従軍看護婦さんと褌の話
大東亜戦争の開戦が視野に入ってくると、兵隊さんだけではなく、国民各層が広く直接国防のために働くようになります。女性も例外ではありませんでした。
こう言うのを「従軍」というのだ
一般の人が、仕事で軍隊と行動を共にしたり、軍隊の裏方業務をしたりすることを従軍と言います。
「従軍」と言うと、バカヒ新聞をはじめとする腐れパヨクが「追軍売春婦」のことを「従軍慰安婦」などと嘘記事を垂れ流すように、どうもイメージが良くありません。
しかし、大日本帝国の国民は自分の職業を活かして、軍隊の役に立つ(つまり国に貢献できる)ことを誇りにしつつ「従軍」したのだと思います。
が、そんな事は誰も言いません。しょうがねぇから電脳大本営が言うてやるわ!と言う記事であります。
国と国民を守る軍隊に従って戦地を征くのは、男だけではありません。女性もまた、裏方として軍を支えたのであります。
大日本帝国の「従軍看護婦」の制度は明治23(1890)年から始まったと思われます。
この年の4月、「日本赤十字社看護婦養成所」で看護婦の養成が始まりました。
一期生はたったの10名でしたが、3年間の勉学の後、日赤病院などに勤務し、20年間の「応招義務」が課せられていました。
応召といっても、「召す」のは日赤だからな。陸軍でも海軍でも無いからね。後で詳しく説明いたします。
日清戦争が勃発すると、「日赤看護婦」は陸海軍の各地病院に招集されました。
日清戦争では看護婦さんたちは全員が内地勤務で、戦場に出ることはありませんでしたが、戦後の論功行賞で叙勲の対象となっています。
各メディアも盛んに「従軍看護婦」を喧伝したので、新たな女性の就職先として看護婦人気が高まった、とされています。
日露戦争(明治37年~)では2160名の日赤看護婦が「従軍」しています。
日露戦争でも全員が内地勤務で、まだ戦地に出ることはありませんでした。
ただ、犠牲者も出ています。
内地ですから看護婦長2名・看護婦37名の計39名の犠牲者はすべて病死です。
もちろん病死であっても、戦場じゃない国内であっても「従軍中の死亡」ですので、靖国神社に合祀されておられます(日清戦争でも4名の看護婦さんが病死しています)。
従軍看護婦が初めて「戦場」に登場するのは第一次大戦からです。
特にシベリア出兵で病院船に乗り込みを命じられた時ではないか?と思われます。
まあ、戦場といっても、この時は病院船には全く危険が無かったんですけどね。
満州事変から日支事変・大東亜戦争になってまいりますと、看護婦さんたちも戦場に出るようになります。
「日赤看護婦」だけでも従軍した人は3万5千名にものぼり、1120名の方が「戦死」されています。
日赤看護婦とは別に陸軍看護婦という制度(雇人扱い)もあり、陸軍部内限りではありますが、婦長さんが伍長待遇となっていました。
この人たちは、大日本帝国の敗戦時に20500名(うち外地に6000名)が陸軍籍にありました。
海軍の病院船などに勤務していた、いわば「海軍看護婦」の実数はハッキリしません。
なお、パヨチンとメディアの悪宣伝に(例えばこんな記事)
「兵隊と同じく看護婦さんも赤紙一枚で戦場へ」
と言ったモノを見かけますが、これは全くの嘘です。
日赤看護婦を「招集」するのは日本赤十字社であり、「日本赤十字社看護婦養成所」への入所時の、いわば「契約」に基づくモノだったからです。
日赤の看護婦さんたちは学費タダ、寮費・食事もタダ、白衣(制服)も貸与の上で毎月の給料(小遣い程度ですが)も頂いて看護婦資格を取っていたのです。
その「見返り」として、20年間(大東亜戦争前には12年に短縮されています)の応召義務を負っていたって事です。
もちろん、完全民間の看護婦資格取得ルートもありましたし、其処を出た看護婦さんに「召集令状」などは待てど暮らせど届きません。
といっても、女性の従軍には男が軍隊で勤務するよりもご苦労も困難も大量にあった事は間違いありません。
パヨチンはこういったことまで全く伝えようとしませんから、電脳大本営が言わなければならなくなるのであります。
従軍すれば、当然給料が出ますが、大した額ではありません。
仮に生まれたばかりの赤ん坊を置いて「従軍」したって、兵隊さんたちと同じ程度しか貰えません。
と言っても、従軍中は(国内であっても、後方であっても)完全アゴアシ付きですし、寮費も要らないし…
もちろん従軍中の給料で家が建つ!ってな金額にはなりませんけどね。
これが大日本帝国の「従軍」なのであります。国を愛する気持ちが無ければ、やってられるモノではないのです。
当然、「資格取らせてもらったときの契約だから…」と嫌々「従軍」した人も居た筈ですけどね。
でも、パヨチンが言うような「無理やり」ではないことはご理解いただけるでしょう。
看護婦さんの保護はどうなっていたのか?
それでは、軍人でもないのに戦場に立つ看護婦さんはどのように保護されていたのでしょうか?
電脳大本営の考え方では、陸海問わず軍隊たるもの国民を守ってこそ、存在価値があるモノです。
軍隊は国民を守るのに、コスパが良いから、国の領域や権益を守護することに血道をあげるんです。
国民を守る時に、女性か男性か?と二者択一を迫られたら、これはもう女性一択であります。
なぜなら、日本人もホモサピエンスの一種ですから、その雌は基本的に一年一匹しか仔を産めないからです。
雄は年間に何匹でも種付け可能ですが、雌はそうはいきません。
種の保存を考えれば、男性よりも女性の生存を優先するのは当然であります。
軍隊の基本的な任務は国民を守ることだと書きましたが、「国民を守る」が「日本民族が長く生存し続けること」とイコールだとすれば、軍隊は女性を守るために存在する、と言い換えても良いでしょう。
私が女性の入営ってモノが嫌いで、
「軍隊に女性を受け入れても良いけど、前線には絶対に出しちゃあイカン!」
と申し上げるのは、この理由に拠ります。
ホモサピエンスの雌が、せめて年間50匹くらい仔を生めるように成ったら、私は考えを改めます。
それほど大切な女性を「戦場に投入する」に際して、帝国陸海軍はどのような保護対策を取っていたのでしょうか?
従軍看護婦さんが勤務することになる病院を、戦場に近い順にみてみましょう。
大日本帝国陸軍の場合だと前線で傷病兵が発生すると、まず衛生兵が処置を施し、直ぐ後方の「包帯所」に送られます。
ココには原則として軍医1名と衛生兵が詰めていて、止血帯や添え木などが行われたそうです。
包帯所では負傷者を収容できませんので、応急処置では対応しきれ無い重症の兵隊さんなどは「野戦病院」へ送られます。
野戦病院は移動可能な病院施設でして、一個師団あたり3~4個が付属(歩兵連隊1個に野戦病院一つが原則)していました。
病院長は軍医中佐か少佐で、収容可能人数は200名程度。
そのまた後方には中間施設として兵站病院がありました。1000名程度に対しての救療が可能な大規模病院と言えます。兵站病院はジュネーブ条約で交戦国間で尊重・保護される事とされています。
兵站病院で対応しきれ無い重症の患者は、最後方の陸軍病院に搬送されます。
従軍看護婦さんは(特別に認められた場合を除き)前線では勤務しないことになっていました。
このキャプションがおかしい事はすぐお判りいただけるかと。まあ、バカヒ発行の「アサヒグラフ」からパクった写真でありますから、「嘘」はつき放題ですね、すぐ見破れますけど。
上で説明したように「野戦病院」は、ほぼ前線に位置するんですよ。
日赤の看護婦さんは、原則として兵站病院までの施設で勤務し、陸海軍の看護婦は後方の陸海軍病院で勤務することが決められていました。
前線に設置される野戦病院や包帯所には看護婦さんはいなかったのです。
陸海軍が自前で養成した看護婦さんは最後方、日赤の看護婦さんはその前方ってのは、ちょっと疑問を感じるけどなぁ。
この辺りは当初から、負傷兵の搬送や国土の監視が任務に含まれていた、フィンランドの「ロッタ」とは全く違いますね。
「戦場から、傷ついた兵士を搬送する人」は兵隊さんであって、「ロッタ」が女性兵士と言われる所以です。
ですから戦況が圧倒的な不利に陥らない限り、大日本帝国の看護婦さんは比較的安全に勤務できました。
確かに後方とはいっても、満州や支那大陸の一部のように敵対的な馬賊の来襲がある地域もありましたが。
戦況が悪化すると病院も爆撃の対象となってしまいます。ジュネーブ条約糞くらえ(笑)
看護婦さんは、患者と一緒に防空壕や洞窟へ避難する日々が続きます。
陸上部隊の敗退は看護婦さんの後退も当然必要となり、兵隊さんとともに飢餓とマラリアに苦しんだ方もおられます。
国内でも敗戦が近づくと、陸海軍病院も空襲で被害を出しています。ただし、軍隊の対応はできる限り女性を保護する方向を向いていました。
軍隊は看護婦さんを守らなかった、のではなくて軍隊の力がすべての看護婦さんを守り切るほど無かった、という事なのです。
勤務状況(ごく一部ですが)
従軍看護婦さんの日課も、それほど過酷ではありません。たとえばビルマ戦域だと、こんな記録が残っています。
起床および日朝点呼は8時(点呼8時なら7時には起きなきゃね)。
出勤は9時、朝食は9時30分(儂、出勤してから昼まではコーヒーしか当たらんぞ)。
昼食は14時から16時(2時間かけて喰ってたとは思えませんけど)。
夕食と退勤は19時、日夕点呼21時、消灯23時。
ね、そんなに過酷って訳じゃないでしょ?
さらに、火曜日が半休(昼食後)で金曜日全休と決まっていました。看護婦さんが全員この日に休んじゃっていたか(火・金の看護は衛生兵が行った、と考えれば一斉休業は可能です)は不明ですけど。
ところが、ですね。保護されている筈の「施設」が狙われるのも戦争ってモンでありまして。
ココまで書いてきたのは基本的に「陸」の方ですが、大日本帝国は偉大なる海洋国家でありますから、海の上にも看護婦さんは勤務するワケでありまして。
ぶゑのすあいれす丸事件
「ぶゑのすあいれす丸」は三菱長崎造船所で昭和3年(1928)10月15日に起工され、昭和4年5月11日に進水、10月31日に竣工した豪華客船でした。
船内装飾は日本のイメージでまとめられていました。
ラウンジは桃山時代のお花見の様子を描いた壁画が飾られ、喫煙室には甲冑が置かれていて、黄金造りの陣刀も置いてあると言う、いささか尾張出身の禿鼠または猿を思わせるお下品な趣味。
カフェの椅子は籐で噴水もあったんだとか。
こうした設備は一等船客の専用ですが、三等船客用の設備もソコソコに快適だったようです。
と言いますのも「ぶゑのすあいれす丸」は我が国から南米への航路に就役することが予定されていたからです。
南米航路は、戦前の帝国臣民が新天地を目指す「移民」航路でありました。
船賃を安く上げたい人たちのための設備も、ちゃんとしてたって事です。
この人たちが、船客の中では一番多いんだから。
「ぶゑのすあいれす丸」は太平洋戦争勃発前、昭和16年の11月に日本陸軍が徴傭します。
陸軍はその船内設備の充実に着目して輸送船とし、傷病兵の輸送に使い始めました。
このため、昭和17年11月23日に外務省がイギリス・アメリカなど連合国へ「病院船」として通告しています。
さらに、翌月にはスイス・スウェーデン・スペインの中立国を通じてもう一回連合軍に通告しています。
「ぶゑのすあいれす丸」は移民船から病院船へと転身したのでありました。
病院船は国際法で保護されています。Wikiから引っ張っておきますと
近代戦時国際法のもとでは、病院船は一定の標識を行い、医療以外の軍事活動を行わないなどの要件をみたすことで、いかなる軍事的攻撃からも保護される。今日では1949年のジュネーヴ第2条約が明文規定を定めている。時期によって若干の変遷はあるものの、その基本的要件は以下のようなものである。
- 船体の塗装 – 船体は白色とする。軍用病院船は緑色、民間病院船は赤色の帯を引く。
- 赤十字標識 – 赤十字(または赤新月)の旗を掲げる。船体や甲板にも標識し、夜間は電飾する。
- 非武装 – ただし船内の秩序維持などのための小火器を除く。
- 軍事的活動の禁止 – 兵員・軍需物資の輸送、軍事情報の発信などには利用しない。
- 交戦国への通知 – 船名等の基礎データを通知する
これは1949年となっていますが、基本的に大東亜戦争当時も変わりはありません。
病院船は敵の攻撃から保護されているのです。当然、乗っている看護婦さんも保護されている筈なんですが…
あっ、ついでに言っときますと「赤新月」は宗教的配慮ね。
これ以上詳しく書くと、また訳の判らん因縁をつけるヤカラが沸きそうだから、取りあえず書かねぇけど。
必要だと判断したらその限りじゃないからな(笑)。
鬼畜
昭和18(1943)年4月25日。「ぶゑのすあいれす丸」は香港の近くを航行中でした。
もちろん船体は白く塗装されて赤い十字も描かれていましたが(イラスト参照されたし)、コレをアメリカの潜水艦「ランナー」が雷撃しやがったのです。
「ぶゑのすあいれす丸」は軽い損傷で済みましたが、負傷者7名を出しています。
それから半年「ぶゑのすあいれす丸」は無事な航行を続けたのですが。
昭和18年11月26日、「ぶゑのすあいれす丸」はラバウルとココポに寄港して傷病兵1129名・従軍看護婦とその他の便乗者63名を乗船させてパラオに向かっていました。
翌27日午前8時過ぎのことです。南緯02度40分東経149度20分、チンオン島の近海に差し掛かった時でありました。
アメリカ陸軍の「B-24」爆撃機が船尾方向から接近してきました。敵機の高度は1000メートルほど。
「ぶゑのすあいれす丸」の白い船体は熱帯の青い洋上に良く映えて、見間違い様は無かった筈です。
「B-24」は接近を続け、ついに爆弾を1発だけ投下して去って行きました。
こうした水平爆撃では、めったに船舶には命中しないモノでありますが、このときは「目標」が全く回避運動をしなかったためか?
爆弾は「ぶゑのすあいれす丸」のメインマスト基部の左舷側に命中してしまったのであります。
爆弾は救命ボートを壊したあとで船体を貫通、舷外に飛び出して水中で爆発しました。
艦艇攻撃用の爆弾は堅く分厚い装甲をぶち抜いて中で爆発するように造ってありますから、「病院船(元客船)」のペラペラの外板などに当たっても爆発はしないのです。
船内での爆発は幸いにも避けられたものの「ぶゑのすあいれす丸」の外板には大きな破口が生じてしまいました。
そこから海水が後部機関室に大量に流入。被弾から20分ほどで「ぶゑのすあいれす丸」の船内は停電。
傷病兵らは、爆撃の衝撃で海に放り出された人もいましたが、さすがに実戦体験を積んだ兵隊さん。
咄嗟の指示に従って病室から短艇甲板・上甲板などに上がったので、救命ボートへの収容はスムーズに行われました。
ほとんどの傷病兵は「ぶゑのすあいれす丸」から無時に離れることができたのですが、至近弾の爆発で船内の一部が圧潰してしまい、これによって命を落とした者が30名ほどおられました。
やがて「ぶゑのすあいれす丸」は左舷への傾斜を強めると、船尾から沈み始めました。
「ぶゑのすあいれす丸」が沈もうとしたその瞬間、脱出した傷病兵や乗組員などからは期せずして、「万歳!」の声が上ったそうです。
被弾からおよそ40分、「ぶゑのすあいれす丸」は船員さんと傷ついた兵隊さんと看護婦さんの脱出の時間を稼いだのでありました。
漂流
「ぶゑのすあいれす丸」は傷病兵たちが救命ボートに乗り移る時間を与えてくれたのですが、その救命ボートの食糧・水などは満足できる量ではありませんでした。
Wikiなどでは
「ボート1隻あたり一切れの乾パンと水筒のキャップ大の容器1杯程度の水しかなく」
なんて書いてありますけんど、まあ、そりゃないわな。
ただ、この当時の救命ボートはフネの乗船人員分がすべて用意してあるわけじゃありません。
つまり乗員・船客のほとんどが助かったという事は、各救命ボートは相当混雑していた…いや定員の数倍の人が乗ったボートがほとんどだったと思われます。
食糧・水は定員の分、それも一日・二日分しか用意してありません。
「ぶゑのすあいれす丸」の遭難者たちは、これから5日に及ぶ漂流を強いられますので、かなりの「苦行」であった事は間違いありません。
その間、各救命ボートはアメリカ軍の哨戒機に何度も見つかっています。
各ボートでは褌(ふんどし)などの赤い布を広げて上空から見えるように赤十字を作って対応していました。
病院船からの救命ボートであれば、「保護対象」となって攻撃されませんが、通常の漂流ボートであればいくら赤褌十字を見せても攻撃対象です。
当初、米軍機は赤褌十字を攻撃しませんでした。アメリカ軍が病院船「ぶゑのすあいれす丸」を撃沈してしまった事を認識していた証拠かも知れません。
しかし12月1日に至り、哨戒機のうちの1機が赤褌十字を作って漂流中のボートに機銃掃射を行いやがりました。
この違法攻撃によって戦死者2名と負傷者1名を出し、流れ弾でサメ1匹が被害に遭ってしまいます。
翌日、日本の輸送船団が漂流中のボート付近を通りかかり、ついに被害者たちは発見されたのでありました。
帝国海軍は看護婦さんを含む漂流ボートを発見するや、すぐさま艦艇や航空機などを動員して捜索を開始。
友軍の真剣な捜索で、漂流中のボートは続々と発見されて収容されていったのであります。
結局、「ぶゑのすあいれす丸」への違法爆撃とその後の漂流で傷病兵65名・衛生班47名・船員40名・その他12名に加えること従軍看護婦が10名落命した事が判明したのでありました。
生き残った看護婦さんは救助されると早速身繕いをされたのですが、下着の替えなど救援艦艇には準備してある筈無いですね。
現在のように、潜水艦乗員の門戸まで女性に開かれている時代ではありませんから、当然です。
救助を担当していたある駆潜艇の乗組員は、非常に心苦しそうに自分たちあての慰問袋から褌を取り出し、看護婦さんに差し出しました。
感謝とともに受け取ってもらえた、という事です。
ち、ちょっと見たいような気が…
抗議
「ぶゑのすあいれす丸」への違法爆撃と沈没事件は波紋を広げました。
大日本帝国政府と陸軍省は抗議方法について討議を行いました。
各国の赤十字社とかローマ教皇庁を通じてアメリカ軍に対して抗議することが検討されたようです。
抗議文の文言に関しても慎重に検討がおこなわれ、12月16日ごろから送信されました。
同時に国内向けにも事件の顛末と抗議の事実が発表されたのでした。
バカヒ・侮日を含む新聞各社は「鬼畜」「悪虐」「暴虐」などの見出しも派手派手しく「ぶゑのすあいれす丸」撃沈事件を報じています。
帝国からの抗議に対するアメリカ軍とアメリカ政府からの回答は翌昭和19年の2月にありました。
その回答では、アメリカ側は遺憾の意を表したものの
「投弾が行われたあとまで病院船の標識が明瞭ではなかった」
として故意の違法攻撃は否定。
「ボートに広げられた褌の赤十字も見えなかった」
「そのボートが『ぶゑのすあいれす丸』からのものであるという証拠が見いだせなかった」
などと漂流中の看護婦さんへの攻撃すら正当化したのであります。
大日本帝国政府はこの回答には(当たり前ですが)満足せず、昭和19年4月には事件を再調査して再び抗議を行い、昭和20年の2月から3月にかけても三度目の抗議を行っています。
しかし、アメリカ側は戦争が圧倒的に有利に展開していることもあって、マトモに相手にしなくなっていました。
国際間では、幾ら「正しい事」であっても力が無ければ通りません。
来たるべき支那との戦争にあたって、これは心しておかなければいけない事だと思います。