その後の「皐月」艦長は

峯風型「夕風」

駆逐艦「皐月」と飯野忠雄艦長の英雄譚はコチラの記事でお読みください。今回は飯野少佐のあとを受けた新艦長と「皐月」の運命のお話です。

睦月型駆逐艦「皐月」

帝国海軍は、その「軍馬」とも言える駆逐艦を自分で設計出来ず、長く大英帝国の模倣に頼っていました。
大正6(1917)年に至り、ついに英国の影響を排した帝国オリジナルと言える「峯風型」が誕生し、波荒く広大な大平洋を縦横に駆け巡るだけの性能を手にするのです。

「峯風型」は小改良を続けながら「神風型」「睦月型」とほぼ同形で作り続けられています。大東亜戦争が始まったときは既にベテランの域に達していました。

座礁した神風

座礁した「神風」

基準排水量1315トン、速力37.2ノット、45口径12糎砲単装×4門、7.7粍単装機銃×2挺、61cm3連装発射管×2基(八年式魚雷12本)、八一式爆雷投射機2基・装填台2基(爆雷18個)など

「睦月型」の5番艦である「皐月」は大東亜戦争では、フィリピン攻略戦、ジャワ島攻略戦、バタビア沖海戦などに参加したあと、同型の「文月」「水無月」「長月」と一緒に船団護衛に従事しています。

「皐月」が名駆逐艦長・飯野少佐を対空戦闘で失った後、マニラ湾でまたしても米軍機に襲われて、今度は沈没してしまう経緯は前の記事にも書いていますが、飯野少佐のあとを受けた新艦長もまた勇敢に戦った人だったのであります。

重巡「那智」

アメリカ軍機の銃撃で片足を粉砕され、その脚の切断手術を受けながら対空戦闘指揮をとり続けた飯野艦長。この豪傑のあとを受けて「皐月」に赴任してきたのは杉山忠嘉少佐でありました。

杉山少佐は大東亜戦争の開戦時、完成したばかりの新鋭駆逐艦「夕雲」の水雷長でした。杉山少佐が開戦の報を聞いたのは北海道厚岸港での事。

駆逐艦「夕雲」

 

確実な証拠がありませんが、「夕雲型」は燃料タンクの中にスチーム・パイプが通してあり保温出来た、という説があります。良質の燃料の供給が断たれた場合でも、北方作戦が支障なく実施できるように、との配慮だと言われています。

完成すぐに北海道に行っていた、という所からこの説が信憑性を帯びてまいります。が、流石に開戦となってはスチーム・パイプのテストなんかやってられませんから、あわてて横須賀へ帰還。

帰った杉山少佐は南方作戦参加中の駆逐艦「早潮」へ転勤。いわゆる第一段作戦が成功裡に終わると、昭和17年4月から10月まで水雷学校高等科学生としてお勉強。
大戦争中に何やってんですかね、帝国海軍は?とか言わないの。

重巡洋艦「那智」

重巡洋艦「那智」
後方は空母「鳳翔」でしょう

 

無時に「卒業」した杉山少佐は重巡「那智」の水雷長。この当時の「那智」は第五艦隊旗艦でしたから、北方作戦に行ってるんですね。ヘタないくさとして有名な「アッツ島沖海戦」です。
しかも杉山少佐の告白によれば、水雷長こそがこの失敗の「主犯」みたいなんですよ。

告白を聞いてみましょう。

その前にアッツ島沖海戦の基礎知識。
ミッドウェイの陽動としてアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を占領しちゃった大日本帝国は、何度も輸送船を送り込んで守備を強化していました。
昭和18年3月22日のその日も、第五艦隊(細萱戊子郎中将)旗艦の重巡「那智」以下重巡「摩耶」軽巡「多摩」「阿武隈」駆逐艦「若葉」「初霜」「雷」「電」が輸送船3隻を護衛してアッツ島を目指して北上していたのです。

1942末、アリューシャンにて、手前多摩、奥木曾

手前「多摩」奥「木曾」
同型艦は北方でも警備に活躍。昭和17年

アメリカ軍は10日程前にも輸送を許してしまった事もあり、重巡・軽巡各1、駆逐艦4隻を投入して警戒中。

水雷長は
「突然の会敵なんで(日本艦隊はアメリカ艦隊に後をつけられていました。)慌てていたんですなあ。下(機関室のこと)ではボイラーの気圧を上げてスチームを上げているのはいいんだけれど、あわてているものだから、スイッチを間違えて砲塔の電源を切っちゃった。」
と回顧しておられます。

というワケで主砲は手動で旋回・俯仰することに。加えて電気が来ませんから、方位盤が使えず砲側で目視照準になってしまいます。

「発砲したって当たりゃせん。お粗末なもんですよ。」だから「ブリッジでは(魚雷を)射て射てという。」

この時、那智は後を慕ってくる米艦隊の退路を断つべく、90度東へ転針していました(ということになっていますが、どうして90度転針で退路を絶てるかは?)。

「敵は夜中からつけてきているので、当然、こっちと決戦するんだろうと思ったわけ。となると、敵も90度方向に変針してくるはずです。」

イヤイヤ、少佐!状況を考えなきゃ。貴方の艦の目的は輸送船をアッツ島(那智の北方にあります)へ無事に送り届けること。アメリカ艦隊の方はアッツ島への増援を阻止することが目的ではないですか?

少佐はこの時、そんな事は全くお考えでは無かったようです。
「ですから私は『右魚雷戦同航にします。』と断って右舷発射管から8本の魚雷を撃ったんですよ。距離は2万メートルほどですがね。」
「そのとき、二番艦の『摩耶』も同じように撃った。ところが発射した直後、敵艦隊は270度方向へキューッと変針しちゃった。」
「東へ来ると思ったのに、西へ行っちゃった。まさか反航するとは思いませんでしたからねぇ。」

アッツ島沖海戦で砲撃する重巡「ソルトレークシティ」

アッツ島沖海戦で砲撃する重巡「ソルトレークシティ」

 

えらく他人事のような述懐でありますね。皆様に成り代わりまして、電脳大本営が叱っておきます。
こら、少佐!魚雷一本いくらすると思ってんねん!しかも、貴方の手元に、次に撃つ魚雷は残ってないだろうが(次発装填には時間が掛かるのです)。

海防艦「隠岐」

まあ、後世の安全なところに座っている私などに「叱られる」言われなんぞ、有るわきゃ無いですよね。
少佐は即刻、敵艦からこっぴどい「報い」を受けてしまわれるのであります。
「その直後ですよ、敵の砲弾が『那智』の艦橋に当たったのは。(中略)その破片が跳弾となって私の足の裏に当たりましてね。緒戦で私は、負傷しちゃったんですよ。」

たぶん、杉山少佐はこの「敗戦」(帝国艦隊は作戦目的のアッツ島増援が出来ませんでした)で心を入れ替えたのでしょう。少佐は「那智」を降りて第四艦隊第二海上護衛隊所属の海防艦「隠岐」の艦長に転任するのであります。

隠岐

海防艦「隠岐」
完成公試

 

海防艦「隠岐」は、占守型の海防艦を戦時に相応しく簡略化した航路護衛専門艦である「択捉」型の4番艦です。
基準排水量870トン・最大速力19.7ノット・巡航16ノット(航続8000浬)・45口径12糎砲3門・25粍連装機銃×2・爆雷36個、九三式水中聴音機x1基・九三式水中探信儀x1基。

注目すべきは速力を20ノット以下で我慢して、引き換えに得た長大な航続力でしょう。この部分は軍艦らしからぬ商船的な能力です。

守るべき商船は25ノットや30ノットで走るワケではありませんし、主敵の潜水艦も水中では速力が出ませんから、これで十分なのです。

「那智」のような重巡洋艦とは違い、海防艦の任務は超地味な船団護衛がほとんどです。
杉山少佐も昭和18年8月2日に「隠岐」に着任すると、下旬にはトラックから徴用船の「田子の浦丸」と「日威丸」を護送して横須賀へ向かいます。

占守級海防艦「占守」

占守級海防艦「占守」

三宅島の南東に近づいていた時、「田子の浦丸」が潜水艦の雷撃を受けて沈没。「隠岐」には「田子の浦丸」の船員さんを救助することしかできませんでした。

杉山少佐はこれで懲りたのでしょうか。

昭和18年、隠岐が航海中だった11月15日。
大日本帝国海軍は及川古志郎大将を司令長官に据えて「海上護衛総司令部」を誕生させました。

戦争中は鎮守府の警備艦を除いて、海洋戦力のすべてが連合艦隊の指揮下にあった帝国海軍のあり方、戦い方を根本から変え得る大変革…になる可能性があったんですけどね。結果は皆さんご存じの通り。

このあたりの事情はまた、別の記事にいたしましょう。

「隠岐」の第二海上護衛隊も、海上護衛総司令部の隷下に入りました。

今回の航海は特設航空機運搬艦慶洋丸・特務艦伊良湖・特設潜水母艦平安丸の3隻を幸運駆逐艦「雪風」とともに護衛(この船団構成はWikによります。杉山艦長の回想では「船団は20艘ほど」です)して横須賀からトラック環礁へ。

潜水艦撃沈

11月19日、サイパンの北方に差し掛かったときでした。「隠岐」は船団最後尾を警戒していましたが、船団指揮官から「敵潜水艦を補足撃滅せよ」の命令が下ります。朝の4時半過ぎのことでありました。
先頭を行く指揮官が前方に浮上中の敵潜水艦を発見し、船団を右回頭で避退させた上で、「隠岐」に攻撃させたのです。

船団護衛が本務、主敵は潜水艦と言っても、海防艦などの護衛艦艇が敵潜を沈めるまで攻撃できることはめったにありません。
船団護衛は大切な輸送船を無事に送り届けることが目的であって、潜水艦を沈めるのは「ついで」のお仕事、あるいは手段の一つに過ぎませんから。

択捉型海防艦「福江」

択捉型海防艦「福江」

 

この時は船団に余裕があったのでしょう。

敵潜は既に潜航していましたが、杉山艦長は「隠岐」を敵潜の海没点に急行させると
「探信儀(アクティブ・ソナー)と聴音(パッシブ・ソナー)で捜索を開始したわけです。ところがおらんのですよ。」

そんなに簡単に見つかりゃ苦労はありません。っていうか、「海没点に急行」しちゃうと、当時のソナーの性能ではダメなんですね。自分の艦のスクリュー音や艦の機動で海水をかき回しちゃう事で雑音が増えて敵潜を発見出来なくなります。

この事を、大日本帝国海軍では、駆逐艦長に教えていた気配がありません(私がその記録を見つけてないだけかも知れませんが)。
各駆逐艦長は潜水艦の発見点へ「急行」しちゃって、発見できないモンだから、近辺をグルグル全速で駆け回り、ますます発見出来なくなる、って言う「対潜」戦闘をやっちゃう訳であります。

杉山少佐が「これで懲りたのでしょうか」と申しますのはこのあたりでありまして。

「潜航した潜水艦はそう遠くへは行けんですからね。それにスクリュー音が聞こえないということは、ほぼ同位置に潜んでいる筈だと思って、一キロ四方のエリアをグルグル回っていたんです。」

この冷静な判断は後から付いてくる敵艦隊が、自分たちと同じように変針する、と思いこんじゃった水雷長時代とは全く違う人のようです。

対潜戦闘はともかく「忍耐」が第一なんですね、この時代は。海水の透明度が高い海域なら、真上から見れば水中に潜む潜水艦も「見える」んですけど。そんなんで発見できることはまずありません。
音で探るしかないのですから、ゆっくり、ゆっくりと想定海域を廻らないといけません。

「午前中いっぱい、同じところを探していたけど、さっぱりつかめない。」「昼頃になって、航海長に『潜航した位置に戻って、もう一回りしていなかったら引き揚げよう』と言いましてね。」

「隠岐」は敵潜の海没点から0度(北)270度(西)180度(南)と、反時計回りに捜索。そのとき、水測長が「左40度、1000メートル、敵潜探知!」と叫びます。

杉山艦長がその方向の海面を見ると雷跡が「隠岐」に向かってきていました。敵も必死で、発見されたことを機敏に察して魚雷を発射していたのです。
「隠岐」は聴音のために微速で走っていますから、そのままでは魚雷は必中です。1000トンもない海防艦は、一本当たれば轟沈必至。

「『第一戦速』『取り舵一杯』と叫んで、艦首がググーっと左へ向いた瞬間、艦のハナヅラすれすれに魚雷がかすって行きましたねェ。」
かすって行った、は誇張し過ぎだと思いますが(笑)

ガトー級ヘイク

アメリカ海軍ガトー級潜水艦「ヘイク」

 

「隠岐」はそのまま艦首を敵潜を探知した方向へ向けます。すると、海面にするすると潜望鏡が上がって来たそうです。

敵は魚雷の命中を確信していたのかも知れません。あるいは、見つかってしまった事への不安に耐えきれずに、海上の様子を見たかったのかも知れません。
「あわてて潜航したけど、もうその時は、こっちは敵の頭上に来てるわけ。爆雷をその上に15、6発、連続投射したんです。左舷から右舷から艦首から、ゴロゴロ落としてやった」

いやあ、艦長さんったら。艦首からは落とさんでしょう(笑)。

「そしたら『カーン』という、ものすごい金属音の爆発を起こしたのがあってね。」
「もう一度引き返したら、幅10メートル、長さ100メートルにわたって、猛烈な気泡が海中から吹き上がってるんです。」
「その上からまた爆雷をボコボコ落してね」

またまた艦長さん、「択捉」型の海防艦ってさ、爆雷36個しか持ってないよね。ゴロゴロ・ボコボコ落すほど残ってました?

「もうこれでいいだろうと、フネをとめて聴音器で聞いてたけど、ついに、なんの音も聞こえませんでしたね。」
「あとから機雷長がいっとったけど、爆雷が一個、敵潜の甲板の上にゴロゴロと乗っかったのが見えたというんです。」

以上が海防艦による敵潜撃沈(不確実)の模様であります。

杉山少佐はさらに一回の船団護送をこなすと、昭和19年1月11日に「隠岐」を降りて、駆逐艦「皐月」の艦長に転任するのであります。

筏造り

駆逐艦「皐月」は既に書きましたように古い駆逐艦ですが、この当時は対空機銃などを増強していました。
戦況は逼迫してきており、やはり船団護衛が主任務となってしまいます。

5月10日、補給物資を満載した小型の船舶12隻をサイパンからグアムへと護送中でした。無時に航海を終えてグアムに入港する直前、先頭を走っていた「皐月」が雷撃されます。

「この時の船団は3列になっていまして、各船みな爆雷を持たせてあったんです。最初の雷撃は難なくかわしたので、私は各船に爆雷投下を命じたんですよ。」
「船団の幅は広いですから、そのまま直進すれば、敵潜は船団のエリアの中に入ってしまうわけです。そこで一斉にポカポカと爆雷の絨毯爆撃をやったわけです。」「船団は一隻残らずぶじに入港しましたよ。」

と、船団護衛にも慣れてきた杉山少佐。ただし、守護すべき貨物船まで潜水艦狩りに投入したら駄目だからね(笑)

アメリカ潜水艦「シーウルフ」の雷撃で炎上する「慶興丸」

アメリカ潜水艦「シーウルフ」の雷撃で炎上する「慶興丸」
昭和17年11月

 

杉山少佐は、もちろんそんな事は判っていたんでしょう。
少佐が「皐月」に着任してすぐにやったことは、角材を格子状に組み上げた筏を作らせることだったんです。この筏を3組も作らせて艦の前部・中部・後部に配置しておいたのです。

飯野忠雄艦長の記事でも書きましたように、「皐月」はマニラ湾でハルゼー機動部隊の大空襲に遭遇してしまいます。
「皐月」と杉山少佐は果敢な対空戦闘を繰り広げ、艦載機の大群に少なからぬ損害を与えるのですが、被害も少しづつ増えていきます。

艦橋には艦長の杉山少佐と砲術長と操舵員の3名しかいなくなってしまいます。艦体も至近弾で復水器をやられて速度が出なくなります。
空襲の合間に、傷ついた水兵さんたちをボートに移して陸上に運び、残った乗員で再び米軍機に立ち向かう。

蒸気は上がらなくなり、ついに片舷のスクリューだけで逃げ回るハメに追い込まれて行きます。アメリカ軍機の空襲開始から2時間、罐室をやられた「皐月」は続けて前部発射管室にも被弾し、ついに艦首を海面下に没します。

皐月

駆逐艦「皐月」

 

杉山艦長はココに至りついに「総員退去」を命じました。この時、艦長が準備しておいた「筏」が役に立ったのです。
負傷した水兵さんを筏の上に乗せ、健在な者が泳ぎながら筏を押して陸上へ向かったのです。

「皐月」の大奮闘でも、マニラ湾在泊の輸送船は守り切れませんでしたが、この時戦死した「皐月」乗員は6名だけ。逃げようがない第一罐室の要員ばかりでした。

私が「皐月」を名駆逐艦と呼び、杉山少佐を飯野艦長に匹敵する「名艦長」と考える所以であります。

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