本土決戦の行方1~三国同盟戦争~
国民をすべて動員して、本土に敵軍を迎え徹底抗戦。
強大な敵軍に、有効な打撃を与えるまで損害を省みずに戦い続ける「本土決戦」構想。
三国同盟といっても
大東亜戦争では、実際に実施される数ヶ月前に「終戦」のご聖断が下りました。
この構想は発動前に回避されたわけですが、もし実行したらどうなっていたのか?
世界の戦争史をひも解くと、近代にちゃんとその実例が存在するんであります。その戦いこそ「3国同盟戦争」であります。
3国同盟と言っても日独伊、ではありません。遠く南米の、時代も明治維新ころ、すなわち19世紀の半ばのお話。
こんな戦争など、おそらく日本には知っている人はほとんどいないんじゃ無いでしょうか?「南米史」なんて学問分野があれば、専門家もいるかも知れませんが。
「日本と日本人だけが大事」がモットーの電脳大本営をして、そんな日本とは関係なさそうな戦争に目を向けさせたのは、帝国陸軍のある軍人の妄言がキッカケでありました。
その軍人とは、「松代大本営計画」を推進し、敗戦時のクーデター計画にも深く関わり、そのクーデターが失敗しても自決などせず、戦後は進駐軍に尻尾をフリフリ。
ついには電通の役員に収まって悠々自適の生活を送った帝国陸軍軍人、井田正孝です。
井田は戦後になっても自らの行動をなんら反省せず「1945年に降伏しないで大東亜戦争を続けるべきだった」、と主張し続けました。
その主な言い分をまとめると、
『ドイツは敵軍を国土に迎え、国内が灰燼に帰するまで戦った。イタリアもしかり。また南米の小国、パラグアイに至っては人口の8割を失う迄戦いつづけた。一人我が国のみ、本土安逸のまま米英の軍門に降る事は許されぬ。』
と言う、子供じみたものでした。
ドイツはともかくイタリアって、南半分はクーデター起こして降伏しちゃったじゃん。
その上パラグアイ?って…
わが目を疑いましたよ。
そして、この馬鹿(ご先祖ではありますが)め、日本人が残り2割になるまで戦うつもりだったんだなあ、勝算がどのくらいあったんだろ、とゾッとしたものであります。
さらに、最近は大日本帝国は大東亜戦争に勝ったのだ!と言うお馬鹿論を振りかざす「何とか学派」とか自称する人が我が国にも存在しております。
彼らは、
「敗戦時に我が国には400万の『国民義勇戦闘隊』が居たので、本土決戦でも負けない」
とかホザクのですが、3国同盟戦争の戦闘の様子を、一度でも辿ってみれば、如何にアフォなことを言っているか?幼稚園児でも判るんです。
気軽に「本土決戦」とか言うな、って事でありますよ。
どんな国?
Wikiをご覧頂くのも良いのですが、電脳大本営的にまとめてみます。
南米大陸がいちばん太ってる所から、細くなっていく方へ(南へ)行くと、「パラグアイ共和国」と言う内陸国がありますね。内陸国はちょっとしたポイントになります。
北・北西はボリビア共和国に、南西・南はアルゼンチン共和国に、東・北東はブラジル連邦共和国と国境を接し、国土は40万6千平方キロと我が国(37万7千平方キロ)より少し大きな国です。
首都はアスンシオン、2008年時点の人口は635万人。
パラグアイは1811年にスペインから独立しました。
建国から30年ほどの間は、独裁者フランシア博士の指導の下で、経済的な鎖国状態を維持していました。
フランシア博士の死後、1844年にアントニオ・ロペス大統領が権力を握ると、鎖国が解かれ外国の技術者を招聘するようになります。
「開国」とともに鉄道・電信・製鉄所・印刷所の建設・奴隷制の廃止・義務教育の制定といった、近代国家の建設が進められました。
パラグアイ版明治維新といったところでしょうか?
1851年には国境問題・河川交通問題などから、南の隣国アルゼンチンとの関係が悪化したのですが、ブラジル・ウルグアイと組んでこれを乗り切りました。
これは後の本題「三国同盟戦争」の「原点」ともいうべき国際紛争だったのですが…
しかしその次は北の隣国ブラジルと険悪に。
パラグアイ川がブラジル領から流れて来るのですが、この川はパラグアイの国土のど真ん中を通っており、下流のアルゼンチン領を通って大西洋に出るための重要河川でした。
この川の通行権は常にパラグアイ・ブラジル二国間の懸案となっていたのです(もちろん、領土問題もありました)。
パラグアイ大統領のアントニオ・ロペスはなんとか外交努力で大国ブラジルの圧力を回避したのですが、1862年に亡くなってしまいます。
跡を継いだのは息子のソラノ・ロペスでした。
ソラノ・ロペスは父大統領の遺言「剣によらずペンで解決せよ」を守りませんでした。
ソラノ・ロペスは大統領に就任すると、一番に自国の軍隊を増強しました。当時の南米では最大の、2万8000名の常備軍を建設したのです。
当時のパラグアイの総人口は52万人ほどと推定されていますから、人口の5パーセントを超える異常な「大常備軍」が三国同盟戦争を戦うバックボーンとなったのであります。
ウルグアイ情勢への介入
もともと南米大陸は、ご存知のようにポルトガルとスペイン両国によって植民地にされていました。
両帝国は世界中で勢力争いをしていましたので、ポルトガル植民地のブラジルとスペイン植民地のアルゼンチンも、やはり敵対関係にありました。
この対立はブラジル・アルゼンチンが独立したのちも続き、両国の間にあるバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)では、ついに戦争に発展することになります。
戦争はマズいことに当時の世界の警察官、大英帝国の介入を招いてしまいました。
ラプラタ川の河口を、両岸ともアルゼンチンが支配するのは(大英帝国にとって)よろしくないと考えたイギリスが、バンダ・オリエンタル地域に「ウルグアイ東方共和国」を誕生させたのです。
1828年のことでありました。
緩衝国として成立したウルグアイでしたが、その内政は極めて不安定。
国内にはブランコ党とコロラド党という、二大政党があったのです(今でもあるみたいです)が、この対立にブラジルやアルゼンチンはもとより、フランスやイギリスの思惑が複雑に絡み、内戦にまで発展するほどの闘争を繰り返すようになってしまいました。
ウルグアイの政治的な不安定は、パラナ川とパラグアイ川が流れ込む、ラプラタ川河口の安全な利用に問題を生じさせます。
世界最大、川幅200キロメートルと言うラプラタ川の河口が、もしも戦争などの理由で航行不能になったら?
そこを通じて貿易を行なっているパラグアイにとっては、死活問題だったのであります。
そこでソラノ・ロペス大統領は、政権側のブランコ党を支持することにしました。
アルゼンチンの方は、公然とコロラド党を支援し始めます。
ここで、アルゼンチンと常に対立していたブラジルまでもが、コロラド党を支持して援助を始めたのです。
パラグアイはブラジルに対して警告します。
「これ以上のウルグアイへの干渉は、ラプラタ川河口地域の安定を崩す。ブラジルが干渉を続ける場合、パラグアイは戦争も辞さない。」
この時点でパラグアイは人口こそ少ないものの、経済力が強く、それを背景として軍事力は「南米最強」と自負していたようです。
それに「長年の仇敵」である筈のアルゼンチンとブラジルが手を組むとは考えられず、ソラノ・ロペス大統領は戦争にならない、読んでいたんじゃないでしょうか。
しかし、ブラジルはパラグアイの警告を無視しました。
1864年10月、ブラジル軍がウルグアイに派遣され、コロラド党軍を支援してブランコ党政府軍との内戦に加わったのです。
ブランコ党を支援するパラグアイは決断を迫られました。
緒戦
1864年11月。
パラグアイ川を航行していたブラジル船を拿捕したパラグアイは、ついにブラジルとの外交関係を断絶。
6000名の兵力でブラジル領マット・グロッソ州への侵攻を開始しました(下の地図の、MSの部分はこの時パラグアイ領です)。
パラグアイのソラノ・ロペス大統領は、そもそもの問題だったウルグアイの内戦に介入するという手段ではなく、直接ブラジルを攻撃してしまう、と言うたぶん最悪の方法を選択したワケです。
これでブラジルとの全面戦争に火をつけてしまったのです。
もちろん、「最悪評価」は私の後だしジャンケンですけどね。
まあ、それでも以前からの両国間の係争地域を2週間で占領、大量の武器弾薬を鹵獲出来ました。
このときブラジル軍の主力はウルグアイ領内に出撃していて、マット・グロッソ方面は全く手薄だったのです。
マット・グロッソ州はかなりの部分をパラグアイ軍に占領されてしまいました。
戦争開始当時のパラグアイの人口は約52万人でしたが、8万人に及ぶ兵力を動員可能、コレはもちろん南米最大の兵力でした。
この大兵力と奇襲効果で「三国同盟戦争」緒戦期はパラグアイがブラジルを圧倒していたのです。特に陸上では。
ブラジル軍はパラグアイ軍の「直接攻撃」を予期しておらず、ズルズルと後退。
2月にはマット・グロッソ州のコインブラやコルンバなどの要衝を明け渡してしまいます。
年が明けると、パラグアイはそもそもの問題であるウルグアイ領に進軍しようとします。
パラグアイとウルグアイは直接国境を接していませんから、アルゼンチン領を通る必要があります。
緒戦の勝利で気が大きくなったのか?
ソラノ・ロペス大統領はアルゼンチンに対して「領内通行」を認めるように要求しちゃいます。
アルゼンチンのバルトロメ・ミトレ大統領は当然コレを拒否。
ロペス大統領は、アルゼンチン反体制派の指導者であるフスト・ホセ・デ・ウルキーサ氏と
「アルゼンチンが通行権を認めないなら、反乱を起こす」
ことを取り決めていたのですが、ウルキーサはこの密約を実行に移しませんでした。
2月20日には、パラグアイが助けようとしていたウルグアイの「ブランコ党」が「コロラド党」に降伏してしまいます。
面子をつぶされたソラノ・ロペスは3月にアルゼンチンに宣戦。
パラグアイ河・パラナ河に沿って進撃して4月12日には国境近くのコリエンテス市を占領します。
さらにパラグアイ別動隊は諸国の国境が入り組んだ地域で優勢となり、5月5日にはブラジル領のウルグアヤーナ市を占領しました。
ココに至ってもウルキーサさんは反乱を起こしませんでした。
パラグアイの強大な軍事力を目の当たりにした周辺諸国は、対応を協議します。
パラグアイの「目の敵」で、軍事的に最も弱体だったウルグアイのコロラド党政府は、ブラジル・アルゼンチンとの間に対パラグアイ3国同盟を結成するように働きかけます。
実際には、大英帝国も「打倒パラグアイ」の音頭を取ったようですけど。
ブラジル・アルゼンチン両国は前述のように宿命的な敵対関係にあるのですが、「共通の敵」が出来ると協力するのが国際関係の常ってモノでありまして。
3国は
「パラグアイのソラノ・ロペス政権を打倒するまで戦争をやめない」
……等を取り決めた同盟を結ぶのでありました。
主な3国間の合意は次のようなモノでありました。
互いに単独ではパラグアイと講和はしない。
ソラーノ・ロペス政権の打倒が目的である。
パラグアイの独立そのものは保障する。
賠償金を取り立て、領土を一部割譲させる。
こうして戦争は3国対1国の戦いとなり、戦局はパラグアイにとって絶望的な方向へと傾いて行くのであります。
ただ、まだこの段階では(表面的には)、戦争はパラグアイ優勢でありました。
リアチュエロ水戦
ソラノ・ロペス大統領率いるパラグアイ軍が、マット・グロッソ州に侵攻・占領すると、ブラジルは直ちに全海軍戦力をウルグアイとアルゼンチンに派遣することにいたします。
ブラジル海軍はこの当時、「戦列艦」を45隻保有していました。その内の33隻が最新鋭の蒸気推進です。
「戦列艦」と言うのは、この少し前から流行してた海戦のやり方である「戦列戦法」に最適の、当時では最強の戦闘艦。
戦列艦は2層か3層の砲列に70門~120門もの大砲を積んで(もちろん全部舷側方向に向いてます)いるんです。
戦列艦については、コチラの記事もお勧めです
戦列戦法って言いますのは、艦隊を単縦陣で組み、同航(または反航)する敵艦隊と撃ちあう、って言うアレです。
うーん、幾ら大陸を流れる大河だ、つってもなぁ。あくまでも川なんだが、巨艦が戦列を組んで同航しつつ撃ち合うほどデッカイんだろうか?…と言う疑問を抱く儂は、小島国人だからかな。
でも、儂は小島国人であることを誇りに思ってるからな。
積んでる砲数からして、英仏の「大洋でドつき合う」戦列艦よりは、だいぶん小さいと思われますけどね。
ともあれ、ブラジル艦隊の威容は(南アメリカでは)他を圧倒していました。
陸軍は負けてても、ブラジルは優勢な海軍を持ってたんです。
ただ、当時の戦列艦の居住条件は著しく悪く、一航海の間で疫病によって、乗組員の半数が死亡することも珍しくなかったそうです。
パラグァイの方は戦列艦を17隻保有していたのですが、もともと戦闘艦として建造されたのは、「タクアル」と「アンハムベイ」だけで、鋼鉄で装甲されている艦はありませんでした。
ブラジル海軍がコリエンテスを支援するために、リアチュエロに集結したという報告に接し、ソラノ・ロペス大統領は直ちに襲撃を命じます。
1865年6月8日、首都アスンシオンからパラグアイ海軍(パラグアイは内陸国ですから、水軍と言う方が正解か)の艦隊が出撃。指揮するはペドロ・メザ提督。
出撃に際しては首都の全市民が集まり、武運と健闘を祈ったと言われています。
ホンマに「全」市民が集まったか?儂には疑問ですけど、ロペス大統領も旗艦「タクアル」に乗り込み、途中のウマイタ要塞まで艦隊を見送ったそうです。
なんや、戦場には行かないのかよ(笑)
パラグアイ艦隊は旗艦「タクアル(Tacuar)」以下「パラガル(Paraguar)」「オリンダ侯爵夫人(Marquis de Olinda)」「イグレ(Ygure)」「イベライポル(YberaYpor)」「ヘージュ(Jeju)」「サルトオリエンタル(Salto Orienta)」「ピラベブ(Pirabeb)」の8隻で編成されています。
さらにパラグアイ艦隊の各艦は、「チャタス」と呼ばれる、8インチ砲を1門搭載した艀(はしけ)を曳航。
チャタス効果もあって、砲数は合計で36門に達します。
それでも、火力ではブラジル艦隊には及ばないのですが、占領しているコリエンテスまで敵を引き付ければ、陸上からの支援砲火が期待できます。
リアチュエロに集結したブラジル海軍は旗艦「アマゾナス(Amazonas)」以下「 ヘクイティンオンハ(Jequitinhonha)」「 ベルモンテ(Belmonte)」「パルナンザ(Parnaza)」「 イピランガ(Ipiranga)」「メアリン(Mearin)」「イグアテミ(Iguatemi)」「アラグアル(Araguar)」「ベベリブ(Beberib)」の9隻。
指揮官はフランシスコ・バロッソ提督で砲数は59門。
ブラジル艦隊の火力はかなり優勢で、メザ提督は奇襲を選択せざるを得ませんでした。
6月11日午前2時、パラグアイ艦隊はパラグアイ川沿いのウマイタ要塞を出撃。
ブラジル艦隊を夜明け前に襲撃する予定でした。
ところが「イベライボル」の機関が故障してしまい、到着が遅れて、午前9時。
ブラジル艦隊はコリエンテスとリアチュエロの中間地点、数本の支流が合流している場所で遊弋しています。
「奇襲」は全くなりませんでしたが、メザ提督は攻撃を決意。
先ずはチャタスを切り離し、河岸沿いに展開させた後、旗艦「タクアル」がブラジル旗艦「アマゾナス」に砲撃を開始し、単艦同士の撃ち合いとなります。
始めはパラグアイ艦隊が有利になり、ブラジル艦隊の隊列を突き抜けてパラナ川の下流に出ます。
ここで艦隊を反転させてブラジル艦隊を追い詰め、陸上に展開する大砲とチャタスで挟撃する…ってのがメザ提督の作戦だったようです。
ブラジル艦隊で2番目に大きい艦の「ヘクィティンオンハ」は、河岸に追い詰められて座礁、そこを陸上の大砲隊に狙い射ちされて完全に破壊されてしまいます。
「パルナンザ」も船底をこすったようで、漂流し始めます。
それを目ざとく発見したパラグアイの「オリンダ侯爵夫人」が接舷、パラグアイ水兵が乗り移ります。
時代を感じさせてくれる海戦模様でありますね。
しかしねw、この時代の戦闘艦艦長なら、次のことも頭に入れておかなくっちゃいけなかった筈。
「パルナンザ」の甲板上で白兵戦が展開される運びですが、ブラジルの艦はパラグアイ艦より大きく、その分乗組員も多いんです。
直接戦闘に従事する人数の、単純な多寡によって「オリンダ侯爵夫人」の海賊的移乗攻撃は失敗してしまいます。
コレがきっかけとなったのか、単艦同士で続けられた砲撃戦も、砲の数で優るブラジル有利の展開となって参ります。
「ヘージュ」は砲撃戦のあげく撃沈され、「オリンダ侯爵夫人」はボイラーに命中弾を受けて、自力航海が不可能となります。
「パラガル」は「アマゾネス」の衝角で船腹を破られ沈没、「サルトオリエンタル」も河岸に追い詰められて座礁。
こうして艦隊の半分に当たる4艦を失ったメザ提督は午後1時、引き上げを命じます。
ただパラグアイの陸上部隊は、この数日後に「パラガル」を浮上させ、首都アスンシオンに送り返しています。
メザ提督は砲弾を受け負傷していまして、その傷が原因となって、引き揚げたウマイタで絶命。
パラグアイ側の戦死者は提督のほか300名程度とされています。
ブラジル艦隊では「ヘクイティンオンハ」が完全破壊されたほか、「ベルモンテ」と「バルナンザ」が大破したにとどまりました。
この海戦は「ブラジルの勝利」と言って間違いないでしょう。
そしてこの勝利で得た「パラナ川の制海?権」は、戦争終了までブラジルが維持することになります。
コレは本国から長躯ウルグアイまで遠征しているブラジル軍の、補給路が安定することを意味していました。
連戦連敗
実は、開戦まえからこの「水戦」結果はある程度予測されていたようです。
戦争を睨んで、パラグアイは河川用の装甲戦闘艦を6隻、海外に発注していたのです。
ロペス大統領が、この新鋭艦到着前に戦端を開いてしまい、パラグアイ水軍は戦力未成のままで海軍大国に挑むことになったのです。
しかしロペスは、この軍事上の重大な敗北を認識することができませんでした。
南米最強を誇る陸軍はまだ無敗のままなのですから…
しかし、当時の南米大陸のこのあたりは「開発途上」も良い所で、陸上交通は未発達でした。
大河の沿岸沿いにところどころ「都市」が建設され、「入植地」が広がりつつある時代なのです。
つまり、「制川権」を喪失すると、入植都市や軍事拠点への連絡も補給も途絶の危機となるワケです。
1865年8月、ウルグアイ川のアルゼンチン側にある拠点ヤタイを占領していたパラグアイ軍は、三国同盟軍約1万3千名によって攻囲されます。
ソラノ・ロペスは抗戦を叫びますが、援軍は送れず、ヤタイ守備軍はほぼ壊滅してしまいます。
同時期にブラジル側のウルグアヤーナを占領していたパラグアイ部隊6200人はブラジル軍2万に攻撃され、降伏してしまいました。
ヤタイとウルグアヤーナの連続敗戦で、パラグアイ軍は約2万名の兵力を喪失してしまったのですが、この2万がパラグアイ軍のもっとも精強な部隊でした。
頑固で、感情的になりやすく、かつ軍事的な素養に相当な疑問のあるソラノ・ロペス大統領も、やっと「拙い」と思ったのでしょう。
アルゼンチンやウルグアイ方面に進出させていた陸軍部隊を国内へと引き揚げさせ、「本土決戦」を命じるのであります。
水路で侵攻
3国同盟軍は戦争の目的を「ソラノ・ロペス政権打倒」においていたことは前述の通りです。
一方のパラグアイ(って言いますかソラノ・ロペスさん)の目的は「輸出路を確保して、国の経済発展を図る」ってところでしょうが、そのための手段として「ウルグアイへの内政干渉権を獲得する」が直接的な目標だったと思われます。
ロペスさんの戦争目的は、開戦以前の段階では合理的だったと思います。達成不可能ではなかったでしょう。
だが、やり方が拙かったのです。既にこの段階で戦争目的の達成が困難であることは、誰の目にも明らかでしょう。
目的が達成不可能になったら、一刻も早く戦争を止めた方が良いんですが、どうやらロペス大統領はご自分の中で「戦争目的」をすり替える手続きをお取りになったようで…
ソラノ・ロペスさんのなかで、戦争目的がどのような変化をしていったのか?
ムッチャ興味を惹かれるのでありますが、今となっては誰にも知ることは出来ません。
一方、3国同盟側にも、戦争を続ける理由がありました。
この後の経過を見れば判るんですけど、パラグアイ国内でのロペス大統領の権力基盤は盤石でしたから。
つまり、戦争が思ったように進まないことをキッカケに、国内で反乱が起こって…と言う期待はほとんど無かったんですね。
で、3国同盟軍としてはこの戦争の目的(ソラノ・ロペス政権打倒)を達成するために、パラグアイ領内に攻め込む必要が出ちゃいました。
そこで、3国同盟軍は主侵攻ルートに
「アルゼンチン領からパラナ河・パラグアイ河に沿ってパラグアイ領内に」
と、水路を選択しました。
前述の通り「当時のこの地域」は陸上交通が未発達で、軍隊や軍需物資を運ぶのに鉄道を使うことは出来ませんでした。
3国同盟側にとっては、河川を使って軍隊と補給品を運び、パラグアイ国内に侵攻するのが一番効率的でしたし、それ以外の選択肢も、ほぼありませんでした。
パラグアイ河を上流へとどんどん遡っていけば、パラグアイの首都アスンシオンにまで行き着く事が出来ます。
ただし、アスンシオンまでには「ツユティ」「クルパイティ」「ウマイタ」などとパラグアイ軍の拠点が連なっています。
パラグアイ河がいくら大河だと言っても、艦隊を連ねてこの要塞群の前を素通りは出来そうもありません。
いきおい、三国同盟としては、これらのパラグアイの拠点(要塞)を順番に攻略していく必要があります。
かくして戦争は、「三国同盟側の、海軍に運んでもらう陸軍」vs「パラグアイ側の陸の孤島守備隊」と言う新しいフェーズに突入したのです。
ココまでご覧いただいて、如何でしょうか。
大東亜戦争の展開に似ていると思われませんか?
私が、日本人として問題だと思うのは、この「三国同盟戦争」の結果(パラグアイ人口の80%?が死亡)を認識しながら、「徹底抗戦」を叫び、それに向けて反乱計画にまで参画していた陸軍士官が、処罰もされずに戦後も
「戦い続けるべきだった」
と言い続けたことであります。
それも、ある意味「メディアの支配権」を持っている企業(電通)の役員として、ですよ。
こういう馬・鹿さんの亜流が
「大東亜戦争は、アジアの植民地を解放してやったんだから、日本の勝ち」
とかほざくのであります。
次回、いよいよ本土決戦に突入であります。