幕末の主砲、その名はアームストロング
今回は電脳大本営の守備範囲をはるかに遡る幕末の話。
いつか書きたかったんですよね、だって、アームストロング砲って司馬遼太郎大先生に言わせたら「近代日本を創った」ぐらいのモンじゃないですか。
軍事を好むもの、一度は書かなきゃね(笑)
薩英戦争
1863(文久3)年8月15日の夜明け前であります。
クーパー准将を司令官、フリゲート艦(スクリュー推進)「ユーリアラス」を旗艦とする、新鋭の蒸気推進軍艦7隻で編成されたイギリス東洋艦隊が、折からの嵐をついて鹿児島湾へと侵入してきました。
大英帝国は、前年の9月に発生した「生麦事件」で、多額の賠償金をふんだくっていました。
しかし、金の亡者であるエゲレスは「もっと金を取ってやろう」と試みたのであります(実際はもうちょっと複雑で面白いけど、長くなるんで割愛)。
イギリス艦隊は「パール(コルベット)」「アーガス(スループ)」「レースホース(砲艦)」「コケット(砲艦)」「ハボック(砲艦)」の5隻を脇元浦(現在の姶良市脇元あたり)に分派しました。
ここに停泊していた、薩摩藩が購入したばかりの蒸気船「天佑丸」「白鳳丸」「青鷹丸 」3隻を拿捕してしまおうとしたのです。イギリス艦隊の各艦は3隻の舷側に接舷し、一隻当たり50~60人の水兵が乱入。
薩摩の蒸気船も抵抗しましたが、多勢に無勢で船を奪われてしまったのでした。
薩摩藩はこれを海賊行為と受け取りました、当たり前ですが。
リアルの世界では公認だろうが麦わらだろうが、海賊は退治しなきゃいけません。薩摩藩は湾内の砲台にイギリス艦隊「追討」を命じ、旗艦「ユーリアラス」に対して砲撃を開始します。
ここに世にいう「薩英戦争」が始まったのであります。
「戦争」の経緯はこれまた面白いんですけど、長くなってしまいそうなんで書きません。
ただ、イギリス艦隊の砲力はすさまじく、鹿児島城下は後年の東京・大阪・名古屋の被害もかくや、という大破壊を蒙ってしまいます。
城下の家屋は一割以上が消失。砲台(台場)の大砲も8門が破壊され火薬庫や城内の櫓、藩士の屋敷百数十戸、先に上げた藩の汽船などが焼失。
人的損害はさほどではありません(損害を被った個人には申し訳ない言い方ですみません)が、薩摩藩は「首都」に攻め込まれ、ほぼ一方的に砲撃にさらされてしまいました。
これほどの大差となったのは、国民的歴史小説家・司馬遼太郎大先生的には、イギリス艦隊の各艦に新式の大砲、アームストロング砲が搭載されていたから、なのでありました。
しかし、しかしであります。「薩摩人」の戦闘能力はイギリス人の想像力を軽く超えていました。
アームストロング砲には及びもつかない、先込めの旧式砲で果敢に反撃もしています。
イギリス艦隊に対して大破1隻・中破2隻、戦死13名(旗艦「ユーライアラス」艦長を含む)負傷者50人(内7人が後に死亡)の大損害を与えたのでありました。
イギリス艦隊は悪天候もあって、これ以上の戦闘継続を断念して撤退、7月11日に横浜に帰還していきました。
元込め式
このとき、イギリス艦隊の各艦に搭載されていた「アームストロング砲」はこの後に各藩が輸入して戊辰戦争で活躍したとされます。
それを国民的作家司馬遼太郎がフィクション(ですよ、あくまでも。)として取り上げる訳ですが、そもそもどんな大砲だったのでしょうか?
Wikiによれば、
アームストロング砲(アームストロングほう)とは、イギリスのウィリアム・アームストロングが1855年に開発した大砲の一種。マーチン・フォン・ウォーレンドルフが発明した後装式ライフル砲を改良したもので、装填時間は従来の数分の一から、大型砲では10分の1にまで短縮された。
とか、書いてありますね。1855年開発、つまり薩英戦争の8年まえです。
兵器の進歩が速い時代に入る直前なので(兵器の進歩の速度は速くなったり、遅くなったりの繰り返し)、新兵器だったと思って間違いないと思います。
アームストロング砲の特徴は三つありまして。
まずは「後装式」である事。
二つ目は「ライフル砲」である事。
三つ目が「層成砲身」である事でした。
電脳大本営は「どなたが読んで頂いても軍事が判る」ように、ってのも目標のひとつですので、一つずつ説明させていただきます。
詳しい方、判ってる方は飛ばして下さい。飛ばすとこの記事が終わってるかも知れませんが(笑)
後装式って言いうのは、当然「前装式」があっての呼び方です。
前装式って言いますのは先込め・砲口装填式・マズルローディング (muzzle loading) などとも呼ばれます。
戦国期に戦場を席巻した「火縄銃」を思いだしていただきますと良くお判りいただけると思います。
「火縄銃」は銃口(銃弾が敵に向かって飛び出していくところ)から火薬と弾丸を込めていますね。こんなタイプを「前装式」と言います。
この記事で扱うのは大砲ですから銃口では無くて砲口ですけどね。
軍艦に乗っている大砲を思い起こして下さい。
当時の軍艦は大東亜戦争の時の様な砲塔式ではありません。舷側にずらっと大砲を並べています。
前装式の大砲だと、一発撃ったら大砲を引っ込めて、少なくとも90度は向きを変え、砲口を艦内に戻してここから砲身を掃除して火薬と弾を込める訳です。
あるいは引っ込め量を大きくして砲身掃除と弾込めスペースを確保するか…
ドッチにしても敵と撃ち合いをしながら、ですから面倒くさいったらありゃしない。
そんなわけで、欧州各国の軍隊は「元込め式大砲」の出現を待ち焦がれていたのであります。
ライフル
この少し前までの大砲の砲身は中がスベスベでした(滑腔砲と言います)。お肌がスベスベなのは結構なことでしょうけれど、大砲の中がスベスベだと弾が回転せずに飛んで行きます。
サッカーの直接フリーキックでもお判りのように、弾が無回転だと弾道が安定しません。
サッカーボールならキーパーが取りにくくなるんでしょうが、大砲の弾丸だと命中率が悪くなってしまいますし、飛距離も落ちます。
ラグビーボールの方が銃砲弾の形に近い?
ラグビーだって、パス出すときやプレースキックなど、ちゃんと回転掛けてますよ~。縦(ボールの長い方向)回転はあんまり掛けないけどね、まったくやらないワケじゃありません。
そこで砲身の内側にらせん状に筋を彫ってやります(施条)。
弾丸はこの筋を激しくこすりながら回転しつつ飛び出していくわけですね。
「ジャイロ効果」って言えば良いのでしょうか?これで弾丸の飛翔中の姿勢が安定します。
結果、飛距離が伸びて命中率も高まります。
飛距離の延伸については、弾丸が施条に食い込むことで、爆発のエネルギーをロスせず飛翔に使える事の方が大きいかも知れません。が、施条のおかげであることは間違いありません。
層成砲身
初期の大砲は鉄やもっと前なら青銅を一体で鋳造した砲身を持っていました。
その大砲が発達して射程や威力が増大すると、発射時の高温・高圧に耐えることができる砲身構造が要求されるようになりました。
19世紀のなかば、アームストロングさんやらヴィッカースさんとかクルップさんと言う、天才的な技術者が欧州に続々と現れます。
彼らはそれぞれ大砲の砲身の強度を増す方法を「発明」するんであります。
それが「層成砲」「鋼線砲」「自己緊縮砲」と言われる画期的な砲身加工法でありました。
アームストロング砲はもちろん「層成砲」であります。
層成砲
読んで字のごとく、鋼を円筒状に旋盤加工して何本も重ね合わせて砲身を造ります。ただ重ね合わせるだけじゃなくて、「焼嵌め」で重ね合わせるのがミソです。
「焼嵌め」と言うのは外側の円筒を嵌め込むときに加熱膨張させて置き、冷却するまで放置する製造法。
これで外側の円筒が内側の円筒を強く締め付ける効果が生まれる、と言うやり方です。
これを何度も繰り返して何層も何層も焼嵌めます。
その結果、装薬の爆発で発生する強力なガス圧に耐え得る強度をもった砲身が出来上がります。
鋼線砲
基本は層成砲ですが、焼嵌めるのは1~2層にとどめ、その上から厚さ1/16インチ・幅1/4インチの平らな鋼を隙間なく巻き、その上に再び円筒を被せて製作された砲身。
この砲身は大口径砲に適しています。層成砲だと戦艦に積むような大口径砲には安全面に問題があって向かないのです。
また、大口径になれば使用する鋼塊が大きくなりますから、「自己緊縮砲」だと材料の信頼度が低くなり、やはり大口径砲には向きません。
大日本帝国海軍は主に20センチ以上の砲にこのヴィッカース式鋼線砲の製作法を採用していました。
自己緊縮砲
「自己緊縮砲」は砲身となる素材を粗々に仕上げておいて、砲身の両端を塞いで内部に4000気圧以上と言う強大な水圧をかけて膨張させます。
しばらく置いて、内部の圧力を取り除くのですが、取り除いても内径は元に戻らず膨張した状態のまま残ります。
こうすると内面が外面に比べ膨張する割合が大きくなり、そのために砲身の内面は外側へと膨張しようとするのに対し、外面は常に圧縮しようと圧力をかける。
結果的に焼嵌め式の層成砲と同様の効果が生まれる…んだそうです。
儂にはよく判りません(笑)
この型式の利点は、上の2形式よりも手間がかからない事です。簡単に製作できるので主に小・中口径砲に用いられました。
えっ、生産打ち切りって…
以上、簡単にアームストロング砲の三大特徴の「砲身の作り方=層成砲身」「元込め=後装式」「ライフリング=砲弾が回転して飛んで行く」の説明でありました。
ついでに、この後のお話のヒントも書いてありますよ(笑)
この3つの特徴を備えた「アームストロング砲」は1858年にイギリス軍の制式砲として採用されました。
アームストロング砲に関する特許はすべてイギリス政府が買い取ったほど、大英帝国の画期的な新兵器として期待されました。
アームストロング砲は武器が主要な輸出品であった大英帝国で、輸出禁止品に指定されるほどに期待された兵器だったのです。
ところが、でありますよ。
薩英戦争が終わって間もなく、英国陸軍も海軍も、注文していたアームストロング砲の注文をキャンセルしてしまうのです。
それまでに買い入れていたアームストロング砲も代替品を購入して廃棄する始末。
輸出禁止の指定も解除されて外国に売り放題となります。
この輸出解禁で大喜びしたのが、「奴隷解放」の是非を巡って内戦を繰り広げていた新大陸のお国。
「奴隷使おうや」って言っていた方は財政面でも兵力量でも見劣りしてましたから、この「新兵器」に飛びついたのです。たぶんバーゲン価格だったんでしょうね。
あるいはポイントも10倍付けてく他かも知れん(笑)
しかし、この新兵器は昔のデパートのバーゲン会場に並んでる「バーゲン専用商品」みたいなモノだったわけです。
若い方はわかんねーだろうけど、昔の百貨店のバーゲンって、いつも扱ってるブランドの商品はほぼ無くって、「バーゲン専用」の安モンを並べてたんだぜ。
こんな商売を長年続けてた業種が、絶滅危惧種になったところで、儂には痛くも痒くもない。
だけど、安いとは言っても不良品を掴まされた南軍の人たちは可哀想でした。
敵が攻めてきてるときに、販売元にクレーム入れてる暇はありませんから、アームストロング砲の特徴の一つの「後装式」を諦めて鎖栓を溶接してしまい、前装砲として使ったそうです。
もちろん大した働きは出来なかったようです。
*「鎖栓を溶接」については後述いたします。
アームストロング砲は新大陸の戦争が奴隷解放派の勝利で収まると、今度は「開国するかどうか」で大モメにモメていた極東の島国の各勢力に転売されます。
コレが後に「国民的歴史小説作家大先生」の眼にとまって「時代を変えた傑作砲」みたいな扱いになって行くわけでありますな。
まあ、文化勲章受章者のちょっとした「失言」をあげつらってばかりじゃ先に進みません(福田定一はもっとひどい事を言ってますけどね、陸軍少尉のころ)。
電脳大本営的には、このアームストロング砲製造中止!って言う衝撃の原因が、どうやら1863年の薩英戦争だったと考えるんです。
イギリス艦隊が鹿児島城下への砲撃で使用したアームストロング砲は全部で21門でした。
これらの砲は砲撃中に度重なる故障を起こしていたのです。
旗艦「ユーリアラス」では前部110ポンド砲の尾栓が吹き飛び、その砲の砲員全員が死傷する事故が発生しています。
この戦闘についての司令官クーパー准将の報告によりますと、多くの砲の「鎖栓」が十数発以上を発射したところで裂けたとされています。
完全に破壊された鎖栓の検査を行ったところ、残された部分は砲腔内の正しい位置に定着されていました。
これは操作上の過失ではなくて、構造上の欠陥か材質の劣悪を意味しています。材質はすぐにチェックできますから、英軍の出した結論は…
*上図の黄色い部分が「ネジ」になっていて、これを廻して赤い鎖栓を押さえつける仕組み。
この「事件」によってアームストロング砲に対する高い評価は一変してしまったのであります。
良くて「尾栓の強度に欠陥がある危険な大砲」とみなされるようになってしまいました。
大英帝国内にはアームストロングさんの成功を妬む勢力もあったようで、その勢力はここぞとばかりにアームストロング氏を攻撃し、ついにその発明品は廃棄されることになったのでありました。
ところが新聞によりますと
期待の新兵器を導入したら欠陥があって危険で使えねえ!
これが軍に与えた衝撃は大きなモノだったに違いありません。
ただ、これが直ちに世界中に発信されたか?って言うとそうでもないようで(新大陸や島国に転売しなきゃ!)。
「薩英戦争」を伝えるイギリスの新聞は、アームストロング砲の発射時の事故については特に触れられていないのです。
もちろん、私が読んで理解できるモノだけです。
たとえば1863年8月26日の「鹿児島戦争之英文新聞紙翻訳」では、イギリス艦隊側の負傷者氏名と負傷の詳細・戦闘の様子が掲載されています。
その戦死傷者の負傷状況などからも破裂弾が着弾・爆発したための被害がうかがわれるのです。
この記事は従軍記者の記述のように思われますが、アームストロング砲の暴発などには一切触れられてい無いのです。
これは一体どうしたことなんでしょうか?
イギリス艦隊は「敵国首都」に攻め込んで大損害を与えたのは先述しました。しかし相手は極東の島国のホンの一角を占めるだけの「未開の国」です。
これを相手に「賠償金をガッポリふんだくる」と言う目的は達成できず、相当な損害を被って引き揚げてきた。
電脳大本営(戦争は目的を達成できなかった方が負け、が持論であります/達成した方が勝ち、とは異なる事に注意)じゃなくても「イギリス艦隊の負け!」と判断なさる方は多いのではないでしょうか。
しかし、イギリス艦隊の損害の少なからぬ部分は、アームストロング砲の欠陥のせいに出来ます(真実がどうあれ)。
大英帝国海軍、誇り高きロイヤル・ネイビーは大いにこの点を吹聴し、「薩摩に負けたんじゃない!」と言うべき所でありましょう。
アームストロング砲の欠陥が伏せられると「薩摩軍」の戦果ということになってしまいます。これを鵜呑みにしたS馬さんのような「国民的作家」も現れようってモノであります。
此の点についてはいろんな論者の方が「英軍が隠蔽した」とおっしゃているんですが。
ちょっと待ってよね、であります。英国艦隊が鹿児島城下へ侵入したのは8月15日、新聞は23日付けですよ。時代は今と違う1863年の事ですから、無線ありません航空機ありません。
出先の艦隊司令長官程度ならともかく、「英軍」の(隠蔽するって言う)意思なんぞ確認できるワケが無いじゃないですか。
この新聞記事は従軍記者の実体験によるモノと思われます。これを隠せるワケないじゃないですか。何処かの共産支那国じゃないんですから。
どうも良く判らぬのであります。
この間の事情は謎に包まれておりまして、電脳大本営の能力では謎解きはムリでした(3年位は考えてたんですよ、断続的にですけどね)。
考えるヒントとしては、この翌年に勃発したいわゆる「4国連合艦隊下関砲撃事件」があります。
この連合艦隊に参加した大英帝国艦隊のかなりのフネが「薩英戦争」の時と同じ船なんです。
本国から新しい艦載砲を取り寄せて交換する時間は無かったでしょう。艦隊の乗員たちはアームストロング砲の欠陥は良く知っていたでしょうから、どんな対策を講じて下関砲撃に臨んだか?
ココを調べれば突破口になるかも知れません。
鎖栓
アームストロング砲の3つの特徴を紹介させていただきましたが、その一番目は「後装式」でしょう。これで発射速度が飛躍的に向上します。
アームストロング砲はそのためにネジ式の尾栓を採用しています。もう少し後から現代に至る大砲なら、このネジ式の尾栓を引っこ抜き、弾薬を装填して尾栓を閉めて発射…なのでありますが。
しかしアームストロング砲のネジ式の尾栓の真ん中には大きな穴が空いていました。尾栓から弾薬を装填する「後装式」であることは確かなんですが、尾栓が鎖栓を兼ねる現代的な方式とは違っていたのです。
尾栓のネジを緩めて空いた穴から弾薬を装填、砲尾付近の砲身上部に空いた穴から専用の分厚い鉄板を落とし込み、尾栓のネジを締めつけて分厚い鉄板を固定します。
尾栓がネジ式になっているのは、この鉄板を固定するためなんです。
さらに分厚い鉄板には穴が空いていて、点火装置が組み込まれています。この点火装置が組み込まれた鉄板がアームストロング砲の「鎖栓」なのであります。これは「垂直式鎖栓」と呼ばれる、けっこう特殊な仕組みでありました。
この装填方式こそが、アームストロング砲の致命的な弱点だったのですね。
厚みがあるとは言っても鉄板一枚で炸薬の強大な圧力に耐えるのは、構造的に相当な無理がありました。その上、この鉄板には点火機構も組み込まれているのですから、一枚板より強度が落ちようというモノです。
アームストロングさんもご自分で「大口径砲には向かない構造」って言うことはご理解なさっていたようで、1858年に出来上がった試作砲も、6ポンド砲・9ポンド砲・12ポンド砲(砲弾の重さ、まあ口径100ミリは絶対ないね)。つまり軽野戦砲しか試作していないのです。
幕末の各勢力はこの不良品のおさがり、アームストロング砲を競って手に入れようとします。
高い金を払って欠陥兵器を掴まされたワケなんですが、あまり批判的な評価が無いのはどういう事でしょう?
輸入されたのが口径の小さな野砲が多くて欠陥が露呈しなかったことがあるでしょう。また、当時は「砲の破裂」が珍しい事ではありませんので、事故が起こっても問題にされなかったのではないでしょうか。
もっとも熱心にアームストロング砲を導入したのは佐賀藩だったようで、ご自慢の工業力で自作までしようとしています。これはこの頃の我が国の技術ではムリだったみたいですけど。
さて、戦争を戦った薩摩とイギリスは、これを機会にお互いをリスペクトするようになっちゃいます。
いつものオチの無い話で、申し訳ありませぬ
武器や軍制を定めるに当たってフランスやプロシャを手本にする趨勢に逆らって、薩摩藩が主力となり牛耳ることになった海軍だけは、大英帝国をお手本に成長していきます。
急速に廃れていったアームストロング砲のたぶん「世界最後の現役砲」は政府軍が西南戦争に投入したモノだったようです。
しかしこの砲が活躍した記録は全くなく、どこかの戦場で放棄されてしまったと思われます。
国民的作家のS馬さんは「坂の上の雲」みたいな小説も書きますが、アームストロング砲の欠陥など調べもせず、自分が訓練を受けた帝国陸軍の戦車隊をdisって悦に入ったりするんでありました。
持つべきは…
ここにきて、電脳大本営の執筆もなさって頂いている本城氏から、大きな情報が入ってきています。
わざわざ、英字の新聞の過去記事集積サイトを検索して「アームストロング砲」の欠陥を指摘し、対処を促す内容の記事を見つけて下さったのです。
これによれば、薩英戦争直後に「欠陥」が報じられたのに、真っ当な対策が施されていなかったようです。
以下、本城氏のご投稿のコピペです
【”The Armstrong Guns In Japan”】
1864年11月25日付のロンドン・デイリー・ニュース紙の見出しです。
内容は、薩英戦争と下関砲撃の戦訓を踏まえた、アームストロング砲の欠陥についての報告。筆者は海軍少将Pellew Halstedとあります。海外のアーカイブ・サイトで偶然発見しました。同砲については、管理人様が以前にお書きになった記事でご興味をお持ちの方もいらっしゃるでしょうから、概要をかいつまんでご紹介します。
但し、古い新聞なので文字が滲んで解読不能な場所が多々あり、相当意訳しておりますこと、ご了承ください。
1.下関の戦役におけるアームストロング砲暴発の報告が艦隊からもたらされた。
(蒸気戦列艦コンカラーで多数の死傷者が出たことを指すと思われます)2.海軍が期待を寄せていた(大口径の)110ポンド・アームストロング砲は尾栓の強度に問題を抱えている。
3.同砲の欠陥は、薩英戦争において既に明らかになっており、1863年11月7日付のイブニング・ヘラルド紙によって報じられたが、大きな関心を引くことは無かった。
4.この問題は、社会に広く周知されなくてはならない。アームストロング砲は、3,600門が製造されており、早急かつ綿密な検証が必要だ。
やっぱり、だ!
薩英戦争がアームストロング砲に欠陥品の烙印を押したんだ。
本城さんの様な知り合いを持つことは大きなアドバンテージだな。
しかしながら、どうやって下関を砲撃したか?は謎のままですな。