敵を沈めなくとも~松と初月の最後~

旭日旗イラスト

一等駆逐艦「松型」と「秋月型」は大東亜戦争後半に出現した、電脳大本営的「大日本帝国海軍の最優秀駆逐艦」であります(最優秀が2型かよ、と言うツッコミはリアルでお会いして気持ち良く飲んだ方からのみ受けさせて頂きまする)。
この2型についてはすでに記事で紹介申し上げているのですが、書かずにはおられない壮絶な海戦を戦った駆逐艦がおりました。

ネームシップ「松」と4番艦「初月」

戦時急造型として、性能を落としてでも生産性と生残性(はあまり注目されませんが)にこだわった小さな「松型」(雑木林型、と揶揄されました)。
脆弱な空母を護るための「艦隊防空艦」として、技術の粋を結集した軽巡クラスのボディをもつ「秋月型」。
大東亜戦争後半に登場して、傾き行く国運を懸命に支えた、と言う点以外には共通点がなさそうな駆逐艦どうしですが、意外な因縁のある姉妹がありましたとさ、というお話です。
1943、宮津湾にて公試中の初月

1943、宮津湾にて公試中の初月

一等駆逐艦「初月」は「秋月」型の4番艦として昭和17年12月15日舞鶴工廠で竣工しました。公試排水量3470トン、33ノット、65口径10cm連装高角砲(長10サンチ砲)4基8門など。
同じ一等駆逐艦の「松」は「松型」のネームシップで、昭和19年4月28日舞鶴工廠で竣工。公試排水量1530トン、27,8ノット、40口径12.7cm高角砲単装×1基・連装×1基など

同郷の駆逐艦なのですが、カラダの大きさは倍以上も違います。

1944公試に向かう竹

1944公試に向かう「松」の同型艦「竹」、もちろん姉妹には「梅」も

主砲はどちらも高角砲とは言え、1万メートルまで余裕で届く特製の長10サンチ砲に対して、主力艦の余った場所にどんどん搭載された量産品。

 速度に到っては、主力艦隊の巡航にやっと付いていけるかどうか?の「松」。
空母が全力で突っ走っても、ピタリと張り付いて護衛できる「初月」。どこにも共通するところが無いように見えます。その最後だって場所も時も違いますが、その最後の志が同じなのです。
仲間を護ろうと圧倒的なアメリカ艦隊に単艦で立ち向かい、壮絶であっただろう戦いの記録も残せないほど、粘って粘って戦い続けついに太平洋に沈んだ最後が同じなのです。

恨みは深し、レイテ沖

昭和19年10月25日。
フィリピン奪還を目指して来寇する米軍に対し、大日本帝国海軍に残された最後の空母機動部隊、第三艦隊(小沢中将)はマリアナ沖で搭乗員の大部分を失い、使い物になりませんでした。
聨合艦隊はやむなく第三艦隊を囮とし、戦艦中心の第二艦隊(栗田中将)などをレイテ湾に突入させてアメリカ輸送船団を覆滅、もって来寇意図をくじこうと企図しました。

小沢機動部隊(第三艦隊)は多くの艦船を米軍空母機の来襲で失いましたが、有力なアメリカ艦隊を北方に引き付けることに成功しました。

ところが、主力艦隊はレイテ湾突入を目前にして「謎の反転」

エンガノ岬で攻撃される瑞鶴と護衛たぶ秋月と初月

エンガノ岬で攻撃される瑞鶴と護衛の秋月と初月

この壮大な海戦で「初月」は長姉「秋月」とともに虎の子の正規空母「瑞鶴」の直衛艦を務めていました。しかし「瑞鶴」は第3次空襲でついに沈没。

「初月」は駆逐艦「若月」「桑」とともに「瑞鶴」の乗員救助に走り回ります。17時30分には「桑」が現場を離れ「若月」とともに救助作業を続行。
救助活動中だったことはご記憶願います。当然ですが艦載艇を降ろしていました。

勝ち誇るアメリカ艦隊は、戦果拡大のためにデュボース少将の指揮で巡洋艦4、駆逐艦9(巡洋艦3、駆逐艦10の記述もあり)計13隻の大部隊を派出して「残敵掃討(なんて厭な言葉だ)」をおこなわせます。
デュボース艦隊は損傷・漂流していた空母「千代田」を発見し嬲り者のように撃沈すると、さらに「獲物」を求めて北上します。

アメリカ艦隊出現

18時53分。救助活動中の「初月」はこの13隻のデュボース艦隊から砲撃を受けます。「初月」は救助活動に集中し過ぎて洋上の見張りがおろそかになっていたのでしょうか?完全な奇襲でした。

近くには漂流者と巡洋艦「五十鈴」と同型艦「若月」。

捷号作戦中の防空巡五十鈴、艦橋より後方を望む

捷号作戦中の防空巡五十鈴、艦橋より後方を望む

「初月」は艦載艇を収容する時間もありません。
すぐさま救助活動を中断、「ワレ敵水上艦艇ト交戦中」と打電と同時に煙幕を展帳。速力を26ノットに上げ、之字(ジグザグ)運動を行なって米艦隊からの斉射弾をかわします。

「初月」はこの時点で気づいたのです。
敵は「残敵掃討」のためにわざわざ水上艦艇、それも中小の軽快艦艇を出していると。
同時にここを突破されたら敗残の、それでも大日本帝国に残された希少な海上戦力である第三艦隊は全滅してしまうかも知れません。

近くにいる「五十鈴」と「若月」は錬度が心もとないものでした。

単艦突撃

「初月」は逃走の方針を放棄、アメリカ艦隊へ突撃する行動にでます。「五十鈴」と「若月」はこの隙に逃走することができました。
しかし、まだ第三艦隊の残部が追われる可能性は残っています。「初月」はさらにデュボース艦隊を妨害しなければなりませんでした。

双方の距離が6カイリに迫った時、「初月」はアメリカ艦隊に対して雷撃するかのように運動します。魚雷は空襲の際に投棄してしまっていましたが(異説あり)。

追跡中のデュボース艦隊は有りもしない魚雷を避けるため、2回も急角度の回避運動を取らざるを得ませんでした。
「初月」の必死の欺瞞行動も徐々に見透かされるようになり、19時15分にはアメリカ駆逐艦が接近してきます。ついに「初月」の前方に出て本当に魚雷を発射。

回避するために「初月」の速力が落ちてしまいました。

このチャンスを見逃すほどアメリカ海軍は甘くありません。20時には米艦は「初月」の5000mに迫り、照明弾をうちあげて射撃を開始。

20時15分、「初月」は命中弾多数を受けて航行不能、ついに海上に停止。
アメリカ艦隊は容赦ない射撃を続けました。
20時30分、「初月」はついに艦首からすべるように太平洋の深みに雄姿を没してしまいました。

「初月」の乗員は駆逐艦長橋本金松中佐のほか290名(人数は諸説あり)が全員戦死。
第61駆逐隊司令天野重隆大佐も戦死、救助された瑞鶴の乗員も今度は助かりませんでした。

しかし、救助活動中の初月の艦載艇が取り残されていました。艇は戦闘に巻き込まれることはありませんでしたが、燃料も食糧もなく21日間の苦闘を続けてついに台湾に流れ着きました。
艦載艇には初月の乗員が8名、救助された瑞鶴の乗員が17名乗っていましてた。

この時、米軍側は『初月』を巡洋艦だと思っていたようです。デュボース少将は13対1の劣勢をものともせずに果敢に挑戦してきた「巡洋艦」の奮戦を称えています。

この『初月』の奮戦で小澤機動部隊の残存艦は脱出に成功したのでした。

多忙を極める舞鶴で

昭和18(1943)年8月8日、一等駆逐艦『松』は舞鶴工廠にて起工されました。
当時の舞鶴工廠は、夕雲型駆逐艦3隻(浜波、早波、早霜)、秋月型駆逐艦8番艦「冬月」他の建造や、損傷艦(不知火、初春、太刀風、長波、大波、巻波、名取、長良、木曾)等の修理を抱えて能力はほぼパンクの状態でした。

それでも「雑木林型」のネームシップを舞鶴工廠で造ったのは、舞鶴が駆逐艦建造の技術リーダー的な存在であったからだと思われます。コチラもご参照を
松型は、建造期間短縮のために長く忌避してきた電気溶接を大幅に取り入れた「技術実証艦」の色彩も強いのです。

翌昭和19年4月28日、竣工。

輸送任務

駆逐艦「松」の竣工後数日。栗林忠道陸軍中将(前任は近衛第二師団長)が小笠原兵団長となります。
栗林中将は要塞があった父島よりも、飛行場適地である硫黄島がアメリカ軍に狙われると判断し、硫黄島に兵団司令部を置きます。そして「硫黄島要塞」の急造を始めたのです。

 

駆逐艦「松」の短い生涯は、栗林中将のための資材と兵力の輸送に捧げられることになりました。
「松」には華々しい戦果は全くありませんし、輸送もたった2回。それでも制海空権を喪失した中で「第二次大戦の最激戦」のために2度とも輸送は成功しており、功績はもっと記憶されるべきだと思います。

神風型朝凪の竣工時(大正14年)

T14朝凪竣工時

6月29日、横須賀から軽巡「長良」に率いられて秋月型駆逐艦「冬月」・「第4号輸送艦」と同行。7月2日帰還。

帰還後「松」は第二護衛船団の旗艦となります。
7月29日、神風型駆逐艦「旗風」、「第4号海防艦」、「第12号海防艦」、「第51号駆潜艇」を指揮して輸送船団を護衛し、館山を出港して小笠原に向かいました。

船団に参加したのは昌広丸(4,739トン)利根川丸(4,997トン)延寿丸(5,374トン)第七雲海丸(2,182トン)龍江丸(5,626トン)の5艘。
第109師団隷下の歩兵第145連隊主力を乗せていました。
8月1日、輸送船団は父島に到着、8月3日には無事に硫黄島へ。「松」は大切な小笠原兵団主力と重火器の増強に成功したのです。

帰り道

任務を果たした駆逐艦「松」は船団をまとめて8月4日、父島を出航しました。

しかし出港まもなく、父島の北西で空母「瑞鳳」を捜索・撃沈せんと行動中のアメリカ第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機に発見されてしまったのです。

この時、「瑞鳳」は小笠原諸島・硫黄島方面への船団護衛を終え、数日前に横須賀へ帰っていたのですが、代わりに「松船団」が割を喰う結果となってしまいます。
目標を発見できなかったミッチャー艦隊の空襲は異常とも思える規模でした。

わずか5艘の貨物船に小艦艇、それも対潜目的のフネが付いてるだけの「松船団」に対し、2群に分かれた各3隻の空母(ホーネットⅡ、フランクリン、カボット、バンカー・ヒル、レキシントンⅡ、サン・ジャシント)から攻撃隊を出したのです。

「第七雲海丸」は16時18分頃に被雷、即座に沈没。「昌元丸」は16時23分頃に同じく被雷して沈没。「龍江丸」は17時過ぎに被雷、応急措置で粘ったものの17時40分頃に沈んでしまいました。「延寿丸」の最後ははっきりしませんが、この時間帯に沈んだと思われます。

日が落ちて空襲が終わると、浮いている貨物船は「利根川丸」を残すのみ。その「利根川丸」も銃撃痕で穴だらけ。
護衛艦隊に沈没艦はありませんでしたが「第12号海防艦」と「旗風」は損傷が大きく、別行動で横須賀に向けて退避。

「松」と「第4号海防艦」も至近弾や銃撃で少なからぬ損傷を受けていたと想像されます。それでも「松」と「第4号海防艦」は「利根川丸」を護りつつ沈没した貨物船の乗員救助に当たっていました。

戦果は拡大すべし

ミッチャー中将は「松船団」の全滅を企図して、デュボース少将指揮のクリーブランド級軽巡洋艦3隻(「ビロクシ 」「モービル」「サンタフェ 」)と駆逐艦12隻からなる第13巡洋艦隊を急行させました。

悔しいことですが、戦理に適った処置ではありますね。

 18時から18時30分ごろ、現場に残っていた3隻の周囲に突如水柱が立ち上がりました。
デュボース艦隊がついに到着したのです。「初月」と同様に水上見張りがややおろそかになっていたと思われます。
硫黄島補給作戦で空襲を受ける四海防

硫黄島補給作戦で空襲を受ける第四号海防艦

反撃したのは「第4号海防艦」が早かったようです。しかし、戦力的には全く歯が立ちません。
逃げようにもデュボース艦隊は脚自慢の軽巡と駆逐艦。艦隊速力でも30ノットは下らないでしょう。
「松船団」は最速の「松」でも27ノット。逃げようがありません。
「松」の乗員は全員戦死とよく言われるのですが、後部の砲員4名だけが米軍に救助され、戦後復員省の調査に回答した記録があります。それによれば、既に海上は闇となっており「松」からデュボース艦隊を視認できませんでした(「第4号海防艦」は視認)。「松」は海上に明滅する米艦隊の発砲炎でようやく空襲ではない、と気づいたようです。

「松」は『四海防ハ利根川丸ヲ護衛シ戦場ヲ離脱スヘシ』と命じます。
この命令を出しとかないと、「第4号海防艦」も「利根川丸」も勝手に逃げるわけには行きません。「松」は命令打電後、反転してデュボース艦隊に向かいます。
この頃の夜戦はレーダー照準が可能なアメリカ側が圧倒的に有利です。まして艦の数も質にも大差があります。

絶望的な劣勢の中、「松」は転舵を繰り返して致命傷を免れ続けました。
逃げ続けて30分から1時間、「利根川丸」と「第4号海防艦」が十分に現場から離れた頃、再び「松」からの打電がありました(四海防の記録)。

『ワレ敵巡ト交戦中。之ヨリ反転突撃ス』

これが「松」の最後と伝えられていますが、先の生存砲員によれば…

突撃した「松」はやがて中部に被弾、火災が発生して後部には艦橋からの指示が全く伝わらなくなってしまいました。
しかし砲術長が後部にあり(おそらく応急指揮官として駆逐艦長と分離)、砲術長の指揮によって後部2番砲が反撃を行なったそうです。

敵の艦影が見えないため、敵の発砲の際の閃光を目標に撃ち返すという状況でした。

しかし有効な反撃は出来ないまま「松」は炎上、後部で誘爆が発生し、19時半頃、後部から沈没してしまいました。

もう一つの共通点

駆逐艦「松」が我が身を盾にしてまで護ろうとした船団最後の貨物船「利根川丸」。しかしこの後デュボース艦隊に補足され、さらにB24の夜間爆撃も加わって撃沈されてしまいます。

「第4号海防艦」のみは捜索の目をかいくぐり、横須賀へたどり着きました。

さて、皆さんお気づきですか?
「初月」と「松」の最後に共通するもう一つの事象。

そうです。相手の指揮官は「デュボース少将」だったのです。
「初月」のときに13隻を与えられながら、小沢艦隊を取り逃がし、それでも「松」のときに同様の任務を命ぜられる。

皆さんはこのデュボース少将をどうお考えでしょう?

2回とも指揮下の艦艇に被害を受けていませんが、任務「残敵掃討」もやり遂げた、とは言えません。

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