見敵必戦~綾波の場合~
軍艦には「運命」というモノが付いて回ります。電脳大本営の見るところ、「見敵必戦」の勇者は武運に恵まれます。猪突猛進に見えても戦理にかない、わが身に替えて敵を撃つ、これこそ武勲艦でありましょう。
「艦」だけでは「武勲艦」になれない
大日本帝国海軍は、与えられた国力以上に背伸びをして数々の世界をリードする優秀艦を生み出しました。
世界最大・最強の戦艦と言えば「大和」と「武蔵」のちょっと太めビューティー姉妹ですが、「扶桑」と「山城」の姉妹でも同じ世界最大の称号を獲得してるんですよ。
帝国海軍が誇る駆逐艦だと、これはもうトンでも無く優秀でありましたが、その中でも「活躍した」「活躍できなかった」と言う差はどうしても出てしまうのであります。
優秀な我が駆逐艦とは言っても、勝手に戦場を疾駆するわけではありません。国の興亡を賭けた戦略に則ってある戦場を指定され、あらかじめ定められた指揮系統によって戦場に登場するのです。
さらに、戦場での振る舞いはその艦の艦長(と戦隊の指揮官)に一任されます。艦の運命は結局艦長(と鍛え上げた水兵さん)に委ねられてしまうのです。
皆さんも良くご存じであろう、大殊勲の駆逐艦「綾波」の活躍ぶりも、「艦長」を通してみてみるとまた違って見えて来るかも?って言うお話であります。
大東亜戦争の開戦時の「綾波」の艦長は十代目の作間英邇中佐でありました。この作間中佐こそ電脳大本営好みと言うか、凄まじい闘志の持ち主だったのであります。
まずは「綾波」さんのプロフ
駆逐艦「綾波」は特型駆逐艦(吹雪型駆逐艦)の十一番艦です。一般的には吹雪型の改良である特型II型駆逐艦とされる事が多く、「綾波型」の一番艦だと言っても良いでしょう。
吹雪型と大きく違っているのは主砲塔です。主砲の口径は12.7糎で変わりないのですが、砲塔のカタチがA型からB型へ変更されているのです。このB型が良く出来た砲塔でありまして。
A型では人力装填だったのに機力装填になったので、速射性が格段に向上しているのです。
A型だと毎分10発だったのが、倍増して毎分20発も撃てるようになりました。12.7cm砲の門数(連装3基6門)が倍になったようなモノであります(笑)
また、A型では仰角が40度しかありませんでした(両用砲ではないので、これで当然でありますが)ので、脅威が喧伝されるようになってきた航空機に対抗できない怖れがありました。
B型ではこの点を重視して仰角を75度まで向上しているのです。
ただ、砲弾装填時には仰角を水平近くまで戻してやらなければいけませんでした。もともと高角砲じゃありませんから、仕方ないのかもしれません。
地味ですが連装の二本の主砲身を「独立俯仰角方式」へ変更しています。同じ砲塔でも一本は平射でもう一本は高射なんて戦い方が出来るんですね。
乱戦に持ち込んでナンボの駆逐艦にとっては、ありがたいプレゼントだったでしょう。
基準排水量:1680頓、全長:118メートル、主罐:ロ号艦本式×4基、主機:艦本式タービン×2基、速力:38ノット、50口径12.7糎連装砲×3基6門、13粍単装機銃×2挺、61cm3連装魚雷発射管×3基。
昭和5年4月30日就役、藤永田造船所。
第三次ソロモン海戦の第二夜戦
昭和17年の10月13日夜、栗田健男中将は戦艦「金剛」「榛名」を中心とする「第2次挺身攻撃隊」を率いてガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を強襲します。
明け方まで続けられた艦砲射撃。我が陸軍の増強を阻止し続けたヘンダーソン飛行場はついに壊滅したかに思われました。
ところが、米軍は既にヘンダーソン飛行場に2本目の滑走路を建設済だったのです。
我が軍はこれを偵知しきれ無かったのか?
砲撃は第二滑走路には及ばず、アメリカ機の跳梁は止むことはありませんでした。
この結果を受けて、山本五十六連合艦隊長官は再度の「戦艦によるガ島砲撃」を企図します。
これによって生起したのが「第三次ソロモン海戦」であります。11月13日夜、戦艦「比叡」「霧島」と軽巡「長良」と駆逐艦14隻の「挺進艦隊」(阿部弘毅中将)はアメリカ艦隊と交戦。
この海戦は第三次ソロモン海戦の第一夜戦と呼ばれるのですが、お召し艦として国民と天皇陛下に長く親しまれた戦艦「比叡」を喪失(戦闘で舵機故障、朝になって自沈)してしまいます。
山本長官はそれでもめげず、11月14日には戦艦「霧島」を再度ガ島砲撃に送り込むのでした。
待ち受ける米艦隊との戦闘が「第二夜戦」と呼ばれ、「綾波」と作間英邇艦長の名を高からしめる戦いとなったのです。
掃討部隊
大日本帝国は突入艦隊を戦艦「霧島」重巡「愛宕」「高雄」軽巡「長良」と駆逐艦6隻「五月雨」「朝雲」「電」「白雪」「初雪」「照月」の本隊と軽巡「川内」駆逐艦「敷波」「綾波」「浦波」の「掃討部隊」(橋本新太郎少将指揮)に編成。
掃討部隊は本隊に先行してガダルカナル島の北側の小さな島、サボ島を廻りこんでいました。「掃討」じゃなくて索敵が目的だったんですね。
ココからは主人公「綾波」の行動に着目してまいります。
掃討部隊はサボ島の東西を監視するために「綾波」一隻を西側に回らせます。
15キロ後方には「長良」と駆逐艦4隻が、更にそのすぐ後に戦艦「霧島」以下の主力が続行しています(ちなみにWikiの第三次ソロモン海戦の記述はこの辺りの関係が理解できていないのか?グチャグチャですwww)。
「綾波」はサボ島沖1000メートルほどを警戒しつつ回り込んでいきますと、其処にはアメリカ艦隊が先着していました。
駆逐艦「ウォーク」「ベンハム」「プレストン」「グウィン」の4隻に新鋭戦艦「ワシントン」「サウスダコタ」が続行する隊形です。
アメリカ艦隊は「綾波」の沖合(サボ島の)を反航していました。
「綾波」はこのとき、島の反対側を廻って来た「浦波」と「敷波」も視認しています。
何故か指揮官橋本少将座乗の軽巡「川内」は見当たらず(作間艦長談/多くの戦史では「浦波」「敷波」「川内」の順で単縦陣で航行していたことになってますが、それでも旗艦が最後尾は変です)。
作間艦長によれば(昭和53年ごろのインタビュー)、「綾波」はまず駆逐艦2隻を発見、続いてもう2隻を見て主隊に「敵駆逐艦4隻」を通報。後続に大型艦を確認して「重巡洋艦1隻」と続報しています。
戦艦2隻を含むアメリカ艦隊は「綾波」には気付きませんで、「浦波」以下に対して星弾(吊光弾)を発射して射撃を開始。
「比叡」喪失に続き、この第二夜戦も帝国海軍の使う探照灯(サーチライト)と、アメリカ側の吊光弾が海戦の明暗を分けたように思われますが、更に研究の必要があるかと思います。
猪突
「綾波」の作間艦長は、自艦がサボ島の島陰に紛れて発見されていないことを確信し、この報告の時点で「突撃」することを決めていたんだろうと思われます。
彼我の戦力を勘案し、この夜の我が軍の戦略目的・戦術目標を考慮しながら、もっとも効果的な行動を選択する…んじゃなくて、
「敵がそこにいる!いてまえ!撃て撃て、早よ撃たんかい‼」
的なノリだったのでしょう。
猪突猛進・猪武者と言ってしまえば「ダメな武者の象徴」ですが、「見敵必戦」と言えば世界の海に覇を唱えたロイヤル・ネイビーのモットーみたいなモンです。
「綾波」とアメリカ艦隊の距離はおよそ8000メートル。
戦艦の砲戦距離が30キロメートルを超えようかと言う時代にあっては「すぐそこ」と言っても良い距離ですが、作間艦長はあくまでも強気。自艦を28ノットから30ノットに増速。
僚艦の「浦波」は吊光弾に照らされて射撃を受けると、即座に反転。逃げ出してしまいます。
逃げるのは当然です。敵は戦艦を含むんですから、いったん距離を取って魚雷攻撃の機会を窺うのが定石。
ただし、せっかく懐に入ってるんだから、魚雷をめくら撃ちにしてから離脱せいよ!と言う事も出来ますけどね。
作間艦長いわく、
「それでこっちは、単艦で攻撃するハメになったんです。」
いやいや、アンタと「綾波」も逃げたら良かったんじゃ?(笑)
いやいや、「勇者」に逃げる手は似合いません。
「綾波」はアメリカ艦隊に突進(猪突じゃないからな)しつつ主砲の照準を合わせます。
距離5000メートルまで詰めると、流石にアメリカ艦隊も突っ込んでくる「綾波」に気づきます。
一蹴してやろうと思っていた日本の小艦隊よりも、もっと小癪な奴がより近くにいたのですから、アメリカ艦隊も大慌て。
星弾を「綾波」の背後に上げます。
気付かれた「綾波」が主砲を発射すると、初弾から命中しました。
「初弾から命中したんですよ。たちまち敵艦に大火災。続いて撃った斉射もこれまた命中、もう一隻が火達磨です。」(作間艦長)
これで「綾波」一艦で敵2隻を、少なくとも戦闘不能に追い込んだわけですが、反撃も喰らってしまいます。
敵の照準は慌てたためか、当初は「綾波」の周囲に降り注ぐだけで、「水柱を見ると大口径弾はありませんでしたね。」と余裕を見せる艦長でしたが、やがて命中弾を貰い始めます。
初被弾は艦橋前方の兵員室で、右舷から砲弾が飛び込んで舷側に直径1メートルの大穴。
次が第一煙突に命中、この破片が艦橋左舷側に吊ってある内火艇の燃料タンクに穴を開けてしまいます。
「綾波」型は三連装の魚雷発射管を三基(9射線)持っていますが、一番発射管は第一煙突と第二煙突の間です。ココにも破片が飛び込んで旋回不能になってしまいました。
燃料が漏れ出して艦橋下は火の海です。これで敵艦隊からの照準は正確性を増してしまいます。さらに拙い事がありました。
旋回不能になった一番発射管の近くにも内火艇の燃料が垂れてきて、下から魚雷を炙り始めたのです。
発射管を海側に向けないと、魚雷を投棄することは出来ませんから、これで「綾波」の運命は誰の目にも明らかでした。後は時間の問題…。
魚雷を撃ってこそ
「綾波」と作間艦長の闘志は悲惨な運命を告げられつつも、いささかの衰えを見せませんでした。
まだ使用可能な2番と3番発射管から、6本の61センチ酸素魚雷を斉射します。
発射時の距離がハッキリしませんが、砲撃開始で5000メートルを切っていますから、4000メートル弱でしょうか?
砲弾よりはるかに速度の遅い魚雷でも、アッという間に到達する距離であることは間違いありません。
「綾波」の放った6射線のうち、命中したのは2本でした。
まず、敵一番艦の駆逐艦「ウォーク」の前部弾火薬庫に見事ヒット。これが大爆発を起こし、2番砲塔が空中に30メートルも飛び上がるほどの衝撃。
駆逐艦のヤワな艦体(アメの水兵さんは駆逐艦のことを「ブリキ缶」って言ってたそうです)はたまらず真っ二つに折れて沈んで行きます。
艦尾に搭載している爆雷の安全装置が不完全(製造上の瑕疵か、セッティングミスかは不明)だったのが、「ウォーク」の水兵さんにとっては大不幸でした。
艦の爆発を辛うじて逃れ海面に浮かんだアメリカ水兵を、自軍の爆雷が海中で爆発を起こして圧殺してしまったのです。
次に、二番艦「ベンハム」の艦首付近に魚雷命中。
艦首部分が完全に粉砕された「ベンハム」は一撃で行動不能となり、徐々に沈んで行きました。
その間にも、大火災に陥っていた三番艦「プレストン」も波間に消えていきました。
アメリカ艦隊の駆逐艦で、辛うじて浮いているのは四番艦「グウィン」だけでしたが、これも機関に命中弾を受けて火災を起こしています。
アメリカ艦隊は護衛の駆逐艦4隻をたった一隻の「綾波」にすべて片付けられてしまったのです。
この時点で「綾波」の被弾は作間艦長によれば5~6発。
前述の命中弾以外に二番砲塔に一発貰って射撃不能。
機関室に二発で機関停止、操舵不能となりますが、命中はすべて水線上でした。
そのために海上に停止して上甲板はくまなく火災に覆われても、浸水はほとんどありません。
一番発射管の爆発は切迫してきていましたが、艦尾の爆雷を海中投棄する余裕は持つことが出来たのです。
ちゃんと時間をかけて、水中爆発しないように爆雷の安全装置を作動させてから、作間艦長は「総員退避」を命じました。
結局、「綾波」の乗員の戦死は戦闘中に30名ほどと退避時に10名ほどの計42名に留まりました。
一挙に4艦を屠った凱歌に、乗艦を沈められたのに乗員たちは意気軒高で、軍歌を歌いながらソロモン海を漂い、「浦波」に救助されるのでありました。
戦果はさらに
こうして駆逐艦「綾波」と作間艦長と水兵さんたちの激闘は、敵駆逐艦4隻をただ一艦で打倒する、という大日本帝国海軍でも稀有の殊勲とともに終わりを告げたかに見えたのであります。
しかし、アメリカ海軍が被ったダメージはもっともっと大きかったのです。
実は「綾波」が発射した主砲弾(12.7糎)が戦艦「サウスダコタ」の艦橋に命中していたのです。
相手は戦艦でありますから、駆逐艦の12.7糎砲弾など本来なら「豆鉄砲」なのですが、射距離が近く衝撃がソコソコにあった事と、「サウスダコタ」乗員のミスもありまして、大戦艦の電源が落ちてしまったのです。
「サウスダコタ」はレーダー・射撃管制装置・砲塔旋回用の発動機・無線が使用不能。
このあと、アメリカの二戦艦は戦艦「霧島」を擁する日本艦隊と正面衝突し、帝国海軍は「霧島」を激闘の末に失ってしまうのですが、この結果は「ワシントン」の大活躍によるモノ。
「綾波」にケチを付けられた「サウスダコタ」はこの電源の故障は復旧させたものの、ずっと精彩を欠いたままでした。
積極的に戦えば
作間艦長がこれほどの闘志を見せたのは、この海戦だけのように見えますが、良く戦歴を確認してみると、そのファイトは隠しようが無いようです。
作間英邇中佐は昭和16年9月12日に「綾波」に着任しています。
大東亜戦争緒戦からこの優秀駆逐艦を率いているのですが、緒戦期は南方戦線に投入されていました。
開戦の12月8日にはマレー半島コタバル湾への上陸部隊を護衛しているのですが、オランダ軍雷撃機(複葉機だそうです)が迎撃してきました。
これに対して作間艦長は主砲で攻撃を命じました。
艦長の主張では、この発射こそ「大東亜戦争の艦砲射撃第一号」。
まあ、コタバルの上陸開始は真珠湾の「トラトラトラ」よりちょっと早いとされてますから、間違いではありません。
ありませんが、そんな事はご自分で自慢することでもないでしょう、艦長さん(笑)
複葉機を撃墜できたワケでもありませんしねぇ。
その10日後「綾波」はオランダの潜水艦をまたまた主砲で攻撃、今度は見事に撃沈しています。
それも、夜間に行われる敵潜同士の無線連絡を傍受し、伏在海面を推定して待ち受けていた、と言うファイティングスピリット溢れる戦闘でありました。
レーダーの無い暗夜の海面に浮上する潜水艦は、水面上の体積が格段に小さいので発見しにくくなります。あんまりやらない方が宜しい、と思うのですが(笑)
どうも作間艦長は「戦うチャンスは絶対見逃さない」性格の人だったようです。
こういう「見敵必戦」思想の持主こそ、戦いの女神に気に入ってもらえる人なのだと、私は思います。
作間艦長は第三次ソロモン海戦を生き延びると、再び駆逐艦長となります。それも竣工したばかりの優秀防空艦、秋月型の「冬月」です。
昭和19年の6月のこと、連合艦隊司令部はついに洋上での戦闘指揮を諦めて陸上に上がってしまいます。
それまでGF(連合艦隊)旗艦だった軽巡洋艦「大淀」は横須賀から呉に廻航されることになり、作間艦長の「冬月」がこの護衛に当たった(19年10月12日)のであります。
「冬月」と「大淀」が遠州灘に差し掛かった時、アメリカ潜水艦の襲撃を受け、一本の魚雷が「冬月」の艦首部に命中します。
ところが、この魚雷はちょうど錨鎖庫に当たりました。
「冬月」は艦首が下方に折れ曲がってしまいましたが、14ノットで航海を続けることが出来たのでした。
「冬月」は呉で修理されることになり、レイテ沖海戦や多号作戦には参加できませんでした。
作間艦長は3月には「冬月」を降りて第四三駆逐隊の司令に「出世」しています。
この配置で米軍の沖縄上陸が生起して、帝国海軍最後の抵抗として「大和特攻」が計画されるのであります。
残存兵力を挙げて計画されたこの作戦には、もちろん作間「司令」の指揮する駆逐艦「桐」と「槙」も参加。
ところが、豊後水道通過中に連合艦隊から「桐」と「槙」は直ちに引き返せ、との命令が届きます。
こうして作間司令は幾たびかの危機を不思議に回避して、戦後に私たちに武勲話を語ってくださったのであります。
積極的に戦う者、艦であれ人であれ、武勲にも幸運にも恵まれる証拠でありましょう。