樺太からの脱出
昭和20年8月9日、いまだ有効な(期限は21年4月)日ソ不可侵条約を踏みにじって、凶産悪魔スターリンの命令の下、赤軍は大日本帝国に襲い掛かりました。
ソ連軍を足止め
満州と樺太では統治の方法が異なっていて、樺太南部は糞(電脳大本営では「ちょうせん」と読む場合が多いです)半島や台湾と同じでした。
すなわち大日本帝国の内地と同様の扱いだったのです。
そのためかどうかは定かではありませんが、樺太の大日本帝国陸軍は戦力の差からは信じられぬ程の遅滞戦闘を繰り広げ、住民の避難する時間を稼ぎました。
それでもなお、多くの悲劇が起きてしまったのは私の尊敬するFBFがよく紹介しておられるところです。
そして、樺太の日本人がソ連の魔手から逃れるためには、さらに交通機関の乗員たちの決死の努力が必要だったのです。
方面軍レベルでは混乱
昭和20年4月5日、ソ連は不可侵条約を更新しないことを通知してきました。
とはいえ、まだ1年の有効期間に希望を託す以外、大日本帝国陸軍の取れる方策はありませんでした。
ドイツ第三帝国が敗れ去った5月上旬以降には北緯50度の日ソ国境付近で、ソ連軍の行動が活発になっていることは担当の第5方面軍も探知していました。
しかし、対米戦だけでも兵力・装備が全く不足。
樺太に回せる兵団などあろう筈がありません。ソ連の侵攻があった場合の第5方面軍の作戦は、古屯付近で防衛して時間を稼ぎ旭川から第7師団が到着するのを待つ、と言うものに過ぎませんでした。
5月末にはウラジオストックから多数の貨物船が北(ソ連領)樺太に到着、7月に入るとソ連機甲師団が南下している、との情報がもたらされました。
第5方面軍はついに「ソ軍侵攻し来る時は、樺太軍団はこれと対戦すべし。」と命じます。
8月8日午後5時、宣戦布告。9日払暁、最前線で戦闘開始。
この肝心の初動期に第5方面軍は「積極戦闘を禁ず。越境すべからず。」と命令を発し、前線指揮官たちを混乱させてしまいました。この命令は翌日には撤回されたのですが、通信状況は悪く撤回を知らなかった部隊も多かったようです。
鉄道輸送が主力
天然資源の乏しい大日本帝国にとって、日露戦争のドサクサで手に入れた南樺太は文字通り「天の恵み」でした。
無尽蔵の森林からの木材・パルプ、国内には無い良質な石炭、ニシンを初めとする海産物。いずれも採取が容易で、当時としては乱獲など全く考慮する必要がない量があったのです。
ただ、自然環境は苛酷を極めていました。
「寒さ」は冬季に海の凍結や流氷をもたらし、わが国得意の海運に頼ることができません。また、地盤も軟弱なところが多く、道路の整備も思うに任せませんでした。
そのため、樺太の輸送・交通は鉄道に頼ることになりました。
樺太の中央には南北に脊梁山脈が走っていますから、東岸に樺太東線、西岸に樺太西線がひかれて、南樺太の大動脈となったのです。
東西を結ぶ連絡線は豊原と真岡を結ぶ豊真線しかありませんでした。
樺太西線は内幌から中心都市真岡を経て久春内まで。樺太東線は大泊から「首都」豊原を経由して敷香まで。ただし、敷香から古屯まで、旅客扱いはしない「軍事・貨物線」が伸びていました。
奮戦!代役125連隊
8月11日、この古屯の先の半田集落に航空機に支援されたソ連軍機甲師団が襲い掛かりました。
対する日本軍は歩兵第125連隊の内のわずか2個小隊と国境警備隊(警察官)100名。
それでもこのちっぽけな守備隊は一歩も引く気配を見せず、24時間以上にわたって抵抗を続けます。
この貴重な抵抗によってもたらされた、時間とソ軍の攻撃方法の知見は、古屯を守る第125連隊を大いに勇気付けましたが、8月12日には半田守備隊全滅。
125連隊主力は古屯近郊の八方山陣地(地下陣地との記述もあり)に砲兵隊を含む主力を隠匿し、ゲリラ的な抵抗でソ連軍の前進を妨害しました。
8月14日に第一大隊が古屯に再進出すると、ソ連軍は2個連隊規模の機甲部隊で第一大隊を叩き潰しにかかりました。
大隊長小林貞治少佐は一部兵力をソ連軍後方へ展開させるなど、巧妙な指揮を続けましたが、頭に敵弾を受けて戦死。
8月16日、戦闘を続けた第一大隊はジリジリと物量に押されてついに壊滅。
8月18日、125連隊は戦闘力を残したままで停戦、武装解除に応ずることとなりました。
ソ連軍は抵抗の様子から第一大隊を連隊規模だったと思っていたようです。また、八方山陣地に主力が居る事は最後まで気づかずにいたようです。
歩兵第125連隊は昭和15年の暮に軍旗を拝受し、昭和20年4月にそれまでの第25連隊と交替する形で上敷香に駐屯、国境警備に任じた新設連隊でした。
民間人を逃がせ
ソ連の違法侵略の開始から10日間に及ぶ125連隊の抵抗は(もちろん樺太軍団の他部隊の活躍もありました。それはまた他日)、スターリンの狙った北海道への上陸を完全に阻止したばかりではなく、樺太にいた日本人数万人の脱出にも大いに貢献することになりました。
樺太では満洲や糞半島とは違い、現地の行政機関や鉄道関係者、そして陸軍も民間人の避難・脱出に懸命な努力を繰り広げたのです。
なお、批判の多い満洲における関東軍も、出先の一線部隊レベルでは懸命な防衛戦を繰り広げた事例が多いことも付言しておきます。
残念なことに、それでも多くの悲劇が起きてしまいましたが、それについては別記事にさせて頂きたいと思います。
南樺太鉄道
敷香近くの内路という地区に陸軍飛行場がありました。
88師団(125連隊の上部部隊)はソ連の攻撃意図を事前に察知し、ここに隷下部隊を集めて列車輸送で国境近くの古屯への増援を送ることにしました。
この増援列車の機関士が「樺太で初めてソ連に空襲された民間人」になったのです。
鬱蒼たるタイガ(針葉樹林帯)を、機関車の幅だけ切り開いた線路で襲われては逃げようがないのですが、ソ連機も錬度が低かったのか機関士も兵員も無事だったそうです。
古屯に増援を送り届けた後、この列車の折り返しが民間人避難の初めとなります。
帰りもソ連機に襲われ、機銃掃射でブレーキが破損する被害がありましたが、機関車が3両(3重連)も付いていたために、敷香まで帰り着くことが出来ました。
樺太東線の敷香、内路、知取や樺太西線の恵須取などで緊急疎開が開始されたのは8月14日。
内地(北海道)まで逃げなければ、民間人の安全は保障できません。
内地へ逃れるためには連絡船に乗らなければいけませんが、乗船地は大泊、真岡、本斗の3港が指定され、港までは列車とトラックが用意されました。
ところが、樺太庁・豊原市と南樺太鉄道の合同会議が開かれて疎開列車の運行詳細が決められたのが8月15日とする記述も幾つかあり、混乱ぶりがわかります。
電脳大本営の想像する所、敷香あたりの機関区が独断で一日早く避難列車を出したのではないでしょうか?
南樺太鉄道は基本的に単線ですから、こんなことをすれば鉄道全体が動かなくなってしまいますが、行政、鉄道会社などが後追いでバックアップしたのではないか?と想像するところであります。
ともかく、客車だけでなく貨車も総動員した避難列車は南へ、南へと逃げます。
幸いにも、厳しい寒さの冬ではありませんでしたが、無蓋の貨車に乗せられた避難者は暑熱と渇きに苦しめられたようです。
さらに、その貨車も足りず、「セキ」と呼ばれた石炭専用の貨車に乗車した人もいたそうです。
「セキ」は床を開けて石炭を投げ出しやすいように、床の部分が山形に作られています。こんなものに乗車したら座ることも立つことも出来そうにありません。
それでも、樺太で生活の基盤を築いていた人々は内地を目指したのです。
避難する人々には当然機関士や機関助手の家族も混じっていましたが、避難港に着くや、列車は再び北へ急ぎます。
機関士たちは家族を避難させたことで安堵し、自らの危険は顧みずにさらなる日本国民の救出に向かったのであります。
連絡船
避難者たちは南樺太鉄道の乗務員や関係者によって、命からがら大泊・真岡まで逃げてくることが出来ました。
しかし、まだ安全地帯ではありません。樺太北部はソ連領であり、赤い悪魔の支配地と、まだ陸続きなのですから。
海を越えて少なくとも北海道へ渡らなければ、ほっとすることなど出来ないのです。
終戦のご詔勅が発せられても、人の情も理を解さない共産主義者には何の関係もありません。
8月15日辺りからは豊原や真岡にもソ連機が来襲し、避難民に機銃掃射を加え始めました。
それでなくても、殺到する避難民で港は大混乱の巷と化し、大泊の埠頭は立錐の余地もなかったそうです。
埠頭から8列に並んで乗船を待つ人々の列が3キロにも及び、街角には銃撃された遺骸が転がっていた、と言われる惨状なのです。
この状況で列を作って船を待つ。まぎれもなく日本人ですね。
稚内と大泊を結ぶ「稚泊」航路には「亜庭丸」と「宗谷丸」の2隻の連絡船が就航していました。
しかし、7月10日に青函連絡船が空襲で全滅してしまったため、亜庭丸がそちらに回り(8月10日に撃沈されました)、避難に使える船は宗谷丸一隻しかありませんでした。
宗谷丸は8月13日から緊急運行を開始し、初便で定員の680名を輸送しました。
ん?定員?そうなのです!
稚泊連絡船も宗谷丸乗組員ももっと乗せたかったのですが、海軍から「待った」がかかったのです。
樺太庁はあわてて海軍に「万一の際の責任は樺太庁が取る」と申し入れ、さらに酒樽を届けて篭絡して「乗れるだけ乗せてよし」と許可を取ったのです。
何か変ですよね。同盟国の事例と比べて見てください。
ただ、海軍も手をこまねいていただけではありません。機雷敷設艦・海防艦各一隻と特設砲艦14隻が救出に参加。
*お詫び:読者の方からご指摘をいただき、ただいま調査中ですがこの記述には「ウラ」が取れておりません。
誠に申し訳ありません。文末に御指摘いただいた参加艦艇名を追記させて頂いております。
逓信省も船を提供、さらに民間の貨物船も救出の戦列に加わりました。
3船殉難
8月21日、逓信省の海底電線敷設船「小笠原丸」(1400トン)、特設砲艦「第二新興丸」(2700トン)、民間貨物船「泰東丸」(880トン)の3隻の避難船が稚内に到着しました。
稚内は、避難民の殺到で大混乱に陥っており、旭川への鉄道輸送も限界を越えていました。到着した3隻の乗客を受け入れられず、避難船は小樽へ直行するように指示されました。
3隻は漆黒の日本海を南下。翌22日の午前4時過ぎ、留萌沖までやって来た時に悲劇が起こりました。
先ず、「小笠原丸」が雷撃されて一瞬で沈没、600名以上が死亡。
5時過ぎには「第二新興丸」が雷撃され、沈没はしませんでしたがさらに浮上した潜水艦から銃撃され400名あまりが死亡。
10時になると「泰東丸」が浮上していた潜水艦に砲撃され、白旗を揚げても攻撃は続いて670名が死亡する惨劇となってしまいました。
小笠原丸には納屋幸喜という少年と母親が乗船していたのですが、母親の体調がすぐれず、親子ともども稚内で下船して難を逃れることが出来ました。
納屋幸喜、「昭和の大横綱」大鵬関であります。
ちゃんと手配していた
こうして多大な犠牲を払いながら、樺太からの逃避行は満洲や朝鮮からの脱出に比べてはるかに秩序だって行われました。
樺太庁は逃げ出すばかりではなく、疎開先での援護も考えていました。
早くも8月9日に北海道庁内に「樺太庁北海道事務所」、稚内・名寄・旭川・岩見沢・小樽・函館に「出張所」を開設しています。
稚内の桟橋では手荷物の運搬手伝いや炊き出しを実施、待合所で疎開証明書や外食券を交付したとされています。また、庁立樺太医専の医師に救護班を作らせています。
これらの手厚い配慮は一人のお役人の存在が大きく影響しているように思えます。
第15代の樺太庁の長官・大津敏男と言う人がその人です。
明治26(1893)年福岡県柳川市生まれ。
東京帝国大学法学部卒業し、内務省に入省。
関東局長官、埼玉県知事を歴任し昭和18年、樺太庁長官に就任。
ソ連対日参戦後、8月24日に豊原市がソ連軍に占領されるまで樺太住民の内地への疎開に務めた、とWikiには書かれています。
ソ連占領後は残留した樺太の住民の生命と安全を守るべく奔走。
昭和20年12月30日、ソ連軍に逮捕されハバロフスクに抑留されましたが、昭和25年に帰国。
昭和33年12月27日、心不全のため死去。享年65。
これと言った栄典は、私が調べた限りではありません。
こういう人にこそ、我が国は勲章を差し上げるべきだと思うのであります。
さらに毎度くどいようですが、戦争を始める時は万一のことも考えておかねばなりません。
それが厭なら、「絶対に勝てるだけの圧倒的な武力を持つ」って選択肢もありますけどね。ブサヨには理解できないでしょうけど。
続編「樺太の看護婦さん」もお読みいただけると幸いです。
追記
T.K氏ご調査による「樺太脱出」参加の海軍艦艇
占守(海防艦)・石崎(敷設艇)・高栄丸(特設敷設艦)・第二新興丸(特設砲艦)・大泊(砕氷船)・千歳丸(砕氷船)・北竜丸(駆潜艇)