雑木林駆逐艦、超高性能駆逐艦を屠る
雑木林、とは大日本帝国海軍の「松型駆逐艦」に奉られたニックネームであります。
量産のために小形・低性能な艦を設計し、テキトーな植物の名前を次々に付けたので別名「雑木林」級。
あわてて造った
ところがどうして、このクラスが実戦では強かったのであります。
今回の主人公はこの雑木林じゃない、「松型」の二番艦の「竹」であります。
昭和18(1943)年10月15日に横須賀海軍工廠で起工され、翌昭和19年3月に進水、6月16日に就役。
ネームシップ「松」に続いての「竹」ですから、まだ納得できるネーミングです。もちろん三番艦は「梅」です(笑)。
後期の艦だと「初桜」「初梅」とか「雄竹」みたいに無理やり名付けたようなフネもあります。
それならまだマシで、「葛(くず)」とか「葦(あし)/(「悪し」を連想させるので、普通は「ヨシ」と言い換えられる)」のように戦闘艦の名前としてはどうなんよ?みたいな艦名も、なんの疑問も無く予定されていました。
建造時期を見てもお判りでしょう。
松級は大日本帝国にとって戦勢が不利になり、駆逐艦の損害が増えてきた時期に企画・建造されたクラスなんです。
それまで、帝国海軍は「個艦優秀主義」を取っていました(取らざるを得なかった、とも言えます)。
一隻一隻に高い性能を持たせる事にこだわってきた海軍が、方針を変えて(変えざるを得なくなって)建造した小型・低性能のフネなのであります。
松型の要目をサラッとあげておきましょう。
基準排水量1,262トン(公試1,530トン・満載1,686トン)・全長100.00m・全幅9.35m・ボイラー;ロ号艦本式重油専焼罐2基・機械;艦本式ギヤード・タービン2基・出力19,000馬力・速力27.8ノット・航続距離3,500カイリ/18ノット・乗員211名(計画)。
辛うじて一等駆逐艦に入れてもらえる排水量、罐と機械(帝国海軍で単に「機械」と言えばタービンの事です)は同時期の海防艦用に大量生産されていた汎用品。
速力も空母には随伴できません(合戦場までは可能ですが)し、なにより航続距離に拘らないのが帝国海軍としては革命的な発想でありました。
そしてもう一つ、罐と機械は「シフト配置方式(前部に左舷用の罐と機械、その後に右舷用の罐と機械)」を取り、生残性の向上を図っています。
こんな所はただの「粗製乱造艦」ではないのですが、艦体は直線だけで構成されて安っぽさ丸出しです。
竣工時の兵装を見てみましょう。
八九式40口径12.7cm高角砲単装1基・同連装1基
九六式25mm機銃3連装4基・同単装8挺
九二式4連装発射管1基・九三式魚雷三型4本
九四式爆雷投射機2基・爆雷投下軌道2条・二式爆雷36個・小掃海具2組
搭載艇6mカッター2隻・10m特型運貨船2隻
レーダー22号電探1基・九三式水中聴音機(パッシブ・ソナー)1基・九三式探信儀(アクティブ・ソナー)1基
兵装も汎用品だらけで、いかにも「安モンの急ごしらえ」なんですが、対潜兵装と掃海具が竣工時から装備されているのが注目ポイントですね。
同時期の一級品駆逐艦「秋月」級でも、対潜兵装は後回しにされ、ソナーなしで沈んで行ったフネが多いのに対し、雑木林級は安モンの癖に標準装備。
対潜を強く意識してたことが判ります。
戦場へ
松級駆逐艦二番艦「竹」は完成後の慣熟訓練を瀬戸内海で終え、昭和19年7月15日に同型艦3隻と第43駆逐隊(駆逐隊司令;菅間良吉中佐)を編成します。
第43駆逐隊の構成艦は松竹梅+桃ですが、第43駆逐隊はこの構成でまとまって行動する事はありませんでした。
長姉(ネームシップ)「松」が、味方艦を救うために孤軍奮闘の末に撃沈されてしまったのです。
姉を失った「竹」は「ろ号作戦」のための物資を沖縄、大東諸島へ輸送したあと、8月にマニラへ進出。
到着後はパラオやセブ島への輸送任務を着実にこなし、「竹」は海軍の期待通りの活躍ぶりを見せています。
このころ、大日本帝国の艦艇は戦闘時でもないのに潜水艦に一方的に撃沈される事例が多くなっています。
「竹」も沈没した「名取」「五月雨」乗組員救助に当たっています。
8月30日からは「船団護衛」の任務に就きます。
これこそが雑木林が造られた本来の目的です。
「竹」はこの任務で、祖国がどれほど追い詰められた状況にあるかを思い知ることになりました。
マニラからミリへと向かう「マミ11船団」(10月4日出港)を護衛していた「竹」でしたが、翌日には米潜水艦「コッド」の雷撃を受け、船団中の「辰城丸」を沈められてしまいます。
10月20日にはマニラから高雄へ向かう「マタ30船団(春風船団)」の一員としてマニラを出港。
しかし元特設水上機母艦の「君川丸」がアメリカ潜水艦「ソーフィッシュ」に雷撃されて沈められたのを皮切りに、潜水艦による波状攻撃を受け続け、次々と輸送船を餌食にされてしまいます。
日本側は船団旗艦の駆逐艦「春風」がアメリカ潜水艦「シャーク」を爆雷攻撃で沈めたのですが、輸送船の損害は止まりません。
船団は出発時に輸送船だけで12隻(護衛は駆逐艦4・駆潜艇1など)だったものが、9隻を撃沈されて壊滅状態となってしまったのです。
大日本帝国海軍の主力は大海戦「レイテ沖海戦」で勇戦したものの大敗。
大型艦や艦隊型駆逐艦の多くが沈められ、海軍の組織的抵抗はもはや望むべくもない状態になっていました。
しかし、戦争は続いています。
大日本帝国はレイテ島での陸軍部隊の抵抗に大きな期待をかけたのであります。海軍は残存の駆逐艦以下の小艦艇と、なけなしの輸送船でレイテ島部隊への物資の輸送を強行することになりました。
「多号作戦」の発令です。
オルモック輸送作戦
帝国海軍はレイテ沖海戦で自らの主力壊滅と引き換えに、米軍機動部隊にも戦闘継続不能なほどの損害(正規空母7隻撃破)を与えたと考えていました。
その誤判断をもとに(誤判断は台湾沖海空戦からずっと続いてますが)ルソン島の第一師団・第二六師団などの有力部隊をレイテ島に増派し、アメリカ軍に痛撃を加えようとしたのです。
大日本帝国の輸送部隊はマニラからレイテ島オルモック湾を目指しました。
米軍上陸地から離れており、揚陸に適した地形だったからですが、マニラからだと距離もあり、楽な輸送ではありません。
これがのべ9回にわたって実施された「多号作戦」、オルモック湾輸送作戦であります。この作戦に「竹」は第三次作戦から参加しています。
11月9日に快速駆逐艦「島風」を旗艦にした「竹」「初春」「濱波」+駆潜艇1、掃海艇若干は、5隻の輸送船を守ってオルモックを目指しました。
第三次多号作戦です。出撃翌日の10日には輸送船「せれべす丸」が座礁事故を起こし任務を断念する中、第三次部隊は日本の艦隊と行き会いました。
先に輸送任務を行っていた第四次部隊がマニラへと戻っていくところでした。
第三次部隊はマニラ大空襲で出発が遅れており、第四次部隊が先に任務を完了していたのです。第四次部隊は帰投途上に空襲で輸送船を2隻喪失していました。
ここで何故かは不明なのですが、第三次と第四次部隊は護衛艦艇の交換を行います。
「竹」と「初春」が帰投中の第四次部隊へ移り、第四次部隊から
「長波」「朝霜」「若月」が第三次部隊に参加することになったのです。
この交替が「竹」の運命を大きく変えてしまいました。
「竹」が抜けた第三次輸送部隊は、オルモック湾至近まで辿り着いたものの、そこで米軍艦載機347機の大空襲を受け「朝霜」1隻を除いて全滅しています。
「竹」にとっては幸運の任務交代でありました。
損傷
命を取り留めた「竹」ではありますが、輸送任務は続いていました。
輸送の護衛こそ、雑木林級が産み出された本来の使命なのであります。
11月24日「第五次多号作戦」発動、「竹」は「第6号輸送艦」「第9号輸送艦」「第10号輸送艦」を護衛して第二梯団を構成しました。
第二梯団は25日に空襲を受け「第6号輸送艦」と「第10号輸送艦」が撃沈され「第9号輸送艦」も損傷して揚陸困難。
護衛の「竹」も戦死15名・負傷60名の損害を出した上に、ジャイロコンパスを破壊されてしまいます。
この状況になっても、輸送命令は取り消されないままでした。
「竹」駆逐艦長(宇那木勁少佐)は独断で輸送中止を決断、マニラに引き返しました。
戦史叢書では、南西方面艦隊司令長官・大河内傳七中将の命令で引き上げたことになっていますが、宇那木少佐はマニラ帰投後に南西方面艦隊に突入できなかったことを詫びており、私には命令違反を『後で上手い事処理した』と思えます。
帰投した「竹」は数日の応急修理を受けることができましたが、ジャイロコンパスは修理してもらえなかったようです。
11月30日「竹」は同型艦「桑」「第9号輸送艦」「第140号輸送艦」「第159号輸送艦」の5隻で三たびオルモックへと出撃しました。
第七次多号作戦であります。「竹」の修理は完了していませんでしたが、「第9号輸送艦」の揚陸設備は修理完了だったそうです。
第七次多号作戦艦隊は12月2日の夜、無事オルモック湾に到着しました。3隻の輸送艦が大発を駆使して物資を揚陸し、「竹」と「桑」は第三次多号作戦で沈没した「島風」の艦長らを収容した上で、沖合の哨戒を行っていました。
南西を担当した「竹」と南に向かった「桑」には知りようもない事でしたがこの時、とんでもない強敵が静かに近づいて来ていたのです。
優秀駆逐艦
アメリカ海軍は、魚雷艇や駆逐艦による日本軍輸送ルートの破壊を行っていました。
この夜、オルモック湾に接近してきたのは、アメリカ第120駆逐群(司令ザーム大佐)。
第120駆逐群は「桑」が担当した南方の海上から横隊でオルモック湾に入って来たのです。
第120駆逐群はアレン・M・サムナー級に属する「アレン・M・サムナー」「モール」「クーパー」の3隻で編成されています。
「アレン・M・サムナー級」は大東亜戦争が始まってから、1943年に建造が始まった大型の駆逐艦です。
38口径5インチ(12.7cm)両用連装砲×3基6門・40mm4連装機銃×2基・20mm単装機銃×11基・533mm5連装魚雷発射管×2基10門の強武装は我が軍の「陽炎型」や「夕雲型」を凌駕しています。
その上Mk.37 (5インチ砲用)射撃管制装置や40mm機銃用のMk.51射撃管制装置は非常に優秀、対空捜索用レーダー・対水上捜索用レーダー・ソナーも我が海軍とは大差があり、レーダー照準射撃が可能でした。
排水量2,200トン・全長119メートル・全幅12.5メートル、速力34ノット、乗員336名。
一対一でやりあっても、雑木林にはとても勝ち目の無い戦力差ですが、そいつらが3隻。
オルモック湾に侵入したアメリカ艦隊は11,000メートル先の「桑」を狙ってクーパーが砲撃開始。
「桑」もアメリカ駆逐艦を発見し、発光信号で「竹」に報ずると同時に照射砲撃と魚雷で反撃を開始。
しかし、敵主砲弾を集中された「桑」はわずか10分ほどの戦闘で沈没してしまいました。
孤軍奮闘
「桑」を一蹴したアメリカ艦隊は、当然もう一隻の護衛「竹」を狙います。
輸送艦にも武装はありますが、3隻とも揚陸中で全く戦力にはなりません。
急造安モン小型駆逐艦「竹」は単艦で大型駆逐艦(「桑」は軽巡と誤認していました)3隻を相手にすることになったのでした。
敵艦隊の砲撃を受け始めた「竹」は12.7センチ高角砲と25ミリ機銃で反撃開始。
同型艦「桑」は10分持たずに沈められています。「竹」は圧倒的に不利です。
不利な上に、広くもないオルモック湾を機動しながらの戦闘ですから、座礁も警戒しなければなりませんでした。
この一方的に不利な状況で、急造安モン小型駆逐艦の強みは搭載魚雷の優位くらいでしょうか?
重巡すら一発轟沈、戦艦だって一撃で無力化できる威力を秘めた酸素魚雷。
しかし、「雑木林級」は4連装1基の発射管に、詰めきりの4本しか魚雷を持ちません。予備は無いのです。
しかも間の悪いことに、「竹」は事前の整備中に1本を誤って投棄してしまっていたので、撃てる魚雷は3本しかありませんでした。
それでも主砲だけでは勝ち目があるワケありません。
「竹」はたった3本の魚雷に艦と乗員と護衛している輸送艦たちの命運を託すことになってしまったのであります。
狭いオルモック湾を逃げ回りながら、「竹」は雷撃態勢に入ることを狙います。
最初に訪れたチャンスは、宇那木駆逐艦長が砲撃の閃光で目がくらんでしまって(電気機器の故障説もあり)発射できませんでした。
二度目の機会に、やっと10kmほど離れている敵艦へ向けて発射命令を下したのですが、四番連管は弁の故障で発射できません。
「竹」が放った魚雷は僅かに2本でした。
この間も敵艦隊の砲撃は続きます。「竹」の水雷長・志賀博大尉は祈る思いで双眼鏡を覗いていました。
やがて視界内の左端にいた敵駆逐艦に巨大な火柱が吹き上がりました。
敵艦は「クーパー」で、「竹」が放った2本の魚雷のうち1本が「クーパー」を直撃したのです。
酸素魚雷の直撃を受けた「クーパー」は一瞬で真っ二つに折れ曲がり瞬間的に沈んでしまいました。まさに轟沈。
大日本帝国の急造護衛用安モン小型駆逐艦が、アメリカの艦隊型大型有力駆逐艦を魚雷一発で粉砕してしまったのでありました。
奮戦続く
三隻の敵艦のうち、一隻を沈めた「竹」ですがこれで危機が去ったわけではありません。
「第9号輸送艦」「第140号輸送艦」「第159号輸送艦」はこの戦闘中も、陸兵のための武器弾薬を揚陸中です。
逃げだすことは出来ません。
三隻を守らなければ!陸兵たちが待ち望む武器を無事に揚陸しなければ…。それが「竹」が生れた理由なのですから。
「竹」は湾内を逃げ回りつつ、果敢に反撃を続けました。
残った敵艦2隻のうち、「モール」に何発かの主砲弾を命中させたものの、「竹」も敵弾を受け続けます。
先ほど撃てなかった魚雷発射管の修理も成りましたが、この魚雷は回避されてしまいました。
「竹」の損害はついに限界を超えたのか?傾斜が徐々に増していきます。
「竹」の傾斜は最大で30度まで達するのですが、それでも抵抗を諦めません。ついにアメリカ艦隊の方が音を上げてしまい、オルモック湾を出て行きました。
輸送部隊は「竹」の奮戦が続いている間に揚陸を完了。
僚艦「桑」を失いはしたものの、「物資輸送」と言う本来の目的は完遂されたのです。
「竹」にはもう全く余力はありませんでした。辛うじて浮いているだけ。
僚艦「桑」の生存者救助も出来ませんでしたが、宇那木艦長はオルモックの陸上部隊に「桑」の生存者救助を要請しています。
「竹」は帰投途中で傾斜を回復させ、12月4日の午後マニラにたどり着くことができました。
しかし「竹」が被った大損害はマニラでは修復しきれず、「竹」は呉で修理をするために帰ることになったのでありました。
敗戦後
大日本帝国は既に国力が極端に落ちていました。殊勲艦の修理すらままならず、「竹」の修復は4月になっても完了していません。
そのころには、大日本帝国には兵力を海上輸送するべき支配領域は無くなっており、「竹」は最後の瞬間に暴れるために温存されることになりました。
って申しますか、燃料が無くて動かせなかった、と見る方が素直ですけれど。
こうして「竹」は大東亜戦争を生き延びることになりました。
戦争は終わっても「竹」には大事な任務が残されました。
復員輸送、すなわち敗戦で海外に取り残された日本国民の内地への引揚げ業務でした。
昭和20年の12月からポンペイ島・パラオ・サイパン・上海などと内地を精力的に往復、昭和21年にその任務を終えました。
この年7月「竹」は特別保管艦の指定を受け、横須賀に繋留されるようになります。
翌昭和22年7月16日には特別保管艦の指定を解除され、大英帝国に賠償艦として引き渡されると、大英帝国は「竹」を解体してスクラップとして売り払ってしまいました。
太平洋の荒波をものともせず、戦い抜いた安モン殊勲艦の哀れな最後でありました。
造られた時から期待もされない「急造艦」ですから、語り継がれもしないでしょうけど、電脳大本営的には
「日本人が忘れちゃいけないフネ」
のランキング上位なんです。