明治初期の横浜浮世絵に描かれた蒸気戦列艦に関する若干の考察-2
-三代広重「横浜海岸鉄道蒸気車図」とフランス軍艦「ブルターニュ」-
2. 蒸気戦列艦の盛衰
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考察を進めるにあたり、まずは本稿の主題であるこの艦種について、基本知識を確認しておきたい。
戦列艦は、17世紀半ば以降の欧州列国海軍の中核をなした巨艦であり、左右の舷側に備えられた合計50門から120門もの艦砲群は、圧倒的な攻撃力を誇っていた。
その威力はたった1回の片舷斉射で同じ戦列艦以外のあらゆる艦種を一方的に撃破できるといわれ、海洋覇権争奪戦における決戦兵器として揺るぎない地位を築いていたのである。
*英国海軍の帆走戦列艦「トラファルガー」(奥)と蒸気フリゲート艦「レトリビューション」(手前)
当時のフリゲート艦は戦列艦に次ぐ大きさと戦闘力を有していたが、戦列艦と並ぶと子供の様に見える。
1854年12月2日付の「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」紙より。
以下同紙から引用した挿絵には”ILN”の文字を付す。
戦列艦が最も活躍した戦いは、1805年のトラファルガー海戦であり、英国艦隊とフランス・スペイン連合艦隊合計で60隻が激突したが、これは木製帆走軍艦が主役となって行われた最後の大規模な戦闘であることは、広く知られるとおりである。
*トラファルガー海戦の一幕
両軍の戦列艦が激しい砲撃戦を演じている
やがて19世紀中葉に入ると、急速に進展する産業革命と技術革新を背景に、蒸気機関と鉄製船体という二つの新機軸が軍艦の建造に取り入れられ、海軍軍備のあり方を大きく変容させていく。
その嚆矢となったのはアヘン戦争(1840年~1842年)で大きな戦果を挙げた英国初の鉄製蒸気軍艦「ネメシス」であり、一般的には同艦とその活躍は海軍近代化の象徴と見做されている。
*清国軍のジャンク船を撃破する英艦「ネメシス」
*「解体されるため最後の停泊地に曳かれゆく武勲艦テメレール」 W.ターナー画(1838年)
トラファルガーで活躍した戦列艦の終の姿。蒸気船に曳航される様子が時代の移り変わりを暗示する。
しかしながら、この時代においては、なお旧態依然たる木製帆走式の戦列艦が海軍の主力を占めていた事実は案外知られていない。実際、アヘン戦争から10年を経た1852年の時点で、海洋覇権国家である大英帝国は73隻、第二の海軍国フランスは45隻もの旧式戦列艦を莫大なコストをかけて維持し続けていたのである。当時の二大強国にしてなお、かかる状況に置かれていたことは特筆に値しよう。
尤も、これは両国海軍の頑迷固陋にのみ求められるものではなく、それなりの合理性を有するものであったことは付言しておかねばならない。
まず蒸気機関による推進については、1840年代まで外輪が主流であったが、これは船腹の中央部に巨大な装置を取り付けねばならず、また機関の重みで否応なく喫水線が上昇するため、備砲の大幅な減少は不可避であった。実際、英国海軍は1845年に実験的外輪フリゲート「テリブル」を建造しているが、同艦は3,100トンという戦列艦並みの巨躯を有していたにもかかわらず、その砲門数は僅か19門に過ぎない。これに対し、同サイズの帆走戦列艦は80門を搭載できたのである。
また、外輪は船体の外側に露出しているため、戦闘時には敵の砲火によって容易に破壊・無力化されてしまうことは明白であった。
*外輪フリゲート艦「テリブル」 ILN
鉄製船体についても、深刻な懸念材料があった。それは、当時の製鉄産業の水準の低さである。シーメンス法の普及により鋼の大量生産が実現するのは1870年代以降である。1840年代から1850年代半ばにかけて工業的に供給された錬鉄は衝撃に弱く、砲弾が命中すると船体が裂けて破片が広範囲に飛散し、乗員を殺傷する恐れがあった。一方、従来から用いられている木材は頑丈な割に、軽く扱い易く、戦闘中に損傷個所を応急修理することも可能であった。
英国では軍艦の建材として鉄を採用するかが政治問題となり、繰り返し試験が行われたが、結果がはっきりとしないままに、1850年の議会委員会は軍艦建造には鉄は不適格であるとの結論を下したのである。
なお、民間では大型の鉄船が建造されるようになっていたが、これは軍艦程の強度を要求されないことと、深刻な環境制約により良質な木材の確保に限界が生じたためと考えられる。
*鉄製蒸気船「ヒマラヤ」
英国が建造した当時世界最大の客船。1853年進水、排水量4,700トン ILN
かかる事情から、列国海軍では蒸気機関と鉄製船体の採用は基本的には小型艦に限られ、これらの軍艦は19世紀半ばにおいては水深の浅い海域が広く、また河川での使用頻度も高い東アジアを主たる活躍の場としていた。
件のネメシスが排水量僅か660トン、備砲2門に過ぎない小型フリゲートであり、英国海軍ではなく、英国東インド会社によって建造・運用されたのには、このような背景があったのである。
同艦は清国海軍を容易く打ち破ることはできたが、北大西洋に展開する大型の木造帆走戦列艦に抗することはもとより想定の範囲外であった。
*大英帝国本国艦隊 1850年代初頭、スピットヘッドの観艦式にて ILN
*英国の木造帆走戦列艦「アルビオン」 排水量4,300トン、備砲91門
姉妹艦「アブキール」はアヘン戦争後の1848年に進水
当時の木造帆走戦列艦の戦闘価値を示す端的な事例が存在する。米国東インド艦隊長官、マシュー・ペリー提督は、日本へ開国を求める艦隊派遣を計画するにあたって、本国に戦列艦「ヴァーモント」を自らの指揮下に加えるよう要請しているのである。
予算上の理由によりこの求めは海軍上層部の容れるところとはならなかったが、仮に実現していれば1853年に浦賀沖に現れたアメリカ海軍の戦力は史実より遥かに強力なものになっていたであろう。
何となれば、当時世界最大級の蒸気軍艦2隻を擁する4隻の「黒船」艦隊は合計で63門の砲を有していたのに対し、ヴァーモントは単艦で74門を装備していたからである。
しかし、技術の絶えざる進歩は、海軍の主力たる戦列艦の在り方にも大きな影響を及ぼすことになる。
契機となったのは、スクリューの実用化と、コンパクトで大出力の新式蒸気機関の登場であった。これにより従来の蒸気軍艦の致命的な欠陥である砲門数の減少と、外部に露出した外輪の脆弱性が解消され、巨大な戦列艦を動力推進によって自在に航行させることが可能となったのである。
ここに本稿の主役である蒸気戦列艦が誕生した。
先鞭をつけたのはフランスだった。主力艦の数で英国の後塵を拝していた同国は、この新しい艦種が従来の帆走戦列艦を一挙に陳腐化される存在であることを見抜き、1850年に蒸気戦列艦「ナポレオン」を世界に先駈けて進水させたのである。
同艦は2層の砲列甲板に90門もの砲を備える排水量5,040トンの巨艦であるにも拘わらず、公称900馬力の機関出力を誇り、無風状態の下でも12ノットの高速で航行することが出来た。その性能は、列国の海軍関係者を驚愕させた。
*蒸気戦列艦「ナポレオン」
英国は海上におけるヘゲモニーを維持すべく、間髪を置かずにこれに追随した。1852年には同国初の蒸気戦列艦「アガメムノン」を進水させるとともに、比較的新しい帆走戦列艦を次々と改装し、蒸気機関を搭載したのである。
*アガメムノンの進水 4,600排水トン、備砲91門 公称600馬力、速力11ノット ILN
かくして史上初の近代的建艦競争が英仏間に惹起された。
帆走戦列艦の大量のストックの上に安住していた英国側の危機感はとりわけ大きく、世界の工場と称された生産力をフルに活用して蒸気戦列艦の整備に邁進した。同国は最終的に24隻を新造、37隻の帆走戦列艦を改装するに至る。一方のフランスは10隻を新造、30隻を改装し、1858年時点での保有数は英国が50隻、フランスが40隻であった。フランスが1855年に蒸気戦列艦の新規着工を取りやめたのに対して、英国はその後も増強を続け1862年には61隻に達し、数の上でフランスを完全に圧倒した。(但し、個艦の性能ではフランスが勝っていたとの見方もある。)
この間、蒸気戦列艦は大型化の一途を辿り、英国が最後に建造した一等艦、ヴィクトリア級は6,960トン、フランスのブルターニュ級は6,770トンという木造船としては空前絶後の排水量を誇った。
なお、英仏以外ではロシアが9隻、トルコが4隻、スウェーデンが2隻、オーストリア、イタリア、デンマークがそれぞれ1隻ずつを配備したに留まっている。
こうしてかつて地上を支配した恐竜の様に増殖し肥大化を続けた機械仕掛けのリヴァイアサンは、1850年代初頭からおよそ10年間に渡って海上の覇者として君臨した後、太古の巨獣同様、突如歴史の表舞台から姿を消すのである。
*蒸気戦列艦を主体とする英国艦隊 1859年 ILN
*英艦「ヴィクトリア」 6,960排水トン、備砲121門 公称1,000馬力、速力13ノット
*仏艦「ブルターニュ」 6,770排水トン、備砲130門 公称1,200馬力、速力12ノット
兆候は、早い段階からあった。ペクサン砲と呼ばれる炸裂弾を射出可能な新兵器の登場がその一つである。クリミア戦争の前哨戦となった1853年のシノープの海戦において、3隻の木造帆走戦列艦を基幹とするロシア艦隊は98門の同砲を装備し、鉄球を発射する旧式砲しか持たないオスマントルコの艦隊を一方的に壊滅させた。この歴史的画期について、当時の書物は次のように記している。
「ペクサン砲は炸裂弾と中空弾の射出に特化している。(中略)大型の軍艦、とりわけ三層の砲列甲板を有する最大級の戦列艦は、相当の距離からでも外しようがない標的であり、その木製の舷側は非常に分厚くかつ強固なために、水平に発射された砲弾は船体を突き抜けてしまうことがなく、(船体内部で)引き起こされる爆薬の炸裂は破壊的な効果をもたらす。(中略)ペクサン砲はロシアの軍艦に採用され、トルコ艦隊と交戦したシノープの海戦でその強力な効果は明白なものとなった。」
やがて英国とフランスが参戦し両国の大艦隊が黒海に侵入すると、この海域において蒸気戦列艦を1隻も持たないロシア海軍は戦いを避け港に立て籠もったため、英仏連合艦隊はあっけなく制海権を手中に収めたが、激しい地上戦となったセヴァストポリ攻防の最中に行われた艦砲射撃では、一転して苦杯を嘗めさせられた。
1854年10月17日の戦闘では、27門の砲を擁するコンスタンティン要塞を粉砕するため、英艦隊はそれぞれ70~90門の砲を装備する戦列艦を10隻も投入したが、地上から発射された炸裂弾により2隻が船体に火災を生じて脱落し、死者44名、負傷者266名という損害を被ったのである。これに対しロシア側は砲の殆どを失ったものの、死者は11名、負傷者は31名に留まった。
*ロシアの要塞を砲撃する英国の蒸気戦列艦 ILN
このような戦訓を踏まえ、英仏海軍は地上攻撃のための浮砲台(floating battery)の建造に着手した。これは炸裂弾の命中に耐えられる厚さ4インチの錬鉄で覆われた小型砲艦であり、自前の機関では時速4ノットしか出せないため、長距離を移動する際は他の船に曳航されねばならないという代物であったが、クリミア戦争末期の戦局にあっては切り札となり得えたのである。
*英海軍の浮砲台 ILN
1855年10月17日、ロシア側最期の要衝キンバーン要塞砲撃には3隻の浮砲台が投入され、2名の死者と引き換えに、それまで難攻不落を誇った同要塞は完全に破壊された。戦闘の最中、浮砲台は繰り返し被弾したが、装甲板はことごとくこれらを跳ね返した。前述の2名の死者は、偶然開口部に砲弾が命中したことによるものである。
これが、まもなく蒸気戦列艦に替わり海軍の主力艦となる装甲艦の原初形態であった。
1862年に生起したハンプトン・ローズの海戦において、木造軍艦は遂にその命運を絶たれることとなった。南北戦争の重要な一幕であるこの戦いに、アメリカ連合国(南軍)は当時としては最先端の沿岸用装甲艦「ヴァージニア」を投入したのである。同艦は合衆国(北軍)の木造フリゲート艦「カンバーランド」を艦首に取り付けた衝角で撃沈、続いて同じく木造のフリゲート艦「コングレス」を炸裂弾で撃破した。この間、数において圧倒的に優勢な北軍艦隊は為す術を知らなかった。ヴァージニアの装甲は北軍の砲撃を受け付けなかったためである。
*カンバーランドを撃沈する装甲艦ヴァージニア ILN
北軍の沿岸用装甲艦「モニター」が戦闘海域に登場して初めて、戦いは互角となった。より正確に表現すれば、「ヴァージニア」と「モニター」の一騎打ちの様相を呈し、双方とも砲弾を打ち尽くしたため、引き分けで終わったのである。これが史上初の装甲艦同士の戦闘であった。
*ヴァージニア(左)と交戦するモニター(右) ILN
今や、木造艦では装甲艦に太刀打ちできないことは明白である。この事実は、西欧列強、とりわけ海洋覇権国家である英国に強い影響を与えた。海軍大臣サマセットは次のように述べている。
「これまでわれわれは、装甲艦は沿岸部防衛のため本国海域においてのみ用いられるものと考えてきたが、諸外国がアメリカの例にならって装甲艦隊をもつようになれば、われわれは地球上のあらゆる海域で装甲艦と遭遇することを覚悟しなければならない。」
フランスが、世界に先駈けて準航洋型装甲艦を完成させ、更に増強中であるという事実が、彼らの焦燥をより深いものとした。皇帝ナポレオン三世の命により建造された一番艦「グロワール」は1861年に進水している。5,630トンという戦列艦並みの巨躯に、4.5インチの舷側装甲を備え、備砲は36門に及んだ。同型艦は5隻が建造中である。
同艦は、船体構造そのものは依然木造であるなど、フランスの英国に対する産業上の立ち遅れを示してもいたが、軍事上の深刻な脅威であることに疑いの余地はなかった。
*装甲艦グロワール
グロワールに対する英国の回答が航洋型装甲艦「ウォリアー」の建造である。装甲ばかりでなく船体も鉄製で、排水量はグロワールを遥かに上回る9,300トン。ウォリアーこそは真の航洋型装甲艦として初めて完成の域に達した艦であった。装甲はグロワールと同じく4.5インチ、速力は1ノット勝る時速14ノットで、備砲は最新式のアームストロング砲17門など合計で43門を搭載した。
*装甲艦ウォリアー
かくして英仏間の熾烈な建艦競争が再び開始されたのである。当初は研究・開発で先行したフランスが有利であった。英国の首相パーマストンは1862年に次のように述べている。
「今後、装甲艦が海戦の結果を決定することはまったく明らかである。……すでに建造ずみのものと現在建造中の装甲艦に関するかぎり、フランスの方がわが国を上回っている。フランスの装甲艦が三十六隻なのに対して、イギリスはわずかに二十五隻である。」
しかし、工業力で勝る英国は着実にフランスを圧迫していく。1870年の装甲艦保有数は英国の54隻に対してフランスは51隻と、数字の上でこそ近接していたが、主力となる6,000トン以上の艦に限ると英国は32隻、フランスは12隻に過ぎなかった。1878年の末には、同じく6,000トン以上の装甲艦保有数は英国が39、フランスが18、ドイツが10、イタリアが4、ロシアが3であった。
経済力の懸隔により、フランスはまたも敗れたのである。しかも、フランスが初期に建造した16隻の装甲艦のうち、14隻が木造の船体に鉄板を貼っていた。当時、同国の製鉄産業は十分な素材を供給できなかったのである。片や英国の装甲艦はウォリアー以降全てが鉄製であった。
英仏両国が装甲艦建造競争のイニシアチブを握ろうとデッドヒートを繰り広げる陰で、時代遅れとなった蒸気戦列艦は次々と姿を消していく運命にあった。英国海軍が初めて進水させたアガメムノンは1862年に、最大にして最強を誇ったヴィクトリアは1867年に、それぞれ軍務を退いている。これらの艦の大部分は解体処分され、一握りが河川や港湾に浮かぶ倉庫や監獄として生き延びる有様であった。
*洋上倉庫に転用された戦列艦 ILN
1866年のリッサの海戦は、蒸気戦列艦の終焉を象徴する戦いとなった。新興国イタリアが老大国オーストリアに挑んだこの海戦は、装甲艦で構成される艦隊同士による史上初の戦闘として知られるが、両国は予備兵力として旧式の木造軍艦も投入していた。その中にはオーストリアが建造した唯一の蒸気戦列艦「カイザー」が含まれていたのである。同艦は、イタリアの装甲艦を砲撃するも効果がないのを見て取ると、大胆にも体当たりを敢行した。結果、カイザーは艦首を大破し戦闘不能に陥ったが、衝突を受けたイタリアの装甲艦にはさしたる損傷も生じなかった。これが蒸気戦列艦の経験した唯一の艦隊戦であることは、歴史の皮肉と言えるだろう。
*イタリアの装甲艦に体当たりするカイザー
*艦首を大破したカイザー
以上、蒸気戦列艦の盛衰を素描したが、それが僅か10数年という極めて短い期間の現象であるということは特筆に値しよう。近代海軍史においても稀有な例であるのは論を待たない。これは、19世紀中葉以降の著しい技術進歩に加えて、テクノロジーの発展と応用における跛行性を視野に入れなくては説明がつかない。
すなわち、スクリュー推進の蒸気機関が出現した時点では大型の鉄製軍艦を建造する技術は確立されておらず、炸裂弾は既に開発されていたがその効果は軍の上層部には十分に認識されていなかったのである。
かくして英仏海軍は木製帆走軍艦時代の遺物である戦列艦に蒸気機関を搭載し、これを艦隊の主力としたのであった。このような艦種が早晩凋落を迎えることは必然であろう。