重雷装艦「大井」ひっそりと沈む
「軽巡洋艦」と言う艦種は軍縮条約で、つまり机の上で作り出された艦種であります。
それまでは予算の制約や、海面の状況(島嶼が多いとか)で戦艦などを使えないときのために用意されていた少しちっちゃい「主力艦」であり、植民地警備に派遣される航洋性に優れた軍艦だったのですが…
軽巡誕生
1921年、列強の建艦競争は各国(わが国だけじゃありませんから)の財政を圧迫し、「ワシントン海軍軍縮条約」が結ばれることとなりました。
この条約では主力艦(戦艦と巡洋戦艦)の保有・建造の制限が主目的とされましたので、巡洋艦は
『基準排水量10,000トン以下・口径8インチ(203mm)以下の主砲を装備する艦』
と定義され、保有制限の対象外でした。
この結果をうけ、各国は巡洋艦を「準主力艦」として増強することになり、基準排水量10,000トンと砲口径8インチ(203mm)の上限一杯の「条約型巡洋艦」の建艦競争が始まってしまいました。
これを制限しようとしたのが1930年のロンドン海軍軍縮条約です。
主砲の口径6.1インチ(155mm)超8インチ(203mm)以下の巡洋艦を「カテゴリーA」、砲口径6.1インチ(155mm)以下の巡洋艦を「カテゴリーB」としてそれぞれに保有制限をつける事になりました。
ここから「カテゴリーA」を重巡洋艦、「カテゴリーB」を軽巡洋艦と呼ぶようになって行くのです。
どちらもワシントン条約を踏まえて基準排水量10,000トン以下とされましたので「最上級」なんてのが出てくる素地となって行くのであります。
大東亜戦争で大日本帝国海軍軽巡洋艦の主力を務めたのは、「5500トン級」と呼ばれるお嬢さんたちでした。
「5500トン級」は球磨型の「球磨」「多摩」「北上」「大井」「木曾」、長良型の「長良」「五十鈴」「名取」「由良」「鬼怒 」「阿武隈」、川内型の「川内」「神通」「那珂」の14隻。
砲戦・水雷戦・防空・対潜・輸送任務に使いやすく、太平洋戦域の艦隊には必ず「5500トン級」が数隻いたモノです。
まあ、お嬢さんって言うにはだいぶんお年を召してたけどな、嫁に行ったわけじゃないから許しといてや。
しかしながら、建造当初からは決戦の考え方が変っていたので、大きな戦果を挙げることは出来ず、活躍ぶりが余り伝えられていません。
今回はその中でも「大井」に焦点を合わせてみたいと思うのです。
魚雷戦重視
ワシントン・ロンドンの軍縮条約以前から、つまり八・四艦隊から八・八艦隊に至るいささか誇大妄想気味の大建艦計画でも、「巡洋艦」はちゃんと建造される予定でした、もちろん。
海軍の本家、イギリスの巡洋艦は植民地警備を主任務とする航洋性や居住性に優れた文字通りの
『洋(うみ)を巡(めぐ)る艦(フネ)』
でしたが、一番弟子の我が海軍ではいささか事情が異なっていました。巡るほどの植民地もありませんしね(笑)。
大日本帝国海軍は、主力艦がヘビー級ボクサーのような「殴り合い」を始めるまでに、駆逐艦によって魚雷攻撃(当時は水雷戦と言ってました)を行い、敵の主力艦の運動や隊形を阻害し、あわよくば勢力を削いでやろうと考えました。
そのために、それ以前とはくらべものにならないくらい大型化した駆逐艦が造られるようになったのですが、それでもまだ艦型が小さく、通信指揮設備は強力とは言えません。
また、敵艦隊の方も巡洋艦で水雷戦隊の突入を防ぎますから、援護射撃で突破口を開いてやる旗艦が必要と考えられました。
大英帝国ではこの旗艦任務を「嚮導駆逐艦」と言う特殊な駆逐艦に任せましたが、大日本帝国は「天龍型」の軽巡洋艦(3500トン級)を作ったのでありました。
やがて、列強も巡洋艦を大型化してくると天龍型では心もとなくなり、5500トン級の登場になるわけです。
大正8年(1919年)11月24日、神戸川崎造船所で「球磨」型の4番艦として起工された「大井」は、大正11(1921)年10月3日に竣工しています。
14センチ単装砲7基と六年式連装魚雷発射管4基を主武装とし、36ノットの高速を誇る「大井」は、中国沿岸やアリューシャン海域に出動したりしていますが、昭和になると兵学校や潜水学校の練習艦として使われる事が多くなりました。
「球磨型」の艦橋(!)には艦載機を1機搭載するための格納庫があるのですが、昭和になるとほとんど使っていませんでした。
そこで、このスペースを講堂として利用できるので「球磨型」は練習艦には最適だったのです。
「大井」は練習艦として利用され続けます。
昭和3(1928)年から大東亜戦争直前まで、ほとんどの期間が練習艦として使用されています。これには「大井」の機関の調子が思わしくなかったから、と言う説もありますが。
超高性能魚雷
高速で飛行し高性能な炸薬を大量に積み込んで、命中まで正確に誘導されるミサイルなど想像すらできなかった大東亜戦争以前。
無敵と思われる超弩級戦艦を撃沈してやろうとすると、主力艦以外は魚雷しか手段がありませんでした。
しかし、魚雷は重く大きいため小さな艦では多数を搭載できませんし、砲弾に比べると速度も極端に遅く、海面上に明瞭な航跡が出てしまうために、魚雷の回避は難しい事ではありませんでした。
各列強は魚雷の強化に挑むのですが、トップランナーは大日本帝国海軍でありました。
昭和8(1933)年、我が海軍は世界に先駆けて「酸素魚雷」の開発に成功し列強で唯一、酸素魚雷を実戦運用したのであります(制式は昭和10年、九三式魚雷)。
九三式魚雷の射程は、速度の設定で驚くほど延ばすことができました。
22,000m / 52ノット、33,000m / 41ノット、40,400m / 36ノットなど。4万メートルとなると戦艦「大和」の砲戦距離とパリティですね。
炸薬量も十分で、巡洋艦以下なら一発轟沈であることも大和型戦艦(の主砲)と同じです。
ほぼ同時期に採用されたアメリカのMk.15魚雷と比較すると九三式魚雷のバケモノぶりが良く判ると思います。
Mk.15魚雷の最高速度は45ノット、航続距離はたったの13,600m。
さらに圧縮空気を使っていた今までの魚雷は、空気中に含まれる窒素が水に溶けず雷跡がくっきり出てしまうのに対し、九三式魚雷は二酸化炭素しか排出せず、二酸化炭素は海水に溶けるので雷跡が敵に視認されにくいというメリットもあったのです。
この超絶性能の魚雷が、練習艦に甘んじていた「大井」の運命を大きく変えていきます。
昭和15(1940)年、アメリカ艦隊の来寇を迎え撃つべく、大日本帝国海軍は一つの新戦法を導入することにしたのであります。
その新戦法とは「飽和雷撃戦法」とでも呼ぶべきモノでした。
従来の魚雷戦術は軽巡を旗艦とする水雷戦隊で敵艦隊に肉薄し、至近距離から魚雷をぶち込んでやろう…と言うモノです。
ところが、長射程が可能で速力も早く、航跡も悟られず威力も大きな九三式酸素魚雷が開発されたことで
「安全な距離を取って、回避しようのないほど大量の魚雷を一気にぶち込んでやろう!」
って言う意見が台頭したんですね。
具体的には、昭和12(1937)年の「出師準備計画において球磨型軽巡洋艦の3隻(「大井」「北上」「木曽」)が「重雷装艦」に改装される予定となりました。
昭和15(1940)年11月には「大井」と「北上」の重雷装艦への改装が指示されました。翌年1月からの「特定修理」で改装が実施されることになったのです。
「重雷装」の持つ意味
「大井」の重雷装艦としての改装はあまりにも有名ですが、簡単に紹介いたしますと、後部の3基の主砲と連装発射管全部をおろし、その代替として片舷5基ずつの4連装魚雷発射管を搭載するというものです。
艦橋から艦尾にかけてズラッと魚雷発射管を並べたのです。片舷一斉射20本、合計40本の酸素魚雷を搭載する強力な水雷艦艇に変身したのでありました。
この状態で、「大井」は開戦を迎えることになります。
魚雷って言うのは、大きな軍艦に積むのにも巨大な武器でありまして、「大井」に搭載される九三式魚雷は潜水艦に積むことは出来ませんでした。
そのため潜水艦専用に、一回り小さな「九五式魚雷」が開発されることになったほどです。もっと小さな「航空機用の酸素魚雷」はついに開発されぬままでした。
水上艦艇ならこの大きな魚雷をある程度まとめて積める訳ですが、そんなにたくさんは積めません。
ちゃんと調べたわけじゃありませんけど、「我が海軍の水上艦艇」で最も多く(もちろん重雷装艦以外です)の魚雷を積んでたのは「二代目島風」で15本だと思います。「島風」ちゃんたら、速いだけじゃないのね(笑)
ただし「島風」ちゃんの魚雷は、両舷に指向出来る5連装の発射管3基に詰めっきり。次発はナシ。これで「大井」の40本の意味、お判りでしょうか?
片舷20発を斉射したら、反転してもう20本。これは途轍もない攻撃力なのです。
さらには、対応時間(リアクション・タイム)の問題もありまして。魚雷はデカいので、装填には時間がかかるんです。
伊藤正徳氏の戦記に、コロンバンガラ海戦で「雪風」が魚雷の再装填に30分掛かった、って言う記述がありました。
「雪風」には魚雷再装填装置はまだ(駆逐艦には初春型から採用)でしたので、チェーンで吊り上げ、運搬車に乗せて艦上を移動させ発射管に詰めてた筈です。敵弾飛び来る激戦場で激しい運動をしながら、ですからね。いくら訓練してても水兵さんも大変でした。
帝国海軍が、コレも世界に誇る「魚雷次発装填装置」が出来てこの点は随分と改善されたんですけど、それでも2分くらいかかるんです。
九二式4連装発射管(人力旋回)で、発射した位置から装填位置までの旋回に30~35秒、再装填そのものに15~20秒、発射管後扉の閉塞10秒(開くのに要する時間は?)、発射位置まで戻すのに30~35秒だそうです。
九二式は巡洋艦用ですから、比較的余裕のある艦上であることも考えますと、一斉射撃ってしまえば「咄嗟水雷戦」なんて無理ですよね。
「大井」の重雷装は再装填の必要なし、飽和攻撃じゃなくても十分に役立つはずだったんですけどねぇ。
魚雷戦のチャンスなく
大東亜戦争が始まったとき、「大井」は僚艦「北上」とともに第一艦隊第九戦隊(司令官;岸福治少将)に配属されていましたが、第一艦隊が港に籠りっぱなしで、その魚雷戦力を発揮できる場面にはまったく出会えぬままでした。
「重雷装艦」としての初陣はミッドウェー海戦になってしまったのですが、これは「ついて行っただけ」。
ソロモン海域を巡って日米の雌雄を決する激戦が始まると「大井」も投入されるんですが、輸送力の余裕のなくなった海軍事情から、例によって「輸送」に使われてしまいます。
1942年9月、「大井」は舞鶴第四特別陸戦隊をソロモン方面に輸送する事になります。この任務に際して輸送能力向上の為、と称して片舷5基の発射管のうち各1基を下ろしてしまいます。
その後の「大井」は高速輸送艦として活躍を続けました。マニラ・パラオ・ウエアク…
1943年になっても「大井」の活動は南西方面での輸送作戦。たまにオーストラリア方面からやってくる爆撃機と対空戦闘。
兵員や補給物資をフラットな甲板に積み上げて、シンガポール・ペナン・マカッサル・リンガ・スラバヤ・ポートブレアなどを行ったり来たり。
何せ36ノット出ますから高速輸送艦としては非常に使いやすい。しかも対潜・対空戦闘も自分でやりますから、護衛が大嫌いな帝国海軍としてこれほど便利なフネはありません。
このころ「大井」には高速輸送艦としての能力をさらに上げるべく改装が計画されていたそうです。8基(片舷4基)残った4連装発射管を半分おろして大発を搭載(揚陸作業用)、機関も減らそうというものです。
それでも予定速力は29ノット、高速すぎるくらいの輸送艦です。結局実施はされませんでしたけれど。
大井の最後
昭和19年になると戦局はいよいよ逼迫して参ります。
マリアナ沖の大海戦が帝国海軍の惨敗に終わり、第一次大戦以来の帝国領で「絶対国防圏」の一角、サイパンの失陥が確定的になってしまいます。
大日本帝国としては、南方資源地帯からの輸送路を確保する意味でもフィリピンの防衛が次の重大関心となったのです。
「大井」の任務もマレー半島の陸軍部隊を、マニラ方面に輸送することが多くなりました。
この年の7月6日にはスラバヤの南西方面艦隊司令部(司令長官:三川軍一中将)を乗艦させてシンガポールを経由、7月16日無事マニラに送り届けています。
艦隊司令部なんざフィリピン防衛の役には立たんと思うんですけどね。安全な輸送船は陸兵に譲る、って事も知らぬ海軍軍人もおりましたとさ。
「大井」はこの輸送作戦終了の2日後、7月18日の早朝にマニラを出港してシンガポールへ帰ろうとしたのですが、一緒に行くはずの駆逐艦「敷波」が機関故障(重油に海水が混入した模様)を起こして、マニラ湾内で停泊して修理を待っています。
午後には「敷波」の修理が終わりマニラ湾を出発したのですが、この日ルソン西方海上には台風が発生しており、海は荒れ模様となっていました。
「大井」と「敷波」は2隻で対潜警戒序列を組み、22ノットで航海する予定でしたが、「敷波」が速力を維持できません。艦隊速力を20ノットに落としています。
19日には天候はますます悪化し、大波に翻弄される2隻はお互いの艦影も視認できなくなります。
海面状況も当然悪く、敵潜からの雷跡も発見困難と心配されたのですが、速力を18ノットまで低下させていました。
7月19日12時14分、「大井」の艦橋見張長と掌航海長が「雷跡、艦尾近い」と叫び面舵をあてたのですが、舵が効いてくる前に左舷機関室付近に1本命中しました。
台風の中で魚雷を発射したのは米潜水艦「フラッシャー」です。
護衛していた「敷波」が爆雷攻撃で制圧している間に、「大井」は後部機械室の閉鎖と前部区画への注水を実施したものの、後部機械室から火災が発生、前部機械室も蒸気漏れが発生してしまいました。
前部機械室はそれでも使用可能でしたが、波浪が激しく損傷部への浸水が懸念されたので「大井」は完全に停止。損傷部の排水に務め、防水工事を急ぎました。
この修理中の14時30分に「大井」は再度雷撃を受けますが、これは幸いにして外れ。「敷波」が再び爆雷制圧を行ない「大井」も伏在海面に向け前部主砲による制圧射撃を実施しました。
16時になると風雨はますます激しく、艦の動揺は軽巡「大井」でも停止しておられないほどとなりました。
ここに至り、「大井」艦長は自力修理を断念し、「敷波」によるマニラへの曳航を命じました。
17時には曳航準備が完了。2隻は制圧射撃を継続しながら曳航を始めたのですが、17時25分に被雷場所から艦体が切断してしまいました。
後部兵員はほとんどが切断直前に前部に移動していたのは不幸中の幸い。
17時26分総員上甲板、17時28分総員退去と矢継ぎ早に下令されましたが、切断された部分を下に、右舷に傾きつつ艦は沈降していきます。
傾きは激しさを増し、ついに「大井」は艦首を突き立てて沈没。甲板にいた乗員は海中に放り出されました。
激しい風雨の中で、敵潜の脅威も去らないままでしたが、救助活動は迅速に行われ、艦長以下368名が救助されています。しかしながら准士官以上15名と下士官兵136名の戦死者を出してもいるのです。
超高性能魚雷は持ち腐れ
沈没の時「重雷装艦の主装備」である4連装魚雷発射管は8基搭載されていました。
この8基のうち7・8番発射管は魚雷の命中時に吹き飛んでしまい、6番管も旋回不能となりました。残存魚雷は手作業で海中に投棄されて、誘爆は発生しませんでした。
「大井」の沈没はマリアナ沖海戦とレイテ沖海戦の間で、輸送任務を完遂した帰りの事だったせいか、ほとんど語られる事はありません。
同様に「重雷装艦」となった「北上」はこの事件後に「回天搭載艦」に再改装されて有名になっていますが(「北上」の生涯も興味深いんでそのうち記事にしたいと思っております)、「大井」も「重雷装艦として生涯を終えた、おそらく世界唯一の艦」として、もっと注目されてよいフネだと思うのですが。
世界一短い名前の軍艦でもありますしね、英語で書くと(笑)”OI”ですから。
最後に、大日本帝国海軍の悲しい内輪話を。帝国海軍が水雷戦が大好きだった理由です。
それは訓練にお金が掛からなかったから、なのです。
大砲の命中率を上げるために訓練しようとすれば、バンバン大砲を撃って撃って撃ちまくる必要があります。先っちょに爆薬を入れてない練習用砲弾でも、一回撃てば終わりです。
魚雷だって、たくさん撃つ練習をする必要はありますが、練習用魚雷は的艦の艦底を航過するように深度を調定しておきます。
設定した距離を走り切れば、的艦の向こうにポカリと浮いてくるんです。
回収して燃料と酸素をまた詰めれば、何度でも繰り返し使えます。貧乏な(陸軍に比べればずっとマシですが)帝国海軍はこの「何度でも使える練習用魚雷」に魅了されてしまったのでありました。
かと言って、電脳大本営は帝国海軍の「魚雷重視」をダメとは思っていませんよ。逆にもっと上手く使うべきだったと考えているんです。
飽和雷撃、やって欲しかったなぁ。