継続戦争の終わらせ方~西側へ~
1944年9月19日、モスクワで交渉中だったフィンランドとソ連(とイギリス)による休戦交渉が妥結・署名され、継続戦争は事実上終結、フィンランドはついに亡国の危機を脱することができましたが…承前「終わらせ方5」
大損害
1944年6月9日の「ソ連軍の大攻勢」の開始からこの休戦協定の妥結までで、フィンランド軍は大きな損害を出しています。
戦死者9352名・負傷者約3万名。戦車・突撃砲の損害は35輌、戦闘機30機・爆撃機20機も喪失。
一方のソ連軍は(公式発表だと)戦死者2万6698名・負傷者8万4462名。戦車・自走砲294輌、火砲489門、航空機311機になっています。
ただし、ソ連は「タリ=イハンタラの戦い」の死傷者や損害は「発表しない」としています(ロシアになっても発表してないみたいです)。つまりこの数字には含まれていないんですね。
また東カレリアでケチョンケチョンにされたソ連第7軍の損害も含まれていません。
ソ連が発表してる数字だけでも、人的損害がフィンランドのおおよそ3倍・戦車(と自走砲)で8倍・航空機6倍…ととんでもない数字になってるんですが、実際には「それどころじゃない」のであります。
一方で、フィンランドの方も大きな損害を受けています。上記の数字は継続戦争末期のごく一時期のもの。
フィンランドが大国ソ連を向こうに回して奮闘した冬戦争と継続戦争(都合によりラップランド戦争も入っちゃうのですが)を通じてのフィンランド軍人・軍属の損害は、死者・行方不明者8万3694名で、一般市民の死者は2001名。
父親もしくは母親を失った孤児は5万人。
当時の人口わずか370万人だったフィンランドにとって、戦争の傷はとてつもなく大きかったんです。
ただ、この数字を良く見て頂きたいと思います。
軍人の犠牲者数に比べて、民間人の死者の少ないことにご注目頂きたいのです。
第二次世界大戦は第一次大戦から始まった(ように見える)「総力戦」が本格化して、民間人の犠牲が多くなっちゃったのでありますが。
統計にいろいろあって、数字が前後しちゃいますけれど、大雑把に言いますと、大日本帝国の犠牲者数は約310万人、その内民間人がおおよそ80万人(支那事変~)。
ドイツだと犠牲者の数が約515万人で、そのうち民間人は約230万名です。
フィンランドの民間人被害が、「異様な」と言っても良いほど少ないことがお判りいただけるでしょう。
電脳大本営的には、「軍隊の任務」とは「国民の生命・財産を守ること」に尽きますから、フィンランド軍の善戦敢闘ぶりは称えても讃えきれるものではありませぬ。
もちろん、大日本帝国や当時の盟邦ドイツと違って、本土や民間人を守り切れない離島・洋上などは、フィンランドの場合はほぼ戦場になっていません。
タリの町も、民間人は事前に避難していますし。
しかしながら、それもこれも絶望的な状況下におかれても、諦めることなく戦い抜いたフィンランド軍将兵の激闘によるモノです。
また、軍隊がやっとの思いで作り出した「講和の機会」を、見事にとらえた政府の外交力も見逃すことは出来ません。
大日本帝国陸海軍やドイツ国防軍が悪かったのではなくて、フィンランド軍+政府が「出来過ぎ」なのであります。
戦わなければ
「終わらせ方」の一話目でも少し書きましたが、ソ連がフィンランドに戦争を吹っ掛けるキッカケは、ソ連の重要都市であるレニングラード防衛のために、「領土をちょっとだけ返すor基地として貸してくれ」って要求でありました。
元々、フィンランドはロシア帝国皇帝陛下が大公を兼任なさっている「大公国」でありました(つまりロシア帝国の一部)ので、この要求はソ連側から見たらそれほど「大国の横暴」とか「腕力にモノを言わせて」ってなモンではありません。
ソ連なんて、交渉の一時期には「代わりにこの島あげるからさぁ」みたいな提案までしてますしね。
私もこれだけみれば、
「フィンランドもちょっと譲ってやってもよかったのに…」
と思わないでもありません。
しかし、フィンランドはソ連の要求を断固拒否(一部基地貸しなどには応じましたが)、結局冬戦争で領土を取られちゃいます。
それは正しい選択だったのか?
ソ連の要求を丸呑みして、ソ連の勢力圏入り、ってのも選択肢としてアリだったんじゃね?
と誰しも思うんではないでしょうか。
しかし、この疑問の解答は簡単であります。
「バルト三国をご覧あれ」がその答えです。
1939年8月24日、ソ連とドイツは「独ソ不可侵条約」に調印しました。
はるか極東の島帝国で、平沼騏一郎とか言う内閣総理大臣が「欧洲の天地は複雑怪奇」とぬかしてその職を放り出した、アレでございます。
「独ソは接近してんじゃね?何回も外相が行き来してるし…」なんて情報は事前に飛び交ってたようですし、その証拠に平沼ちゃんは、新聞記者から「独ソが接近してるようですが…」と質問されて
「政治的に独ソの間の接近があるなぞとは認めない」
と答えてるんですね。
独ソ両強国が、お互いに仲良く(ごくごく表面的・一時的ですが)するのに、なんでお前なんぞの許可取る必要があるんだよ!と突っ込みたくなるじゃありませんか。
役人的増上慢・阿呆・無知・無責任全開であります(平沼は法務省の役人上がり)。
閑話休題。
良く知られたことですが、この「不可侵条約」には「秘密議定書」が付属しておりまして。
東ヨーロッパを独ソで分割占領統治しよう、って約束です。
この議定書でフィンランド・エストニア・ラトビアはソ連、リトアニアはドイツ(のちにソ連に変更)の勢力圏とされました。
もっと有名なところだと、ポーランドは両国で分割支配ね。
で、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト3国は結局ほぼほぼ「無抵抗」でソ連の占領を受け入れ、バルバロッサ作戦の発動でドイツに占領支配されます。
ドイツが「ソ連領」のバルト3国を占領すると、これもほぼ無抵抗で「東方占領地域」って名の植民地扱いを受け入れちゃうんであります。
因みに、日本のお役人(陸軍海軍の役人まで含めても)としては異常なほど外交センスがあって、筋も通っている杉原千畝さんが「命のビザ」をせっせと書いてたのは、「ソ連が併合した直後」のリトアニアね。
で、ドイツが後退するときには、さすがにこの情けない国の人々も
「ソ連よりゃドイツの方がマシじゃん」
って思ったようで、ドイツ軍の味方したりするんですが、パワーは大してありません。
そりゃそうでしょう、ソ連・ドイツに思いっきり搾取されてたんですから。
そうまでして戦争を避けたバルト三国ですが、併合された後のソ連の弾圧に加えて、独ソ戦の主戦場になってしまって、約200万名もの犠牲者を出してしまうのであります。
しかもしかも、ソ連に「解放」されてから50年間も「力ずくの支配」を受けることになります。
自由も民主主義も経済の発展もへったくれもありません。
垢魔ソ連の支配から解放されるのは、垢魔が軍拡競争に耐えられなくなるのを待たなきゃいけなかったんです。
戦争やその後の被害についていえば、敢然と立ち上がったフィンランドの方が、はるかに少なかったワケですね。
こんなことは「竹島はあげたら良い」とか、「尖閣は必要ない」などと宣う方々は決して仰いませんけどね。パヨども、聞いてるか?
フィンランドも危なかった
ソ連との講和に成功したものの、フィンランドを取り巻く状況は厳しいものがありました。
フィンランドはソ連垢から「国家主権・議会制民主主義・資本主義の存続」は認められました。
まあ、これが最も重要な「守るべきもの」であったことは間違いありません。フィンランドの「戦争目的」はコレで達成された、と見ることもできるでしょう。
何かと煩い「札幌学派」(東アジア植民地の開放を成し遂げたので、大東亜戦争は帝国の大勝利である!とかホザく、歴史を語る資格のない農学博士とその弟子約一名)の論法を借りれば、
「フィンランドは第二次大戦でソ連に勝った」
と言えそうですが(笑)そんなこと言ったら、たぶん貴方は一生サンタクロースに会えないと思うよ。
話、戻します。
しかしながらフィンランドは、代償として国土の15%弱にあたる地域(カレリア地峡とペッツァモ地方)をソ連に割譲し、カレリア地峡や東カレリアからの難民50万人を抱え込むことになりました。
前述しましたが、冬戦前のフィンランドの人口は370万人です。
難民だってフィンランド国民ですから、衣食住を何とかしてあげなきゃいけませんし、そのあとに人々が生活していけるような経済的な基盤も作ってあげなきゃいけません。
85%に狭まった国土で、生活基盤を失った50万人を320万人で迎える…
大日本帝国も大東亜戦争の敗戦後、「引揚げ」てきた人々を迎えて経済を再建したワケですが、フィンランドにはさらに悪い条件がありました。
ソ連に3億ドルもの「賠償金」を払わなきゃいけなかったのです。それも6年以内に。
さらに、国土の北部(ラップランド)ではドイツ軍と戦い続けなければなりません。
ほぼ「ナアナア」とは言っても、
「ドイツ軍を国土から駆逐する」
というミッションを遂行しつつ、ソ連との約束で動員を解除しなければいけない、という難事もあったのです。
ロッタ・スヴァルド協会もこの時に解散させられています(ソ連からの要求)。
スターリンめ、女性ボランティア団体まで怖がるとは、どんだけヘタレやねん。
どこを見ても希望など欠片もない、マンネルヘイムが大統領を務めたフィンランドはそんな国だったのであります。
連合国管理委員会
フィンランドは休戦の発効後、ソ連に占領されることはありませんでしたが、「連合国管理委員会」の管理下に置かれました。
大日本帝国の場合で言うGHQですね。
で、GHQがアメリカの「統治機関」みたいなモンだったように、フィンランドの「連合国管理委員会」はソ連の出先機関でありました。
ドイツとフィンランドの「ラップランド戦争」が本格的になろうとしていた時期、ヘルシンキの連合国管理委員会に責任者としてソ連軍のツダノフ大将が着任いたしました。
停戦協定では、「ソ連はフィンランドの主権を尊重する」とされていましたが、ソ連がそんなものを尊重する気はありませんし、世界中の誰も期待していません。
ツダノフ大将は、それまでフィンランドの法律で非合法だった「共産党」の活動を認めさせ、逆に「反ソ運動」を取り締まるよう、マンネルヘイム大統領に要求しました。
マンネルヘイムは要求を受け入れざるを得ません。
そうしておいて、ツダノフはフィンランド国内の親ソ派を支援します。
フィンランド人民民主同盟(SKDL)の結成を後押しするなど、露骨に内政干渉をやってきます。
マンネルヘイム大統領は、ソ連との関係を悪化させることは出来ませんので、SKDLを優遇せざるを得ませんでした。
嫌々ながらSKDLのイルホ・レイリ党首を内閣に取り込み、内務大臣に任命しました。内務大臣は警察権を持っていて、重要な閣僚なんです。
マンネルヘイムは、この困難な情勢を乗り越えるために、さらに思い切った手を打ちます。
自らのすぐ下で、行政のかじ取りを担う「首相」に、ユホ・クスティ・パーシキヴィさんを起用したのです。
パーシキヴィさんは、戦前から「親ソ派」としてよく知られた大物政治家です。
パーシキヴィは冬戦争も継続戦争も、ソ連と戦うことには反対してきましたから、当然マンネルヘイムさんとは長年に渡って対立してきた人物です。
マンネルヘイムはソ連というか共産主義の暴力性・欺瞞性・独裁制を危険だと見て取り、フィンランドの独立のために、軍備を整える努力が大切だ、と考えていました。
パーシキヴィはそれに対して、
「フィンランドのような小国がいかに努力してもソ連相手に勝ち目はない。フィンランドの独立を維持するためには、ソ連との友好・協調関係を大切にすべきだ」
との考え方を主張していました。
そのためでしょう、パーシキヴィはスターリンなどソ連の要人と積極的に交流を持っていましたし、共産主義に対して一定の理解も示していました。
パーシキヴィの首相就任をソ連は大歓迎し、一方のアメリカとイギリスは「いずれフィンランドは赤化するのでは?」と考えました。
しかし、この「パーシキヴィの首相起用」は結果を見ると「マンネルヘイムの深慮遠謀」だったようです。
これからちょっとの間の政治家評は「結果論」になりますが。
マンネルヘイムとパーシキヴィ、一見相対立する政治思想の持ち主に見えますが、
「議会制民主主義と資本主義を維持していく」
ことが、フィンランド国民にとって(困難に満ちていますが)最善の道であるという考えは一致していたのです。
パーシキヴィは実際のところ「親ソ」ではあっても共産主義や独裁を容認していたワケではないのです。
つまり、
「ソ連(共産独裁国家)は危険なヤクザみたいな国だから、なるべく離れていたい。」
というところはマンネルヘイムもパーシキヴィも一致していたのです。
ただ、そのための方法論が正反対だったんですね。
マンネルヘイムは生涯かけて「共産主義嫌い」を通しましたので、パーシキヴィとはウマが合わなかったのです。
しかし国難の時にあっては、マンネルヘイム大統領も好き嫌いは言ってられません。
マンネルヘイムはソ連に嫌われて警戒されている自分より、表面的にはソ連首脳陣と親交のあるパーシキヴィを内政の要職に抜擢したのです。
この内情はソ連に知られることはありませんでしたが、同時に西側諸国にも伏せられていましたので、上記のように英米両国もフィンランドの「レッドチーム入り」を覚悟していたのです。
行きそうで行かない
「連合国管理委員会」のツダノフ大将は、フィンランド政府に対して
「フィンランド湾に存在する全ての重砲を撤去せよ」
との命令を出します。
もちろん、小者ツダノフの独断ではなく、ヨシフ・スターリンの指示を受けたモノです。
コレをきっかけに、フィンランドの軍備をトコトン骨抜きにしておこう、って算段ですね。
この命令を受けると、マンネルヘイムはツダノフと面談を要求します。
「フィンランド湾の防備がないと、オタク(ソ連)を攻撃しようとする第三国がフィンランドに攻めてきても(フィンランド領を攻撃経路としようとしても)防戦する事は出来きまへんで。それって、ソ連の国益に適うことじゃおまへんやんかいさ。」
と主張したのでした。
コレを聞いたツダノフは、ホイホイと命令撤回。
マンネルヘイムの「フィンランド生存」の基本構想は、この件に象徴されるように、
「フィンランドを『中立の独立国』として(ある程度)好きにさせてやる方が、わが国にとって利用価値がある」
とソ連に信じ込ませる、ってところに主眼を置いていました。
マンネルヘイムはドイツだろうがイギリスだろうがアメリカだろうが、他の大国と仲良くすると、ソ連のフィンランドへの疑心暗鬼を呼び起こし、再び戦争を招きかねない…と考えたのです。
マンネルヘイムはツダノフと何度も会談を重ねて、ある「覚書」を示します。
そこには、
「ソ連はフィンランド国民に対して、自由な政治体制の選択を保障する。フィンランドはソ連と敵対する第三国がソ連の領土を攻撃する際に、フィンランドの国土を利用することを拒否する。フィンランドは自国の防衛と芬・ソ両国の安全保障のため戦うが、その際にはソ連に対して軍事支援を要請する」
と記されていました。
自由と民主主義、資本主義経済を希求するフィンランドが、
「両陣営激突の時は、共産陣営に付くよ」
と言ってるように見えます。
この提案に、さすがのツダノフも驚いたようです。
それまで高圧的な態度だった対フィンランド姿勢が、大いに軟化したそうです。
この「提案」は西側でも一定の評価を受けました。
つまり、フィンランド国民が自由な政治体制を選択できる限り、「赤化」しちゃう心配は大きくなく、コチラから攻めていかない限り、軍事に限ってもフィンランドはレッドチームに入らない、ってことでもあるワケですから。
ソ連はフィンランド兵の「戦闘力」の高さを思い知っていますから、フィンランドに「進駐」して力任せに政治体制を変えることもしないでしょう(講和交渉の初期段階から、ソ連は「占領はしない」と言い続けています)。
もちろん「マンネルヘイム提案」は諸刃の剣でもあります。
もしアメリカ・ソ連間で戦争が起きたら?
特にアメリカ(自由陣営)が攻勢を取ったら、フィンランドは否も応もなくソ連との軍事同盟を受け入れ、アメリカを敵とすることになりかねません。
しかし、この時の世界情勢ではフィンランドが取るべき道はこれしか無かったのです。
退任
1945年3月、まだヨーロッパの戦争は続いています。
それでもマンネルヘイム大統領はフィンランドの総選挙を強行しました。
国際情勢はまだ不安定、国内の治安すら危惧する声は大きなモノがありましたが、マンネルヘイムは自分が考え抜き、表明した「路線」を国民に提示し、信を問いたいと考えたのです。
選挙は、ソ連の露骨な干渉を受けました。垢魔が何時でも何所でもやらかす常套手段です。
そのせいもあってか、フィンランド人民民主同盟(SKDL)は25パーセントの議席を確保できました。
( ,,`・ω・´)ンンン?
そう、ソ連の後押しを受け、苛烈な選挙干渉で政権与党を思いっきり妨害したのに、「ソ連派」のSKDLは過半数に遠く遠く及ばなかったのです。
マンネルヘイム与党が政権を維持したのです。
マンネルヘイムの方針は、国民の間で「圧倒的な支持」を受けているって証明されたのであります。
スターリンはSKDLが勝てなかったことに失望したと言われています。
選挙で敗れた恨みは、次回の選挙で返すのが民主主義国家と言うモンですが、垢魔国家は違います。
ソ連は折から始まったリスト・リュティ前大統領の「戦争裁判」でこの恨みを晴らそうとしたのです。汚いったらありゃしない。
ソ連は「リスト・リュティ死刑」を裁判で主張し続けます。
マンネルヘイムは
「リスト・リュティが大統領であった時、我が国は非常に困難な情勢下に置かれていた。判決ではそのことを考慮しなければならない」
と発言。
ツダノフから司法権に対する介入だ、とか難癖をつけられています。
パーシキヴィ首相も
「継続戦争は防衛戦争だったから」
という見解を示したのですが、政府としては「三権分立の原則」を振りかざす垢魔の前では、表だった弁護が出来ません。
三権分立を盾に無法を押し通す国って、わが国近隣にもありますよね。
ソ連側検察の求刑はやはり死刑。
判決が言い渡されたのは1946年になってからで、リュティは禁錮10年となりました。
ソ連は反発しましたが、イギリスは「妥当な判決である」、として判決を確定。
収監されたリュティ前大統領は、獄中で3年を過ごしたあと、体調を崩してしまいます。
リュティは療養のために釈放され、以後政界に復帰することなく、静かに余生を送り、1956年に死去。
フィンランド国民は、良く判っていました。
リュティを
「自分の身を犠牲にして、フィンランドを戦争から離脱させた大統領」
として英雄扱いし、国葬をもって功に報いようとしたのです。
ソ連は猛烈に反対しましたが、意に介さず、国葬を挙行。
フィンランド国民は自分たちが「忘恩の徒」ではないことを証明しています。
戦争裁判が終わり、フィンランドの行くべき方向性が大よそ見えてきた1946年3月4日、マンネルヘイム大統領は辞任を表明。
後継の大統領にパーシキヴィさんを指名しました。
マンネルヘイムはこの時すでに78歳の高齢となっていました。
日露戦争・フィンランド内戦で鍛え上げたマンネルヘイムの強靭な肉体も、冬戦争以降の祖国の危機を乗り越えた激務でボロボロになっていました。
体調が悪化の一途をたどっていた彼に、もはや大統領職を続けるのは困難だったのです。
大統領を辞したマンネルヘイムは、すぐに十二指腸潰瘍を発症、スイスで手術を受けて、一時的に回復したものの、1951年1月27日、スイス・ローザンヌで死去。
当然のように国葬。リスト・リュティと同じ「ヒエタニエミ墓地」に葬られています。
ついでに書いておくと、後継大統領のパーシキヴィもこの墓地です。
最後に、マンネルヘイムが徹底的に嫌い、痛い目に合わせてやったスターリンの言葉を紹介しちゃいます。
フィンランドの外交団に対して語った言葉とされています。
「フィン人は老元帥に多くの借りがある」
長いお話にお付き合いいただき、ありがとうございます。
遠い弱小国の話ではありますが、わずかでも日本防衛の参考になりますように。