帝都防空隊3

「近衛飛行隊」も3話目になりました。かなり取り散らかした話になってますが、もう一話だけお付き合いください。

移動中の空戦

制号作戦(航空総軍司令官の指揮下で残された戦闘機部隊全てを一元的に運用し、来襲する敵大型機を捕捉撃滅する作戦)を告げる総軍命令で、244戦隊は昭和20年7月10日に小牧へ「転進」することになり、知覧を離れました。

戦隊は更に滋賀県の八日市基地への転進命令を受けます。「そよかぜ」は13日、「とっぷう」は15日に八日市に到着しました。この時小林戦隊長は三谷整備隊長らの幹部とともに連絡と休養を兼ねて一旦調布に戻っています。

150名もいる整備隊の主力は空路とは行かず、鉄道で飛行隊の後を追ったのですが、樋口少尉以下70名ほどの隊員が知覧に残留しています。
これらの隊員は敗戦まで南九州の各基地で待機しています。

整備隊が一部九州に残っていましたのは、戦隊が八日市で戦力を回復し、8月終わりごろには再度南九州へ戻り、敵機動部隊に突入する予定だったから、という見方もあります。

これが本当なら、何のために敵戦闘機との交戦を避けさせたのか?全く意味プーであります。

元々、整備隊は最小限の人員で搭乗員の協力を受けながら稼働機を確保していたのですが、この分散で八日市に後退した「近衛飛行隊」は大変な人手不足に陥ってしまったようです。
ひどい時だと、出動命令で搭乗員が機上で待機してても機付兵が現れない、なんてことも。業を煮やした搭乗員が自分でエナーシャ・スタータを回してエンジンを掛ける事もあったそうです。

知覧飛行場

知覧飛行場

 

飛行隊も全力が一度に転進出来たわけではありませんでした。知覧に残留して、数日遅れで本隊を追ったグループもありましたし、それでも5式戦は何機か残ってしまいましたので、これはわざわざ八日市から操縦者が出向いて空輸を実施。

その中で不運だったのが「そよかぜ」の北川幸男曹長でした。北川曹長は山隅伍長と2機編隊で知覧から大刀洗へ向かう途中、熊本県御船町の上空でグラマンF6Fの編隊の奇襲を受けてしまいます。7月15日のことでした。

北川曹長は奮戦もむなしく戦死。撃墜されるにいたる戦闘の模様はよく判りませんが、遺骨が7月19日に八日市基地に届いて通夜が行なわれたそうです。

「そよかぜ」隊長生野文介大尉

7月16日のお昼頃でありました。P51「マスタング」100機あまりが東海地区の飛行場を攻撃してきました。八日市飛行場に展開したばかりの244戦隊では、「そよかぜ」が邀撃に出動。

「そよかぜ」の隊長の生野文介大尉は戸井巌曹長とペアを組み、たちまち協同で2機を撃墜。しかし、時間とともに敵の「数」に追い詰められてしまいます。
二機の五式戦に数十機のP51の群れ。生野機と戸井機は包囲された様になり、戸井曹長機は三重県一志郡上空で被弾、不時着も成らずに墜落・爆発。

生野隊長も左肩と左膝下に敵弾を受けてしまい、今はこれまで、と落下傘降下。生野隊長は畑の中に降りたんですが、負傷で身動きが出来ません。
降下した地点には付近の住民たちが集まりましたが、遠巻きにして見守るだけで助けに来てくれません。隊長が敵だか味方だか判らなかったのでしょう。

B29とP51

八日市基地からはこの事態に急遽「とっぷう」も出動しましたが、既にP51は引き上げにかかっていて、接敵には至りませんでした。

この生野大尉ですが、戦後、どうもこの事件とは全く矛盾することを語っておられます。
まあ、紹介してるのが電脳大本営的には「お笑い系軍事評論家」の井上和彦さんですから(決して井上さんがダメって言ってるわけじゃないですからね)どこまで信じて良いかは疑問がありますけどね。

生野大尉が「飛燕」戦闘機から五式戦闘機に乗り替えた昭和20年5月のことだ。B29の迎撃戦の帰り、厚木上空で米軍戦闘機P51「ムスタング」の8機編隊が南に向かうのを発見した。P51は、第二次大戦中、“最強の戦闘機”と賞賛された戦闘機だ。生野大尉は、「帰る前にひとつ攻撃しようと思って」わずか1機で敵編隊の下に潜り攻撃を試みる。

ところがその瞬間、敵編隊の先頭4機が空になった増槽(長距離を飛ぶために追加する燃料タンク)を捨てて身軽になり、旋回を始めた。戦闘開始の合図だ。気づかれたとわかった生野大尉は自機を旋回させて射撃。ところが、一撃しただけで弾切れになるという非常事態に陥った。その状態で8対1という格闘戦を行ないながら、見事に敵の攻撃をかわして帰還したのである。生野氏は言う。

「P51は確かに速度がありましたね。だけどそれだけではね。空中戦の技量、テクニックがなければだめなんです」

かつて雑誌のインタビューにて、P51に墜とされる不安はなかったかと聞かれた生野氏は、「ないですね。もう絶対に自信があった」と答えている。あとで機体を確認したところ、このときの戦闘で24発も被弾していたとのことで、その胆力には恐れ入る。

「撃墜王は生きている」より

墜とされてるじゃん(笑)

身動きが出来ない生野隊長は集まった住民を日本語で呼び寄せ、何とか基地に帰還。
「そよかぜ」は生野大尉が負傷、入院してしまったので先任将校の小原伝大尉が隊長代行に任ぜられ、以後の指揮を執ることになりますが…

対戦闘機空戦、禁止

何度も書いてきましたが、第11飛行師団司令部は更なる損失が出ることを恐れ、この日以降244戦隊に対して小型機に対する邀撃の禁止を命じます。

左から佐々木鐵雄少尉、横手興太郎少尉、生野文介大尉、高島俊三少尉、一人おいて賴田克己少尉

左から佐々木鐵雄少尉、横手興太郎少尉、生野文介大尉、高島俊三少尉、一人おいて賴田克己少尉

(上の写真、儂的には「一人おかれた」女性のクビからぶら下がってるモノに興味があります。航空時計じゃないのか?高島少尉の傾き方も気になるぞ)

八日市基地は東海地区と関西地区の中間に位置していて、西日本防空のかなめです(滋賀県民の地元過大評価がかなり入っています)。
ここに展開しながら、数度の敵戦闘機の来襲を察知しても機体を秘匿して出撃しないという状況は、鍛え上げたパイロットたちの不満を募らせて行きました。

その「不満」を解消するべく竹田大尉の発案で昭和20年7月25日、師団司令部を欺いて「戦隊教練」の名目で出動したことは前の記事に書いております。

この「命令違反」は意見具申を受けた小林戦隊長が前日に決断していたと思われます。邀撃戦闘の終了後に帰投する「機動飛行場」も、日本海側の三国と決められていたようです。戦闘後に八日市基地に帰着してしまうと、報復攻撃を受けると考えられたからでしょう。

早朝0550、警報の発令と共に各隊は離陸し、八日市飛行場上空で演習を行いながら敵機の侵入を待ちましたが、このときの出動が戦隊全力ではなく、16~17機だったことも前の記事に書きました。

報復攻撃を恐れるのであれば、取りあえず全力で八日市を離陸するべきなんですが、これは何故なんでしょうか?

三式戦と五式戦

三式戦と五式戦

 

たとえば「みかづき」の木原喜之助伍長が機上で出撃命令を待っていたところ、市川忠一大尉(B29撃墜王/陸軍武功徽章甲と個人感状を受けて特別昇進)がやって来たそうです。
木原伍長は市川大尉から「おまえは出なくていい」と告げられたと言います。

「戦隊教練中に敵が来た」との言い訳は準備したものの、「師団命令」に違反していることは間違いありません。出撃した者は何らかの処分を受ける可能性が高いのです。
「みかづき」の白井隊長は下士官を搭乗割から外し、将校パイロットだけで出撃する判断を下したのでした。これを見ると、白井隊長は小林戦隊長と一線を画していたと言えそうです。

戦果と犠牲

近衛飛行隊が定石通り上下3層に別れて「待機」していた所へ、突然グラマンF6F「ヘルキャット」13機が低空で侵入して来ました。
244戦隊は上空から有利な体勢で攻撃することが出来、10機撃墜(うち不確実4)、3機撃破。
この戦闘中、「そよかぜ」隊長代行の小原伝大尉は1機を撃墜した後、あまりにも激しい接近戦闘を繰り広げたため、敵機と衝突。はずみで機外に投げ出され戦死を遂げてしまいます。

F6Fヘルキャット

F6Fヘルキャット

 

小原大尉の壮烈な戦死は、八日市飛行場で上空の戦闘を見守っていた多くの将兵が目の当たりにし、記憶に止められることになります。

小原大尉は卓抜な戦闘機パイロットで、壮絶な戦死までに少なくともB29を6機も撃墜した近衛飛行隊のエースの一人でした。小原大尉の5式戦には、13個の撃墜(破)マークが描かれていたそうです。
豪快な戦闘機動とは裏腹に、真面目で純情な好青年。しかも寡黙で、白井大尉は小原大尉の写真に「一日中話をしません」とメモを残しているそうです。

僚機として常にペアを組んでいた藤井正軍曹は、「おとなしい方で、人一倍の部下思いでした。私の生涯を通じて忘れられない人です」と回想しておられます。
「そよかぜ」は隊長が負傷入院し、隊長代行の小原大尉も失ってしまいました。それでも日本を守る戦いは続きます。「そよかぜ」は「みかづき」から市川忠一大尉を新たな指揮官として迎え、八日市から飛び立ち続けました。

もう一名の戦死者は「とっぷう」の生田伸中尉でした。
生田中尉は超低空で逃走する敵機を執拗に追跡したのですが、超低空が過ぎたため、畑の藁の山に尾輪を引っかけてしまい、地面に激突、戦死されたモノであります。

小原 伝大尉

小原 伝大尉

 

この頃のことについて生田中尉の兄で、当時三重海軍航空隊(予科練)の教授を務めていた生田利治氏が次のような日記を残しています。

〇七月二十日 伸が帰ってくる。今、八日市にいるらしい。酒を飲みながら話を聞く。又そのうち九州へ帰るらしい。一泊して翌朝帰る。

〇八月四日 竹田五郎中隊長よりの私信によれば、七月二十五日六時三十分、敵F6Fとの交戦中接地、壮烈なる戦死を遂げた様子、戦闘機乗りとして敵機との交戦中のことであり、本望だったろう…。

〇八月十八日 小林部隊より下士官二名、伸の遺骨、遺品を持ってこられる。
非常なる超低空で敵を追撃中、藁の堆積に尾輪をぶっつけ即死を遂げたとのこと。
「かような情勢からいつどうなるか分からないので、今のうちお渡しする。盛大な慰霊祭の行なえないのは何としても残念である」との部隊長よりの言葉が伝えられた。二名は泊っていく。

〇八月十九日 陸軍部内の話など聞いているうちに神谷軍曹(空中勤務者)が来て夕方まで話がはずむ。

〇九月二日 伸の遺品全部入手。

当時、生田利治氏は三重県の津市に在住されていました。敗戦直後の地方の雰囲気が、朧気ながら窺えるようで興味深いモノがあります。

御嘉賞

この「命令違反戦闘」で「近衛飛行隊」が上げた戦果は、敗戦間際の大日本帝国航空部隊にあって、快挙と言っても良い特筆モノでありました。

しかし命令に背いて敵と戦った事は、「演習中」では誤魔化しようがなくなってしまいました。誤魔化せないどころか、軍上層部では「軍法会議もの」という空気が強かったと言われています。

この間の事情について小林戦隊長は、戦後に記した手記(『B29対陸軍戦闘隊』所載)の中で次のように書いておられます。


(上層部から)「全軍的な企図を暴露するものである」
と怒られ、軍法会議に回されるか、降等処分は免れないという空気だった。もちろん、そうしたことは私も覚悟の上だったので、その夜は痛飲祝杯をあげた。
その夜中、電報班の者がどこかの電文を傍受したといって連絡にきた。聞いてみると、なんと天皇陛下から御嘉賞の言葉があったというのである。
しかしその事件以来、軍の参謀が来て私のそばを離れない。
以来終戦まで、私の翼は折れたまま、ついに飛ぶ機会はなかった。

「近衛飛行隊」の大殊勲は畏れ多くも天聴に達し、あろうことか陛下のお褒めのお言葉まで頂戴する事態となっていたのです。

 

黒江保彦

黒江保彦

 

小林戦隊長の人柄を伝えるお話をもう一つ。テスト・パイロットとしても有名なエース、黒江保彦少佐の回想であります。

私が彼とはじめて会ったのは、鹵獲したノースアメリカンP五一ムスタング戦闘機を操縦して、調府(ママ)飛行場の彼の部隊にたいし、戦闘法の訓練に行ったときであった。
それまで内地の各基地を回ってみた私は、名にしおう小林部隊の志気はどうであろうと、調府に着陸したのであったが、最初からすさまじい気魄(きはく)に打たれるものがあった。
彼は全搭乗員と整備員を集めて、定時五分前集合を力説して、烈々とした注意をぶっていた。隊員の前に仁王立ちのこの隊長は、汚れた飛行服にパラシュートの縛帯をつけて、いかにも野戦的な隊長としてのたくましさがみなぎっていた。

他の基地では、若い指揮官がソファーにひっくりかえり、新しい飛行服でいばるだけで、はたしていくさの先頭に行く気概があるのだろうかと疑われるようなところもあったのに、この部隊に関するかぎり、戦力の中心は彼であることが一目で見抜かれた。
そして空中戦の訓練になった。一機ずつ、飛燕(三式戦)が上空から、私のP五一に向かってかかってくることにしてあった。
最初に来た一機が、前上方一〇〇〇メートルほどのところから、ひっくりかえって背面突進で突っ込んできた。P五一の快速何するものぞ、逃げるなら逃げてみよ、といった気魄十分のこの機は、私がどう逃げようと、空中分解も起こしかねないムチャなスピードで追ってきた。これがやっぱり彼であった。

訓練はもうこの隊長機の迫力を見ただけで十分であった。勇将のもと弱卒なしと言うけれど、空中戦はとくにその感が深いのである。

 一線部隊の指揮官は、やはり「指揮官先頭」でなければなりませんね。

 

敗戦

8月14日の朝、「とっぷう」と「みかづき」の計十数機は、敵大型機邀撃の命を受けて八日市飛行場を出撃。

竹田大尉によれば、「みかづき」は、「敵影を認めず」との判断で先に帰投したのですが「とっぷう」は竹田隊長が大阪方向の遥か彼方に敵影らしき反射光を認めた、として待機していました。その待機中に生駒山上空でP47「コルセア」の奇襲を受けてしまいます。
この攻撃で殿(しんがり)の8番機を務めていた玉懸文彦曹長が被弾自爆して四条畷に墜落。
これが「近衛飛行隊」244戦隊の最後の戦死者となりました。

前列左から小原伝中尉、川田静二郎中尉、村岡英夫大尉、北美治中尉中列左端四宮徹中尉、後列左から3人目が竹田五郎中尉、市川忠一少尉

前列左から小原伝中尉、川田静二郎中尉、村岡英夫大尉、北美治中尉中列左端四宮徹中尉、後列左から3人目が竹田五郎中尉、市川忠一少尉

 

8月15日正午、244戦隊員は全員整列して玉音放送を聞いていました。ラジオから流れる玉音は、しかし雑音が多くてよく聞き取れません。

何が流れているのか、ほとんどの隊員には理解できなかったようです。

「とっぷう」の平沼康彦少尉のように、放送を聞いたあとでもタカをくくって麻雀に興じていた「豪傑」もいたのです。

やがて、大日本帝国の敗戦がハッキリ認識できるようになると、近衛飛行隊は素直にその事実を受け入れます。

三谷整備隊長は、九州に残してきた数十人の部下のことが気になり、市川忠一大尉操縦の高練に乗って知覧に向かおうとしたのですが、途中で発動機が故障して小月飛行場に不時着。
同地で「九州の飛行場では、敵機が降りられないよう滑走路に溝を掘っているらしい」との情報を得て、九州行きを断念したりしています。

知覧・隈之庄・大刀洗に残留していた整備隊には、16日に志鎌達一少尉らが輸送機で各地を回り、「現地解散」との隊長命令を伝達していましたが、行き違いもありました。
小熊勉一等兵らの大刀洗器材班は命令を知らされず、整備器材を貨物列車に積んで八日市に向かっていたのです。

小熊一等兵らが混乱の中、空腹にも耐えて八日市飛行場に辿り着いたときには既に復員が始まっていました。

「バカヤロー!戦争が終ってからこんなもの持って来てどうする気だ」とか怒鳴られて、即日除隊となってしまいます。
小熊一等兵は、何度か白井長雄大尉の当番兵を務めていましたので、別れの挨拶に行きます。
白井大尉は「おまえには世話になったが、何もやれるものもないなぁ。済まんな」と言ってくれたそうです。

空中勤務者(パイロット)は厚木航空隊事件の影響がありましたので、要注意人物と見なされていました。そこで多くの地上勤務者より一週間ほど早い、8月23~24日には復員を命ぜられています。

小林戦隊長は「飛行機を呉れてやるから、どこへでも飛んで行け」と搭乗員たちを送り出したのですが、もちろん国家の財産たる戦闘機や連絡機を処分する権限は持っていません(笑)

調布へ戻った小林戦隊長は、帝都を護っていた部隊を「支援」してくれていた調布町の有力者宅を挨拶して廻りました。ところが、かつては大歓迎してくれた人々の門は閉ざされ、対面さえも拒まれてしまったそうです。

航空自衛隊

小林戦隊長の奥様は夫の思い出を書物にしておられます。その中から引用しておきます。

(昭和21年)八月に入ると、夫は真剣に就職口を探し始めた。家の経済もいよいよ底が見えてきたからでもある。私は、/「お父さまにお願いしてみたら」/と、何度か夫をうながした。父は下落合の高台に家具付きの家をみつけて移っていた。作家の吉屋信子女史の建てた家だそうで、市川の家とはおよそ対照的な洋風の家だった。

小林照彦少佐が復員して東京の自宅に戻ったのは昭和20年11月1日でした。奥様がお書きのように、翌年には新たな仕事を探さなければなりませんでした。

戦隊長はいくつかの職を転々としたようですが、昭和21年8月に「佐賀板紙株式会社」に入社してようやく生活を安定させます。この会社にはかねて懇意だった元陸軍技術中佐が経営陣に加わっていたのです。

少佐はこうして自分と家族の食い扶持を稼ぎながら、明治大学法学部の二部で学び昭和25年に卒業しています。

佐賀板紙株式会社でも実績を挙げ、将来を嘱望されていたそうなのですが、昭和29(1954)年7月に航空自衛隊が創設されると同社を退職。

9月4日付で航空自衛隊に入隊して3等空佐の待遇を得ます。
小林3佐は航空自衛隊幹部学校へ入校、ふたたび戦闘機操縦者の道を歩き始めます。

F86ブルーインパルス塗装

F86(ブルーインパルス塗装)

松島基地・築城基地の勤務を経て昭和30年11月からは半年間、かつての強敵・アメリカ合衆国に留学して「F-86」戦闘機の操縦教育を受けます。

帰国後は浜松基地で第1飛行団第1飛行隊長として教官勤務に就きました。

昭和32年6月4日。小林3佐が指導搭乗したT-33練習機が離陸直後に墜落してしまいます。
小林3佐は近衛飛行隊の時代から「墜落」を乗り越えて生き残ってきました。しかし、今回は離陸直後、高度が低すぎました。
それでも小林3佐は同乗の天野裕3等空佐を先に脱出させ(脱出時の高度が低すぎたため天野3佐も殉職)市街地に機を墜とさないように、最後まで操縦して、殉職。生涯飛行時間は約2000時間だったとされています。

T33

T33

近衛飛行隊の小林戦隊長が非業の死を遂げる5年前。昭和27年7月、敗戦によって官民を問わず全ての日本国籍の航空機の運航が停止されていた日本の大空に日の丸が帰ってきました。

日本の民間会社による商業運航が認められ、第一号の「青木航空株式会社(後に日本遊覧航空→全日空と合併)」が産声を上げたのです。その会社の発起人の中に市川忠一氏の名がありました。

青木航空株式会社の使用機は、新品のセスナ170Bが5機とビーチクラフトC18Sが1機。

市川忠一は昭和29年9月25日、林業調査のためビーチクラフトC18Sで羽田から札幌へ向かいました。しかし接近した台風で天候が悪化、羽田へ引き返す事になったのですが、福島県の会津山中で行方不明となってしまいました。

ビーチクラフト機はその数日後、残骸となって発見されたのでした。

戦い終わって、なおも大空から日本を守り続けたパイロットに感謝して「近衛飛行隊」を終わりたいと思います。

帝都防空隊1

帝都防空隊2

 

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