殿様も宮様も戦場に 1 華族編
大日本帝国の男性の皇族は陸軍か海軍に入ることが「義務」でした。
たとえば、コチラ側の「ちょっとお笑い担当論客」の竹田恒泰氏のお祖父ちゃん(竹田宮恒徳王)は陸軍中佐でした。
実戦に…
「皇族男子はすべからく軍人たるべし」
との明治大帝のご方針(皇族海陸軍従事の令。明治6年)に依るモノではありますが、華族(維新まで大名であった家など)もこれに習い、多くの子弟が陸海軍に入隊して国防の大任にあたりました。
「入隊」って言っても、基本的に華族や宮家のご子弟は兵隊さんにはなりません。
陸軍士官学校や海軍兵学校からツルツルっと士官におなり遊ばされ、大本営とか鎮守府で危険のない「任務」に就く…ってのが一般的な理解だろうと存じますが。
ところがどっこい、そうでもないんですよ。
ココにも一人、我が身を盾に乗艦と同僚を守り抜いた華族の男がおりまして。
その男の名は「徳川 熈」。熈は「ひろむ」と読むんだそうで。華族も華族、徳川家の御子息ですね。ただし熈は慶喜の孫だけど、父ちゃんの代で分家してるから、侯爵じゃなくて男爵家ね。
徳川熈は大正5(1916)年2月15日のお生まれで学習院中等科から昭和13(1938)年に海軍兵学校をご卒業。
海兵65期で、真珠湾攻撃で「九軍神」のひと柱となった岩佐直治中佐(二階級特進)の同期生。
年齢からも多くの戦死者を出したクラスですが、徳川が海兵に学んでいたのは、まだまだ余裕のある年代でもありました。
余裕があったせいなのか?徳川の兵学校時代のエピソードが伝わっています。
徳川の同級生で、宮野善治郎と言う学生が居ました。
ある日、宮野に実家から差し入れが届きました。一斗缶にビッシリ詰められた煎餅です。
宮野は次の日曜日に倶楽部に持って行って、友人たちに配ろうと思っていました。
「倶楽部」とは兵学校が用意した施設で、一般家庭の一室を借りて生徒がのびのびと休日を過ごすモノです。
ところが、徳川がこの煎餅を見つけてしまったんですね。徳川熈は
「美味い!本当に旨い。こんなに美味い菓子は食ったことがない」
とか言って、一人で一斗缶全部喰ってしまったそうです。
上層の方たちって、庶民の味に触れたことが無いでしょうから、珍しいんでしょうか。
軍隊では出自は…
徳川熈はお殿様らしく、愛すべき図々しさというか、憎めない無神経さを発揮します。
一斗缶の煎餅(倶楽部で同窓生が楽しむはずだった)を一人で喰っただけじゃなく
「美味かったなあ、宮野の煎餅、また食いたいなあ」と御所望。
宮野の実家は、その後何度も菓子を一斗缶に詰めて兵学校に「送らざるを得なかった」とか(笑)ですが、徳川宗家からも男爵家からも、何らの返礼品が送られることはありませんでした。
このつまみ食いは、海兵65期では良く知られた「事件」だったようで、何人かの同期が語り残しておられます。ってか、喰いモンの恨み恐るべしwww.
ただ、ココで大東亜戦争前の大日本帝国社会を考えるために、注意しておかなければいけないのは、陸軍士官学校とか海軍兵学校では、宮野のような庶民と、徳川のような華族が全く同じ教育を受けていた、と言う点です。
海軍兵学校・陸軍士官学校は、学費がタダで生徒は給料も貰え、卒業すれば(成績悪くても)職業軍人(つまり役人)としての立身がソコソコ約束されています。ソコソコってどれくらいか?って。
ソツ無く勤めれば、大佐まで昇進できるのがお約束(保証と言っても可)でした。
陸軍なら連隊長・海軍なら巡洋艦の艦長(戦艦の艦長はもっと偉くなる人の腰掛or箔付け用)相当の地位ですから、直属の部下が3桁の後半から4桁もいる、大組織の長であります。
大佐で辞めて(名誉少将なら尚良し)田舎へ帰れば、年金も付きますし、地元の名士間違いナシ。
在郷軍人会で威張り散らしながら、余生を悠々と送れますし「有識者」として地元社会で引っ張りだこでしょうね。
今以上に経済的・社会的な格差が大きかったとされる戦前の大日本帝国社会ですから、「家庭の経済的な事情」で高等教育を諦める人も多かったことは容易に想像が付きます。
しかし、「階級上昇」のチャンスは現代以上に準備されていたように思えます。
士官学校・兵学校もその一つでした。第一高等学校と並んで「三難関」とされてはいましたが、一旦入学してしまうと、出自や家庭環境などの個人の背景はいっさい抜き。
エエとこのボンも、ビンボ垂れの鼻たれも、平等に鍛えられたのです(皇族にはお付き武官が引っ付きましたけど、課業では特別扱いなし)。
一寸余談になりますが、
「じゃあ、この難関を若くして突破しないと海軍士官にはなれないのか?」
との疑問を抱く方がおられるかも知れませんので。
もちろん、そんなことはありません。大学の工学部を卒業すれば、技術士官になる道が開けましたし、成績優秀な学生なら「海軍委託生」になれました。
コレは大学生のまま海軍に籍を置き、士官に准ずる給与を貰い、卒業後は技術士官の地位が約束される、って言う夢のような制度です。
大学に行くのは庶民には難しかった?そう仰るムキには、「高等商船学校」がありますよ。
ココも入学すると無条件で「海軍予備生徒」で兵籍に入り、徴兵されることが無くなります。
卒業したら「海軍予備少尉」または「海軍予備機関少尉」として、民間会社に就職するんです。戦時には、年齢に応じた階級で招集されて戦闘に参加します。
余談の余談ですが、戦後に海上保安庁が発足するとき、中心になったのはこの「予備士官」たちですし、この人たちの「戦死率」は正規の士官たちよりもずっと高いのです。
対して海上自衛隊(航空も)の発足時の中心は、正規士官の人たちです。
まあ、見方によっては最近の尖閣領域に出漁している漁船を「カラダを張って支那軍船から守る」のが海上保安庁の巡視船だ、ってのも「さもありなん」ではあるんですね。
もちろん、海自が出ないのは「憲法が悪い」「命令が無い」ってのが主原因ですよ、念のため。
閑話休題。
成績は悪かった
徳川クンはお勉強が苦手だったみたいで、卒業したときの成績は187名中186位と言う劣悪ぶり。
一説には下々と違って、良い成績を取って出世する(兵学校の卒業席次は、海軍に奉職している間、ずっとついて回ります)必要が無かったから、とも言いますけどね。
成績は良くなくても、色白でいかにも「貴公子」て感じの徳川は、ひときわ目立つ存在だったそうです。
兵学校では、「鉄拳制裁」が名物だったと言います。最上級生が最下級生を殴って鍛えるんですな。
徳川は目立つくせに成績が悪いし、おっとりしてる分、動作は早くないので、良く殴られたそうです。
殴られると、最上級生になってから、下のモノを殴り返すってのが「下々のやりそうな事」です。が、徳川クンにはそういったお話は見当たりません。
さて、今では死んでからしか頂けない「位階」ってモノが、大日本帝国憲法下だと割りとホイホイ頂けたようでありまして。特に公務員だとねw
なんで、海軍兵学校を無事に卒業して少尉に任官すると、ほぼ自動的に「正八位」に叙せられるんです。
以後、階級が上がるのに合わせて位階も上がります。「海兵出の最低保証」の大佐になると「従五位」になってるんですな。
位階は、ある意味「天皇の臣民としての位」でありますから、行事や式典に列席するときは、「軍人としての階級」よりも位階の序列が優先になります。
徳川は男爵家の長男でありますから、兵学校在学中の昭和11(1936)年2月に早くも従五位に叙せられています。
こういう所は「格差」「差別」かいなぁ。
その年の10月27日には、昭和大帝が江田島(海軍兵学校の所在地)に行幸賜るのでありますが、徳川は居並ぶ教官を尻目に、彼らの一歩前で、陛下に敬礼。
位階が威力を発揮するのは、雲上人に対してだけではありません。
徳川たちのクラスの卒業パーティは昭和13(1938)年の11月15日、呉の岩越という料亭で開催されました。
海軍御用達の通称「ロック」であります。
料亭って言いましてもね、スケベの塊みたいな海軍御用達ですので、芸者さんの御接待が参加者の目的でして…ところがですね。
階級はみんな同じ「海軍少尉」です。ただし、位階はだいぶん差があります。それなのに、それなのに、嗚呼!
居並ぶ若き海軍少尉(シャバの若いギャルの憧れだったそうですよ)には目も呉れず、芸者さんたちは入れ替わり立ち代わり、徳川の横に座ったそうなんです。
海軍の組織の下での平等を信じていた?新任少尉たちは、こんな所で「家柄」の違いを見せつけられるなんて、想像もしていなかったでしょうね。
潜水艦乗りに
海兵卒業後の徳川は、戦艦「日向」・重巡洋艦「妙高」の乗り組みを命じられます。
「伊号第五十五潜水艦」「伊号第二十四潜水艦」に乗組んだあと、軽巡「北上」の通信長。
昭和16(1941)年5月28日、会津松平家第十二代当主で海軍少将・子爵松平保男の五女・順子(よりこ)さんとご結婚。
「伊号第九潜水艦」通信長を経て「横須賀鎮守府附」となり、大東亜戦争開戦。
開戦後は軽巡「多摩」通信長のときに潜水学校特修科学生となります。
ちょっと結婚が早いんですけど、まあ海兵を成績劣等で出た人の標準コースね。
もちろん、国に貢献する能力が劣等じゃなくて、あくまで海軍役人としての評価基準の話ですよ。
成績の良かった人は「航海」「砲術」などの分野へ行き「海軍大将」に出世する競争に参戦(2~3期で一人くらい出るのが標準)、そうじゃない武人は「水雷」とか「潜水」。
後者に行った人は、それから頑張っても「最低保証」の大佐で「水雷戦隊司令」とかを務めた後、少将にして貰って退役(まれに戦功を立てて中将)…がお決まりコースです。
潜水学校特修科を修了した徳川は「呂号第六十三潜水艦」乗組を経て、昭和17(1942)年12月に「呂号第百一潜水艦」の水雷長に補されます。
呂百一潜は、就役後間もない新鋭艦とはいっても、水上排水量わずか601トンしかありません。
局地戦とか、港湾防衛用に建造された、小型の潜水艦なんです。
徳川を乗艦させると、呂百一潜は昭和18(1943)年1月、南太平洋に向けて出撃いたします。
ラバウルを拠点にして、ニューギニア・ソロモン諸島沖の海中を遊弋し、連合軍の輸送路に攻撃を加えようという作戦です。
この年の2月にはガダルカナル島から撤退していますから、ソロモン海の制海権は既に喪失したあとです。
本来、呂百一潜のような小型の潜水艦は、航続距離の問題などがありまして、こういった「哨戒型通商破壊」には向かないのですが…
ガ島失陥後の日本軍の最前線拠点は、ニュージョージア島とコロンバンガラ島と言ったところでありました。
呂百一潜は、激しいスコールに紛れてこの両島にはさまれた「クラ湾」に浮上したまま進入。
この頃の潜水艦は、電脳大本営に言わせればまだ「可潜艦」の段階でありますので、浮上しての襲撃行動はそれほど批難されるべきモノではありません。
しかし、アメリカ軍のレーダー性能にまでは想像が及ばなかったのです。
呂百一潜からみると、視界不良の海上に突如出現したアメリカ哨戒艦があったのです。
この時、水雷長の徳川が哨戒直。
徳川は良く見張りの大任を果たし「急速潜航!」と叫ぶのですが、敵もさるもの、徳川の発見とほぼ同時に射撃開始。
艦は徳川の号令に即座に反応・潜航し、危うく難を逃れたのです。
もちろん徳川はハッチを閉鎖して艦内に退避したのですが、腰と左胸とに敵弾を受けていました。手当ての間もなく、徳川は絶命。
水葬せず
艦上で戦死者がでれば、通常は「水葬」によって葬られます。
コレは軍艦と言う閉鎖空間のスペースや衛生情況を考慮すれば当然のことです。
まして、呂百一潜は小さな潜水艦でありますので、本音を言えば「一刻も早く水に流したい」ところだったでしょう。
しかし、乗組員たちは総意を持って徳川の水葬を拒否。
徳川の遺体は根拠地のラバウルに帰還するのであります。7月14日、荼毘に付され、16日にはラバウルの地で海軍葬。
その後、徳川の遺骨は内地帰還を果たし、上野は寛永寺谷中墓地にある徳川家の墓所に埋葬されました。
呂百一潜水艦長・海軍少佐折田善次は、徳川の弔辞として
「君は名門に生まれ、資性きわめて天真爛漫、人に接するにつねに温顔にして信義に富み、部下を愛すること極めて厚し。
(中略)君が壮烈なる戦死の瞬時まで艦内に叫びし号令はよく呂号第百一潜水艦および乗員の危地を救いたるものにして、ここに至上の責任観念の発露を見るなり」
と述べて、その功績を称えたのでありました。
一方、海軍兵学校で徳川に煎餅を献上?させられた同期生の宮野善治郎は、昭和18年6月16日、第二〇四海軍航空隊の飛行隊長として零戦隊を率いて、ガダルカナル島上空に進撃。
敵戦闘機との激戦を良く指揮したものの、空戦後の集合地点に戻ってこない部下を心配して単機で捜索に引き返し、ついに帰りませんでした。
徳川熈に先立つこと一ヶ月の最後であります。
幼くして父を亡くし、誠実なものの裕福とは言えない家庭に育った宮野善治郎と、大日本帝国でも有数の名家に産まれ、何の不自由も不満もなく育った徳川熈。
接点のありようもない二人の日本人は、平等に軍人教育を受け、自ら望んで危険な戦場に身を投じ、同じように部下乗員のためにその一命を捧げることになったのでありました。