鉄道連隊と老婦人
大日本帝国陸軍は伝統的にChina大陸で行動する事が多く、移動や輸送にあたって鉄道を頼りにしていました。
そのために工兵とは別に「鉄道隊」が戦地において鉄道の敷設・補修・運転・破壊に当たっていたのです。
日清戦争で
大日本帝国陸軍の鉄道隊の歴史は、明治28(1895)年の日清戦争にまで遡ります。戦争に当たって「臨時鉄道隊」が編成されたのです。
鉄道隊はドイツ陸軍に範をとったと言われていますが、ドイツの鉄道隊は良く知らないので本記事では割愛しちゃいます。
海でも陸でも、帝国軍は清国軍を圧倒するのですが、鴨緑江の渡河には苦労したようです。
そのときの日本軍は渡河用の資材の輸送と架橋などは工兵隊が分担していました。
資材の輸送には荷駄が使われていましたが、効率が良くありません。
陸軍は、鉄道を使えば便利じゃん!とやっとこさ気が付きました。
しかし、China大陸はインフラの整備状況はお話にならず、鉄道があっても整備はないも同然、まして戦場を往来しますから、単純に鉄道技術者を連れて行っても役には立ちませんでした。
戦争のあとになりましたが、鉄道の建設や運転、破壊された鉄道の復旧・整備を一体で可能にする技術工兵部隊として、東京・牛込に鉄道大隊が常設されることになりました。
この鉄道大隊はこの翌年には中野に移転します。
義和団事件(北清事変)が発生すると、鉄道大隊を基幹として「臨時鉄道隊」を編成、明治33(1900)年から翌年まで大陸で鉄道修理などに従事しています。
日露戦争(1904年~1905年)では、臨時鉄道大隊を編成して明治37(1904)年に出征します。各地で鉄道の建設、物資・人員の輸送などに従事して満洲の戦線を支えました。
活動の主なモノとしては、京城と義州を結ぶ京義線建設(の監督)、安東(現・丹東)と奉天(現・瀋陽)を結ぶ安奉線(軽便鉄道)の建設並びに輸送、奉天と新民屯(現・新民)を結ぶ新奉線(軽便鉄道)の建設などが挙げられます。
日露戦争の終結直後の明治39(1906)年、凱旋した鉄道大隊は総武線の津田沼駅から大久保の騎兵連隊前を経由、習志野俘虜収容所の跡地まで軽便鉄道を敷設しました。
これは、日露戦争時に購入しておいた鉄道用資材などを、収容所跡地に保管するためのモノと言われています。
これがキッカケとなって、鉄道連隊は千葉県、特に習志野・津田沼などと強い関係を持つようになるのです。
明治40年にはそれまでの「大隊」から「鉄道連隊」に昇格し、編成完了後の連隊本部と第一・第二大隊は千葉町(現・千葉市椿森)に、第三大隊が津田沼町に移転することになりました。
まず10月に中野で連隊本部・第一大隊(第一~第四中隊)・第二大隊(第五・第六中隊のみ)と材料廠が編成されます。
次に11月、第二大隊が津田沼の新しい兵営に移転、翌年(明治41年)6月、第二大隊は千葉(現在の千葉市椿森)のこれも新しい兵営に移転します。
連隊本部と第一大隊は一時的に津田沼に移転。10月に千葉の第二大隊が残りの第七・第八中隊を編成、津田沼の方では第三大隊を構成する第九・第十中隊が編成されました。
11月になると連隊本部と第一大隊が千葉に移転。明治42年10月に第三大隊の残りの第十一・第十二中隊が編成され、やっと連隊の編成が完結しました。
津田沼の鉄道第三大隊は、総武線津田沼駅の南側に本部・兵舎・作業場を持っていました。
総武線の北側には器材の保管・整備を行う材料廠の倉庫や、演習用の軽便鉄道の停車場まで備えています。
これは第三大隊を母体にして第二の鉄道連隊を作るためでした。その構想がやっと実現するのは大正7(1918)年の事。
津田沼の鉄道連隊第三大隊は連隊に昇格して「鉄道第二連隊」となります。元々の鉄道連隊(千葉の第一大隊と第二大隊)は「鉄道第一連隊」に改称しています。
この二つの連隊は、明治44年(1911年)に完成した津田沼~千葉間の「演習線」や、昭和初期までに敷設が完了したと言われる津田沼~松戸間の演習線を使い、軽便鉄道・普通鉄道の敷設・撤去・修理の訓練や機関車の運転訓練を行い、大陸での戦争に備えていました。
演習線では沿線の住民に便乗などの便宜が提供されています。「戦前」の軍隊だって、国民に奉仕する集団であった事は、今の自衛隊と変わりません。
鉄道連隊の兵隊さんは「工兵」の一種の扱いですが、蒸気機関車も運転できるように訓練を受けていました。
当時の運転、特に山越えなどは経験を積む必要がある職人技ですから、演習線だけでは練習できず、国鉄の協力を得て箱根越えの難路でも訓練したようです。
第一次世界大戦とシベリア出兵
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、大日本帝国は同盟国のイギリスに乞われて参戦いたします。
China大陸の膠州湾にあったドイツの租借地並びに南洋諸島のドイツ植民地の占領を狙ったのです。
イギリスは苦戦するヨーロッパ戦線にも派兵を求めてきたのですが、帝国は輸送船団護衛の駆逐艦隊(第二特務艦隊)だけを派遣、陸兵は頑として出兵を断ってしまいました。
この事は、当時の情勢からは当然の判断だとも言えますし、決して間違った方針ではありませんでした。
しかし、国際社会の関係においては結果的には幾つもの禍根を残すことになってしまいました。
たとえば最新兵器(戦車・ソナー・航空機)などの最先端研究に乗り遅れかけた事とか、「総力戦」の概念を実際の国民の苦労抜きで受容してしまった事など…
さらに大きいのは大英帝国に「ひょっとして日本は領土拡大の下心があるんじゃね?」という疑念を与えてしまった事でありましょう。
いかん、鉄道隊の話でしたね。鉄道連隊(前述のようにまだ「連隊」は一つだけです)は第18師団などとともに膠州湾を攻略する部隊として動員されました。
まず津田沼の鉄道連隊第三大隊から「臨時鉄道第三大隊」が抽出編成されて、手押し式軽便鉄道を敷設してコレの運行にあたりました。
ついで千葉の鉄道連隊第一・第二大隊をもとに「臨時鉄道連隊」が編成され、コチラは重砲の上陸用の桟橋を構築するなどの工兵の真似ごとをした後、山東鉄道を占領してこの修繕・運営に従事しています。
大戦は辛うじてイギリス側の勝利に終わりました。ところが、イギリス側に立っていたロシア帝国では(戦争が終る前から)革命の嵐が…
「敗戦国」のドイツでも帝政が打倒され、戦勝の筈(「革命政権」が勝手にドイツと講和しちゃいましたけど)のロシアでは、事もあろうに真赤っかの政権が打ち立てられそうになってしまっては、戦勝の列強は黙っては居られません。
ちょうど良い(?)事に「チェコ軍団」のボリシェビキ(真赤っかのうちレーニン派)に対する「叛乱」が失敗し、チェコ軍団はシベリアで追い詰められて(ムッチャンコはしょった言い方ですが)いました。
ココに目を付けた、日本をはじめとしてアメリカ・イギリス・フランス・イタリアの連合国が「チェコ軍団救出」を名目にシベリアに兵力を送りこんだのであります。
このシベリア出兵って、あんまり話題にする方はいらっしゃらないんですが。
大日本帝国が中心になって世界史を変えられたかも知れない機会であったと思うんですがね。今後の研究に期待、いや、電脳大本営も勉強いたします。その成果はそのうち書きますね。
もちろん戦勝各国、って言うか当時の「世界の5大国」の出兵目的は「ロシア革命に対する干渉」でありました。
大日本帝国以外の国は、1920(大正9)年に干渉を諦めて撤兵するのですが、日本はもう少しねばって大正11年まで兵を出しています。
もちろん鉄道連隊も出動いたしまして、臨時に臨時第一鉄道隊と臨時第二鉄道隊が編成されていました。
このシベリア出兵が大日本帝国陸軍にとって初めての「装甲列車による戦闘」の体験となったのであります。
満洲国誕生
昭和6(1931)年、「柳条湖事件」がキッカケになって関東軍(関東州=遼東半島の先っぽ=駐屯軍)は満州に居たChina(漢民族)の「軍閥」を駆逐しました。満州はChinaの陸続きではあっても、一部ではありません。
むかしから満洲人の土地なのですから、満洲人(女真族)に返して、その上で大日本帝国の正当に獲得した権益を認めて貰ったんですね。
これを占領だ、侵略だ、満州事変だぁ、などとのたまう方がたがいらっしゃいますが、全くの間違いです。満洲、すなわち今のChina国の「東北3省」が漢民族の支配下にあった事が歴史上あったんでしょうか?
ネットでもご覧いただけると思いますが、試しにChinaの歴代王朝の版図の消長を見てごらんなさいよ。版図の大きいのは征服王朝だけでしょうが(笑)
漢(China)民族の王朝は、それに比べたら全然チンケですよ。
満洲は満州人のモノです。
以後昭和20(1945)年まで長い戦争が続きます。
大日本帝国の戦線は拡大を続け、大勢の軍人さんが動員されます。対アメリカは海上輸送でしたが、China大陸では陸上の輸送が中心です。
人員も物資も鉄道が無ければ輸送が出来ません。
敗戦時の鉄道連隊および関連の編制は(電脳大本営が調べた限り、です。よく判らぬ部分もあります)「鉄道連隊」が20個、「独立鉄道大隊」が23個、「独立鉄道橋梁大隊」2個、「独立工務大隊」2個、その他「独立鉄道工務隊」など総数52隊。「特設鉄道輸送隊」が9個、「野戦鉄道廠」が2廠と、鉄道関連部隊は極端に増設されてました。
鉄ちゃんのための付録(笑)
外地で鉄道大隊・鉄道連隊が建設したり復旧したりした路線をざっと見ておきますと。
まず、台湾の南北縦貫の手押し軽便鉄道の建設。まあ、これは鉄道大隊以前ですけど。
天津~北京間の鉄路修繕・安東~奉天間の軽便鉄道「安奉線」の建設・南樺太の軽便線の建設・ソウル(京城)~義州間の「京義線」の建設(標準軌)・満洲南部の既存鉄道の狭軌化・山東鉄道(China)の復旧などなど。
忘れてはいけないのが、タイのノンプラドクとビルマ(今はミャンマーですな)のタンビュザヤの間、415kmの泰緬連絡鉄道(タイ・ビルマ鉄道)の建設です。
着工からわずか1年と3ヶ月、昭和18(1943)年10月25日に開通したこの鉄道の建設には、日本軍1万人・連合軍捕虜5万5千人・現地の労務者7万人が投入されました。
戦況が我が帝国に不利になってくる時期と重なってしまい、建設機械などが不足。
工事を急いで無理な作業もあり、難路であることもあって、病没を含めて犠牲者が続出してしまいました。
しかし、戦前から大英帝国が工事を計画しながら、ついに諦めてしまった難事業を短期間で成し遂げたことは、鉄道連隊の施工レベルの高さを証明しているものと思います。
まあ、泰緬鉄道は使われた期間も短かったですけどね(インパール作戦は泰緬鉄道が無ければ実施出来なかったかも)。
鉄道大隊・連隊の使った装備には、私どものようなミリオタだけではなく、鉄道好きの方の興味を引きそうな「装備」がいっぱいあります。
車両で「鉄ちゃん」のご注意を引きそうなのが「双合機関車」って奴でしょうか?なんと二台の蒸気機関車が背中合わせにくっついてるんです。
私ども「ミリちゃん」にはピンときませんが、蒸気機関車ってのは罐がデカければデカいほど強力なんだそうで。
タイヤじゃなくて鉄輪の間にある罐を大きくしようとすれば、長くするか高くするか。幅は軌道によって制限されますからね。
ただ、高くすると動輪も径を大きくしなきゃいけません。すると、前後方向にも伸びますから結局長くなっちゃいます。
ガタイの長い、径の大きな動輪の機関車は小さい半径のカーブを通過できません。
戦場や、整備の行き届かない支那大陸の鉄道では猶更で、このために小型二両併せて一両ぶんのパワーを出したんだろう、という事です。その上、こういうくっつけ方にすることで省力化も出来るんだそうで。
当時の蒸気機関車の運転には機関士と機関助士の二名が必要でした。機関士は運転(今と違って、発進・停止にも熟練の技が必要)に専念。
機関助士は石炭を放り込むことに集中します。
「双合機関車」であれば、機関士が一人で済む(機関助手は二人要ります)、ってわけであります(笑)
ホンマは終点まで行っても転車台(ターンテーブル)が要らん、ってのが「双合機関車」のウリだったようです。
その他にも、特殊な軽便蒸気機関車が通常?の型の蒸気機関車とともに多数使われました。残念ながらほとんどが輸入モノでありますが。
貨車だと「九一式貨車」でしょうか。台車2台だけ、みたいなモンですが、戦地で武人が蛮用するにふさわしい工夫だと思います。
「九一式広軌牽引車」は軍用トラックに鉄道走行用の車輪も付いてるヤツ(「九八式・一〇〇式も開発されました)「九五式走行軌道車」は鉄路の戦車ってとこでしょう。鉄輪のほかにキャタピラも付いていて、悪路の装甲も可能でした。
九五式鉄道工作車(工作機器搭載のトラック)・九五式鉄道力車(無限軌道式のクレーン車)なども興味深いですね。
鉄ちゃんが戦場ジオラマを造ってくださるなら、ぜひこれらをカッコよく配置して頂きたいモノです。
戦闘車両としては、11両編成の「臨時装甲列車」や7両編成の「第二装甲列車」が用意されていましたし、保線用の車輛でも装甲を施した戦場仕様も保有していました。
建設や補修・維持関連では軽便鉄道用の軌匡式レールが代表でしょうか。あらかじめ枕木にレールがセットされたモノ。
鉄道連隊の兵隊さんはコレを数人で担いで、戦場を駆け抜けたのです。
人数の基準は10メートルの一本軌条(370キログラム)で14名ですから、軌匡式レールなら少なくともこの倍です。
担ぎ方にはちゃんとルールがありまして、まず等間隔でレールに取り付き、号令がかかります。
「軌条頭」「あーげ」「1、2」「腕に」「1、2」「肩に」「1、2」
と号令とともに肩に担ぎます。
現代の若者に比べると、体格ではかなり劣った当時の鉄道兵たち。
腰骨も砕けるかと感じるような重量だったようですが、数か月の訓練で筋肉が付き、戦場では軽々と担いでいたそうです。
臨時に架ける橋梁や応急復旧用の「九一式重構桁」「九三式重構桁」などもありまして、通常の鉄道会社にはあり得ない、魅力的な構造です。
敗戦後、「外地」の鉄路や鉄道車両や施設はすべて放棄となりました。
千葉と津田沼にあった鉄道連隊の施設は大部分が国鉄(JRの前身)に引き継がれ、津田沼~松戸間の演習線跡は新京成電鉄の用地となりました。
さて、やっと老婦人の出番です
鉄六会と言う戦友会があります。
正式には「旧陸軍近衛師団管轄鉄道第六連隊戦友会」らしいのですが、この鉄六会発行の「回想」と言う会報誌の話に私は強く惹かれるモノがありました。
浅沼繁雄さんと言う方が書いておられる「出征」の様子です。最後に、これを同時に掲載されている他の方の回想の文章も参考にしながら、電脳大本営風に書き直して紹介申し上げたいと思います。
昭和12年10月12日であります。
前年の「西安事件」をキッカケに、China大陸では国民政府が「共産党」なる盗賊集団と手を結んで帝国の権益を侵害しておりました。
帝国はChinaとの戦争を望んでおらず、何度も平和的な解決を模索するのですが、Chinaに真心を理解してもらえることはありませんでした。
国民と国家の正当なる権益は、これを守らなければ国家として生存を続ける事は出来ません。
Chinaの広大な大陸での戦闘に、鉄道輸送が必須であることは何度も経験済の帝国軍でありますから、鉄道第二連隊にも出征の命が下ります。
ただ、他の軍種のようには代替の利く部隊ではありません。
前述したように第一・第二の鉄道連隊を基幹に20もの「鉄道連隊」が構成されていくのですが、この時に出征したのが「鉄道第六連隊」なのでありました。
鉄道第六連隊の兵士たちは津田沼から列車で大阪へ向かいます。
関西以東の出征兵士たちは一旦大坂へ集まり、大阪港から内海経由の海路で戦地に向かうのが大日本帝国の通例です。
この兵士たちを温かく送りたい、という婦人会が大阪発祥であった所以ですね。
乗車したのは3等客車で、軍装のままで大の大人が4人席に着くと、いささか窮屈であった事でしょう。背嚢は外して棚に上げたんでしょうけど、それでも狭い事は間違いありません。
そんな彼らを勇気付けるのは、停車駅だけではなく鉄路の沿線にも詰めかけた「国防婦人会」「愛国婦人会」や在郷軍人の面々の万歳・万歳の声だったのです。
兵士たちを満載した列車(ダイヤにない特別列車です)はひた走って滋賀県に。
狭隘な関ヶ原を抜けると、琵琶湖に至る近江平野が開けてきます。
そこが米原で、東海道と北陸道が分離・合流する交通の要衝です。
歴史的には米原市内の番場と言う所にある蓮華寺で、鎌倉幕府の最後の六波羅探題(北方)北條仲時が佐々木道誉に追い詰められて一族郎党もろとも自害した悲劇の地。
番場の忠太郎もココのご出身(笑)
浅沼氏はこの米原で一人の女性を見つけます。老齢のご婦人です。
「列車が米原駅付近の線路の掘削部を通過する際、農作業中の老婆が土下座して手を合わせ祈るようにして送ってくれた姿が今も脳裏から離れない」
この「老婆」が列車に乗っているのが「鉄道連隊」であることなど、ご存じだったはずはありません。彼女が知っていたのは、「国を守るため」に若い兵隊さんが出征していくことだけ。
「老婆」は誰に言われるでもなく、農作業の手を休めて自然に列車を伏し拝んだのでしょう。
これこそが「日本人が国を思う心」でなくて何でありましょう。
彼女は決して裕福だった訳ではないと思います。でも、国に何の不満もなかったのです。
だって、大日本帝国の社会はそれなりに将来の希望があって公平で、彼女はムリでも子供たちはもっと豊かで安心感に満ちた生活を送れる、と確信出来る社会だったのです。
その社会を提供してくれる「大日本帝国」を守らんと戦地に赴く兵士たちを、感謝の心で見送ることは、「老婆」にとっては当然であったのでしょう。
この土の上で伏し拝む老婆の姿は見送られる兵士にも、大きな力になったに違いありません。日本の女性はこうして輝いていたのです。
この老婦人ほど輝いて見える女性を私は知りません。
女性が国会議員になったり、名だたる会社の経営陣に加わったりしないと「輝いて見えない」とか言う似非フェミニストやパヨ諸君には、この輝きは絶対に見えないだろうな。可哀想に。