明治初期の横浜浮世絵に描かれた蒸気戦列艦に関する若干の考察-1
-三代広重「横浜海岸鉄道蒸気車図」とフランス軍艦「ブルターニュ」-
1. はじめに
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1859年の横浜開港は、徳川幕府が200年来にわたり国是としてきた所謂「鎖国」体制に撃ち込まれた鋭い楔となり、日本の民衆は急速に流入する西洋の文物や、見慣れぬ「異人」の姿そのものに目を見はることになった。
横浜浮世絵は、その名の通り世界との結節点となった開港場横浜を主たる舞台として、民衆にとってこれまで未知の存在であり、それ故強い好奇心の対象となった西洋の文化・習俗、および近代技術の所産を主たるテーマとして制作された一連のコマーシャル・アートの総称であり、幕末から明治初期の約15年間にわたり約840点が制作されたものである。
その描写は、情報の制約や、商業作品および美術品としての性質上、相応の創作的・誇張的表現を免れないものの、当時の水準に鑑みればかなり正確であったこと、とは言えその「正確性」は制作者自身の手による写実のみに依拠するものではなく、舶来の書物や新聞などに掲載された挿絵や写真の援用にも少なからず求められることは、既に数多の先行研究によって示されている。
*一猛斎芳虎「五ケ国人物呑飥之図」
そしてまた、横浜絵の制作者が輸入された情報媒体を参照する場合、彼らはしばしば驚くほど新しいものを手に入れていた。
とりわけ蒸気船については、この傾向が顕著である。例えば五雲亭貞秀が当時世界最大の英国の鉄製客船「グレート・イースタン」を「墨利堅国大船之図」として描いたのは1864年であったが、同船が就航したのは1860年であり、時間的なインターバルは最大でも4年に過ぎない。
また、一恵斎芳幾が1861年に制作した「横浜写真五国大船」のうち、「魯西亜船」、「英吉利船」、「阿蘭陀船」、「仏蘭西船」の4つまでが、英国の新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」の1860年1月21日版に掲載された挿絵を写したものであると指摘されており、五雲亭貞秀の手になる1861年の「横浜交易西洋人荷物運送之図」に見える船舶も、1860年11月に発行された同紙の挿絵を応用した可能性が示唆される。
同じく1861年に世に出た一川芳員の「亜墨利加蒸気船」は、パナマから米国東部へ移動する万永元年遣米使節団を乗せた米国のフリゲート艦ロアノーク号を描いたアメリカのイラストが基になっていると考えられるが、これは1860年5月頃の出来事であるから、当時としては異例の情報伝達速度であろう。
このように、横浜浮世絵の絵師達は、舶来資料を用いて異国船を描写するとき、長くとも数年、短い場合は数か月前のものを入手している場合が少なくないのだ。
これは、民衆が横浜浮世絵に時事性を求めていたことの顕著な顕れであろう。
だが、ここに対照的な事例が存在する。それが今回取り挙げる三代広重の代表作の一つ、「横浜海岸鉄道蒸気車図」である。
*「横浜海岸鉄道蒸気車図」
改めて画面構成を確認しよう。手前の陸地には鉄路が敷かれ、画面右側から煙を噴き上げて蒸気機関車が走ってくる。これは当時開通したばかりの横浜-品川間を結ぶ日本初の鉄道である。その前後では洋装に身を包んだ通行人—或いは見物人と言うべきか-が興味深げに周囲を眺めている。
陸地の先にある海面は画面の大部分を占めており、色とりどりの信号旗を纏った蒸気船が輻輳し、黒煙を吐いている。その周囲に、小さく儚げな和船の姿も見ることが出来る。まさに文明開化を象徴する光景であり、現代では歴史資料として多用されているのも頷けよう。
さて、絵の中でとりわけ異彩を放つのが、画面左側に描かれた巨大な蒸気軍艦である。特徴的なずんぐりとした船体。舷側には四重の砲列を備え、そこかしこから覗く無数の砲身が周囲を威圧している。
多少なりとも西洋の近世海軍史に興味のある人間なら、見紛うべくもない。これは間違いなく戦列艦である。
17世紀半ばに登場して以来、長きにわたって海の女王として君臨し、大航海時代から300年以上に及んだ欧州の木造帆走軍艦黄金期の最期を飾った艦種である。
*「横浜海岸鉄道蒸気車図」に描かれた戦列艦
詳細は次節に譲るが、この種の艦は蒸気機関を搭載して19世紀中葉まで西欧列国海軍の主力艦として用いられるも、1860年代初頭以降、鉄製装甲艦にその座を明け渡し、忽然と姿を消している。
然るに、「横浜海岸鉄道蒸気車図」が制作されたのは明治七年、すなわち1874年であり、実物がこの時期の横浜に停泊していたとは考えられないのだ。横浜浮世絵がある種のファンタジーの要素を含むものであることは周知のとおりだが、この艦は一見して相当正確かつ緻密に書きこまれていることが分かる。船大工の息子であった三代広重の面目躍如といったところだが、優れた原画がなければ不可能な行為であろう。
では、原画となったイラストは何か?三代広重はいかにしてそれを入手し得たのか?
何より、「新しさ」を求めた絵師達と一線を画し、10年以上も前に時代遅れになった艦を、おそらくは古いイラストを元に、わざわざ描き込んだのは何故だろうか?
先行研究により、画中の蒸気機関車の描写の正確性が示されていることに鑑みると、筆者はそこに三代広重の「作為」を感じるのである。
本稿では限られた紙幅ながら、近代海軍史や当時の国内外の情勢を踏まえ、若干の発見を交えつつ、上記の疑問を紐解いていきたいと思う。筆者の限られた知識と能力を超えた試みであることは、もとより承知である。