帝都防空隊2

244戦隊飛燕

「近衛飛行隊」の帝都防空の奮闘を、戦隊長・小林照彦少佐を中心にもう一度辿ってみましょう。帝都防空隊の1はコチラから

迎撃は禁止されたけど

昭和19年の11月、飛行第244戦隊の戦隊長は初代の泊重愛少佐から村岡信一少佐・藤田隆少佐を経て小林照彦少佐(着任時は大尉)になっていました。

その小林戦隊長の着任前後ですが、陸軍の航空部隊のうち「戦闘戦隊」では中隊編成を廃止して「飛行隊編制」に変更されています。
近衛飛行隊でも従来の旧第1中隊は「そよかぜ隊(第1飛行隊)」・旧第2中隊は「とっぷう隊(第2飛行隊)」・旧第3中隊は「みかづき隊(第3飛行隊)」となります。

調布を出撃する小林戦隊長

 

244戦隊の活躍譚でよく「みかづき隊」「とっぷう隊」などとあるのはこの「飛行隊」のことで、「そよかぜ」などは愛称ではなくて正式名称です。

小林少佐は着任時に僅か24歳、帝国陸軍史上最年少の飛行戦隊長として報道された有名人でした。陸軍の「飛行戦隊」は地上部隊なら連隊相当です。
連隊長なら階級は大佐の職でして、大佐になるのは早くて40代半ば。小林戦隊長がいかに「若かった」のかお判りいただけるかと思います。

ついでにもう一つ。B29の本土爆撃は「夜間」も多かったのですが、第244戦隊は特に専門の夜戦部隊などは持っていないのに、迎撃を行なっています。
陸軍航空隊では海軍と違って一般の戦闘機乗りにも夜間戦闘のスキルを要求し、「技量甲」の認定を受けるには夜間飛行がこなせなければいけませんでした。多少の錬成期間で夜間迎撃が可能になった要因ですね。

このお方でも夜間戦闘はたぶんムリ

 

一方の帝国海軍の航空隊。コチラでは単座戦闘機とその操縦者には夜戦技量は求められませんでした。夜間任務そのものが「例外」的なもので、専門の夜間戦闘機・夜間飛行部隊が対処するのが原則でした。

その代りに洋上を長距離飛べなければなりませんでしたけど。

著名人

この当時「近衛飛行隊」には特筆すべき隊員が在籍していました。いや、国を守るために戦って下さった方は全て特筆すべき、ですよね。
表現を変えます。著名人が二人ほど居てました。第74代内閣総理大臣となる竹下登さんがその一人。
「特別操縦見習士官」の第4期(最後の期)操縦者として、です。特別操縦見習士官っていうのは、海軍の飛行予備学生に近いモノで、大学などの高等教育機関から、いきなり曹長待遇で入営、1年の短期養成で操縦者として実戦部隊に配属されるモノ。

竹下昇

竹下昇

 

短期間での教育でしたから、その期間に「操縦に適性がない」とされたら即時甲種幹部候補生に編入されていました。
竹下総理、操縦の素質はあったんでしょうね(笑)かつての自民党ももう少しうまく操縦できなかったんでしょうか。

もう一人が作家・芥川龍之介の長男で、俳優・演出家となる芥川比呂志。整備隊本部附として第244戦隊に在隊していたそうです。

芥川龍之介と言えば、代表作「軍艦金剛航海記」で有名ですね。素晴らしい作品で水兵さん、特に石炭混焼罐で働く水兵さんのご苦労を活写していて、私どものバイブルと言っても良いほどです。

えっ、代表作は「羅生門」「蜘蛛の糸」だろ?って。まあ、作品の読み方や評価は人によりますわ(笑)。

ご本人の芥川比呂志の方はと申しますと、こんな事があったそうです。

芥川龍之介

芥川龍之介

 

4月13日の爆撃の夜。小林戦隊長の奥様が東中野の実家に避難しておられたのですが、翌朝中央線で新宿に向かったそうです。
大久保から先は爆撃の被害で不通になっていましたので、新宿まで歩いていると、途中で244戦隊マークをつけた軍服の兵隊さんに出会います。
兵隊さんたちは戦隊員の家族が多く住んでいる東中野の様子を視察にきていたのです。彼らを率いていたのが芥川比呂志少尉だった、ということです。

小林少佐着任

小林戦隊長が「近衛飛行隊」に着任するまでの経歴を見ておきましょう。

小林戦隊長は東京のご出身で国士舘中学を卒業。昭和13(1938)年に陸軍予科士官学校に入校53期。昭和15年卒業、砲兵少尉。 航空に転科して翌年鉾田陸軍飛行学校に入校。

大東亜戦争の開戦直後に飛行第45戦隊配属、同戦隊は香港爆撃に参加しましたので、小林戦隊長の初陣は香港上空って事になります。
昭和17年、飛行第45戦隊は機種改変のため内地に帰還、この機会を捉えて小林戦隊長は鉾田陸軍飛行学校に入校(甲種)。
昭和18年(1943)5月には飛行第66戦隊配属。この部隊は北満にあり、国境警備や急降下爆撃訓練に勤しみます。

飛行66戦隊の九九式襲撃機

飛行66戦隊の九九式襲撃機

 

陸軍の急降下爆撃、北満、言うたらソ連の戦車を狙うんでっしゃろ?小林戦隊長なら、トップエース間違いなしだったでしょうね。

いやいや、そうじゃないじゃん。小林戦隊長は戦闘機乗りじゃないの?

そうなんですね、小林戦隊長はもともと軽爆がご専門だったんですけれど、昭和18年11月に明野陸軍飛行学校に入校して戦闘機操縦者へ転換したんですね。同年12月に大尉。

昭和19年11月。ついに帝都防空戦闘機隊・「近衛飛行隊」・飛行第244戦隊長に補され、小林戦隊長は24日に東京調布飛行場に赴任したのであります。
弱冠24歳で戦隊長に任命されのは、帝国陸軍史上最年少でありました。

戦闘機乗りとしての経験も実績もない、若手の士官。それをなぜ皇国の興廃のかかる「帝都防空」の戦闘機隊隊長に抜擢したのか?

その謎は私の能力では解けそうもありません。ありませんが、この任用は「大当たり」であったことは間違いないでしょう。
何よりも、小林戦隊長は小部隊の指揮官になによりも必要な「闘志」と「人間味」を溢れるほど持っていたのですから。

一方で244戦隊をこれまで支えていたベテランや中堅の操縦者の多くが異動していて、戦力の弱体化が否めない時期でもありました。

陸軍明野飛行学校の九七戦

陸軍明野飛行学校の九七戦

 

第244戦隊のエースとしては、みかづき隊(第3飛行隊)長の白井長雄大尉を筆頭に、市川忠一大尉・浅野二郎曹長・小原伝大尉・生野文介大尉・佐藤権之進准尉が上げられますが、小林照彦戦隊長もこのエース仲間に加わります。

航空戦隊は連隊並みの扱いですから、連隊長(階級はさておいて)自ら第一線に躍り出て「手を砕いて戦う」事をこの人は毎回毎回やっていたんです。
部下は発奮せざるを得ません、こんな事をされたらね。

着任の時期もまた、小林少佐を待っていたようでした。昭和19年11月と言えば、アメリカ軍の帝都空襲が本格化する時です。

闘志横溢の新戦隊長を戴いた「近衛飛行隊」は勇躍B29邀撃に立ち上がったのでありました。

高空性能

11月の初めから始まったB29の帝都空襲に対して244戦隊は毎回迎撃に飛びたちました。しかし、装備している「飛燕」(三式戦闘機)の高空能力不足のため効果はあがりません。

「飛燕」は液冷エンジンを装備したことが強調されますが、それを活かすべく機体もシェイプアップされていました。
カタログデータこそ1500馬力のハ-140を積んだ2型でも最高速600キロ/時強ですが、テストパイロット(荒蒔義次少佐)が急降下時に「音の壁に衝突した」と戦後に語っておられるほどの良好な空力を誇っていたのです。

三式戦飛燕

三式戦「飛燕」

 

これは「飛燕」の機体に空冷エンジンをつぎはぎした「五式戦」が優秀だったことでもお判りになるでしょう。
そんな「飛燕」も高空性能はダメダメで(って言うか、B29の方が良すぎたんですけど)、1万メートルには上がるのが精いっぱい、という体たらくだったようです。

竹田五郎氏(とっぷう隊長・戦後空将、航空幕僚長)によれば、
「1万メートルではちょっと姿勢を崩しただけで失速してサーッと2000メートルくらい落っこちちゃう。だから旋回する時もほんの少しだけ翼を傾けて、ちょっとでも角度がつくと、あっという間に落っこちちゃうから。」

これではせっかく戦隊長が直卒しても編隊戦闘なんか出来っこありません。そうでなくても墜ちない「超空の要塞」ですから、震天制空隊方式(体当り)になってしまうワケです。

B29

超空の要塞

 

師団長命令で震天制空隊が編成されて、初めての邀撃戦だった12月3日の空襲。小林戦隊長を含む体当りもあって「6機撃墜」の戦果をあげ、「小林部隊」として戦隊の名は全国に知られて行きます。

この日の小林戦隊長の日記が残されています。

敵機大規模に関東地区に侵入す。邀撃のため離陸せるも一撃の下に撃墜さる。発動機に受弾せるなり。/予備機に依り、離陸せるも、完全武装のため、高々度に上れず(七五〇〇メートル以上不能)、銚子沖合に待機せるも、敵を補足するに至らず。/本日四宮中尉以下、特別攻撃隊はがくれ隊員勇戦せり。B29に体当りののち、片翼よく帰還せる四宮中尉。正面衝突ののち、落下傘降下せる板垣伍長。B29の尾部を噛り不時着生還せる中野伍長。全員生還せり。愉快この上もなし。/部隊の戦果。撃墜六機、撃破二機なり。

既に何度も書いてきましたが、「特別攻撃隊はがくれ隊」が震天制空隊になるのですが、これは一種のエリート部隊でした。
隊員は生還するのが前提の体当たり攻撃を実行するわけですが、其処はやはり危険が伴います。
小林戦隊長は震天隊員ではありませんでしたが、部下だけに危険な作戦を実行させることが出来なかったのでしょう。同じく竹田氏によれば、小林戦隊長が高度1万500メートル附近にあり、9500メートルを飛ぶB29に攻撃をかけ、ほぼ失速状態で激突したようです。

「近衛飛行隊」はこのあと、浜松基地も使用して調布との間を行き来しつつ、邀撃を繰り返しました。2月半ばまでの戦果は撃墜破合計100機に達したとされています。

B29と屠龍

B29と屠龍

このうちには14回に上る体当りも含まれているんですが、特徴的なのは体当たりが「帝都防空」の時だけ、ということです。
浜松だと名古屋も近くて、東海地区は軍需産業が集積されていたところです。それなのに名古屋を狙った爆撃に対しては体当たり攻撃はしていないんです。

これはもちろん「ミャーミャー族はどうでもいいや!」などと思っていたわけではなく、名古屋爆撃に対しては「後追い」になっていたからだろうと思われます。

対戦闘機で苦戦

昭和20年2月16日、敵の艦載機が大挙来襲して関東各地を波状攻撃してきました。244戦隊は全力で防空戦を展開します。
出撃可能機数は30機とも40機だったともされています。早朝から夕刻まで5~6次にわたって出撃したのですが、「近衛飛行隊」にとっては初めての「対戦闘機戦闘」だったためか、未帰還計8機(戦死4名)の損害を被ってしまいました。
この損害にビビった防衛総司令部は、244戦隊の防空任務を一時的に解除してしまいます。艦載戦闘機の銃撃など、B29の大編隊の爆撃に比べればさしたる被害はありませんから、この処置は判らぬでもありません。

F6Fヘルキャット

F6Fヘルキャット

 

その割には244戦隊は3月19日の午後、敵の機動部隊攻撃作戦に参加しているんです。第18および第19振武隊(四宮中尉が隊長でした)を直掩する任務で調布を出撃したのですがこの時は会敵に至らず、振武隊とともに浜松に帰投しています。

4月に入ると244戦隊は再び防空任務に復帰したのですが、B29が航続距離にも高空性能にも優れた戦闘機「P51・マスタング」を随伴するようになったため、味方の損害が増えてしまいます。

4月下旬、「近衛飛行隊」は使用機を五式戦に改変。五式戦は「飛燕」の機体にメンテナンスだけじゃなくて、製造にも手間がかかっていたハ-140エンジンの代わりにハ-112(海軍名「金星」)をつぎはぎした戦闘機なのですが、意外?にも高性能を発揮してくれました。

P51イラスト

P51イラスト

 

5月17日、天号航空作戦(沖縄防衛戦)に参加の命令を受けてほぼ全力で調布を出発。大阪・大刀洗(福岡県)・都城(宮崎県)を経て20日に鹿児島県知覧飛行場に到着。

6月11日まで、特攻の各隊英霊を徳之島付近まで掩護する任務に就き、知覧基地での防空任務も担当しています。

この間、6月3日に来襲した敵の新鋭艦戦F4U「コルセア」との対戦では一挙に7機を撃墜するなど、五式戦の素晴らしさと「近衛飛行隊」のウデを証明して見せます。
しかし、この戦闘で5名の優秀操縦者を失い、コルセアの地上攻撃によって整備兵2名の戦死者も出してしまいます。どちらも小林戦隊にとっては手痛い損失でありました。

この時期に「近衛飛行隊」の中で気を吐いたのが「みかづき隊」でした。白井長雄大尉(撃墜13機)の率いるみかづき隊は「単機戦闘が基本」をモットーにして、単機戦闘演習を欠かさず実施していたのです。
基本的に「近衛飛行隊」は大型爆撃機を相手に戦う集団ですから、単機戦闘はいわば余技でありまして、さすがに小林戦隊長も苦言を呈したほど。

 

F4Uコルセア発艦準備

F4Uコルセア

 

しかしそのレベルは高くて、市川忠一少尉(撃墜10機)との師弟コンビ(市川少尉は少年飛行兵出身でコチラが師匠)の巴戦演習は地上で見守る隊員たちの手に汗を握らせたとか。

こういう高いレベルで鍛えられた「みかづき隊」はこの時期から敗戦にかけての対戦闘機戦闘では一人の戦死者も出していないのです。
この市川少尉は昭和20年4月15日の夜間邀撃戦で「体当りを決行」と感状に記載された(武功徽章甲)のですが、隊員には「俺がそんな事するワケないじゃん」と言っていたそうです。

職人さんのイメージですね、こういう人の技量をマニュアル化できなかったのは陸海を通じて帝国軍の大きな欠陥だと思います。

命令違反の戦闘

昭和20年7月1日、制号作戦が発令されます。前月の末に大陸命第1359号によって帝国陸軍の全ての戦闘機部隊が、航空総軍司令官(河辺正三大将/インパールと牟田口中将の話は今度またね)の指揮下に入っていました。
制号作戦というのは、これを受けて航空総軍司令官が全戦闘機部隊を一元的に運用、来襲する敵大型機を捕捉殲滅しようとするモノです。

白井長雄大尉

白井長雄大尉

この作戦の一環として244戦隊は小牧(愛知県)への転進を命ぜられ、7月15日までに小牧に到着。更に八日市(滋賀県)への転進を指示されて18日、八日市に集結完了しています。
八日市飛行場には「そよかぜ」が13日に先着していたのですが、16日に邀撃に出動してP51と交戦して2機を失ってしまいました。

この報を受けた第11飛行師団長は244戦隊に対して「邀撃禁止」を命じました。本土決戦をひかえ、頼りにしている「近衛飛行隊」が更なる損害を被る事を防ぐためでした。

いままで述べてきました「艦載機に対する邀撃禁止」なども含めて、上層部の戦力温存策に対して小林戦隊長はかなり不満を抱いていたようです。

日記には次のような記述があります。

昨日の戦斗に於て損害大、戦果僅少なりし所以のものは、部隊戦斗に徹せざりしに依る。少くとも戦隊は、纏りて上り、纏りて戦斗すべきなり。各飛行隊ごとに出動せしめたるは、対戦戦斗の真骨頂を知らざる愚劣極まる指揮たり。師団の戦斗指導の拙劣なりしこと、論外なり。B29に対する邀撃と特色全く異なるを以て、南方に於ける戦訓を活かし、戦隊は常に纏りて、戦斗し得る如く戦斗指導すべきなり。

 

 

軍用飛行場になった当時の八日市飛行場

軍用飛行場になった当時(大正10年ごろ)の八日市飛行場

 

消極的な命令に不満を抱いたのは血気盛んな若い搭乗員たちも同様でした。戦隊長も若いんだけどね。
美しい国土がアメリカ軍機によって蹂躙されていくことに、みんなが歯ぎしりするような悔しい思いにかられていたのです。

「いったいどうすれば、敵機と戦うことができるだろうか」

前述の竹田大尉はある妙案を思いつきます。『演習』で空に上がれば良いんだ、と。戦隊長に具申すると「よし明日は戦隊訓練だ!」と即決同意。

元航空幕僚長のお話(電脳大本営的ツッコミ付属)です。

「演習といっても、もちろん実弾を積んでいますから、上がったときに『たまたま』敵機が来たのら、攻撃してもいいじゃないかという理屈をつけたわけです。」

元空幕長さんってば!かつての空幕長のお立場の時に、部下がこんな事しやがったら、貴方が「第三次世界大戦」の引き金を引いてたかも知れませんぜ(笑)

八日市飛行場の五式戦

八日市飛行場の五式戦

「昭和20年7月25日、その日は早朝から整備して上がりました。高度差をとって各飛行隊が敵機を待ち受けていたんです。」

「私が指揮した飛行隊は、最上空について上空直掩を担当しました。空中戦闘というのは、相手機よりも高い高度に位置して攻撃をかければまず勝つんです。」

「そうしたら運良く、十数機のF6F『ヘルキャット』が八日市飛行場を銃撃し始めたんです。ところが我々はすでに上空にあって、いまかいまかと待ちわびていたわけですから、まさに『飛んで火に入る夏の虫』でした。」

「我々は高空の優位な位置から攻撃を仕掛けたんですよ。不意をつかれた米軍機は次々と友軍機に撃ち墜とされていきました」

このとき竹田空幕長は1機を捕捉し後方から接近していきます。敵機には気付かれていません。

「高度を下げていくと、私の目の前を敵機が飛んでいたんです。そこで機関砲弾を浴びせかけ、命中弾を食らわしたんですが、その途中で突如機関砲が故障してしまった。」

整備して上がったんじゃないんですか、空幕長!

「そこで私は上昇しながら機関砲の故障を調べているうちに、今度は私が敵機の銃弾を浴びることになったんです。別の1機が私の後方に忍び寄っていたんですよ。翼端に敵機の銃弾を浴びながら、私は急上昇しました。すると敵機は失速して落ちていったんです。」

「もし乗っていたのが『飛燕』だったら、撃ち墜とされていたでしょうね。私は、『五式戦』のおかげで命拾いしましたよ」

何ゆえに「飛燕」だったらダメだったか?不明ですが、空幕長の仰ることですから、追及しませぬ。

この日、飛行第244戦隊「近衛飛行隊」は全力出撃ではなく、16~17機だったようです。
来襲したのは一説には「F6F」13機といわれていまして、戦隊の戦果は10機撃墜、3機撃破。
敗戦迫る本土上空において久々の大勝利を勝ち取ったのでありました。

長くなってしまいました。案に相違して、もう一回続きます。次回のため、「全力出撃」じゃなかった事だけ、覚えといてください。

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