貨物船「パトリック・ヘンリー」
「パトリック・ヘンリー」なんて、聞いたことも見たこともない方がほとんどではないでしょうか?でも、このフネはあるとても重要な「船種」のネームシップなんであります。
えらく古い話から始めなければ
「パトリック・ヘンリー」級などあるもんか!って言う同好の士のお声が聞こえてきそうです(笑)。
まあまあ、ゆっくりお読みください。例によって回りくどい話です。
さてと、1736年、アメリカはバージニアに男の子が生れました。名前はパトリック・ヘンリー。父親はジョン・ヘンリーと言ってスコットランドからの入植者です。
そう、まだここはアメリカ合衆国でも無ければバージニア州でもない、新大陸に13ある大英帝国の植民地の一つなんでありました。
ヘンリー家はかなり裕福な家庭で、パトリックは数学・ラテン語・ギリシャ語などを伯父さんから学んだり、植民地の森や川で遊びまわったりの生活を送ったそうです。
大人になったパトリックは弁舌の才能が開花し、弁護士の道へ進みます。
弁舌と弁護はちょっと才能が違うんじゃねぇか?とか気にしないの!
声がでかい奴の意見が良く通るのは、我が国でも見られる現象じゃないですか。特にフェイクニュースがウリの左傾新聞なんかがあったりするとね。
話を戻します。パトリックは30歳前にしてバージニア植民地では知らぬ者の無いほど有名な弁護士となります。
この若く有能な弁護士パトリック・ヘンリーにある訴訟の依頼が舞い込みます。頼んだのは牧師さんでした。
前に書きました、勉強を教えてくれた伯父さんって言うのが牧師さんでしたから、その繋がりで依頼があったのかも知れません。その依頼とは
バージニア植民地議会が牧師の給与がタバコで、しかもタバコ1ポンドを2ペンスという一定の比率で換算して、その金額が通貨で支払われるべきことを、バージニア植民地法として制定したことに対する、異議申し立ての訴訟であった。
当時タバコは市場において6ペンスで売買されていたので、ヘンリーはイギリス本国政府が植民地に必要かつ適切な法律を制定していないとして、市場価値との価格差を1ペニー以内に抑えるべきことを主張した。
(ウィキペディアより)
判りにくいですよね。日本人が書いたんやろか?(笑)
いや、笑うべきところは沢山あるんですけど(電脳大本営は笑い話を提供する所ではありませぬが、笑いを拒否はしませぬ)。
牧師の給料が煙草!教会は煙草吸い放題なのか。議会が牧師の給料を決める、って事は牧師は公務員か?政教分離はどこへ行ったんだ?等々。
政教分離やら法の下での平等やら「我が日本は~」とか宣う輩が左側には大勢いらっしゃいますけど、歴史を遡ってしまえばどこの国でもこんなモンです(笑)
重要なのは後半で、植民地だからって給料1/3はねえだろ!って話でありますね。
これにはちゃんとしたワケがありまして、フレンチ・インディアン戦争(新大陸の支配権を巡るフランス・インディアン同盟vsイギリス)に勝利したものの、戦費が予想外に高くついた大英帝国が
「植民地を守ってやったんだから、植民地から搾り取ったらええやん」
とか考えてやりだした一連の無茶の一部なんですね。
独立戦争へ
新大陸の大英帝国植民地は、この後1775年から8年間もの「独立戦争」を母国グレートブリテン・アイルランド連合王国と戦うことになります。
後のアジアやアフリカ諸国の独立とは違って「民族自決」を旗印にした「独立戦争」ではありませんけどね。独立したがっている人たちは原住民の土地を取り上げた犯人ですし、「黒人奴隷」をこき使っている人たちでもあるんですから。
新大陸植民地が独立を指向していく背景は、歴史のさまざまな事象と同じく複雑です。単純なワン・イシューで理解できるようなものではありません。
まあ、それでも理解しやすくエピソードで「独立戦争」の原因を上げていくと、こんな事件が挙げられるでしょう。
*砂糖法(新大陸植民地で消費される物品に対する高率関税)
*印紙法(植民地の新聞・パンフレット・トランプなどの印刷物に広範に課税)
*タウンゼント法(英国議会が植民地への課税権を持つことの確認その他課税強化)
*茶法(英国東インド会社への新大陸での紅茶の専売権付与)
新大陸植民地側からすると、金をふんだくられる事ばかりですね。植民地側は「代表なくして課税無し」(要は本国議会に議席をよこせ!って事です)をお題目のように唱えるのですが、本国側が認めるワケもありません。
「茶法」のあと、皆さんご存じの「ボストン茶会事件」が起きます。ついに植民地側は実力行使に出る訳です。こうして財政危機を解消しようとする本国側の無茶は戦争へと発展して参ります。
金が原因?そうですよ。
植民地側からすれば、本国より負担する税が多いのは納得できないです。
本国側は敵の攻撃から守ってやった(本国への直接の危険はないのに)んだから費用はお前らが出せよ、って事になります。
いや、アメリカ独立には高邁な理想があった筈?
そうですね、自由の国アメリカが「金の問題だけ」で独立したなんてちょっと幻滅ですかね(笑)
確かに、金だけでは多くの国民が命を懸けるまでは団結することはなかなか難しい。だからこそ耳障りの良い理想が必要だったんですね。
ココにパトリック・ヘンリー弁護士が登場するのでありました。
演説
パトリック・ヘンリーは「バージニア植民地議会」の議員となっていました。パトリックは植民地を抑圧する印紙法などに反対する運動を指導し、「イギリスの支配」に異議を唱える者たちの代弁者となっていたのです。
1775年3月23日、パトリック・ヘンリーは「バージニア植民地もニューイングランド植民地と歩調をあわせて大英帝国の支配を脱するべきだ」と言う趣旨の大演説をぶちます。
この大演説の〆の言葉が有名な一節となるのです。
Is life so dear, or peace so sweet, as to be purchased at the price of chains and slavery? Forbid it, Almighty God! I know not what course others may take; but as for me, give me liberty or give me death!
電脳大本営流に訳せば、
「命と平和は、鎖につながれ隷属することで贖われるほど大切なモンなどではありませぬ。他の人はどう考えるか知らないが、私はこう思うのです。自由を与えよ、然らずんば死を。」
ってな感じですかね。英語にご堪能な方、どうか正確な訳をお願いします。
ともあれ、「金出すのはヤダよ」って言う独立運動はこのパトリック・ヘンリーの大演説(だけじゃないけど)で「自由も」求める独立戦争に変わっていくのであります。
「give me liberty or give me death!」は短いアメリカ史上でももっとも有名な部類の言葉となりました。
海上輸送
第一次大戦後、アメリカ合衆国の外交姿勢は以前の孤立主義的なモノに舞い戻っていました。
欧州で「全体主義」のドイツに苦戦する元宗主国に対して、武器を売ってあげたり、大英帝国が致命的に必要としていた大量の商船を建造する便宜を図ったり、程度の支援しかしていなかったのです。
あとは支那での権益拡大を狙って大日本帝国に意地悪して見たり。
それでも、アメリカは欧州大陸へ武器などを送るのに必要な商船を短時間・低コストで建造するため、同一規格の簡易設計の貨物船を計画、各地の造船所で一斉に工事を始めました。
これらのフネは「EC2」と呼ばれます。EはEmergenncy、CはCargoです。2はアメリカのフネの基準で水線長が120~140メートルのフネを意味しているんだそうです。中規模のフネですね。
1941年9月27日、メリーランド州のボルチモアの造船所で「EC2」の第1船が進水しました。このシリーズのフネは軍人やら政治家やらの名前を片っ端から付けることになっていましたので、第1船は「パトリック・ヘンリー」と名付けられたのでありました。
これで、普通なら「EC2」貨物船は「パトリック・ヘンリー型貨物船」と呼ばれるはずだったのであります。まあ、同時に13隻も進水してるんで、第1船がどれ何だか?みたいな話ですけどね。
ところが、「パトリック・ヘンリー」号にとって幸か不幸か?戦争に参加したくってしょうがない大統領のルーズベルト氏が進水式に列席しちゃったんであります。
ルーズベルトは進水のあいさつに当たって、パトリック・ヘンリーの演説を思い出したのでありましょう。
「この新しいフネが、ヨーロッパに自由(liberty)をもたらす事を願う」と発言したんであります。
この挨拶はアメリカ人に独立戦争を思いださせちゃいました。「金の為じゃなく、自由のために戦ったんだ!」って間違った方向ですけどね。
こうしてこのフネ達はパトリック・ヘンリー級ではなくて、「リバティ船」と呼ばれることになったのであります。
造船のスピードを上げるために、リバティ船は予め作っておいたモジュールを溶接して造る工法が採用されました。それでも「パトリック・ヘンリー」は建造に240日あまりかかったのですが、やがてその妹たちは42日で完成するようになったのです。
宣伝用に実演したときには4日で作った記録もあるようです。
危険な任務
第二次大戦中にアメリカからヨーロッパに向けて出港した全貨物の2/3はリバティ船が運んだ、と言われています。何しろ2700隻余りが建造されているんですから。
太平洋戦線でもその傾向は同じ。大西洋ではUボートにつけ狙われ、太平洋では特攻機の標的にもなりました。
リバティ船での乗務は敵の攻撃が無くても、危険な事だとされていました。悪天候に対する耐性は低く、悪天候が無くても鋼板の低温脆性・溶接の不備・応力集中による破壊などで沈没するフネが続発したのです。
しかし戦争の勝利のため、自由を守るために船員たちは乗り組みを拒否することはありませんでした。数々の水難事故で得られた知見は船舶工学の貴重な知見となり、戦後の造船界に対する貢献でも大きな物がありました。
「パトリック・ヘンリー」そのものは戦争中は紅海・北極圏のロシア(ムルマンスク)・南アフリカ・イタリアなどをウロウロして過ごし、1946年にはフロリダ沖で座礁してしまいます。
戦時急造の貨物船には、座礁のダメージは大きく、もう修理してもらうことはありませんでした。
「パトリック・ヘンリー」は最後にボルチモアに曳航され、生まれ故郷の造船所でスクラップにされ、溶かされて他のフネを造る鋼材となったのでありました。
大日本帝国では
ひるがえって、我が大日本帝国でも「戦時標準船」と呼ばれる急造型の貨物船が造られました。
海を越えて同盟国への支援物資を送るために貨物船を必要とした敵国と違い、自分で使うための武器を造る資源を運んでくるんですから、その必要性はずっと高かった筈。
それなのに1942年時点で戦時標準船のカタチは500トン弱の貨物船から1万トン超のタンカーまで10型もあり、建造工程も標準化されたとは言い難いモノでした。
もちろん、工業化や大量生産に対する社会の進展の度合いや歴史の積み重ねなどの要因もありますが、大きいのは「輸送」の大切さへの無理解だったと思います。
しかし、粗末な戦時標準船で祖国のために祖国のための輸送に当たった船員さんたちの勇気は決してアメリカの船員さんに劣るモノではありません。
アメリカの船員さんたちが「自由」を守るためにリバティ船に乗れば、大日本帝国の船員さんは「大日本帝国なりの良き社会」を守らんとして戦時標準船を操ったのです。
この記事を書いてみてつくづく思いまするのは、アメリカって国家の良い加減さですね。いや、悪口じゃないですよ。
国家の意思なんて何処やらの独裁国家じゃない限り、こんなモンです。
金・カネ・マネーが大事。どこの国でもそうなんですよ。理想や思想やナンヤカンヤは後からどこにでもくっつけられるんです。