継続戦争の終わらせ方4

タリ=イハンタラで大敗北を喫したとは言っても、ソ連は大国です。垢陸軍全体でみればフィンランドに一発カマされた損害なんぞ、屁みたいなモンでした。

今までのお話は終わらせ方123

必勝の信念がすべて?

フィンランドへの攻勢と時を同じくして(って言うか、バクラチオンのついでにフィンランドを鎧袖一触のつもりだったんだろうな)始まったバクラチオン作戦は、順調に進行していました。

ソ連のくせに、陸空一体の反攻は、まるで3年前の電撃戦を逆にしたようでした。

電撃戦の父ちゃんグデーリアン

「電撃戦の父ちゃん」グデーリアン

 

その上、少し後退しただけで「誰かさん」がすぐ怒るモンですから、ドイツ軍は「機動防御」って手も使えず押されっぱなし。
しかし、「腐っても大陸国」の陸軍でありますから、そんなにズルズルとは下がりません。

タリ=イハンタラの決着がついたころの東部戦線はまだまだソ連領内に有りました。

ソ連としたら、フランスを席巻してドイツ本国に怒涛の如く押し寄せる西側連合国の情況が気になって仕方がない。って申しますのは、本国に踏み込まれた(踏み込まれそうになって)ドイツが手を上げちゃうのが心配で心配で…

もし、ドイツ軍が降伏するときに東部戦線がまだ自国の領内だったら…アリタ・ヨシフ・スターリンにとってはコレが心配で心配でしょうがなかった、と思われます。
スタちゃんは「自国領確保」どころか、東部戦線をドイツ領内を超えて西へ推し進めることを狙っていました。

「脅威との国境線を出来るだけ自分の居場所から遠ざけたい」っていうのは、モンゴルにケチョンケチョンにされて以来の「ロシアの国民的願望」だと思われますから。

モンゴル騎馬軍団を遠ざけるために、シベリアの凍土荒野を東へ東へと進んでいったのと同じ理屈です。
この願望は、戦後「東欧衛星国群」として実現することになりますが、この時は何度も言うように戦線はソ連領内です。

東欧衛星国

東欧衛星国

 

ヨシフ(スタの方)としては、さっさとフィンランドとの戦争に決着を付けて、フィンランド軍と対峙する戦力をドイツとの戦争に投入したくって仕方ありません。

しかし、タリ=イハンタラの戦いのあと、ソ連軍は不思議なほどフィンランドとの戦闘に勝てなくなってしまったのです。

たとえば、1944年7月3日にヴィープリ湾の島の幾つかに上陸作戦をやらかしています。

無人島をふたつみっつ占領(無抵抗ですから)することは出来たんですが、そこを足場にフィンランド本土へ上陸しようとすると、ドイツ軍(この地域はドイツ軍が守備する協定)にチョコチョコっと反撃されてあっさり海に追い落とされてしまいます。

垢、ついに交渉の席に着く

7月4日、ソ連軍は内陸でも攻撃を再興しました。
タリ=イハンタラのラインから東に40キロほど離れている「ヴォサルミ」の町を攻略しようと考えたのです。

ヴォサルミからは、遠回りでしたがイハンタラへ通じる街道があり、機甲部隊の進撃が十分可能です。
垢軍はこの攻撃に第23軍の10万名を投入。23軍はタリ=イハンタラの戦いに参加していないので、戦意も兵力も十分だろうと思われたのですが。

戦争をするときは、己を知ることも大切ですが相手も知らなきゃ勝てません。

ヴォサルミ防衛を担当していたのは、フィンランドきっての勇将(ここでは「有能な前線指揮官」の意)であるシーラスヴォ中将とその部下(フィンランド第3軍)3万だったのです。

シーラスヴォさんは冬戦争の「スオムッサルミの戦い」で、優勢な垢軍をモッティ戦術で各個撃破し、ついには全滅させた名将。
シーラスヴォ将軍はココでも寡兵よく善戦・抵抗して、ソ連軍の進撃は停滞してしまいます。

7月9日までフィンランド第3軍が粘ると、イハンタラの戦場から後退して休養と再編成をおこなっていた戦車師団がヴォサルミに到着。
これから垢軍は次第に劣勢になり、7月18日にはヴォクシ川に追い落とされ敗退。
フィンランド軍死傷者は約6千名、ソ連軍は1万6千名が戦死。

ヤルマル・フリドルフ・シーラスヴオ

ヤルマル・フリドルフ・シーラスヴオ(右の人ね)

 

「ヴォサルミの戦い」でまたまた寡兵に敗れ去ったソ連軍。

イハンタラ攻略の主担当は「レニングラード方面軍」ですが、その各部隊がカレリア地峡を離れて、南へ移動を始めました。
フィンランド空軍の偵察機や、陸軍情報部の偵察部隊(ソ連軍の占領地域にも侵入していました)の兵士たちもこの動きを確認。

フィンランド軍総司令部も、暗号情報を解読しました。
レニングラード方面軍は、バクラチオン(ドイツ侵攻作戦)に合流するように命令されていたのです。

ココに至ってソ連はついにフィンランドとの講和交渉に応じるつもりになったようです。講和交渉が開始されましたが、まだ戦争は終わりではありません。

交渉はやりながら、戦闘は激しく続いているのです。

「ヴォサルミの戦い」の戦況がフィンランド有利に転換するころ、7月半ばにフィンランド軍はイハンタラで攻勢に出ました。

垢を追い払った7月9日以降にも、イハンタラには続々と増援部隊が到着して、総兵力は25万名を超えようとしていました。この「大兵力(兵隊さんの数が多いって意味だぞ)」でのフィンランド軍の攻撃に、ソ連軍はズルズルと後退。
ポルティンホイッカ十字路を守りきれず、タリ川も防衛ラインに設定できず。

ソ連の152ミリ榴弾砲を牽引するフィンランド軍トラクター

フィンランド軍トラクターが牽引するのは、ソ連の152ミリ榴弾砲。
この時期を象徴する光景

 

逃げるソ連軍を追い、フィンランド軍も渡河してさらに追撃。
ソ連軍はヴィープリまで退却し、フィンランド軍はタリの街を奪還したのであります。

垢、とどめの敗戦

継続戦争は「講和」交渉なしでは終わらせる事は出来ません。

この時期(1944年7月中旬以降)は交渉が始まっているので、お話はソチラに比重を置くべきですが、「垢軍が負けやがる」のは書いてて気持ちが良いので、もう少し続けます。

カレリア地峡のソ連軍(レニングラード方面軍)は引き上げて行きましたが、ソ連軍は東カレリアでは攻勢に出ていました。
コチラを担当していた「ソ連第7軍」には、「バクラチオンへ合流」ってな命令は出ていません。フィンランド本土へ侵攻を続けていやがったのです。

7月の20日にはソ連第176師団と第289師団のうち2万5千の兵力が、両国の国境線(冬戦争後に定められたモノ)を越え、フィンランド領内に侵入してきました。

領内に敵軍が居ることは、進行中の講和交渉に大きな影響があります。敵軍が占領しているところは、そのまま敵領になってしまう可能性が高いのです。

我々日本人なら、日露戦争の講和交渉時に、わが軍が樺太を占領したことを思い起こすとよく理解できますね。

東カレリア方面軍司令官タルヴェラ中将は即座に反撃命令を出します。
ソ連軍に対応できたのはフィンランド軍の2個連隊6千名に過ぎませんでしたが、4倍強のソ連軍にモッティ(包囲)戦術で挑みます。

パーヴォ・タルヴェラ

パーヴォ・タルヴェラ

 

森林と湖に囲まれた地形を上手に利用する、フィンランド軍お得意の戦術。ソ連軍はどうしても隘路を分散して進撃する形になりますから、連携が取れず孤立します(一時的に、ですけどね)。

全体では大軍のソ連垢も、孤立している時は剽悍なフィンランド兵の包囲・襲撃の対象になるだけ。7月20日に侵攻を始めたソ連軍は、ここ「イロマンティ」でも8月9日までに3千名の死傷者を出し、敗れ去ったのです。

「イロマンティの戦い」の特徴は、ソ連軍が珍しく戦車や大砲を伴っていない、純粋な歩兵で進撃してきたことにあるでしょう。
コレは進撃する土地の交通事情って言うか、森と湖にあふれた地形の悪さで、機甲部隊が随伴できないのに、前進したからです。
垢軍には戦訓を学ぶって習慣がないのか、そもそも歴史を顧みる知恵もないのか?フィンランド兵に4倍する戦力なら、歩兵同士でも負けない!と思っちゃったんでしょうねぇ。

まあ、そんな事で「イロマンティの戦い」は
「ソ連歩兵は4倍居ててもフィンランド歩兵に敵わない」
ってことを証明することになってしまいました。

コレは垢軍首脳をすっ飛ばして、ヨシフ(スタの方)に大きな衝撃を与えました。
ほれ、わが国の戦国時代には「尾張兵3人で三河兵一人に匹敵」なんて言ってたんでしょ?
儂、個人的には「こんなん、絶対ウソやん」って思ってるけどな。

モラーヌ・ソルニエMS406

オマケ画像フランスのモラーヌ・ソルニエMS406戦闘機

 

でも、これが明確に「証明」されちまったんですから、ヨシフが頭を抱えるのも判るってモンであります。

ついにヨシフは、「冬戦争終結時の国境線まで撤退せよ」と命じざるを得ませんでした。

ロッタ・スヴァルド

一方のフィンランド国内ではイロマンティの戦いの大勢が決するころ(8月4日)に、リスト・リュッティ大統領に代わって、マンネルヘイム元帥が大統領に就任。

コレは法の規定に基づかず、すなわち選挙ナシで議会の議決によって大統領を決めちゃったんですが、ソ連との講和交渉のためにはどうしても必要なことでした。
その辺は今シリーズのキモ(判ってる人も多いでしょうが)でありますので、もうちょっと後で詳しく書きます。

1944年8月25日、ついにソ連はフィンランドの休戦交渉団がモスクワへやってくることを受け入れる、と表明します。
このときソ連が提示した講和条件は、かなりズウズウしい、フィンランドにとって過酷なもので…。

リュティとマンネルヘイム

リュティとマンネルヘイム

 

これから「終わらせ方」の佳境に入るんですが、その前にちょっと触れておかねばならないことがあります。
それが「ロッタ・スヴァルド」であります。

勇敢なるフィンランドのご婦人方は、大国の大攻勢に苦闘する男どもを放っておけず、負傷兵の後送や、前線への食糧補給の任務まで「自主的」に担当したのです。
銃こそ取りませんでしたが、フィンランド軍の貴重な戦力となったのです。

この「女性兵士」たちは軍隊の所属ではなく、女性奉仕団体「ロッタ・スヴァルド協会」の所属でした。

ロッタ・スヴァルド協会の名前の由来は、フィンランド戦争(第二次ロシア・スウェーデン戦争1808~)を唄った「騎士ストールの物語」という有名な(儂知らんけど)詩にあるんだそうな。

この戦争で倒れた戦士スヴァルド(1808年だからな、題名の「騎士」は象徴的に使われてるんだと思うぞ)の奥方のロッタさんが、旦那の死後も戦場にとどまって負傷者の看護をした…ってお話(ただし、実在の人では無い…らしい)。

ってことはやっぱり「ロッタ」は戦争補助団体なんだな(笑)
いや、笑っちゃいけませんね。

ロッタ・スヴァルド協会の標章

ロッタ・スヴァルド協会の標章

 

このロッタ(もう苗字の方は省略します)は1918年ですから、フィンランド内戦(実質的にはフィンランドの独立戦争)の時の白衛軍(独立派=マンネルヘイムが率いていた)側で創設されました。
創立時から白衛軍の給食や看護にあたっていますので、「補助軍事組織」として生まれた、と言って間違いありませんね。

ロッタ協会は国が独立を果たした後の1920年代から、拡大が続きます。
1930年代初頭に会員数6万を突破。
1930年代終わりには協会員17万人、最盛期の1944年には24万人強と発展していきます。

メンバーには制服(コットンのグレーの粗末なワンピース)が支給され、着用時は飲酒・喫煙の禁止はもちろん、アクセサリー(結婚指輪除く)の着用も禁止されるなど、規律が重視されていたようです。

航空監視・連絡任務

航空監視・連絡任務に就くロッタ

 

ロッタの具体的な「任務」は、前線に送る物資の手配・送達業務、前線での食事の供給、洗濯、負傷兵の看護・後送、戦死者の遺体輸送、対空見張り、陸上の監視等々。
わが国風に言ったら主計・輜重任務+ですな、まるっきり。

ロッタ協会に入れたのはフィンランド国民で(在○はアカン、ちゅう事やな)クリスチャンの17歳以上の女性。8歳~16歳の女の子は「小さなロッタ」というまあ、カブスカウトみたいなモンに参加できたそうな。
のちにはイスラム教徒やユダヤ教徒(ってことはユダヤ人であるぞ/この話はそのうちちゃんとやります)も受け入れているんだけど、「フィンランド国民」であることはずっと変わらぬ条件でした。

第二次大戦当時のフィンランドの人口が400万人弱だそうですから、総人口の5パーセントの参加を見た、歴史上空前の規模の「ボランティア戦士」だったと言えそうです。

で、24万人のロッタのうち、287人が戦場で命を落としたとされています。
わが大日本帝国軍の場合、満州事変以降に従軍した「日赤看護婦」さんが延べ35000名。このうちの1120名が戦没…

戦場の条件も違うし(フィンランドは国内、じゃから)、ボランティアと従軍義務のある看護婦さん(日赤看護婦は教育段階から学費無料の他に給費制度があり、その代わりに命令で従軍したんです)という違いもあるけど、「戦死率」が誤差とは言えないほどに違いますね。

フィンランドは人口も少ないので、男どもが戦場に行ったあと、ロッタに属さない女性も、「労働の義務」を負わざるを得ませんでした。

スウェーデンに避難いた子供、大人の女性は「ロットルナ」

スウェーデンに避難した子供たち

 

「幼い子供のいる母親」はいちおう労働の義務を免除されたんですけど、労働力不足はいかんともしがたい。

「労働の必要」のほかに「子供たちの安全」も考えると、ガキどもを国外に疎開させることも流行しました。

1939年~1946年までの数字ですが、3歳~7歳(フィンランドの学齢期前)の子供たち8万人以上が、デンマークやスウェーデンに疎開しています。
そのうち1万5千人の子供は、実の両親が亡くなった…とか、受け入れ国の養父母に望まれて、と言った理由でフィンランドには帰っては来ませんでした。

帰国した子供たちも、フィンランド語を忘れてしまったり、生活環境がすっかり変わったりで、苦労した子が多かったそうです。

講和の条件

先に書きましたように、ソ連はフィンランド戦線では全く勝てなくなりました。
ただ、対ドイツのバクラチオン作戦はソコソコ順調に推移していて、戦力的にも敵を大きく上回っています。

そんなワケで、ソ連は垢らしくフィンランド側からの停戦申し出に、勿体付けて応じたのですが、条件はフィンランドにとって厳しいものがありました。
ザクッとあげておきますと、

①両国の国境は、1940年に定められた(冬戦争で分捕ったフィンランド領は返さねえよ)ライン。
②ペッツァモ地方を割譲する。
③ポルッカラ半島を、ソ連軍の軍事基地として提供する。
④欧州の戦争が終結するまで、フィンランド領内の軍事基地をソ連軍に提供する。

⑤フィンランド領内にいるドイツ軍を、1944年9月15日までに全て武装解除、もしくは追放する。
⑥1944年11月1日までに、フィンランド軍の戦時動員体制を解除する。

⑦6年以内に、6億ドル相当の物資をソ連に賠償として引き渡す。
⑧連合国の要請に応じ、戦争犯罪人を処罰する。

ってモノでした。

コレはフィンランド軍が撮影した宣伝用の写真

コレはフィンランド軍が撮影した宣伝用の写真

 

①~④は前時代的な領土要求と言って良いですよね。
今、お読みの記事は「第二次世界大戦」として知られる大戦争の、ごく限られた一局面です。
第二次大戦の結果(大戦終結後の局地的変動まで含めて)として、領土を広げた国なんて、ソ連垢とChina垢しかないんですからね。

まあ、この交渉は次回に書きますが、ココでは、⑤に注目しておきたいと思います。

この要求の中でも、特に無茶だと思われるのが⑤の「9月15日までにドイツ軍を武装解除もしくは追放する」って件でした。
この条件はイギリス(大英帝国はフィンランドと交戦状態にあったので、この講和交渉に一丁噛みしてました)から批判されたため、期日を10月初旬まで延長したほどです。

1944年9月2日、フィンランドは「リュッティ・リッベントロップ協定」の存在など忘れたフリ(笑)してドイツと断交(この辺は次回に詳しく)。
前線部隊には「2日後に全ての戦闘を停止」するよう命令しています。

ドイツ軍はフィンランドの大統領がリュッティからマンネルヘイムに替った時点で「臭ぇ」と思っていたようで、「ビルケ作戦」を発動します。

ビルケ作戦はフィンランド北部(ラップランド)にあったニッケル鉱床を確保するために、1944年4月ころから準備されていたんですが、フィンランドの「裏切り」を受けて、できるだけ多くの軍需物資を占領中のノルウェイに運び出す「脱出作戦」に転用されたのです。

いかん、このままではラップランド戦争に話が行ってしまう…

クールメイ戦隊

ドイツ軍といっても、陸軍と違って、空軍の方は割と身軽に帰ることができます。

フィンランドに助っ人に来て以来、献身的に戦って劣勢の時もフィンランド軍を支え続けたドイツ空軍のクールメイ戦隊。

彼らにも、フィンランドは(表向き)無情に「帰れ」と言ってきました。

クールメイ隊長は即座にコレを受け入れますが、闘志は健在でした。
帰りがけの駄賃、とばかりにレニングラード近郊のソ連軍空軍基地を爆撃し、フィンランドには帰らず、そのままエストニアへ向かって去っていったのです。

1944.6.28撮影250キロ爆弾を搭載

1944.6.28撮影250キロ爆弾を搭載中

 

クールメイ戦隊はフィンランドに応援に来たドイツ軍の中でも、飛び抜けて目覚ましい活躍を見せてきました。
クールメイ戦隊がフィンランドに展開したのは、命令だからです。フィンランドに好意を持って助けに来たワケじゃあありませんでした。

クールメイ戦隊がフィンランドに到着したのは1944年6月19日。
到着翌々日にはヴィープリが陥落する、っていうフィンランドの危機にやって来て、即日空戦に参加してるんですが、地上で隊員が見たモノは…

冬戦争~継続戦争の初期にかけて、ソ連軍を翻弄した精鋭の姿ではありませんでした。
それどころか、意気消沈し肩を落とし暗い表情で歩くフィンランド兵たちだったのです。

クールメイ隊長は「戦線崩壊」の気配を感じました。
クールメイ隊長には、他国の戦闘で部下を戦死させる気はありませんでしたし、フィンランド兵がソ連に寝返ったら、自分たちが攻撃されるかも?という心配も湧きました。

非常時には部下たちを連れて脱出する計画すら練り始めました。

しかし数日後には再び戦意を取り戻し、ソ連軍迎撃に立ち上がるフィンランド兵を見ることになります。

フィンランド軍連絡士官に「何事が起ったのだ?」と尋ねたところ、「マンネルヘイム元帥が…」。という回答。
この連絡士官は「マンネルヘイム演説」の内容をザクッと話してくれたに過ぎなかったようですが、クールメイ隊長も大きな感銘を受けたようです。

さっそく部下たちを集め、マンネルヘイムが乗り移ったような、まるっきりパクったような訓示をブチかまします。

「われらクールメイ戦隊がフィンランドに来たのは、邪悪なコミュニストの魔手から、友人を救うためだ。
コレは達成困難な任務である。しかし私は諸君であれば達成できると確信している。
栄光のドイツ空軍の名誉にかけて、フィンランドの自由を守れ!」

昼寝

昼寝に見えるが、待機中(笑)

 

部下たちにしたら、昨日は脱出の手配をしていた隊長が、急にナニ言い出してんねん…てなモノです。
それでも隊長のアツい気持ちは、クールメイ戦隊の隊員にも伝わっていきます。
クールメイ戦隊は、根っからの強兵揃いであるフィンランド兵たちすら舌を巻くほどの、勇猛果敢ぶりを発揮することになります。

その勇猛果敢なクールメイ戦隊も、フィンランド兵たちに惜しまれながら去っていきました。

クルト・クールメイさんは戦後に西ドイツ(ドイツ連邦)空軍で出世します。
第5航空師団の司令官なども務めたんですが、フィンランドからは生涯「感謝の手紙」が贈られたそうです。

そして9月4日、フィンランドとソ連両国の正式な停戦が成立しました。
次回はこの講和交渉についての内幕話、やっと真の「終わらせ方」です。

 

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