルメラ山荘は人目を忍ぶ彼らの宿になったのです。
技術者たちは貨物船オルテラを「豚」の発進基地に改造する作業に取りかかったのでありました。
工事の主なところは、バラスト・タンクを調節していったん船首を水面上に持ち上げ、その側面を切り取って1,3メートル幅の扉を取付けます。
この扉は通常は喫水線下約2メートルのところになるように工夫されていました。
船外に通じる扉が出来ると船首を下げてもとの位置に戻し、船首部区画には水をいっぱいに満たしました。
「豚」は貨物船倉で組み立てられたあと、海水を満たした船首部区画へ降ろされて貨物船から発進していく仕組みでした。
魚雷(「豚」)と隊員用の水中呼吸袋置は、イタリア外務当局の公式許可印を押されて、イタリアから堂々と輸入されてきました。
見栄っ張りのムッソリーニがこんな「卑劣」な作戦を許可するわけはありません。
海軍特殊部隊の関係者(たぶん)たちが夜の間に外務省に忍び込み、公印を各種部品が詰められた箱の上にべたべたと押して、知らん顔でしてもとの場所に帰しておいたのです。
外務省は自国の海軍特殊部隊に侵入されたことなど、イタリアの降伏まで知らなかったようです。
「ヴィラ・カルメラ」は爆薬や補助装具類の倉庫兼攻撃隊員たちの宿舎となり、後方から「豚」の発進基地となった貨物船「オルテラ」を支える体制が出来上がったのです。
一回目の攻撃は1942年の12月7日に行われたものの、イギリスの警備隊に発見されて失敗。ですが捕らえられた隊員達は発進基地の秘密は漏らさず、イギリス軍は潜水艦からの攻撃だと思い込んでしまったのでした。
第二次攻撃のための十分な資材と人員が到着したのは翌年の5月に入ってからになりました。
3基の「豚」が、「オルテラ」の水中ドアをくぐりぬけて発進していきました。
指揮を執るのはイタリア海軍特殊部隊のノタリ少佐です。
2回目の攻撃は完全な成功でした。
7000トンのリバティー型(戦時急造型)輸送船「パット・ハリスン」と7500トンの「マシャッド」を大破し、4800トンの「カメラータ」を撃沈。3組6人の特殊部隊員と3頭の「豚」は無事に「オルテラ」に帰ってきました。
8月にはメンバーを入れ替えて3度目の攻撃。
これも見事に7000トンのリバティー型輸送船「ハリスン・グレー・オーティス」、6000トンのイギリス貨物船「スタンリッジ」、1万トンのノルウェー油槽船「トルショーディ」を撃沈したのでありました。
工夫を重ねて出来ることを
実は、ジブラルタル攻撃では軍艦を攻撃した「豚」は7割以上の損失を記録しています。それでもジブラルタル軍港のイギリス軍は、まさか隣の港から攻撃されているとは気づかず、警戒のゆるい商船の損害を重ねてしまいました。
イタリア海軍は1942年の時点で早くも艦艇用の燃料が枯渇。
新造戦艦3隻も浮かぶ鉄クズ化していました。そんな状況でも小型艦艇は奮戦を続けています。
潜水艦部隊はドイツ海軍の要請で1940年8月にフランスのボルドーに基地を設けて潜水艦29隻を大西洋に出撃させました。イタリア休戦までに86,483トン撃沈の「タッツォーリ」、90,600トン撃沈の「アルキメーデ」など戦果を挙げた多くの潜水艦を輩出しているのです。
また、ドイツ軍支援のため黒海におくられた分遣隊(魚雷艇10隻、マイアーレ6隻)も軍艦4隻、その他27隻(総計265352トン)撃沈破の戦果をあげました。そのうち、ソ連の潜水艦2隻を「豚」が撃沈したと言われています。
1943年9月、クーデターで休戦した後のイタリアは連合国側と枢軸側に分裂。「豚」の特殊隊員もドイツを敵とした主力に対し、指揮官のボルケーゼ中佐は一部の隊員と魚雷艇5隻を率いて枢軸側のイタリア・ファシスト共和国に参加しました。
ボルケーゼは海軍司令になって活躍しますが、指揮下の艦船も無くなると1個師団規模の陸兵となり、ドイツ降伏まで戦い続けました。
3大海軍国に比べると、2桁ほど貧弱な軍備で「海軍の本家」に挑んだイタ公。
決して正面切っての海戦で大勝利を挙げられなくても、手段を選ばず抵抗を続けた粘り強い戦いはわが国も参考とするに足るものではないでしょうか?
最後に、イギリス軍の捕虜になっっていたペンネ大尉はイタリア休戦後に特殊部隊に復帰して、今度は枢軸側の巡洋艦と潜水艦を撃沈。
活躍に対してイタリア黄金勲章を授与されることになりました。
授与式は派手過ぎず厳粛な雰囲気で執り行われましたが、プレゼンターが登場すると会場は息を呑みます。ペンネも大いに驚いたプレゼンターとは。
かつて艦長を務めていた戦艦「ヴァリアント」を「撃沈」された(公式には大破扱い)艦長のモーガン大佐(この時は少将に進級)だったのです。
二人が固い握手と厚い抱擁を交わしたことは言うまでもありませんね。
モーガン大佐は決して「イタ公」とは言わなかったと思います。