樺太の看護婦さん~樺太からの脱出2~
沖縄の「ひめゆり学徒隊」と対比される樺太・真岡の女子交換手の集団自決。
我が尊敬すべきFBFのご努力もあって、かなり知られるようになって来ました。
真岡だけではありません
樺太での一般国民の犠牲は、真岡にとどまりませんでした。
ソ連の攻撃がそもそも違法ですし、我が方の防衛も沖縄に比べてはるかに弱体であったことを考えると、悪質さにおいては沖縄の何百倍にもなっているかも知れません。
ただ、私たちにとっての救いは官民による避難が急遽計画され、多くの国民が命を全うできたことです。
それでも、守備隊には8月15日以降も含めて多大な犠牲が出ましたし、守りきれず、逃がせなかった国民も多数に上ります。
もっとも有名なのが真岡の女子交換手さんたちなのですが、大和なでしこの悲劇はそれだけではありません。
太平炭鉱病院
今回の舞台は「大日本帝国樺太庁恵須取町太平」にあった太平炭鉱の付属病院です。
太平炭鉱は大正13年に操業を開始した鉱区面積約360万坪を誇る巨大炭鉱で、年間出炭量は約37万トンを誇りました。
同じ恵須取町にあった樺太工業(王子製紙)とともに樺太を代表する大工業施設でした。
恵須取町の人口も3万人を越え、もう少し平和が続いていたら豊原市に続いて樺太2番目の「市」に昇格する予定でした。
恵須取町は、樺太西岸では真岡と並ぶ中心都市だったのです。
地下資源に恵まれない大日本帝国にとって、石炭は数少ない自前の資源で、大東亜戦争中の海軍でも、戦闘艦艇以外は石炭を燃料にしていたほどです。
海軍将兵にもっとも愛された軍艦・給糧艦「間宮」の煙突があんなに長いのは、この石炭の噴煙が大事な食糧にかからないようにするためなんです。
ソ連軍上陸
8月8日に宣戦布告、翌9日から南樺太へ攻め込んだソ連軍に対して、国境近くで125連隊が防御戦闘を繰り広げていました(停戦までの戦死者はソ連の方が多数と思われます)。
ソ連は北海道北部の占領まで狙っており、「日本降伏」までの短時間に樺太を片付ける必要がありました。
そのため第2の都市・恵須取町を手に入れようと近郊の塔路に上陸作戦を実施しやがりました。
8月13日には魚雷艇による偵察が行われ、これを砲撃した日本軍は「撃退した」と誤判断してしまいます。
16日早朝、ソ連軍2個大隊が艦砲射撃と海軍機の援護で塔路港に上陸、守備の1個小隊は壊滅してしまいました。
塔路町長らはポツダム宣言受諾を知って停戦交渉に向かったのですが、逃げた住民を呼び戻すように要求されると、コレを拒絶、処刑されてしまいました。
さすが赤い悪魔の軍隊は、やることが常識を超越しています。
山手の上恵須取方面へ避難する民間人には、ソ連機から機銃掃射がくわえられて多数の死傷者を出しました。
日本の特設警備第301中隊(隊長;中垣重男大尉)は、国民義勇戦闘隊、警察官などをかき集め、塔路から続く恵須取町の山市街(町並みが浜市街と二つに分かれていました)の入口に布陣して避難民の援護にあたりました。
中垣隊は、塔路から南下してきたソ連歩兵2個中隊を阻止。
それだけでなく、逆襲に転じてソ連軍をいったん敗走させ、恵須取支庁長以下400名の避難民を援護しながら、翌17日午前3時頃には上恵須取へ逃げ込みます。
ソ連軍は17日午前8時30分には恵須取山市街、午前10時30分頃に浜市街を占領しました。
病院に残されたのは
太平炭鉱の付属病院は恵須取町の中心的な医療施設でしたが、大東亜戦争の戦勢が不利に傾くにつれて医師たちにも召集がかかります。
昭和20年に入ると院長まで出征してしまい、病院で治療や看護に当たるのは高橋ふみ子婦長(33歳)に率いられた若い看護婦さん23名だけになってしまいました。
看護婦さんたちは全員が寮で起居を共にして、銃爆撃で傷ついた人たちの治療に当たっていたのです。
16日のソ連軍塔路上陸を受け、太平炭鉱は全所員に避難命令を発しました。
炭鉱病院に収容されていた百名近い負傷者たちも、自力で移動できる人たちは午後に東方へ脱出。
もちろん高橋婦長以下の看護婦さんにも避難命令は出ていたのですが、移動不可能な重傷者が8名残っていました。
看護婦としての責任感は、8名の患者を見捨てることを許しません。
しかし、来襲するソ連機が逃げ惑う避難民に銃撃を浴びせている所を見ると、ソ連兵が「良識ある勝利者」として振舞うことは期待できそうもありません。
特に若い女性である看護婦さんたちを心配したのは、8人の重傷者たちでした。
「自分たちは殺されるだけで済むかも知れないが、看護婦さんたちはそんなわけには行かない。早く逃げてくれ。」
傷の痛みに苦しみながらも、口々に懇願する重傷の入院患者たち。
西日が傾き始めた頃、ついに高橋婦長は指揮下の看護婦さんたちに
「患者さんの手元に食糧と医薬品を運ぶように」
との指示を出します。
看護婦さんたちが、良心に苦しめられながら重傷者たちに食糧を配布ししている、その時間。
高橋婦長と副婦長の片山寿美さん、ベテランの石川ひささんは、さらに気の重くなる作業を進めていました。
注射針やメス、睡眠薬・包帯・ガーゼ類をカバンに詰め込んでいたのです。
逃避行
準備の間に8月16日は暮れていました。
23名の看護婦さんは点呼を終えると、患者たちに目礼して病院を脱出して南へ向かいました。
すでに、周囲には砲弾の低い炸裂音が絶え間なく響き、甲高い銃声も聞こえてきます。
我が特設警備第301中隊(中垣中隊)が、優勢な敵に対して果敢な阻止戦闘を繰り広げている頃だったのでしょうか。
この後中垣中隊が果敢に反撃し、避難民の上恵須取(東方)への退避を成功させたのは上述の通りです。
高橋婦長と看護婦たちは山道を選び、南へと進みました。
午前零時を回った頃、山中で南からやって来た家族連れと出会います。
「駄目だ、この先にソ連兵がいる」
高橋婦長と看護婦たちは身を堅くしてしまいます。
やがてエンジン音が聞こえ装甲車を発見、数十名のソ連兵もいます。
まだソ連兵に見つかったわけではありませんでしたが、高橋婦長は「ソ連兵に退路を絶たれた」と判断せざるを得ませんでした。
「もうあなた達を綺麗な体のままで親御さんにお返しすることはできそうもありません。」
この状況で集団自決は、23名のなでしこたちにとって「暗黙のうちの了解事項」になっていたことでしょう。
お互いに髪に櫛を入れ、最後の身なりを整えると高橋婦長が「君が代」を低い声で歌いました。
つづいて「海ゆかば」がゆっくりと歌われたそうです。
高橋婦長が持参した劇薬を一人一人に注射し、水筒の水で睡眠薬を多量に服用させました。
それだけでは足りず、婦長はメスで自分の手首の血管を切り、部下のお嬢さんたちの手首にも、次々とメスを当てて行ったのです。
蘇生
8月18日の朝が明けました。
樺太の若き看護婦さんたちの生命力が死神に打ち勝ったのでしょうか?
日本の古き神々が哀れを催して救いの手を差し伸べてくれたのでしょうか?
看護婦さんたちは生きていました。
残念なことに婦長の高橋ふみ子さん(33)と石川ひささん(24)・久住きよ子さん(22)・真田かずよさん(19)・佐藤春江さん(17)・瀬川百合子さん(16)の6名は息絶えていたのですが、残る17名の看護婦さんは生きていました。
しかも、彼女たちを発見したのは赤い悪魔兵ではなく、避難する途中の製材所の従業員たちだったのです。
彼女たちの弱々しい「放っておいて」「死なせてください」との訴えを無視し、屈強な男たちは看護婦さんをかついで山を降りていきました。
迫力
付近一帯はソ連軍の占領地域になり、日本軍との間に停戦交渉が開始されていました。
看護婦さんたちは同僚の遺体を荼毘に附し、形ばかりの葬儀も行ったようです。
手首に包帯を巻き付けた看護婦さんたちは、避難していた一般人と一緒に太平の町に戻り、病院勤務をするようになりました。
ソ連軍の無差別攻撃で、看護婦さんたちを必要とする住民は無数にいたのです。
もちろんソ連軍は町へやってきましたが、看護婦さんたちが自決を計ったことをなんとなく察知したのかも知れません。
手首に包帯を巻いた彼女たちに畏怖を感じたように、近づくことも声をかけることも無かった、といいます。
これは看護婦さんたちの迫力勝ちと言うものでしょう。
札幌護国神社に建立された鎮魂碑の文面を紹介させていただきます。
『樺太大平炭鉱病院殉職看護婦慰霊碑
建 立 平成四年(一九九二)七月十一日
建立者 殉職者看護婦慰霊碑建立実行委員会
昭和二十年(一九四五)八月、樺太はソ連軍の突然の参戦で大混乱となった。樺太北部の恵須取町太平地区も十六日未明の空襲で住民は一斉に避難したが、大平神社の丘の横穴式防空壕に避難していた炭鉱病院待避所には、八人の重症患者を守って高椅婦長以下二十三名の看護婦が踏みとどまっていた。
午後になってソ連軍が上陸したことを知り、ソ連軍兵もこの重症患者に危害を加ることはないだろうと薬を渡して、炭鉱病院看護婦も夕刻になって避難をはじめた。
上恵須取への道約二十四キロ、夏草のなかを十キロほど進んでいくうちソ連軍と遭遇したのである。誰もが一瞬、心臓が凍りついた。次の瞬間、道路脇の草の中を泳ぐようにして逃げ葡萄沢まで辿り着いたとき、ソ連軍に囲まれ、南下することも、太平に戻ることも不可能となった。
高橋婦長が思ったのは若い者護婦を預かっている責任、もし無事な姿で親のもとにかえすことができないとしたら、死を選ぶしかないという事だった。その気待ちはみんなにも伝わった。
死を決意すると小高い丘を登っていった。ハルニレの大木が一本あり、それを囲んですわると君が代を歌い、山桜の歌を低く唱和し、看護婦達は手首をつかんで血管にカミソリの刃を立てた。やがて自らが力を失い、倒れるからだを起こしては狂気のように掻き切った。そのまま生死の境をさまよい六名が絶命したのである。
婦長高椅ふみ(三十三歳)・副婦長石川ひさ(二十四歳)・久住きよ子看護婦(二十二歳)真田かずよ看護婦(十九歳)・佐藤春江看護婦(十七歳)・瀬川百合子看護婦(十六歳)
以来四十七年、殉職者への思いを募らせる遺族や生存者、この事件を終生忘れてはならないとする元大平地区居住者らが発起人となり、六姫命の御霊を祀り、永遠の鎮魂と祖国の限りない平和を祈念するためにこの碑を建立したのである。』
軍事訓練こそ国民の命を守ります
鎮魂碑では「ソ連軍に囲まれ」となっていますが、電脳大本営が調べた限りではソ連軍は看護婦さんの小集団を認識していません。
すれ違った、と言うのが妥当なところだと思います。
ソ連軍に攻囲されていたら、自決させてくれたとは思えませんし、翌朝の救出も無かった事でしょう。
文面を起草した方を非難したい訳では決してありません。
私はここに「国民皆兵」とか「徴兵制」の必要性を感じてしまうのです。
大日本帝国は、歴史を知らない・知ろうともしない・調べもしないブサヨの皆さんから「国民皆兵」などと言われますが、女性を徴兵したことは一度もありません。
それどころか、「徴兵制の歴史」の大部分において、適齢で検査に合格した男子でも、入営する比率はおおむね25%に過ぎません。
この25%は2年間の「現役」の後に10年~15年程度の「予備役」に就きますが、予備役の間の軍事訓練は「ほぼ」ありません。
ちなみに、永世中立国で国民皆兵のスイスは、予備役の訓練は年間3週間だそうです。
言っときますけど、10年ほどの予備役期間中に3週間じゃないですよ、一年間で3週間です。
もちろん、女性も徴兵検査を受けますし、兵役にも就きます(ただし、女性は任意)。
つまり、現代のスイスは往時の大日本帝国よりも、「有効な軍事教練を受けた人の割合」が非常に多い、ってことです。
逆に言いますと、大日本帝国は国運を賭けた大戦争を遂行できるだけの「軍事教練を受けた国民」を擁していなかった、という事になります。
ココで、考えてみて頂きたいのです。
樺太の看護婦さんたちが、二年間の徴兵と軍事訓練を受けていたら。婦長さんが、年間3週間の予備役訓練を毎年受けていたら。
軍事教練は鉄砲の撃ち方と匍匐前進だけやってるわけではありません。偵察もしますし、分隊・小隊単位の戦闘行動も練習します。
この教練を(たとえ嫌々だったとしても)受けていれば、看護婦さんたちは「逃げる前に情況を知る」為に、何らかの行動を起こしたことでしょう。
何度も書きますが、看護婦さんたちが逃げ出したころは、中垣重男大尉に率いられた特設警備第301中隊が、ソ連軍をいったん撃退して、住民たちを避難させるのに成功する少し前。
情況を(少しだけでも)調べる努力をしていたら、「一緒に逃げた方が安全」と言う判断が出来たのではないでしょうか?
もっと想像をたくましくすれば、女性とはいえ、教練を受講している看護婦さんたちを、中垣大尉は戦列に加えようとしたかも知れません。
まあ、そんなことが無くても、看護婦さんたちは南ではなく、山の方(東)へ逃げ込む判断力を持てたはずです。
この悲劇の展開が違っていたことは間違いないでしょう。
「安全と平和は軍事の具体的知識を持ってこそ!」
樺太のなでしこたちがそう叫んでいるように思えてなりません。
なお、この事件には生き残った看護婦さんの証言が幾つかあり、中には明らかに左巻きの悪影響を受けてしまったと思われるものもあります。
電脳大本営の責任においてその中から感傷に流れてしまった、と判断できるものを排除し、電脳大本営として納得できる経過を構成してみました。
でありますので、もしも事実と異なる記述があったり、関係する方のお気持ちを傷つける表現があったなら、予めお詫び申し上げます。
また、誤りをご指摘いただければ、記述を改めるにやぶさかではありません(もちろん、史料の裏付けがなければ駄目ですよ)ことも申し添えます。
「樺太の大和なでしこ」の犠牲が無駄になりませんように。
対支那戦争を前に追記
トランプ大統領によるChina封じ込めが、だんだん効果顕著になりつつあり、中共もこれに反発して、戦争の危機が現実のモノになっています。
いやいや、「危機」って本気で思ってません。基本的に私は「戦争好き」ですから。
私の戦争好きについて、少し説明しておきます。
私だって、多くの人命が危険に晒される戦争が良いと思ってるワケではありません。
ただ、どんな状況でも「戦争がダメ」と思っているわけじゃないんです。
地球上に「国」が存在している限り、国と国の利害が対立することはあるでしょう。
それぞれの国には、その国なりの利害があり、それを支える正義もあります。
国の利害が侵害されることは、その国の国民の生活や安全・繁栄が侵害されることと同義であります。
ゆえに、こうした事態が起こりそうなとき、国は戦争に訴えてでも国民の利益を守らなければなりません。
外敵を排斥できない国は、存在意義など無いんですから。
私の場合は、その「戦争に訴えてでも」の判断基準が世間一般と比べると「非常に緩い」んでしょうね。
私の基準ならChinaとは、1978年に戦端を開いています。
この年、China漁船100隻が尖閣の領海内で違法操業しやがりましたからね。
さて、アメリカとChinaが戦争になった時、当然我が国はアメリカ側に立つワケですが、開戦前にやっておくべきことが2つあります。
一つ目は、「何処までやるか?」を事前に決めておくこと。
戦争目的をハッキリさせとけ、ってことですが、戦闘の勝利をたくさん積み重ねても、あんな馬鹿デカい国を征服することは出来ませんし、糞か虫ほどウジャウジャ居る人民どもに「日本に歯向かうと損」と思わせることも出来ません。
このことを徹底的にアメリカとすり合わせて置くことが重要です。
もう一つ、万が一の場合の方策を立てて置くこと。
コレは、樺太の看護婦さんの話を読んでくださった方には良くお分かりだと思います。
戦争は何が起きるか判りません。アメリカだって負けるかも知れません。
その時に、我が国(だけ)が上手く立ち回る方法を、事前に手当しておかなきゃいけないんです。
ソレこそが、樺太の看護婦さんたちのような犠牲を、出さない方法です。
そんな汚いことがイヤなら、全国民に定期的な軍事教練を。
「ヘイワ・ヘイワ」と念仏唱え続けても、世界は平和にはなりませんし、国民の生命も守れません。