継続戦争の終わらせ方5
フィンランドは、グスタフ・マンネルヘイム元帥が大統領に就任した後、ソ連と本格的な講和交渉に入りました。
リスト・リュティが大統領のままでは、どうにも具合の悪い事情があったのです。
講和交渉開始までの流れ
1944年7月19日、「ヴォサルミの戦い」がフィンランド軍の勝利で終わると、ソ連軍部隊はバクラチオン作戦に合流するため、次々にカレリア地峡を離れていきました。
その報告を受けたフィンランド政府は、待ち望んだ講和の機会だと判断。
7月21日に隣国であり「中立」のスウェーデンを通じて、ソ連に対してドイツとは分離しての講和を打診したのです。
コレに対するソ連の回答は7月26日。
「ドイツと断交し、ドイツ軍をフィンランド国内から駆逐することを了承するなら」との条件下ではありましたが、「交渉に応じる用意がある」というものでした。
厳しい条件でしたが、無条件降伏要求は撤回されました。
戦争に疲れ切ったフィンランドにとっては、許容しなくてはならない条件でしょう。
ソ連はなぜフィンランド侵攻を諦めたのか?
やはりマンネルヘイムの読みどうり、アメリカ・イギリスによる「ノルマンディー上陸作戦」後の西部戦線の情況に、独裁者スターリンが焦り始めたことが原因だったようです。
この頃の西部戦線は、6月4日にイタリアの首都ローマが陥落し、ドイツ軍は北イタリアへと後退。
ノルマンディーでは6週間近い死闘が繰り広げられましたが、7月9日にイギリス軍がパリへの入り口とも言える、交通の要衝カーン市を占領。
アメリカ軍も7月26日にノルマンディー半島南のサン・ローでドイツ軍の防衛線を突破、北フランス解放の足がかりが出来ていました。
イギリス・アメリカ軍は遠からずパリも解放するでしょう。そのあとはドイツ本国へ殺到するのは明白です。
一方のソ連軍は、バクラチオン作戦を順調に展開中でしたが、この時点ではまだドイツ軍をロシア領内から駆逐できていません。
スターリンは、アメリカやイギリスに遅れを取ることを大いに恐れて焦っていたのです。
ドイツが手を上げる前に、東ヨーロッパを支配下に置きたいスターリンにとって、犠牲が多くて時間がかかって、得る土地が少ない「フィンランド侵攻」は、本来の敵との戦闘を有利に進める上でお荷物と化していたのです。
永久共闘協定
時を戻そう(笑)
フィンランドはドイツのバルバロッサ(ソ連攻撃作戦)開始に乗っかって継続戦争を始めちゃいました。
が、見切りも早く1943年2月3日(スターリングラードのドイツ軍が降伏した翌日)には「ドイツの戦勝は不可能」との結論を出しています。
その前も日寅さんから要求されたってレニングラードの死命を制するような攻撃はしてないんですけどね。
*↑はオマケです。1942年の「マンネルヘイムの誕生日を祝う」ってことを理由にして総統がフィンランドを訪れた時の、マンネルヘイムとヒトラーの会話録音(フィンランドの録音技師がナイショで録音したらしい)。
日寅さんの声が本人じゃねぇ、って話が昔からありますので、そのあたりはご承知おきのほどを。
火寅さんは、自分で出掛けて行って誕生祝をするほど、フィンランド軍を買ってたってことが判りますよね。*
話、戻ります。
軍と政府、政府と議会もこの見解を共有し、世論も「戦争離脱」を支持するようになっていました。
一言お断りしておきますが、後世の我々は太平洋のミッドウェイとロシア平原のスターリングラードが分水嶺だ、って知ってますが、当時の人はそうじゃありません(ほんとに分水嶺だったか?の議論は別の機会にやりましょう/儂は「少なくとも太平洋では違う説」ね)。
特にフィンランド戦線では、枢軸側が国境線(継続戦争開始前の)を越えて攻め込んでいる状況ですから、フィンランド国民の国際関係認識の確かさには瞠目すべきと思います。
ドイツ側にもこのフィンランド政府・国民の態度はバレていた、って言いますか。
フィンランドでは報道規制がかなり緩く、新聞紙面に「ドイツに勝ち目なし」とか、「ソ連との講和を」とかの見出しが踊っていましたので、誰にでも判るレベル。
ドイツは「フィンランドが枢軸側から脱落しないのは、ソ連の講和条件が厳しすぎるから」と正確に見抜いていました。
フィンランドはドイツに見つからないように(すぐバレますが)、ソ連と接触しては講和を持ち掛けるんですが、ソ連は常に「無条件降伏」を要求しますので、なかなかラチが開きません。
そんなことをしているウチに、1944年を迎えて戦況は極度に悪化。イタリアは脱落するわ、アフリカ戦線は崩壊するわ、ノルマンディに橋頭堡が出来ちゃうわ…
そして史上最大の作戦が実施されたのと、ほぼ同時にフィンランドに対する大反撃とドイツに対する攻勢(バクラチオン)が開始されて、それからの経緯はこのシリーズ1~4に書きましたとおり。
途中でフィンランドが「和を請う」場面もありましたが、ソ連は「無条件降伏」という条件を堅持。
フィンランド軍はドイツの援助を受けて、無条件降伏を断固拒否して大健闘。ついにソ連が講和使節団の受け入れを表明、ってのがココまで。
で、フィンランドにあった「都合の悪い事情」ってのは「リュティ=リッベントロップ協定」であります。
リュティ=リッベントロップ協定についてはすでに書きましたが、要は
「フィンランド&ドイツの永久共闘宣言」
であります。
この協定を結ばないと、フィンランド政府に不信感を持ってる火寅さんが、武器や食料の援助をしてくれません。
ドイツからの援助が全くないと、フィンランドはソ連に反撃する見込みが立ちませんから、この協定はやむを得ないんです。
しかしながら、講和交渉をするにはこの「協定」はムチャクチャ邪魔であります。
フィンランドの実情
またまた少し昔に戻ります。
フィンランドは1941年11月25日付けでに防共協定に加盟しています。
あの防共協定ですよ、1936年に日独間で結ばれ翌年にイタリアも加盟した、この協定はこの日に「期間満了」だったんです。
他の国際間協定と同じで、満了前には締約国間で協議が行われて更新される予定でした。
まあ、そのついで、っちゃあなんですけど、新たな参加国(ブルガリア王国・ルーマニア王国・デンマーク・スロバキア共和国・クロアチア独立国・フィンランド・China民国南京政府=汪兆銘政権)が加わる事になったんですね。
この時も、フィンランド政府内では「アメリカの対フィンランド感に悪影響を与える」として反対論が支配的でした。
フィンランドとしては、ソ連は怖いけれど、かといって英米を敵に回しちゃう「完全枢軸入り」は避けたい、ってことです。
この時も、ドイツのリッベントロップ外相が強力に働きかけています。
リッベントロップはフィンランドに対して
「防共協定は反共産主義闘争以外のいかなる政治的・その他の義務を負わせるものでない」
と説得し、フィンランド外相ヴィッティングが参加を決断、大統領リュティが了承して加入が
決定しています。
ついでに書いておきますと、この防共協定への加入で、フィンランドが枢軸諸国に「より」加担したっていう形跡はありません。
当時はすでにドイツ軍がフィンランド国内に居ましたし、ソ連の軍事力には対抗しきれないフィンランドとしては、やむを得ない加入であった、とは言えましょう。
さらに、ヴィッティング外相の決断を後押ししたモノがありまして。
それがドイツに対する「経済依存」でした。
1942年の2月にヴィッティングさんが語っていることですが、
「輸入食糧の93%はドイツからのもので、フィンランドの輪入総額の72%もドイツから。穀物輸入額に至っては100パーセントがドイツから」。
フィンランドのドイツへの経済的依存は、ヴイッティング外相をして自国を「罠に落ちた甘日鼠」と言わしめたのでありました。
しかし、フィンランドが、たとえ形式的だとしても「防共協定」に加盟しちゃったことは、国際外交上では「フィンランドは枢軸側へ行きやがった」事を象徴するモノとして受け取られてしまったのです。
それでも、フィンランドは
「継続戦争はドイツに加担してるんじゃなくて、冬戦争で取られた領土を取り戻すだけじゃん。」
と主張し、以前の領土からあまり踏み出しませんし、ドイツ軍が求める「レニングラード攻撃」も言を左右して行わず。
イギリスとは公式には交戦関係となったものの、「ナアナアの戦い」(RAFの爆撃機が来ると、フィンランドの戦闘機が先導して、原野に爆弾落として帰る…)を繰り広げ、アメリカとは国交を維持したままでした。
そんな状況で「永久共闘宣言」はいかにも拙いっすよね。
仮に、「ソ連軍撃退のために、ドイツに嘘ついたんだ」って主張しても、一ヶ月かそこら前に結んだ国際協定を「破棄」しないとソ連は講和交渉に乗ってくれません。
フィンランドの国自体の信用度がガタ落ちですわね。
誇り高いフィンランド国民は、いやそうじゃない普通の国の民でさえ、恥ずかしくってやってられません(ただし、わが国近傍の某半島国家を除く)。
リュティはココで、一工夫をしたんですね、軍人には誰にも言わずに。
以下、その工夫を(よくご存じの方は多いでしょうが)私の想像も多分に入れて小説風に(笑)
大統領交代
ソ連からの「講和使節受け入れ」回答が届いた翌日のこと。
リスト・リュティ大統領がミッケリ市にあるフィンランド軍司令部にマンネルヘイム元帥を訪ねました。
大統領は司令部に詰めっきりのマンネルヘイム元帥に言います。
「元帥、ソ連が交渉に応じてきました。元帥の指揮よろしきを得て、わが将兵が善戦してくれたおかげです。心からお礼を申し上げる。」
「この機会を逃さず、我が国はソ連と講和するべきでしょう。元帥にも異論はございますまい。」
マンネルヘイムはソ連軍の大攻勢で「無条件降伏やむなし」としたリュティ大統領を、「軍が必ず講和の機会を作るから」と押しとどめ、その言葉どうりにソ連軍を叩きのめして、今回の講和交渉を演出していました。
当然、マンネルヘイムの思いも「早期講和」にあったのですが、大きな心配もありました。もちろん「リュティ=リッベントロップ」協定であります。
この協定を破棄しない限り、ソ連は講和に応じないでしょう。
でも、一ヶ月前に結んだばかりの協定をあっさり破棄したりしたら、フィンランドの対外的な信用は地に堕ちてしまいます。
マンネルヘイムがこういった心配を表明すると、リュティは一笑に付します。
「心配ないですよ、元帥。あの協定は議会の承認を得ていません。私がフィンランド大統領としてでは無く、リスト・リュティ個人として署名したモノです。」
「私は、ナチスと個人的な交渉をした責任を取って今すぐ辞任します。元帥には後任の大統領をお願いしたいのです。」
リュティ大統領のこの言葉に、マンネルヘイム元帥はもちろん、同席していた参謀長エリック・ハインリッヒス大将と補給総監アクセル・アイロ大将は絶句してしまいました。
国家の命運をかけた「詐欺」であることはすぐに理解できましたが、公職を辞し一般国民となった「詐欺の主犯」はどうなるのか?
マンネルヘイム元帥はこのときまで、協定を結んだリュティを批判してはいません。
元帥はあくまでも冷静に、そして軍事的に
「ドイツの支援がなければ、ソ連軍の攻勢は一時的にも止められない。いったん食い止めさえすれば、ソ連は我が国との講和を急ぐから、無条件降伏よりは有利な交渉ができる。」
と判断していましたから。
ソ連の大攻勢にフィンランド軍がズルズル後退して、リュティがソ連の無条件降伏要求を呑もうとしたときに、マンネルヘイムは「軍が必ず講和の機会を作る、無条件降伏だけはしないで」と止めました。
それもこの判断に沿ったモノでしたし、リュティの詐欺協定も、「マンネルヘイム判断」に沿ったモノであることは言うまでもないでしょう。
マンネルヘイムは、大統領を批判しませんでしたが、フィンランド国内の「親独派」の政治家たちを大いに批判しています。
「今までドイツに傾倒してやがったクセに、風向きが変わったとたん、節操もなくソ連にすり寄りやがる。恥ずかしくねぇのか!」と(もちろん、儂よりはるかに上品な言葉使いでね)。
マンネルヘイムには、リュティの後任となることを承諾する以外の道はありませんでした。
協定署名の内情
リュティがこの詐欺協定を考えたのは、ドイツのリッベントロップ外相がやって来て、「共闘宣言」への署名を要求してきた時だったと思われます。
リュティはリッベントロップとの会談が済むとすぐに、法律関係のスタッフを呼んでこのアイデアを示し、法的な有効性を確認しています。
スタッフ(複数)の解答は
「詭弁ではありますが、『個人の署名は国家の代表としての署名とは異なるから、国家としての承認ではない。』と主張することは可能です。」
「個人の署名であるので、大統領が交代すれば協定は無効です。」
救国詐欺のお墨付きを得たリュティには
「しかし、そんなことをすれば貴方の政治生命は終わりますよ」
というアドバイスは全く届きませんでした。
リュティは、自分の政治生命どころか、自分のホンマモンの生命も捨ててかかっていたようですから…
続いてリュティは議会の重鎮たちを呼んでこの詐欺企画を説明します。
この説明によって、重鎮たちがリュティの後任になる道が閉ざされます。事前説明を受けちゃったら、従犯ですからね。
当然ながら全員がこの計画に反対。
リュティ大統領の計画を進めれば、ドイツから援助を引き出し、そのうえで良い頃合いで手を切って、ソ連と講和することが可能でしょう(マンネルヘイム以下フィンランド軍の奮戦が必要ですが)。
しかしその代償にリュティは「ナチスに加担した戦争犯罪人」として裁かれ、その先に死刑が待っていることが予想出来ました。
議会関係者のみならず、フィンランド国民のほとんどは、リュティもマンネルヘイムも、ナチズムに共感しているワケじゃなく、ドイツから「も」距離をとりたがっている事を知っていました。
そのリュティに、すべての責任を負わせて生贄にするなんて、マトモな人間に出来るワケがありません。フィンランドは小国ですが、KoreaやChinaとは民度がケタ違いに高いのです。
議会から強硬な反対を受け、リュティは2週間ほど寝込んでしまいました。しかし、病床でも翻意を促す議員たちに対し、
「他に良い案があるのですか?私たちがこうして議論している間も、我が軍の将兵たちは国を、国民を守るために戦い、血を流しているんですよ」
「反対不能」の説得に、議員たちはリュティの計画を認めるしかありません。
議員たちは「協定」が(個人的に)結ばれると、「一致団結」してリュティ大統領を非難し、「この協定はフィンランド議会の同意(すなわち国民の承認)を得ていないものだ」とアピールしていました。
以上、リュティ=リッベントロップ協定の裏事情です。会談の時点でマンネルヘイムはこの事情を知りません(公式には)。そう、マンネルヘイムも事情を知っていたら「後任大統領」の資格を無くしてしまいます。
公式には、マンネルヘイムは「大統領になってから」裏事情を知る必要があったのです。
「リュティさん、この後どうするつもりですか。ソ連はあなたの死刑を要求してきますよ。」
すべての事情を知らされたマンネルヘイム元帥の言葉は悲痛でした。
講和のなった後の話ですが、実際にソ連は「リュティはナチスの協力者・世界平和の敵である」として死刑を要求しています。
リュティはフィンランドで唯一人、戦犯として裁かれることになるんです。
マンネルヘイムに返したリュティの言葉は、政治家として、誰もが「こうあるべき」とおもうモノでしたが、誰にでもマネのデキる代物ではありませんでした。
「私のフィンランド大統領としての責務は、官邸の中でも獄中でも変わることはありません。」
「私は自分の運命を受け入れれば、それで良いのです。」
「元帥には、私に代わって大統領となり、この国の未来を守って欲しい。」
「国民は絶望的な状況下でも、元帥と軍隊を信じて決して諦めませんでした。元帥が大統領として確固たる方針を示せば、国民はそれに従いますよ。」
リュティの言葉に、マンネルヘイムは頷くしかありませんでした。
8月1日。リュティは「ドイツと個人的な協定を結んだ責任をとる」として大統領を辞任。辞任に際し、リュティは後任にマンネルヘイム元帥を指名。
8月4日。マンネルヘイムは議会の承認を受けて「第6代フィンランド大統領」に就任。
ただし、フィンランドの大統領は議会じゃなくて、国民の投票による選出がルールです。
まあ、マンネルヘイムの大統領職にケチをつける奴はアリタ・ヨシフ・スターリン以外に思いつきませんけどね(スターリンもマンネルヘイムを尊敬してたような形跡もあります)。
それでもマンネルヘイムは職に就いた事情を憚り、自らを「摂政」と名乗ってたそうです。
なんと大時代的な名乗りだ、ですって?
ほれ、マンネルヘイムは元々「白衛軍」の指揮官でしょ。フィンランドの国内事情で、共産主義者に対する独立派の名称が白衛軍ですが、もっと元をたどれば革命派に対する皇帝支持派ですから…
平和?
大統領となったマンネルヘイムは、リュティ=リッベントロップ協定を、長々と書いてきた理由で「あっさり」否定し、連合国側との即時講和を表明しました。
アメリカとソ連は「個人のサイン」云々という話を信用しません。
しかし、フィンランドに好意的で、今までも何かと便宜を図っていたスウェーデンとイギリスはほぼ無条件にフィンランドの説明で「納得」し、アメリカ・ソ連をも説得しちゃうんであります。
9月7日、フィンランドの代表団がモスクワ入り。ここで代表団は約一週間足止めされることになります。
イギリス政府が、「ソ連の講和条件が過酷すぎる」と異議を唱えてくれていたんです。
イギリスは表面的にはフィンランドと交戦関係にありましたが、マトモに戦闘なんかしていません(前述)。
冬戦争時にフィンランドを救わなかったことを反省しているのか、ドイツ打倒後のソ連との勢力争いをにらんでいたのかは、全くわかりません(笑)。
ソ連の条件のうちでも「領内のドイツ軍をサッサと追い出す」ってのは期間が短すぎる!と猛反対。
ドイツ軍も航空隊なんかはサッサと帰れますが、ラップランドに駐留していた部隊など、約1000キロの道のりを隣国ノルウェイまで辿らなきゃいけません。
結局フィンランドは、つい最近までの戦友に「早い事出てってくれ!」と戦争するハメになるんですが、イギリスは僅かですが猶予を稼いでくれたんです。
さらに、領土の割譲と賠償金の減額も交渉してくれたんですが、ソ連は領土は全く譲らず。
ただ、ソ連はポルッカラ半島(軍事基地として提供を要求してました)以外に、ソ連軍を進駐させないと表明。
コレで、フィンランドは
「敗戦後の占領を免れた枢軸側唯一の国」
となります。それも占領するのが「ソ連」ですからね。アメリカやイギリスに占領されるのとはワケが違います。
ソ連に占領されたらどうなるか?東欧の「戦後」を見ればよくお判りでしょ?
まあ、これはイギリスが頑張ってもくれましたが、スターリンとソ連軍上層部に「フィンランド兵強い!」って恐怖を植え付けたフィンランド軍の強さが原因でしょう。
ソ連軍が進駐したら、フィンランド人たちが「反ソ抵抗運動」を起こすかもしれません。
鎮圧に手間取ったらドイツとの戦争のあとになるでしょうが、イギリスやアメリカの干渉を招くかもしれません。
干渉がキッカケになってイギリス・アメリカと戦争になったら、ソ連は崩壊しちゃうんじゃないか、という恐怖が、フィンランド占領を断念させた…ってのは考えすぎでしょうか。
こうして1944年9月19日、「モスクワ休戦協定」が成立。
フィンランドはついに亡国の危機を脱することが出来たのであります。
ただ、まだ平和になり切ったわけじゃありません。
ラップランドでドイツと戦わなきゃいけませんし、第二次大戦が終わった後はソ連の「影響力」から自国の自由と民主主義を守る戦いが待っているんですから。