海と空の博覧会

戦艦三笠イラスト

昭和5(1930)年、東京上野の不忍池と横浜市白浜海岸の記念艦「三笠」前広場などを会場として「海と空の博覧会」が開催されました。

海軍全面協力?

電脳大本営が戦争じゃなくて博覧会かよ、と仰らずに聞いてください。この博覧会は「日本海海戦の勝利25周年を記念」して行なわれたモノなんですから。

この記事はプロペラ髭の続きです。戦間期(第一次と第二次の間ね)の大日本帝国で、飛行機は特に軍関係者に注目され、その活用は庶民にも強く訴えられてたよ、って話であります。

博覧会の主催は「財団法人三笠保存会」と「日本産業協会」。

三笠保存会とは、もちろん日本海海戦の連合艦隊旗艦「三笠」を保存しようとする人たちです(「三笠」はワシントン海軍軍縮条約で廃艦に決まり、国民の懸命な嘆願活動で陸上に固定することを条件に保存が認められたもの)。

第一会場正面入り口

海と空の博覧会 第一会場正面入り口

日本産業協会と申しますのは各種の商工業者が、輸出促進や内国産品の推奨を狙って造った団体。

二つの団体の目的があんまり一致しそうにありませんね。そのために、各地を代表する商工業品や物産品と海軍の新旧兵器が同じ会場に並べられるという若干カオスの芳香漂う博覧会となったのであります。

それでも混沌が魅力に代わり得るのは、現代のドンキホーテ商法でも良くお判りの通りでありまして。
さらに、其処に「スマート」がウリの帝国海軍が(こっそりと)軍事技術の啓蒙を通じて予算獲得を目指していたのです。

博覧会総裁には伏見宮博恭王を戴き、名誉顧問に元帥東郷平八郎を迎えるという豪華布陣。

巡洋艦浪速艦長時代の東郷平八郎

東郷平八郎(巡洋艦浪速艦長時代)

副総裁(実質的に実務を取り仕切る人)に男爵平山成信・海軍大将財部彪・陸軍大将井上幾太郎、会長は男爵阪谷芳郎。
で、副総裁と会長はどっちが偉い?とか聞くんじゃないよ(笑)儂も知りませんから。

会場は大きく二つに分かれていました。一つは東京市の恩賜上野公園の不忍池周辺。コチラが第一会場で、本館と三つの展示館が建てられていて、夜景が壮観だったそうです。

第二会場は、横須賀市の白浜海岸にある「記念艦三笠」前の広場と市役所わき当時の小川町埋め立て地(今の横須賀新港の手前一帯)と、さらに二ヶ所に別れていたようです。儂、横浜の地理が判らんので、説明がおかしいかも?ご容赦願いたいところです。

第二会場三笠前の開会式

第二会場三笠前の開会式

 

別れた二ヶ所を三笠橋が結んでいたそうです。

陸軍大将が首脳陣に名前を連ねているとは言っても、「海と空」ってネーミングの時点で海軍に乗っ取られてますけどね、その展示内容を見ていくと、更にその感は強くなってまいります(笑)

第一会場の展示

展示館の内容は、次の通りだったようです。
本館:
台湾・樺太・北海道・大阪など地方の特産物や、丸善・日本製鋼所・三井物産・日本ビクター・古河電気などの製品が展示されていたそうです。
また軍関係の展示も盛りだくさんで、軍艦の模型・兵員の軍服・明治天皇が広島大本営でお使いになられた玉座・日露戦争の資料も並べられていました。

第一会場の人出

第一会場の人出

 

内外対比館:
国産品と輸入品が相互に品質などを比べられるように展示されていました。

空の秘密館:
月蝕・日触・太陽黒点などの実物映写(って記録にあるんだけど、何のことやらよく判らん)・天空飛行の想像(これも良く判りませぬ)・珍鳥と保護鳥の紹介・空の新利用(たぶん航空輸送って事だと思います)・蜃気楼が話題を呼んだ、そうです(笑)。

海の秘密館:
海産生物の垂直的分布模型図・真珠養殖・伝説「人魚と真正の人」・全魚養殖(よく判らんけど、近大マグロみたいな話かな)・捕鯨業・鰹漁業の紹介。

空の秘密館

空の秘密館

 

その他、海軍は不忍池で無線による模型軍艦の操縦・敷設水雷の爆破実験(大艦巨舶ヲ一瞬ニシテ粉砕シ得ル)・魚形水雷(たぶん模型だろうね)の発射実演(浮揚セル模型軍艦ノ側面ニ命中シテ艦体ヲ両断セシメ)などを展示して観衆の興味を引いたのでありました。

そもそも会場の入り口近くには、来場者を睥睨するように戦艦の檣楼や大砲に見立てた装飾塔が建てられ、正門を入ったところには戦艦「陸奥」の主砲身や主錨が展示されていたそうです。

長門(陸奥?)主砲と売店

長門(陸奥?)主砲身と売店

 

長門級戦艦(長門と陸奥)はこの時代、つまりワシントン海軍軍縮条約で軍備が制限された時代において、世界で7隻(帝国のほかにイギリス2隻・アメリカ3隻)しかない「16インチ主砲」を搭載した大戦艦です。その主砲の砲身展示とは、儂も見たかったぞ。

ちょっと横道にそれちゃいますが、長門級の主砲は「四十五口径三年式四十一糎砲」「四十五口径三年式四十糎砲」という2種類の記述が見られますが、同じものね(笑)

第二会場

「海と空の博覧会」が開催された昭和五年は、関東大震災から七年後であります。博覧会の開催は東京市の復興に活を入れた事でしょう。
ましてや当時の人口が約十万人だった横須賀市にとっては、休日には数万人の人出だったこのイベントは大きな経済的な後押しになった事でしょう。

「日本海海戦二十五周年記念・海と空の博覧会記念帖」(昭和五年刊)に第二会場の鳥轍図が掲載されています。

第二会場イラスト

第二会場鳥観図

 

埋め立て地の第二会場入り口には「海と空の博覧会第二会場」と書いてある歓迎塔。
歓迎塔ちかくには記念絵はがきなどの売店がありますね。正面の桜並木を通り抜けると日本庭園と築山。
その奥の海岸沿いにあった、ありましたよメインパビリオンの「海軍館」が。
記念艦三笠寄りに産業館・特売館。そのほか水族館・子供化学館・子供館・野外音楽堂・子供の園などがあったようです。

海軍館のようすを見てみましょう。

主な展示物は「日本海海戦」で掲揚された「Z旗」の実物・同じく日露の戦いで沈没した戦艦「八島」の全長9メートルに及ぶ精密模型など。

くわえて「潜水艦の襲撃の実演」なる展示も。これは水槽で航行中の戦艦の左舷に潜水艦が出現、戦艦に接近しつつ潜航したかと見る間に魚雷を発射。
戦艦はこの魚雷によってあえなく撃沈される、って言うストーリーを見せる模型だったそうです。

シンボルタワー(軍高塔)

シンボルタワー(軍高塔)

 

加えてココでは「カタパルト」も展示されたらしいのです、それも実演付きで。

と言っても、流石に実機を射出するわけにもいかず。次のような細工を観客に見せたらしいのです。

まず、長さ12間・幅2間(21.84メートル×3.64メートル)のプールをつくり、背景に重巡(1万トン級)を描きます。
その重巡艦上で翼幅1メートルほどの模型飛行機がカタパルト上にありまして、飛翔に必要なエネルギーを与えられていく様を再現したんだそうであります。

さすがに射出までは再現してないようですが、「海と空の博覧会報告」(昭和5年刊)によりますと、「我海軍ニ於イテハ独特ノ装置ヲ研究シテ随意ニ艦上ヨリ飛行機ヲ飛翔セシムルコトヲ得セシメ列国ノ羨望ノ的」だと大いに自画自賛するわけでありますね。

この博覧会、昭和5年であります。私たちはこの頃の帝国海軍は一部の先進的な思考の持ち主を除いて「大艦巨砲」主義に凝り固まっていた、と考えがちです。
ところが第一会場でも第二会場でも、戦艦はやられ役になってしまってます。博覧会で戦艦の実物を展示できるワケありませんし、致し方無いのかも知れません。

でも先日書きました「プロペラ髭」や、軍人・民間を問わず「防空」の重要性を説き続ける人たちも沢山おられまして、この傾向は陸海軍の内部でも、顕著だったのでは?と思われませんか。

私には「海軍が航空機・潜水艦という新時代の主力をアピールして予算獲得を目指しとるなぁ」と思えてならぬのであります。

海と空の博覧会の人出多く、この日死者1名

海と空の博覧会の人出多く、この日死者1名

 

会期は3月20日から5月31日までの73日間。入場者数は83万5487人もの多数を数えた一大催事でありました。

海軍、新聞記者と癒着を目指す

海軍はこの博覧会の宣伝に「日本新聞協会招待会」ってなモノを開いて、各紙で報道してもらうように「工作」しています。開会後ではありますが。

前出の「…報告」を読みますと、「今も昔も新聞記者はアホやな~」と実感できますので、紹介申し上げます。

開幕ほどなくの4月10日であります。報告には「全会員」ってあるんですが、招待されたのは300人。日本新聞協会に属する新聞記者が300人しかいないのかどうか?はちょっと疑問ですが。

海軍はこの記者たちをまず上野精養軒に招き、続いて第一会場を自由に観覧させました。

1937木曾、体験航海のため東京に停泊

軽巡「木曾」が体験航海のため芝浦埠頭に。

その後に芝浦埠頭の倉庫内で午餐会。記者たちの代表として、名古屋新聞主幹の與良三郎氏があいさつに立ち、大要次のように述べます。

「現行の行き詰まった我が帝国の状況を打開し、国運を発展させるためには、海外に沢山の日本村を建設して、これを日本とつなぎ合わせることが重要です。
これを実現するためには、ひとえに海軍の力によるしか無いのです。私たち新聞人は日本人を海外に殖民させ、更にこれを鼓舞激励する重大な役目を有するのです。」

阿呆丸出しが良くお判りでしょう、昭和5年ですぜ。これから植民地創ろう、ってか?
南米に雄飛した人たちやアメリカ合衆国で「迫害」された人たち、ありゃあ移民なんだぜ、馬鹿記者め。
しかも、海軍に可能なのはこの人たちとの「連絡路の確保」であって、直接移民たちの安全を守るなら国として相手国との友好を厚くするか、有力な陸軍部隊を準備するしかないじゃん。

海軍にヨイショするならするで、もう少し勉強しとけよな。

翌11日にはわざわざ敷設艦「厳島」を芝浦埠頭に廻航して記者バカたちを横須賀まで送り届けます。

記者たちが乗り込んだ「厳島」が芝浦を離れると、敵役の飛行機(残念ながら機種不明)が2機、爆弾を投下。潜水艦も浮上して見せ、「厳島」は3門積んでいる14糎主砲で反撃。

この間に今度は4機の「敵機」が襲来。うち2機は「厳島」の艦橋をかすめて飛び去り、残り2機は模擬魚雷を投下。「厳島」は主砲を発射し続けるものの、先ほどとは別の潜水艦が攻撃してきて「軍艦厳島ハ撃沈セラレタリト仮想シ」演習終了となります。

敷設艦厳島

敷設艦「厳島」

 

敷設艦とは言っても、「厳島」は2000トン越えの堂々たる「軍艦」で、大東亜戦争中は船団護送などで活躍しています。しかもこの時就役したばかりの最新鋭艦であります。

それを、飛行機と潜水艦であっさり「撃沈」して見せたのです。

「撃沈」されながらも横須賀に無事到着した記者たちは、第二会場を自由に見て回ったのち、横須賀鎮守府が主催した晩餐会にご出席。

席上、大角岑生鎮守府司令長官は「海軍が何であるか」を観て頂いたので「必ずや偉大なる筆の力となってご紹介下さると信ずる」と述べるのでありました。

日本新聞協会理事長の光永星郎は答礼に立って
「本日は海軍当局の格段の好意によって軍艦上、最も進歩せる海軍現勢による機会を与えられた」
「我が海軍の偉大なる進歩に驚嘆した」
「この博覧会の目的は海の軍事思想の普及にあることを知った」

などと大いに海軍礼賛をやらかしたのでありました。

 

こうしてゴミが造られる

招待してもらったので、ある程度はヨイショも仕方ありませんが、この軍事知識の無さ、国際関係への無理解は現在のマスコミの主流と選ぶところがありません。

アホ記者どもは、自分たちを良く遇してくれるモノに平気で尻尾を振るのです。良い待遇をしてくれるのは、この頃が海軍なら、今はC国やK国なんでしょう。

此奴らに「事実だけを国民に伝える」なんて信念は爪の垢はどもありません。それどころか、自分たちの生半可で未消化の知識を至高だとでも思ってるんでしょうか?私たち一般国民に教えを垂れやがるのであります。

新聞記者たちの悪口はこれくらいにしておきまして、大日本帝国海軍はこうした啓蒙活動は盛んにやっていました。
海軍の兵員補充は志願によるものが多かった、という理由もあるんですが、主として「海軍に予算付けてやれよ!」って言う世論喚起を狙っていたんだと判断できると思います。

それはそれで良いのですけれど、私が特に注目したいのは海軍が
「思った程戦艦の威力にこだわってないでしょ?」
って言う部分であります。

それでも、航空主兵はムリ

こんな時代から、海軍が民間に向かって「航空機の優越」を宣伝していたんです。
それなら山本五十六や井上成美に頼らなくっても、「航空化した海軍」が建設できただろう!って思ってしまいますが、それはムリってモノなんですね。

と申しますのは、軍人っていう人たちはいたって保守的な人々でして。考えてみれば、当たり前の事です。だって、自分の命が掛かってるだけではありません。

もし、彼らが任務に失敗したら。自分が生れ、育ち、自分の両親や兄弟姉妹や友人や恋人や、妻や子が暮らす国が滅ぼされるかも知れない。

この恐怖はとんでもないプレッシャーになりますよね。

敵国が戦艦を手放さない以上、ホイホイと新機軸に乗って「航空主兵」なんて出来るわけがないんです。

私たちは「ホイホイと新機軸に乗って」世界最強の軍隊を維持し続けるアメリカ合衆国を見てますから、あんまりヘンだと思わないんですけど、軍隊ってそんなに簡単に変わるモノじゃない、と思わせてくれる博覧会の紹介でありました。

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