鹵獲駆逐艦の運命
「鹵獲」って、なんとも魅力的な言葉じゃないですか(笑)
wikiには、『鹵獲(ろかく)は、戦地などで敵対勢力の装備品や補給物資を奪うこと。』とありますな。
枢軸国は良く使った…
大東亜戦争を含む第二次大戦では、とくに枢軸国軍が大々的に鹵獲兵器を運用したことが知られています。
コレは枢軸国側が連合連合国軍と比べて、生産力や兵站能力で負けてたことが原因じゃないかな、と思います。
私たちからは「戦車王国」に見えるドイツ軍だって、鹵獲した戦車をガンガン使ってますからね(笑)
チェコスロバキアの「38t」戦車は有名ですけど、フランスの「オチキスH35」とか「ソミュアS35」なんてマイナー戦車も治安維持任務などに、ドイツの敗戦まで使い続けています。
流石に一線には出せなかった、とも言えるんですが、それは「鹵獲兵器」だからじゃなくて元々の性能がアレだったから。
ただ、敵から奪った兵器を敵に向けて使うんですから、効率が良さそうに思えるんですが、鹵獲兵器には運用において大きな制約があるモノです。
エンジンや変速機構などの機器類は自軍のソレとは規格が異なることが多いでしょう。
民生用の自動車に比べて、入念な整備があることを前提にして、機械にギリギリまで無理をさせて成立しているのが兵器と言うモノであります。
「オイルだけ変えときゃ、整備無しでも10万キロは平気さ」
なんてのは、私たち日本人には当たり前ですが、戦車ではそうはいかないんであります。
あっ、万一って事もありますんで、せめて一年点検くらいはちゃんとやってね(笑)
もちろん、戦車だけじゃありません。ってか、エンジンだけじゃなくて、弾丸なども口径がちょっと違えば、使えませんしね、鹵獲はしても、なかなか「運用」は難しいんです。
ですから、鹵獲兵器はフィンランドを除いて、あんまり第一線には出ないんです。
もちろん、コレには例外もありまして、今回はその例外のお話であります。
ネタはほんのちょっとしかないので、もう一脱線いたしますけどね。
アメリカの駆逐艦
今回の主人公はアメリカの駆逐艦「スチュワート」であります。
この駆逐艦、電脳大本営が取り上げるんですから「マトモな生涯」を送ったワケがありません。
ご存知の方は良くご存知でしょうけれど、このフネは大東亜戦争の極初期に沈んだことになってるんです。
ソレを大日本帝国が発見し、引き揚げて「第102号哨戒艇」として戦列に加えたモノです。
駆逐艦「スチュワート」はクレムソン級の駆逐艦として、大正8(1919)年9月9日に起工(ペンシルベニア州フィラデルフィアのウィリアム・クランプ・アンド・サンズ社)、翌年3月4日進水・同年9月15日に就役(初代艦長S・G・ラム大尉)しています。
ザクッと要目を上げておきます。
1308トン(満載)・2軸35.5ノット・50口径4インチ砲×4・23口径 3インチ砲×1・3連装533ミリ魚雷発射管×4基。水兵さんは艦長以下120名強。
竣工の年代からも要目からも、我が海軍の「峯風型」とか「神風型」が同期生って事になりましょうか。
ただ、峯風や神風と大きく異なるところが二つありまして。
一つはクレムソン級が「対潜」を考慮して建造されたこと、であります。
クレムソン級は第一次大戦の戦訓を受けて建造された「戦間期型」(峯風・神風級はもう少し早く設計されていますが)と言えるんですが、大英帝国がドイツ帝国の「無制限潜水艦戦」に追い詰められた経緯を良く研究しているんですね。
アメリカは大陸にあって、陸地で他国と国境を接する大陸国ではありますが、両洋に長い海岸線を持つ海洋国家でもありますから、当たり前って言っちゃえばそれまでなんですけど。
対して島帝国たる我が方は、駆逐艦の任務を主力艦隊に随伴したり、前程に進出して敵艦隊を事前に攻撃したりする事としていました。
電脳大本営の提唱する格言「帝国海軍は護衛が大嫌い」って事であります(笑)
もう一つが建造された隻数です。なんと、この「クレムソン級」は156隻も建造されているんです。
太平洋を挟んでドンパチ始まってるわけじゃないですからね、クレムソン級の建造時期って。
一方の勃興著しい島帝国の方は、と申しますと「峯風型」が15隻、「神風型」が9隻で計24隻。ケタ違いも良い処です。
この隻数の違いを埋めようとしたのか?帝国海軍、超絶性能を狙った「特型駆逐艦」をリリースいたします。
特型の超絶ぶりはご存知の方も多いでしょうし、別の記事にしたい気持ちもありますんで省略いたしまして。
電脳大本営らしく帝国海軍の欠陥を鋭く?衝いていくことにいたします(笑)
駆逐艦長(クラス)が大事
時は昭和5(1930)年であります。
大英帝国の首都ロンドンには、大日本帝国・アメリカ・イギリスをはじめ、有力海軍国の代表が集まりました。
既にワシントン軍縮条約で、主力艦の保有や新たな建造には制約が掛けられていましたが、補助艦(巡洋艦より小さい軍艦)にも制約を付けよう!って交渉であります。
一方、特型駆逐艦は大正12(1923)年度の計画で吹雪・白雪・初雪・叢雲・深雪の5隻、大正15(1926)年度の予算で磯波・東雲・薄雲・白雲、昭和2(1927)年度計画で15隻が建造開始。
「補助艦の制限」を理由に日本の特型駆逐艦の建造を抑制しよう!とする魂胆があった、と思われても仕方のないタイミングでありますな(笑)
実際、昭和3年から「特型」は続々と竣工・就役が始まっています。
まあ、そんなこんながございまして、ロンドン軍縮条約の交渉でアメリカ海軍提督が思わず漏らした(ションベンちびった訳じゃありません)、とされる言葉があるんです。
「太平洋に展開する貴国の新型駆逐艦(特型のこと)50隻と、両洋(太平洋と大西洋)に展開する我が駆逐艦300隻を交換したい」
提督の名前が判らない、と言う見事な与太話なんですが。
ただ、もしもホンマに交換してたら?
駆逐艦が一気に250隻も増えちゃうと、駆逐艦乗り(水雷屋)も少なくとも250チーム×数組分増えますよね。
特に艦長さんに注目すれば、訓練と経験を積んだ250×2~3人もの「駆逐艦長」をストックして、大日本帝国海軍は大東亜戦争に突入した筈。
戦争結果をひっくり返す、までの力にはなり得ないかも知れませんが、大東亜戦争中の「輸送」とか「対潜」って事象が様変わりしてたんじゃないでしょうか。
大げさと思われますか?
「もっとも戦闘の上手な、責任感に満ちた、機転の利くアブラの乗り切った少壮士官」が500~750人も余分に居るんですよ。
たとえば、戦争後半になって船団護衛の中心的戦力になる「駆潜艇」とか「砲艦」とかの雑多な小型艦の「艦長」さんは、海軍予備員(商船の幹部乗組員を海軍士官待遇にしてあった)や学徒出陣の急造士官がほとんどです。
この人達も立派に勇敢に戦い抜かれたのですけれど、ソコはやっぱりプロの戦士じゃありません。
護衛を受ける側の貨物船にベテラン船長が居たりすると
「守ってくれんでも良いから、勝手に逃げさせてくれ!」
などと言われたそうです。
正規の士官じゃない、小艦艇の艦長さんには
「そうでっか!じゃあ、ご自分の安全はご自分でお守りください」
と言える権限も経験知もあろうはずがありません。
出港前に司令部で命じられた通りの航路を、命じられた時間通りに、命じられた通りの隊形で航走し、ホンの少しの経験と貧弱な訓練で得た知見で、僅かな武装を駆使して必死の抵抗を繰り広げたのです。
正規の士官じゃない艦長さんや幹部乗組員が、船団を守るために彼らに可能だった全てを傾けて戦ったことは間違いありません。
その証拠に船団護衛に就いた駆潜艇などは、米軍機に襲われるとほぼ100%沈められています。
我が身を盾に、及ばずながらも船団を守ったこれらの小艦艇の乗組員を、護衛されていた商船側は自分も引き続いて攻撃を受けながら、一生懸命救助しているんです。
ちゃんと戦ってくれなかったら、誰が助けるモンですか。
この「正規の士官じゃない、小艦艇の艦長さん」の代わりに、大量に出来ていたであろう「元駆逐艦長」さんたちが、船団護衛の艦長職や護衛指揮官の地位にあったら…
「どっちも士官なんだから結果も同じ」とはなりません。
「元駆逐艦長」さんたちには、士官学校や海軍大学校(行ってない人の方が多いかも、ですが)時代の同級生が居ますから。
同級生たちは、この時海軍に残っていればかなりエライさんになっている時期です。悪くて大佐、将官も大勢いるでしょう。
海軍各セクションに散った同級生は隠然たる勢力になり、「良かれと思ってやった命令違反」など(程度問題ですが)いつでも何度でも不問に付すことが出来たでしょう。
さて、スチュワートの運命は
比較的低性能で「交換用駆逐艦」に擬されちゃったアメリカの駆逐艦「スチュワート」ではありますが、大東亜戦争までボケッとしていたワケじゃあありません。
「大西洋駆逐艦隊」に属したり、カリブ海で演習したりした後の1922年6月20日。ニューポートを出航してフィリピンへ向かいます。
米国アジア艦隊に配属されて、この後「スチュワート」はなんと24年間も故国へ帰りませんでした。
いえ、大東亜戦争が始まってすぐ、「スチュワート」って言うフネはアメリカ海軍の艦籍から消えちゃってますから(他の艦が「スチュワート」として就役)、「二度とアメリカに帰らなかった」と言うべきなのかも知れませんね。
「スチュワート」はアジア艦隊配属の翌年には、関東大震災に見舞われた大日本帝国への救援部隊の一員となって、横浜に来たりしています。
大東亜戦争が勃発したとき「スチュワート」は、オーストラリア海軍の補助艦艇などと一緒に、フィリピン~ボルネオ島のタラカン沖に停泊していました。
大日本帝国海軍に押されっぱなしの緒戦期は、輸送船団を護衛して蘭領東インドの沿岸をウロチョロ。
この時の艦長はハロルド・スミス少佐で、「第58駆逐隊」のなんと旗艦であります。
昭和17(1942)年2月20日、バリ島沖海戦が勃発。
アメリカ海軍「第58駆逐隊」は大日本帝国海軍の「第8駆逐隊(阿部俊雄大佐)」と交戦。
この戦闘は「バリ島沖海戦・第二合戦」とでも称されるべきモノで、オランダ駆逐艦「ピートハイン」を撃沈した第一合戦に続く戦闘です。
ピートハイン一隻の撃沈を、第8駆逐隊は「敵駆逐艦2隻撃沈・一隻大破」と報告していまして、こんな時期から戦果確認がちょっとヘンだぞ?って感もありますが、今日のところはスルーいたします。
アメリカ駆逐艦「スチュワート」「パロット」「エドワーズ」「ピルスベリー」とオランダ巡洋艦「トロンプ」が単縦陣で、日本軍が上陸していたサヌール泊地に突入してきたのです。
「朝潮型駆逐艦」はアメリカの老朽駆逐艦を、攻撃力ではるかに凌駕しておりまして、「トロンプ」が8000メートルほど離れていたこともあり、先頭で突入した「スチュワート」はボコボコにされてしまいます。
12.7cm砲弾が数発命中し、補助ボイラーが損傷、浸水もあり、副長のスミレイ大尉が負傷。
それでも「スチュワート」はなんとかこの場を逃げ出し、スラバヤ軍港に逃げ込むことに成功いたします。
ところが、幸か不幸か?スラバヤ軍港も陸上からの攻撃が迫っており、軍港の工員さんたちも浮足立っていたようです。
「スチュワート」は損傷修理のために、浮きドックに入渠したのですが。
浮きドックでは満水にしておいて艦船を受け入れ、支持架に船底を固定します。
コレだけでは、左右舷方向に倒れちゃいますから、適当な支持台を入れてから水を抜きます。
ところが、この支え方が適切ではなかったようです。
「スチュワート」はドックの排水中に支持架から転落しちゃったのであります。戦闘では無事だった、左の推進軸を強打して曲がるなどの損傷をうけてしまいます。
そのほか、空襲で命中弾を貰ったこともあって、修理は不可能と判断され、「スチュワート」は3月1日に(記録上)爆破されてしまいます。
さらに翌日に連合軍は撤退し、この際に日本軍の鹵獲を避けるために、「スチュワート」は浮きドックごと沈められちゃったのでありました。
救い主
昭和17年3月8日。ジャワ島に展開していたオランダ軍は大日本帝国軍に降伏しました。
日本軍はスラバヤ軍港を占領、沈められた浮きドックのなかで、左舷に大傾斜したままの駆逐艦「スチュワート」を発見いたしました。
それでなくても艦艇不足を感じていた大日本帝国海軍。
さっそく「スチュワート」を浮揚させて修理・改造を施し、自軍で活用することにいたします。
浮揚作業の詳細が良く判らないのですが、ドックから引きずり出して、小さいとは言え1000トン超えの駆逐艦を浮かび上がらせるのは、結構な手間がかかったことでしょう。
そんな面倒な事をするより、その人員・時間・費用を本土で新造艦に廻せよ!とも思うんですけど…
ともあれ、「スチュワート」は第百二海軍工作部が担当して損傷復旧と改造工事を受けることになります。
第百二海軍工作部は在スラバヤで、そこそこの工作能力があったようです。
改造工事といっても、平甲板型の艦体は手を付けてはいません。
動力関係も使えるモノはなるべくそのまま、ただし、排気は4本煙突だったモノを、1・2番煙突を甲板上で結合した「集合煙突」にしています。
昭和18年6月15日、まだ艤装中だった旧「スチュワート」は呉鎮守府所属の哨戒艇に類別されます。
スチュワートを改め、「第百二号哨戒艇」と名付けられて、第二南遣艦隊に編入(艤装工事未了のため、引き渡しは9月21日)。
このあと公試を行い、乗員を乗せて慣熟訓練があり、やっと戦列に加わったのは10月18日。
大日本帝国陸海軍がスラバヤ軍港を占領して、沈んでいたスチュワートを発見してから一年半以上かかってしまいました。
ちなみに、戦時急造型の雑木林級こと「松級駆逐艦」は最短だと五ヶ月で完成してます。
ナンボ安上がりの急造型って言いましても、松級の方が「クレムソン級」よりはるかに強力ね(笑)
なんだかなぁ。無駄なことしてるような気がするんですけどね。
でも、「フネを大事にする」って帝国海軍のこういう姿勢は、儂は嫌いじゃないけどな。
まあ、そういったワケで、バリ島沖海戦で奮戦して傷つき、自軍のミスでさらに重傷を負い、直しきれずに味方に爆破され、入ってるドックごと沈められちゃった「スチュワート」は、敵海軍の手によって浮揚して貰い、カッコよくしてもらい、ついに復活したのであります。
帝国海軍哨戒艇
「第百二号哨戒艇」が最も活躍したのは、昭和19年後半だったと言えるでしょう。
かつて母港としていたフィリピンと台湾や、シンガポールと日本本土間の船団護衛に付きっ切りだったのです。
ただし、大日本帝国海軍が押されっぱなしのこの時期の「船団護衛」でありますから、「第百二号哨戒艇」になってからのスチュワートちゃんには、これと言った戦果はありません。
「産みの母国」の潜水艦を撃沈するようなことがなくて、良かったのかも知れません。
飛行機の方は、「第百二号哨戒艇」の戦闘詳報などで何機かの撃墜が報告されていますが、アメリカ側に対応する被撃墜の記録がありません。
やられた方が「そんなことない」って言ってるんですから、飛行機も墜としてないんでしょうね。
こういう事は、都合よく解釈すりゃ良いんです(笑)
さすが正義の大日本帝国海軍に救われただけのことはある…んでしょうかねぇ。
結局「第百二号哨戒艇」の功績は、撃沈された艦船の乗員の救助や移送などだけ、って事になってしまいます。
この時期の船団護衛はかなり有力な駆逐艦でもついてない限り、こんなモンではありますが(´;ω;`)。
「第百二号哨戒艇」の最後の戦闘は、昭和20年4月26日のシモ03船団の護衛でした。
舟山群島から門司へ向けての航海だったんですが、木浦沖を航行していた時に2機の「PBYカタリナ」飛行艇に見つかります。
ラダーケーブルって舵輪と舵を結んでる筈なんですが、なんで銃撃程度で切れちゃったんでしょうか?Wikiには「甲板上に露出していた」って書いてあるんですが、他にそんなおフネ、お聞きになった事あります?
まあ、そんなことで「第百二号哨戒艇」は一時航行不能となったのですが、船団の他のフネは奮戦してカタリナを撃退、無事に門司へ到着出来ました。
呉で損傷を直してもらい、ついでに電探付けて対空兵装も強化したんですが、「第百二号哨戒艇」にはもう出撃の機会は回って来ませんでした。
燃料が枯渇しきった状況ですから、コレも仕方のないことなんでしょう。
産みの親は冷たい
大日本帝国は戦いに敗れ、アメリカ軍に本土を占領されることになりました。
かつての敵国を占領したアメリカ軍は、昭和20年8月、広湾(広島県呉市)で「第百二号哨戒艇」を発見いたします。
すでに書きましたように、アメリカ軍公式では、「スチュワート」は自沈処分されていまして、とっくの昔に艦籍から除かれています。
どころか、「スチュワート」の名前は既に新造の駆逐艦(DE-238=エドサル級護衛駆逐艦)に受け継がれちゃっていたのであります。
実は「第百二号哨戒艇」は、大東亜戦争中からたびたびアメリカ軍に目撃され、「謎」として物議を醸していたのです。
アメリカ海軍のクレムソン級の駆逐艦の特徴が、色濃く残った「哨戒艇」が大日本帝国の輸送船を護衛してる!ってなわけですね。
平甲板などはそのままですが、4本煙突は途中で3本になってるし???
帝国海軍の根拠地の一つの呉で、この謎をとっ捕まえてみると、「なんだぁ、スチュワートだったのかい」ってなことになりまして。
もちろんアメリカ海軍は「スチュワート」を再度自軍に編入。取り戻したワケです。
ところが元のスチュワートって名前は他の軍艦のモノになっちゃってますから、第百二号哨戒艇は「DD-224」と呼ばれることになりました。
11月8日、「DD-224」はアメリカへ向けて出港。
1922年6月20日以来、24年ぶりの「里帰り」でありました。
しかし、「DD-224」は自分の近未来を予知していたのでしょうか?
航海が始まるとすぐに、燃料ポンプの故障が繰り返し発生。最終的には修理不能。
12月14日には自力航行が不可能になり、ついに太平洋上を曳航されることになってしまいます。
「DD-224」、いや「第百二号哨戒艇」は中城湾・グアム・真珠湾を経由して1946年3月5日にサンフランシスコに到着。
長旅の疲れを癒す時間も与えられず、1946年5月24日、サンフランシスコ沖で戦闘機のロケット弾攻撃実験の「標的」として沈められてしまいました。
大日本帝国海軍第百二号哨戒艇は沈んでいません。実験で「撃沈」されたのは、アメリカ海軍のDD-224であります(涙)
「アメリカ海軍に二回も沈められたアメリカ産まれの駆逐艦」
のお話でありました。