殿様も宮様も戦場に2
華族が潜水艦に乗ってたのは判ったけど、さすがに皇族は?
いえいえ、大東亜戦争中ではありませんが、日支事変中なら駆逐艦に座乗されて戦場を疾駆なさった皇族がちゃんといらっしゃるのであります。
小艦艇に宮様?
その宮様とは、大正6(1917)年に海兵45期を卒業、装甲巡洋艦「磐手」乗組となられました、伏見宮博義王であります。
王はこの若い時分から、気管支喘息が持病でした。
ソレにもめげず、博義王は何がお気に召したのか「小艦艇好き」でいらっしゃったのです。
「磐手」の後は戦艦「扶桑」でしたが、その後は駆逐艦「島風」水雷長・装甲巡洋艦「出雲」分隊長・軽巡洋艦「那珂」水雷長。
「那珂」乗務中には駆逐艦「葦」と衝突事故を起こす「美保関事件」に巻き込まれちゃったりしています。水雷長だからね、「巻き込まれた」で宜しかろう(笑)
昭和3(1928)年12月10日には海軍少佐へ進級して駆逐艦「樺」の艦長にして貰います。
ちゃんと言うと「樺」駆逐艦長に、だな(「軍艦〇〇艦長」と「△△駆逐艦長」はエライ違いがありますからね)。
翌年12月1日には「蓬」駆逐艦長に横滑り。その翌年は「神風」駆逐艦長、昭和7年5月2日には「沖風」駆逐艦長。同年12月1日「天霧」駆逐艦長。
そのあと博義王は海軍大学校へ参りまして学業を修め、昭和11年12月1日に「第三駆逐隊」の司令に任命されたのでありました。
当時の第三駆逐隊は峯風型駆逐艦の汐風・島風・灘風・夕風の4隻編制です。
この駆逐隊2隊を併せて「水雷戦隊」が編成(フル編成なら駆逐艦8隻+旗艦の軽巡一隻)されます。
「二水戦(第二水雷戦隊)は帝国海軍の華」と謳われたように、華々しい活躍を期待される実戦即応部隊です。
「宮様司令」を迎えた第三駆逐隊も、もちろんその例外ではありません。
昭和12年7月に第二次上海事変が勃発すると、第三駆逐隊は(当然ちゃあ当然でありますが)宮様司令を乗っけたまま出撃したのでありました。
お迎えするのは「落ちこぼれ」ども(笑)
徳川熈は華族の身で潜水艦乗りになったのですが、さすがに皇族ともなると、小艦艇にお乗りになる方はいない、と思っておられた方が多いんじゃないでしょうか。
確かに、皇族の方々は海軍に入っても、戦艦や巡洋艦に乗って箔を付け、あとは軍令部や省部、海軍大学校などで陸上勤務…って方がほとんどなんですが、「ウマハン殿下」だけは特別だったのです。
ごく面長で、馬面どころか
「馬がハンモックを縦に咥えているようだ」
と言うので、口の悪い駆逐艦乗りたちは博義王を「ウマハン殿下」とお呼びしたそうな。
長いけどなぁ、ハンモックまでは咥えてないよな。
駆逐艦乗りには、お行儀のよい海軍の中ではひと際の異彩を放つ「バンカラ」の気風がありました。
だいたい、駆逐艦に乗るような士官は、艦長以下兵学校の成績が悪かった奴ばかり(学業の成績でっせ、悪いんは。戦の緩急を測り、適宜指揮する能力はその人に依ります)。
兵学校出たら、前回の殿様編で述べて参りましたように、頑張っても頑張らなくても、チョンボ無ければ大佐までの「出世」はほぼお約束。
兵学校の成績が悪かった人は、それ以上の出世が無いこともほぼ規定路線。
そんなワケで、駆逐艦乗りの士官たちは拗ねちゃうんでしょうか?
戦隊の艦長会同なんかでも、下駄ばきで旗艦に行く…なんてのが普通だったのが「海軍の華」の駆逐艦長の実態(笑)
当然、部下の「車引き」(駆逐艦乗りの自称)たちもお行儀良いわけがありません。
「車引き」たちは上から下まで、第一種軍装を持ってない奴らばっかり(強調表現ですからね)だったんです。
ですから、「海軍中佐博義王」いや「ウマハン殿下」の着任を前に、旗艦の駆逐艦「雷」は緊張に包まれます。
並みの戦隊司令じゃないですからね、何時もどうりに無茶やって、お叱りでも喰らったら大変ですから。
甲板に塵ひとつ落としておくな・暑いからと言って、艦内を褌一つでウロウロするな・艦内でエロ歌を歌うな(合唱はもちろん独唱も禁止)・ヘル談(猥談)も禁止(寝言であっても不許可)・酒も特に許可のない限り禁止。
それだけではありません。
宮様のご座乗艦でありますから、港にあっても怪しげな人物の訪問は受け付けません。
面会だって、厳重なる身分証明を保有している者以外は受け付けないのであります。
コレが、車引きどもには一番応えたようです。説明しましょう。
車引きと言えども人の子。
人は陸上で人に進化した生物でありますから、港に入れば交替で上陸いたします。上陸すれば呑みに行き、当然のように〇遊びを致しますね。
この支払いですが、クレジットカードもペイペイもない時代ですから、すべてツケであります。
ツケって言うのは当然回収されるんですけど、この当時(ってか儂の若いころまで)は飲み屋のママさんが、給料日になると会社まで請求書を持ってきたモンですよ。
一応女子社員もいっぱい居る職場でも、「女性の色気」を溢れんばかりにしてやってくるのは、楽しみでしたねぇ。
儂の行きつけのママちゃんがいっちゃん綺麗やん!とか、課長んとこに来たオネエサマのチチがぁ~とか、一週間くらいはこの日の話題で昼飯が喰えたモンです。
若いころの儂以上に「飢えていた」ことが確実な駆逐艦乗りたちは、金をとられるのが判っていても、首を長くして待ってたことでしょう。
それが「禁止」…
じゃあ、そんな禁欲生活を強いられる元凶だった「ウマハン殿下」が車引きどもに嫌われたか?と申しますと、ご想像通り、全くそんなことはありませんでした。
二代に渡って負傷
昭和12年9月25日であります。
博義王は駆逐艦「島風」(峯風型)に座乗して黄浦江(上海市内を流れている川)で作戦中でありました。
「島風」は突如支那軍迫撃砲の射撃を受け、この破片が指揮中の博義王の左手に当たったのであります。
お側に佇立していたお付き武官の早川幹夫中佐も重傷。
早川中佐は第二水雷戦隊司令官として、多号作戦中に島風型駆逐艦「島風」の沈没とともに戦死なさっていますから「島風」に縁があった武人なんでしょうね。
「博義王負傷」の報せはたちまち海軍中央へ伝えられ、米内光政海軍大臣から昭和大帝に報告。
高松宮宣仁親王少佐は、博義王の負傷について
「これで皇族も戦死傷者の中に算へられる帖面づらとなり、よろし」などと御ホザキになられるのでした。自分が負傷せい!
昭和大帝の弟宮とは言え、「実戦には出ない皇族軍人」だったくせに。
アッ、すんません。つい不敬な言動を致してしまいました。
博義王の父上は「伏見宮博恭王」で、黄海海戦(日露)では戦艦「三笠」の後部30センチ砲塔の指揮に任じられ負傷されているから、親子二代に渡って「名誉の負傷」ってワケです。
つまり「皇族も戦死傷者の中に算へられる帖面づら」にはなってるんですよ、ずっと前からね。
しかも伏見宮博恭王は長く軍令部総長の地位にあらせられ、「艦隊派」の大親分として軍令権限の強化などに邁進されたお方なるぞ。
一般的には
「日米戦を避けたい昭和天皇の御意志に逆らって」
みたいな評価なんだけど、軍令部の立場を強めた、って言っても軍令部の力だけで戦争おっぱじめたんじゃないしなぁ。
参謀本部vs陸軍省と比べても、軍令部vs海軍省はただの「責任の擦り付け合い」のように思えるんで…まあ、この話はまた別の記事で。
で、博義王はバンカラ気風の駆逐艦乗りの水兵さんたちから愛されてた、ってのは記録には残ってないんですが、水兵さんの遺して下さったエピソードから知ることが出来るんじゃないかな?
さすが、駆逐艦長を歴任した宮だけの事は
以下の博義王のエピソードは「第三駆逐隊」の司令から「第六駆逐隊」の司令に転任なさったあとの事です。
第六駆逐隊の司令部付きだった大高勇治さんの御著書「海の狼 駆逐艦奮迅録」に拠ります。
博義王のご着任から2ヶ月ほど経過した日曜日。
この日も宮司令は上陸為されず、お一人で狭い艦内をご散策。艦は第六駆逐隊の司令駆逐艦「雷」であります。
ちょっと前の大型艦(戦艦「霧島」の建造時には確かにありましたよ、画像の通りです))には貴顕紳士・淑女の散策用の、スターン・ウォークって設備が付いていたのですが、さすがに駆逐艦にはありません。
博義王の御歩きになる艦内は、帝国海軍の駆逐艦の見本のように清掃が行き渡り、ピカピカに磨き上げられ、水兵さんの話声一つしない静寂が満ちておりました。
司令の宮は水兵の居室にまでご尊顔をツッコミ給い、大人しく読書を「させられて」いた水兵さんに親しくお声がけ。
「今日の『酒保許し』(艦内売店を開店せよ=飲酒OK)はまだか?」
「はっ。司令御在艦中の酒保は、一切許されないことになっております。」
この返答を聞いた司令の宮、珍しく全速力で司令室に駆け戻るや、
「当直将校を呼べ!」
慌てて司令室に参上した当直将校が口を開く前に
「貴官はいかなる理由を持って酒保を許可せざるや?」
当直将校は艦長の方針通りやってただけなんでしょうから、いい迷惑ってところですが、宮様直々のお叱りで顔面蒼白に。
水兵さんたちは、逆に一杯機嫌の赤ら顔を、司令の宮の御前に曝したのでありました。
この話には、博義王の御性格を推し量らせていただくための、重大なヒントが隠されてる、と思うんですね。
だって、博義王は戦隊司令の立場でありますから、各駆逐艦内のルールにまで口出しする権限は無いんです。
極端な言い方をすると、例えばこの時に御座乗の「雷」が敵の攻撃を受ける。攻撃を受けて、艦長以下の士官が、全員戦闘指揮不能の状態になるとしますね。
ところが、司令の宮も参謀たちも無事だとします。
その場合、艦の指揮は、艦固有の乗員のうち、最古参の兵科下士官が継承するんです。
コレは海軍のみならず、陸軍もそうだし、たぶんほとんどの国の軍隊がそうなってる筈です。
陸軍だと、「参謀が長に代わって指揮を執った」(辻正信などが良くやらかしてますね)事例が沢山ありますが、あくまでも邪道です。
まして、この時は艦長が留守にしてるだけで、状況が逼迫してるワケでも無く、乗員に酒を飲ませるか否か?って話ですからね。
おそらく、博義王は何隻もの「駆逐艦長」を経験して、車引き「ども」が好きになっちゃってたんでしょう。
あるいは、車引きどもにノビノビやらせておかないと、本来持ってる戦闘力が落ちちゃう事を知っていたか。
こうして、博義王は第六駆逐隊の落ちこぼれ水兵さんの心を鷲摑みにしちゃうのでありますが、ご自分の上陸は一切なさらないまま。
ヨイショ嫌い
軍艦の乗員ってのは、上陸が大好きな人種であります。
海軍の鎮守府や要港部には、必ず海軍軍人専用の料亭・レストラン・その他の水兵さんや士官の収入に合わせた料金のお店が準備されていたほどです。
もちろん、料亭って言っても、料理よりも濃厚接触サービスがウリのお店群であります。
水兵さんたちは「やりたい」だけじゃなく、「地面の上で寝たい」って気持ちも強かったとも思いますけどね(笑)。
戦艦や航空母艦のような、大艦の乗り組みだってそうなんですが、潜水艦や駆逐艦みたいに
「ぎゅうぎゅうに詰め込まれた航行装置や武装や食料品の隙間に、水兵さんのハンモックがぶら下がってる」
ようなフネの場合は、「港に入れば何を置いても上陸」が常識と言うもんです。
ところが、生まれも育ちもやんごとなき軍人は全く上陸なさいません。
まあ、一般水兵さんより、就寝スペースも広いし…ってワケではありません。
どうやら、ウマハン殿下は「ヨイショ」とか「ご機嫌鳥」がお嫌いだったようで、上陸すると押しかけてくる、そういった有象無象がしんそこ厭だったんですね。
このご性向は、海軍内ではある程度知れ渡っていたみたいです。
そのために、軍艦「駒橋」(駒橋はこの当時測量艦として活動していますが、艦籍は潜水母艦?この話もそのうち…)の艦長などは
「艦上でのお慰みに」
と、七面鳥をプレゼントしたりしています。もちろん、食用ではなく愛玩用です。
こういう「ご機嫌取り」は王のお気に召したようで、七面鳥はしばらく「雷」艦上に小屋を作って飼われたのですが、船酔いで元気が無くなって内地送還になっています。
高貴なる羞恥心(笑)
前にも書きましたように、博義王はごくお若いころから喘息持ちでいらっしゃいました。
昭和12年も半ばになると、食欲も減退され、ご衰弱が周りの者どもにもハッキリと判るようになったようで、司令部とお付き武官、軍医と側近たちは相談の上で「保健上陸」を願いあげます。
上陸の大嫌いな司令宮ですから、何処かの港で「上陸してください」って言っても聞き入れてもらえるワケがありません。
一計を案じた彼らは、舟山列島中のある無人らしき島に近寄りました。
「司令、この島々は古来南シナ海を荒らす海賊が根拠地としたところであります。我がご先祖の倭寇・八幡船もココを利用したとか。
我が国と支那と相争うときに、司令が探索なさる地に相応しいかと存じます。」
博義王は「無人島なら」と思われたのか、「探索」がお気に召したのか、まさかこんなところに日支相互理解のヒントが転がっているとは思われなかったでしょうが、上陸を承諾なさったのでありました。
9月末の良く晴れた一日。
陸戦隊の軍装で、小銃と軽機関銃で武装した水兵10名が護衛となり、お付き武官とお気に入りの大高先任下士官を引き連れて、ついに博義王がご上陸。
我が国の離島とは違い、岩場と草原だけで灌木がまばらにある程度。
ずいぶん荒涼とした島みたいですが、無人島ではなくて、5軒ほどの農家があったそうです。
博義王はやっぱり嬉しかったらしく、あちこち御歩き給い、戦闘食(ご昼食)も久しぶりにペロリとお召し上がりに。
「やはり、定期的に上陸していただくべきだな」などと話し合いながら、定刻に集合場所に集まった一行でありましたが、どうも宮様のご様子がおかしい。
迎えのボートに乗り込むタイミングなのに、博義王だけ、なんだかモジモジしていらっしゃる。
流石に「お気に入り」の大高先任下士官はすぐに気付きます。お付きを差し置いて
「司令、コチラへ。」
とお付きや護衛から離れて藪の中へご案内。
「ここらで大丈夫です。私は近づくものが無い様に見張ります。」
と携行している短銃を構えてうしろ向きに。
宮様司令、やっと解放されたように、自前の大筒を取り出して射撃開始なさったのであります。
落ちこぼれ駆逐艦のり達を、良く理解なさっている「さばけた」宮様も、連れションってわけには行かなかったんでしょうか?
そうでもないお話もありまして。
軍艦の作戦行動中、入浴は水兵さんにとって最高の贅沢でありました。
海水を沸かして蒸留してやれば「真水」なんてナンボでも出来ますが、それは無制限に燃料が使える、原子力推進船だけに許された例外。
水兵さんたちは、毎日顔を湿らせる程度の量の水(一人1リットルらしい)が配給されるだけで、入浴はおろか、シャワーもままならない生活なんであります。
特別扱いの大嫌いな司令の宮ではありましたが、ココだけは別で、士官室通路に一室だけある「浴室」をお使いになられるそうな。
もちろん毎日ではなく、毎週ですらなく、タマの楽しみってところでしょう。
そもそもこの浴室なんて、どの駆逐艦だって浴室としてじゃなく、食料品倉庫などに使っているのが普通です。
司令の宮の御入浴の際、「雷」ではこの倉庫に入っている物品を放り出し、本来の用途に使えるようにした上、士官室通路は閉鎖。
通路には見張り、浴室は白いカーテンで遮蔽と言う物々しさ、司令専属のボーイ(もちろん水兵さんです)だけがマッサージのためにお側に控える…と言う、さすがに皇族の御入浴。
でも、隣は士官用とはいってもトイレだしなぁ。
身分の違うお方は、我ら下々とは羞恥心の在り方も違うモノか?
身体がさっぱりなさると、スッポンポンのままカーテンを開け放ち、椅子にお掛けになって、ボーイにマッサージをさせ給うのだそうです。
で、この様子を、水兵さんたちが興味津々で覗くんですな。
もちろん、水兵さんたちが気になるのは
「ウマハン殿下だけに馬並みの巨砲をお持ちか?」
の一点であった事は言うまでもありません。
見せたって平気なら、立ちションもみんなとやったら良かったのに。楽しいぞ。
病魔には勝てず
博義王は体調不良を隠して(隠せませんでしたけど)任務に邁進なさったのですが、病は何の遠慮もしません。
やがて40度を超える原因不明の高熱が続くようになります。
軍医や司令部は、上海に一度帰投するように上申するのですが、
「ならぬ、任務を続行せよ」
と司令の宮はお許しになりません。上海には海軍陸戦隊の病院があるのですが。
しかしながら、このままでは宮のお命にかかわる。艦長も交じって相談した結果、支那方面艦隊に相談して一計を案じます。
支那方面艦隊の命令として、「雷」に特定修理を受けさせちゃおう、と言う計画です。
特定修理は、大掛かりとなりますので、基本的に母港(「雷」は横須賀)に帰ります。
しかもこの命令には「司令座乗のまま」と条件が付けられていました。
こうして昭和13年3月24日に帰国した博義王は、そのまま海軍軍医学校に入院。
4月20日をもって第6駆逐隊司令を免じられ、海軍大学校教官となりますが、実務は不可能。
翌昭和13年10月19日午前2時、心臓マヒのためにご薨去。
42歳のお若さであらせられました。