帝国海軍の砲術専門家
「大日本帝国海軍の大砲の命中率はアメリカ海軍の3倍」と言う説をご存じでしょうか?
「砲術の大家」で戦艦「大和」の初代副長や重巡「利根」の艦長を歴任した黛治夫大佐が元ネタみたいなんですけど。
略歴
はい、今回はこの人を中心に「スマートな」海軍士官のオツムリの出来具合を考えてみます(笑)
黛治夫大佐、重巡「利根」というとビハール号事件を思い浮かべてしまう人もいらっしゃるかと思います。
この事件は帝国海軍の恥部(戦時捕虜の殺害の方じゃなくて、司令官と隷下艦長が罪を押し付けあった、って事実の方)でもありますし、服役後の黛大佐はそんな事は忘れちゃったみたいに海軍と砲術礼賛に邁進なさっておいでですから、この記事では触れないことにいたします。
取りあえず、黛大佐の略歴をWikiから引っ張ってきておきます。
大正8(1919)年、海軍兵学校を卒業(47期)、翌年8月1日、海軍少尉に任官。
大正14(1925)年11月、海軍砲術学校高等科を卒業、昭和5(1930)年11月、海軍大学校を卒業(甲種28期)
その間戦艦「伊勢」分隊長、海軍砲術学校教官兼分隊長、戦艦「日向」副砲長兼分隊長、練習艦「浅間」の副砲長兼分隊長、空母「赤城」副砲長兼分隊長、砲術学校教官を歴任。
昭和9(1934)年6月、アメリカ駐在を命ぜられ米海軍の大口径砲の命中率、艦船の防御力についての調査研究を行い、昭和11年6月に帰国。
海軍省軍務局調査課、砲術学校教官、第4根拠地隊参謀、砲術学校教官、「古鷹」副長、横須賀鎮守府出仕、呉鎮守府付、「大和」副長、第3遣支艦隊参謀(この時海軍大佐)。
昭和16(1941)年12月、大東亜戦争開戦。水上機母艦「秋津洲」艦長、第11航空艦隊兼第8艦隊参謀、軍令部出仕、横須賀砲術学校教頭などを歴任。昭和18(1943)年12月、「利根」艦長。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参加。
ざっとこんな所でしょうか。砲術屋さんですね、完全な。
砲術屋ってことは、将来的に帝国海軍の中枢を担う人材とみなされてたんでしょうね。
そして、帝国海軍の砲術屋さんとしては最高の晴れ舞台だったレイテ沖海戦の時に、(残念ながら戦艦じゃなかったけれど)「利根」の艦長としてアメリカのジープ空母を追いかけ廻す役回りとなったのです。
ザイドリッツの戦訓
黛大佐の人となりを知るためには、こんな表面的な経歴だけ見てもダメでしょうね。
次のような戦場での行動で、黛さんの武人としての人となりが判るんじゃないかと思います。
シブヤン海で米軍機の集中攻撃を受けて大戦艦「武蔵」が落伍し始めた時、重巡「利根」の黛艦長は栗田艦隊全てを挙げて「武蔵」を援護するように意見具申したそうです。
しかし、これは却下されて(艦隊には武蔵を守り切ることより大切な任務がありますからね)「利根」一艦で援護に当たるのですが、結局「武蔵」は沈没してしまいます。
「利根」の黛艦長は大戦艦の傍らから離れるに当たって、
「ザイドリッツの戦訓にかんがみ、艦首浮力の保持に努められよ」
と信号させた、と仰っています。
「武蔵」の艦長・猪口敏平少将は兵学校の1年先輩だし、階級もいっこ上だし、こんな偉そうな「忠告」なんて出来ない筈なんですけどね(笑)
因みに「ザイドリッツの戦訓」って言うのは、(たぶんですが)第一次大戦のジェトランド沖大海戦で、ドイツ巡洋戦艦「ザイドリッツ」が艦首に被弾して、大量の海水が侵入。
艦首を海面下に没したんですけれど、たまたま砲塔下の弾薬庫が密閉状態になり、それで浮力を辛うじて維持して避退できた、って事を言うんだと思います。
この「事件」からは、普通は巡洋戦艦の脆弱性(巡洋戦艦は速度重視のために戦艦に比べて装甲が薄い)が戦前の想像以上であり、戦艦と殴り合ったらダメじゃん、と言う「戦訓」が導かれるんですけど。
さらに、大距離の砲戦においては砲弾の落下角が大きくなるので「水平防御」つまり甲板の装甲を厚くする必要が、って戦訓も(そんな事も事前に判らなかったのかよ、とか言わないようにね)。
この失礼極まりない信号が実際に発信されたのか?はかなり疑問があります。黛大佐は「『武蔵、信号了解』と耳にした」と仰っているんですけれど。
訣別を意味する信号をこんな上から目線で、しかも上官に向かって送るのに、自分の目で「武蔵」からの返信信号を見てないのかよ、って思われませんか?
しかも、「利根」副長は当初この信号を戦闘詳報に記入せず、黛艦長に言われて記入したようなんです(実際に記入したかどうかは不明)。この信号については、私の知る限りでは「戦史叢書」には記載されていません。
戦艦「大和」不沈化計画
私のような「イクサの素人」には認められなくても、黛大佐には「艦首の浮力保持」で大和型戦艦を、いや帝国海軍の戦艦すべてを「不沈化」出来るとの自信があったようです。
戦後になって、次のようなお言葉を残されていらっしゃるのです。
「私は『武蔵』の姉妹艦『大和』の艤装副長だった。一番砲塔の前の非装甲部の兵員室などがむやみに長く、砲弾・飛行機魚雷の命中する機会が大きい。そこで私は、造船実験部長に、兵員室にスポンジ・ゴムを詰めて不沈戦艦とする意見を述べたんだが、矢ケ崎部長は資材がないから出来ないと反対した。スポンジ・ゴムの代わりに、古い桐材を充填し、潰した兵員室の兵員は、訓練と作戦出動以外の居住は徴用商船を改装した戦艦用母艦ですることにすれば、不沈戦艦となしえたんだ。」
スポンジ・ゴムっていうのは、天然ゴム材に有機発泡剤・架橋剤・軟化剤・補強剤を練り込んで作ります。スポンジ・ゴムはスポンジと違って非吸水性(非常に高い吸水性を持つものもあり)ですので、確かに浮力は大きくなるでしょう。
混ぜ込む材料によって難燃性も高められますから、砲撃を受けても燃えちゃう事はないかも。
ただね、当時の徹甲弾は遅発信管だから、装甲の無い舷側を突き抜けてきた砲弾は最大0.4秒以内に爆発しちゃいます。アメリカのは知りませんが、帝国海軍の40糎徹甲弾なら、おおよそ15キログラムの炸薬がスポンジゴムの中でバーン!
いつまで6万トンの巨体を支える「浮き」の役割を果たせるか?私には疑問です。黛さん、砲術の専門家の筈なんですけど、そういう事はお考えにならないんでしょうかね。
ちょっと見にくいかも知れませんが、「大和級」の艦内が判る図を掲載しておきますので、皆さんも検討してみて下さい。
私のイチャモンなどは気にもならない黛大佐は、さらに次のように仰るのであります。
「『大和』『武蔵』ばかりでなく『長門』以下『金剛』型まで、全部の戦艦を不沈化するのだが、そのため速力は1,2ノット低くなったろう。しかし戦艦の全主砲力は米国の5倍にもなっているんだから、戦術行動のための2,3ノットの優速なんか、大決戦にはまったく必要としない。」
『大和』『武蔵』と「『長門』以下『金剛』型まで」では防御思想が違うかも?なんですけどね(笑)。
大和級は46糎の巨砲を9門も、出来るだけ小型の艦に乗っけるために、分厚い装甲はバイタルパート(艦の生残に重要な部分)に集中してるんだよな。そのことは黛さんはよく判ってる筈じゃないか。
そこは置いとくとしても、命中率3倍ですよね。「主砲力」って言うことになると3倍どころか5倍なんですか。これは検証しとかなくてはいけませぬ。
アメリカ海軍の情報を集めた、って言ってもなぁ
この「戦艦の全主砲力は米国の5倍にもなっている」説は黛大佐によると次のような論理だてです。
*この論理だて及び今までの黛大佐の話は光人社刊「艦長たちの太平洋戦争」(昭和58年)からひいています。
「昭和8年に、後の『日向』の艦長になった野村留吉さんが米国戦艦の主砲戦闘射撃に関する無線を傍受してね。私がそれを研究した結果、日本の命中率はアメリカの3倍だということが判明したんだ。
射撃速度が同じで命中率が3倍だから、戦艦の保有数が対米比6割だけれども、命中率からみると、10対18と日本がはるかに優勢になるんだ。」
野村留吉は海兵46期、最終少将で、昭 7(1932)年8月10日に艦本出仕を命ぜられて「艦本造兵監督官」となり、その身分で米国出張して帰国は昭和10年。黛大佐とは同時期にアメリカに居たわけですな。
アメリカ国内とは言え、戦艦の主砲の砲撃(たぶん)演習の結果を平文の無線で流すかなあ?
こんなもん、我が海軍だったら少なくとも文書だけで廻ってるよな。それも最低でも「部外秘」のハンコ押して。
「研究」しなきゃ判らないってのも何だかキナ臭いような気がするぞ(笑)
儂なら「わざと日本側に掴ませたんじゃね?」って言う疑問から解決していくな。そんな当然の「手続き」はすっ飛ばして、黛大佐は走って行ってしまいますね。
「更に零戦で制空権を得ると、こっちは6割増しになり」
う、ううっ。「6割増し」の時点で10対28.8になりますわな、たしかに。
しっかし、「零戦で制空権を得る」ってパヨか、妄想シミュレーション戦記並みの戦争観やなぁ、黛はん。
理由も説明もなしに「6割増し」でっか。
敵艦の進んでる方向は判らなかった?
だいぶんおバカにしちゃったので、ちょっと真面目に。
「零戦で」はともかくとして、巨大戦艦同士が殴り合いを繰り広げている海戦場で制空権を一方的に獲得すると、砲撃戦が圧倒的な優勢になる可能性が高いんであります。
条件として、「レーダーによる照準はまだ不可能」「航空機は偵察以上には関与できない(空母は居ない)」ことが必須なんですが、黛大佐もこの条件は納得して頂けると思います。
さらにお断りしておきますと、これは黛さんの後輩の砲術屋さんの証言を根拠にして、電脳大本営の知見を総投入して申し上げとるんでありますが、「後輩の砲術屋さんの証言」が載ってる本を失念してしまって、特定できぬのです。恥ずかしいったらありゃしない。ごめんなさい。
後輩の砲術屋さんとは件のサマール沖海戦の時に「大和」の副砲長だった人なのです。このあたりは、私の記憶力は、耄碌したけれども間違いありませぬ。
ところが記憶にあるお名前が「吉田俊雄」なんですよね。
吉田俊雄氏なら海軍に関する著作が幾つもあるんですけれど、サマール沖のころは軍令部か永野修身とか米内光政とかの副官を歴任してる筈だよな。クソっ。思いだせねえ。
ともかく「砲戦場で制空権を取る」というのは次のような事を意味するのであります。
基礎知識として、この当時の戦艦の射撃なんですが、発令所に「射撃盤」と称する巨大なアナログ計算機があります。アナログ計算機って言うのは、超複雑な「計算尺」だと思って頂けば結構です。
入力するデータは、目標までの距離・目標の進路・速力・自艦の速力などです。これらをもとに射撃諸元を「計算」して、出てきた数値を指揮所と各砲塔に電気信号にして送信するんですね。
ところが、でありますよ。敵艦の進路や速力は極めて重要な要素なんですけれど、自分の艦から敵艦の進路や速力を測定する装置はまったくない、というのです、吉田氏が。
巨大な測距儀があるじゃねえか!って仰いますね。さすが電脳大本営の読者さんであります。
ところがですね、測距儀は長大な基線で正確な距離は測れても進路は判りません。一見同航(又は反航)してるように見えても、ちょっとだけナナメ向いてるかも知れないじゃないですか。45度もナナメってたら艦影で判るけどね。
速力だって同じで、1~2ノットの違いが30キロも40キロも遠くから判るんでしょうかね、この時代。
進路と速力を正確に捕捉するためには飛行機の観測によるのが、ほとんど唯一の手段だったんですよ。あとは周囲の状況から推定するしかありません。
推定ってえのは、目視によって捉えた艦形で進路を、艦首や艦尾の白波の立ち具合で速力を判断する、と言うことです。
ですから、戦艦や巡洋艦が搭載する水偵は敵艦隊を探す、って役割もありましたけど、砲戦場の上空で弾着観測をするのが主要な任務です。零式観測機なんか特にそうね。
謎の水偵陸揚げ
ところがですね。レイテ湾に向かった栗田艦隊はアメリカ艦隊とぶつかる前(出撃直後の10月23日午前と24日の朝)に艦隊の全ての艦載機を陸上基地に「帰して」しまったのです。
その結果かどうか、サマール沖海戦の際にアメリカのジープ空母群に対して、大和も長門も一発の命中弾も与えていません。
敵駆逐艦の煙幕展張などの妨害に加えてスコールもあって、長蛇を逸する事になってしまったのですが、もしこの時に零式観測機が数機あれば。
零観はその操縦性を活かして、そこそこに空戦も出来ました。熟練搭乗員が操れば、敗戦間近の時期ですらF6Fを墜とした実績があるほどです。
ジープ空母艦隊「タフィ3」の艦上機の迎撃などものともせず、弾着観測が出来たと思う所であります。そうすれば、サマール砲撃戦の不成績は残らなかった事でしょう。「タフィ3」を正規空母群と見間違うことも無かったでしょうけれど。
栗田艦隊「謎の反転」の理由の一つとして、艦隊司令部はレイテ湾内の敵情不明を挙げますが、零式水上偵察機が数機でもあったなら、湾内偵察など余裕で出来た筈なのです。
栗田艦隊の各艦に搭載されていた艦載機は定数だと40機以上ありました。
この多数の偵察機・観測機を「手放した」理由について、連合艦隊の草鹿龍之介参謀長は
「ブルネイから出撃する際には警戒を厳重にしなければならないので、水偵のほとんどをミンドロ島に進出させ、艦隊の航路の対潜警戒にあたらせた」
と言っています。
ところがアメリカ潜水艦は遣りたい放題(「愛宕」「高雄」「摩耶」「青葉」)なのはご存じの通りです。対潜哨戒などちゃんとやっていないんです。
この当時は、戦闘機の搭乗員と違って水偵乗りはまだベテランが多数生き残っています。水偵乗りの任務が「無事帰ってくる」事で完結するんですから、当然って言ったら当然です。
この事が帝国海軍最後の精鋭部隊「芙蓉部隊」の誕生に繋がっていくことでも、ご理解いただけると思いますが、ベテラン搭乗員が栗田艦隊の前路警戒をやってたら、敵潜の跳梁をここまで許すはずないんです。
余談ですが、栗田中将の参謀としてレイテ沖海戦を戦った小柳富治少将は、戦後になって
「惜しいことに飛行機皆無の栗田艦隊はこれ(レイテ湾)を確かめる方法はない」と著書にお書きになっています。
色々な評価は可能でしょうが、私の感想は「大概にせえよ、だれが飛行機皆無にしたんや!」であります。
善意に解釈すれば、栗田提督と司令部は艦載機搭乗員の命を惜しんだ、と言えなくはありません。零式観測機は複座で、零式水偵は三座ですから、構成比率がハッキリしませんが搭乗員は100人前後でしょう。
パイロットばかりではありませんが、貴重な戦力です。海戦中に帰還してきても、停止できる艦はありませんので、見捨てられる可能性も高いでしょう。
そんなことなら帰してしまうか、というのは間違った判断とも言い切れませんね。ただ、水偵乗りには艦に帰らなくても帝国陸軍の占領地に着水って手もありますので…
いかん、黛5倍説の話だった
すみません、話を戻します。黛大佐説で日米戦艦の砲撃力は逆転して28.8対10までになった所まで行ってましたね。
これがどうして50対10になるのか?と申しますと
「さらに日本が開発した平頭弾の九一式徹甲弾の水中弾性能を加味すると、10対6の劣勢がじつに10対50という、5倍の優勢になるんですよ。(もちろん黛大佐の弁、昭和50年頃のインタビュー)」
なんや、水中弾効果なのか。
たしかに、九一式徹甲弾は水中弾効果をより多く発揮させるために実験を繰り返して開発されたモノ。しかしね、水中弾は着水して被帽の取れた弾丸が、水中を進んで敵艦に命中するって事だよね。
それなら相当の至近弾、それも「近」限定じゃなきゃ効果はないじゃん。この当時の遠距離射撃は(米艦隊のレーダー射撃は置いといて)「確率」と「散布界」によるんだよ。
つまり、一斉に発射した主砲弾が敵艦を夾叉(近弾と遠弾で挟みこむこと)するまで修正を加え、夾叉したら同一諸元で連射するのが基本じゃないか。
これで28.8対10だった日米戦艦の「主砲力」が倍近い50対10になるとは、儂にはさっぱり判らぬ所であります。
そもそもさ、サマール沖の大チャンスで、黛さん指揮の巡洋艦も、大和も長門もマトモに命中弾だしてないじゃん。あなた、「私は命中を確認した」とかおっしゃてるけど、砲術長さんは当たってないって報告を上げてるんですよ。
黛大佐は、前述の「野村留吉さんが傍受した無線を私が分析した」って言う話以外に、「米退役軍人から入手した『一九三四年度米海軍砲術年報』を分析した」ってな話もしておられます。
コチラの分析でも「米海軍の大口径砲の命中率は日本の約三分の一」だったそうです。「その原因は散布界の過大にあることは間違いない」とも言っておられます。
退役した将校(とは限りませんが)にまで、正確な砲撃訓練の年報を配るかなあ?ってな下衆の勘繰りは置いとくとしても、うさん臭い話じゃないですか。
野村留吉氏か米退役軍人か、どっちから元ネタを入手したのか、ハッキリして欲しいモノであります。が、いずれにしても昭和11年以降のアメリカ海軍のデータはお持ちでは無いようです(笑)、黛大佐ったら。
戦訓を汲む、とは敗戦側にとっては苦しい事であることは確かです。でもね、「敗けに不思議の負けなし」なんですよ。不思議な勝ちはあっても、負けるにはそれなりの理由が必ずあるんです。
苦しさ、辛さにその理由から眼を背けたら、次もまた負けます。
電脳大本営としては黛大佐に恨み・つらみは無いのですが、
「根拠のない帝国海軍の砲撃ヨイショは百害あって一利なし」
ということだけはお伝えしなければなりませぬ。
アメリカ戦艦の命中率データは野村氏のスパイ活動による無線傍受と、米海軍の
不名誉除隊の退役軍人によるスパイ活動で入手した砲術年報に基づきます。
これらの資料をダブルチェックした結果が命中率3倍です。