「奇跡の船」の生涯1
日本政府がIWC(国際捕鯨委員会)を脱退する方針をかため、いよいよ商業捕鯨再開の機運が高まっています。でも、南氷洋では操業できそうもありません。
誕生
これは「南極条約」っていう国際法(と付随する取り決め等)によって南極地域での動植物採取が規制されているためです。
でも、ちょっと待てよ。我が国は大東亜戦争の前から南氷洋での捕鯨の実績があるし、戦後の南極大陸の調査にも協力してきた(国がまだ豊かになる前からね)実績があるんです。
電脳大本営的には南極観測船「宗谷」の活躍であります。
「宗谷」はもともと昭和13(1938)年に、ソ連から注文を受けて建造された「耐氷型貨物船」であります。氷が浮いている海であっても、貨物輸送が可能な貨物船って事です。
なんでソ連がわざわざ我が国に貨物船を発注したか?という疑問が浮かびます。これは従来、満洲国のChinaからの独立に関係する、と言われてきました。
つまり、独立に伴って満州国内に存在していた、旧ロシアの遺産である「東支鉄道」を満洲国が買い取ったのです。
これが昭和10年3月のことで、代金は1億4千万円でした。このうち4670万円は現金で支払い、残った9330万円はソ連が満州国内か大日本帝国内の生産物または製品を購入することになりました。
ソ連はいろいろなモノを注文したのですが、その中に「耐氷型貨物船」同型船3隻があった、というモノであります。これには近年異説も提出されているのですが、異説では「なぜ日本に注文?」という点が解明出来ませんので、割愛します。
注文は同型のフネ3隻だったと申しあげました。船名は「ボルシェビキ」「コムソモレーツ」「ボロチャエベツ」(進水順)で、長崎県にあった川南工業株式会社の香焼島造船所(現在の三菱重工業長崎造船所香焼工場)で同時進行で建造されていました。
この三隻の工事は、ソ連から派遣された造船監督官のI・E・スメタニュークが細部に至るまで工事に口出しをしたために遅れに遅れてしまいました。
完工が第二次世界大戦の直前になってしまったため、ソ連との間に引き渡しについてのスッタモンダが起きることになります。
まずは海軍佐世保鎮守府が香焼島造船所(川南工業では松尾造船所と呼称)で「ソ連のための耐氷型貨物船」を建造していることを察知して「ソ連に渡すな」と言い出したのです。
海軍にはこの時「大泊」という砕氷艦が一隻あるきりでした。「大泊」は良いフネでしたが、尼港事件(シベリア出兵時に守備隊と居留民が大量虐殺された事件)をきっかけに建造された老兵。
海軍としては新造の砕氷艦が欲しいのですが、大戦争前にその予算が無くて悩んでいたようです。そこに降って湧いた「耐氷型貨物船」、それも3隻ですから、横取りしてやろうと企んだのでしょう。
この横槍は、実は川南工業にとっても渡りに船でした。と申しますのも、ソ連の監督官の口出しで工期が遅れただけではなく、各種検査も軒並みダメ出しされて経費がかさみ、大赤字の状態だったのです。川南工業は、この3隻をこのまま海軍に売り払ってしまった方が商売としての旨味があったのです。
昭和13年の3月、海軍省・外務省のバックアップを取り付けた川南工業はソ連との契約を一方的に破棄(違約金を支払っていますが)してしまいました。
民間貨物船
松尾造船所の3姉妹は川南工業傘下の「辰南商船」で運行されることになりました。流石にソ連とトラブルになったフネをそのまま海軍が徴用することも出来ず、取りあえずは民間船とすることになったのだと思われます。
後に「宗谷」になるのは、このうち次女の「地領丸」です。ソ連名は「ボロチャエベツ」で、進水が一番最後になったフネ。他の2隻は「天領丸」「民領丸」と名付けられました。
「地領丸」は雑貨などを積んで大連・天津・青島・上海などへ往復した後、「栗林汽船」に貸し出されて本領を発揮します。
函館をベースにして、占守島への輸送業務に就いたのであります。占守島には蟹の加工工場があり、其処で働く女性たちや資材・機材を運ぶ仕事に就いたのです。
占守島周辺の海域は霧が深くて操船が難しいのですが、「地領丸」は音響測深儀(アクティブソナー)を装備していましたので、比較的安全に運航できたとされています。
占守島で資材や労働者を下すと鮭・蟹・鱒などや缶詰・水産加工品を満載して函館へ戻るお仕事。
ソ連とトラブルを抱えていた「地領丸」が、後にソ連の悪逆非道の見本になる占守島への往復業務で活躍したことは、なんだか皮肉です。
南進
そうこうしている内に戦争は容赦なく近づいてきました。耐氷型貨物船三姉妹にとって、運命が大きく変わってきていた時期であります。大日本帝国の国策が「北進」から「南進」へと様変わりしていたのです。
三姉妹は「北方で活動する船」として作られていましたから、これから戦場になるであろう南洋の気候では使いにくいと判断されてしまいました。
ソ連と外交問題になっても姉妹を欲しがった海軍ですが、あっさりと態度を変えます。もう「耐氷型貨物船」が3隻も必要だとは思ってくれませんでした。
ただ、北方にも帝国領土は広がっていました。「蛍の光」の歌詞にあるように、千島の奥も大日本帝国の護りの内なのです。
蛍の光の4番の歌詞は
『千島の奥も、沖繩も、
八洲(やしま)の内の、護(まも)りなり、
至らん國に、勲(いさお)しく、
努めよ我が背、恙(つつが)無く。』
海軍は「地領丸」だけを自らの所属としたのでありました。「地領丸」は海軍入りに伴って艦名を改めて「宗谷」になったのであります。
「宗谷」と言っても宗谷岬ではなく、宗谷岬と樺太の間にある宗谷海峡から採ったもの。
海軍籍への編入に伴い、三年式40口径8糎高角砲×1門・九六式25粍高角機銃連装×1基(機銃については5挺との記述もあります)を搭載し、測深儀室や測量作業室を新設し、特務艦の内の「雑用運送艦」となります。
特務艦の艦名は海峡名から採りますから、宗谷海峡が由来、っていうワケです。
余談ですが、海軍が特務艦を民間から購入した例は「地領丸」→「宗谷」の一例しかないそうです(「世界の艦船」で読んだ記憶に基づきますので事実かどうかは自信がありません。ただ、他に例を思い付かないので)。
宗谷は横須賀鎮守府所属となり、横須賀を母港として活動することになります。「雑用運送艦」ですから何でも運ぶのもお仕事ですが、本務は「測量」でした。そのために専用ルームを作ったのですね。
軍艦になって最初のお仕事は、北樺太の調査。続いて「皇紀二千六百年特別観艦式」に参加。その後サイパンへ測量・観測任務。
大東亜戦争前に南洋での測量調査を行っては内地へ帰ってくる、という任務が続きます。乗員の皆さんは暑さに耐えて頑張ったんだと思います。
開戦
昭和16(1941)年12月8日。「宗谷」は母港の横須賀で開戦の報を聞くや、物資の積載を開始。29日には連合艦隊の大集結地となるトラック島に向かいました。
年が明けて昭和17年からは、南洋の測量と物資輸送の任務で内地と往復を続けていました。
測量任務はのんびりしているように見えて、海軍の作戦にとっては致命的に重要なモノであります。
軍艦はもちろん、フネの運航には海図は欠かせないモノです。特に戦争の進展に伴って占領地の港湾や泊地を使う時、安全な水路や障害物の有無が詳しく記された正確な海図は、戦闘艦艇が心置きなく戦うためにも絶対に必要なのです。
これを作成するための測量を行う測量船は、連合艦隊の黒子と言っても良いでしょう。逆に申し上げますと、「宗谷」みたいな測量兼務の特務艦艇が何処へ行くか?を注目していると、その海軍の作戦目標が推定できるのです。
既に戦端を開いた後ですから、航海には緊張感が漂っていたようです。航海中は常時「第二警戒配備」を取ります(2時間当直、2時間休憩)。この当時の「宗谷」は石炭罐×2で最大12ノット、巡行8ノット。潜水艦からすら逃げきるのは難しい性能ですから、見張りの緊張感はかなりのモノだったと思います。
「宗谷」はトラック島でB24爆撃機による空襲を初体験して横須賀へ帰還すると、今度はラバウル方面へ向かいます。
ときには敵に見つかって攻撃されることもありました。奇跡のような「被害ゼロ」が何度も起きていますが詳しい事は省きますよ。
昭和17年(1942)6月。大東亜戦争の分岐点となった「ミッドウェー海戦」が起こりました。電脳大本営的には、この分岐点説には少々言いたいこともありますけど、この「宗谷」のお話とはあんまり関係ないので、今日のところは黙っておきます。
このとき「宗谷」は、ミッドウェーを攻略したら、すぐに港湾周辺の測量を行うために待機していました。作戦失敗の報を聞いてすぐに北方に避退しましたので、もちろん損害はありませんでした。
8月には大本営の陸軍部員ですら、多くがその存在を知らなかった南方の島、ガダルカナルに突如アメリカ軍が上陸してきます。
「宗谷」は8月横須賀に帰着します。それまで第四艦隊に所属していたのですが、新編された第八艦隊に移されて再びラバウルに。
このころになると、すでにラバウルは昼夜を問わずアメリカ軍の大型爆撃機が来襲するようになっていました。連日連夜、対空砲や戦闘機が敵機と死闘を繰り広げているところに、「宗谷」は飛び込んでしまったのでした。
「宗谷」はラバウルを根城にソロモン群島やショートランドの測量業務を黙々とこなすのですが、爆撃や機銃掃射を受けることは珍しくありませんでした。ところが、一緒に行動している味方の艦船が大きな被害を受けても、「宗谷」は不思議に被害を受けなかったのです。
戦果(未確認)
しかし、ついに「宗谷」にも戦争の恐ろしさが襲い掛かってきました。昭和18(1943)年1月28日早朝のことであります。
「宗谷」はブカ島のクイーンカロラインという泊地で、例によって水路の測量中でありました。こっそりと忍び寄ってきたアメリカ軍の潜水艦から魚雷攻撃を受けたのです。発射された魚雷は4本。
帝国の優秀な魚雷とは違いますから、勇ましく見えてもバレバレの盛大な雷跡を引いて「宗谷」に向ってきました。測量作業中ではありますが、「宗谷」も軍艦の端くれ。戦争中に見張りの油断があろうはずもなく、「右舷後方、魚雷!」「前進強速、取り舵いっぱい!」
しかし、「宗谷」は軍艦とは言え戦闘艦艇にはあらず。2000トンクラスの、大きさだけは駆逐艦並みですが、俊敏さなどはカケラと言えるほどもありません。当時、魚雷に狙われたときに最も有効な対策は「魚雷の進路に艦を立てる」こと。つまり魚雷に自艦の舳先を向けてやる事です。「宗谷」は魚雷を発射された直後にこれを発見して素早い回避を見せたのですが、それは気持ちだけ(笑)
艦長以下がいかに手に汗握りしめても、客観的に見れば鈍い動きは鈍いまま。ついにドッカーン!鈍い衝撃音が後方にありました。
数秒後に付近で魚雷の爆発音が立て続けに3発。不思議なことに「宗谷」が激しく揺さぶられることはありません。魚雷3本は「宗谷」の艦底を通過して海底に着弾・爆発。水路測量するくらいですから、浅い海ですものね。「宗谷」を捉えた魚雷は1本だけでしたが、これがたまたま不発だったのです。「宗谷」は勇敢にも反撃に転じます。探索するまでもなく(宗谷にはソナーが装備されてますけど)、戦果確認のためでしょう、敵潜水艦の潜望鏡が水面に突き出しているのが視認されたのです。
鈍重なフネでも「宗谷」には爆雷が積んであります。足が遅い「宗谷」が自分の爆雷で自分を傷つけないよう、水中をゆっくり沈んでいくパラシュート付きの爆雷であります。
「宗谷」はコレを投下したのです。しばらくすると、鈍い爆発音とともに海面に気泡とともに油が浮き上がってきました。
戦闘が終わってから、「宗谷」は突き刺さった不発魚雷を甲板に引上げ、記念撮影。
「宗谷」は、敵の魚雷攻撃を回避して反撃、潜水艦を撃沈する(非公認です)という殊勲を挙げたのであります。
トラック大空襲
昭和19(1944)年になると戦況はますます我に利あらず。「宗谷」は2月1日付で第八艦隊から連合艦隊直属に編成替えとなります。
この当時の連合艦隊の一大根拠地であるトラック島に「常駐」する事になった「宗谷」でしたが、2月17日には大東亜戦争太平洋戦線の帰趨を「ほぼ」決定付ける戦いが起きてしまいます。
2月4日にはトラック島がアメリカ軍機の偵察を受けました。連合艦隊はトラック泊地が攻撃を受ける危険が高まったと判断、10日にはトラックに在泊していた連合艦隊主力は日本本土(空母部隊はパラオ)へ避難していました。
連合艦隊旗艦の戦艦武蔵以下と空母「瑞鳳」「千代田」の2隻・巡洋艦10隻・駆逐艦20隻・潜水艦12隻がトラックを逃げ出していたのです。
しかし、補助艦船は何の指示もなく置き捨てにされています。その数なんと50隻。そればかりではなく、トラックへ向かっていた輸送船団にも情報を渡さずに航行を続けさせていました。
2月17日の早朝から、トラック泊地はアメリカ軍の艦上機100機による空襲を受けてしまいました。空襲は一向に止む気配もなく、午後5時過ぎまで9波延べ450機による大空襲に襲われたのです。
「宗谷」を含む、置き捨てにされた艦船は終日激しい攻撃に見舞われます。「宗谷」も他の船舶も必死の対空戦闘と回避行動を行いました。損害はありませんでしたが、その途中で「宗谷」は回避運動中に座礁して行動の自由を失ってしまいました。
18日も再び大編隊での空襲が始まりました。座礁した「宗谷」は身動きも取れないままで、激しい機銃掃射と爆撃を受けます。
残った乗員たちはついに諦め、「宗谷」から総員退艦して、陸上に退避することになりました。
この2日に渡る「トラック大空襲」で在島の施設と戦力は壊滅的な大損害を受けてしまいました。その被害は沈没艦船41・損傷9・航空機270機・燃料タンク3基を含む大半の地上施設など。
2月19日。壮絶な空襲はようやく終わったようでした。
在泊していた多数のフネがほとんど見えなくなってしまったトラック泊地。たった1隻だけ船が浮かんでいました。
「宗谷」であります。
なんと座礁していた「宗谷」が潮の関係で自ら離礁して泊地を漂っていたのです。陸上に避難していた乗員たちは慌てて艦に戻り、調べてみると損傷は軽微。「宗谷」は回避もならず対空弾幕も張れない状態でトラック大空襲を生き延びていたのでした。
敗戦
「宗谷」は4月に横須賀に帰着。酷使した機関を整備して25ミリ連装機銃×4基増設。
「宗谷」の本務に大切な役割を持つ測量艇も下ろしてしまいます。戦局が守勢に回り、測量業務の必要が無くなってしまったからです。そのために「運送艦」としての改装も施されています。
昭和20(1945)年に入ると戦局はますます悪化しました。「宗谷」は日本近海にも多数が出没するようになった、アメリカ軍潜水艦の魚雷攻撃・艦載機による空襲を上手く潜り抜けて室蘭や八戸と横須賀を往復して石炭、食糧、軍需品などの輸送に従事していました。
もう、この頃には本土と周辺を結ぶシーレーンは寸断されて、唯一「天皇陛下の浴槽」と言われた日本海だけが帝国の物資輸送に残された海の道でした。しかし、ここにも敵の魔手は忍び寄っていました。アメリカが潜水艦に戦果を上げさせるために発動した「バーニー作戦」であります。
「宗谷」を含む船団が三陸沖(岩手県)を大陸に向け北上していた時でした。
アメリカ軍の潜水艦に発見され、魚雷攻撃を受けたのです。「宗谷」は潜水艦を発見、後続してくる僚船に危険を知らせたのですが、僅かに間に合わず。
「神津丸」「永観丸」ともに魚雷が命中してしまいます。「宗谷」だけは見事に雷撃をかわし、満州にたどりついて任務を完遂することが出来ました。この時は魚雷のほうが宗谷の下を通り抜けていったといいます。
この前後でも行動を共にしている船が魚雷攻撃で沈没したり、銃撃や爆撃をうけて擱座するなどがたびたび起こっているのですが、「宗谷」だけは不思議に任務を果たすことができています。
こうして昭和20年(1945)8月15日がやってきました。大東亜戦争の全期間に渡って常に最前線で戦い続けた「宗谷」は、ついに生き残って室蘭で敗戦の日を迎えたのでありました。
長くなりましたので、「宗谷」の戦後の変身と活躍は項を改めることにいたします。