金剛型戦艦「榛名」と日本人の責任感

大日本帝国海軍で最強の戦艦と言えば「大和」と「武蔵」。戦前に国民に最も親しまれたのは「長門」と「陸奥」。では大東亜戦争で最も活躍した戦艦と聞かれたら、だれもが「金剛級」の四艦だ、とお答えになるでしょうね。

超弩級

「金剛級」の四艦「金剛」「比叡」「榛名」「霧島」は名前からお分かりのように巡洋戦艦として企画建造されました。
時代は日露戦争に勝利した、ちょっと後です。

実はこの時代は軍艦、特に「主力艦」(この時代からネイバル・ホリデーの終焉までは、戦艦と巡洋戦艦を言います)にとって激動の時代でありました。

イギリス海軍が「ドレッドノート」を就役させたのであります。

これによって、各国の主力艦はすべて「旧式艦」になってしまいました。
何処の海軍も持ってる戦艦を一隻残らず弩級戦艦に更新しなきゃいけなくなったのであります。

しかも、「どうせ作り替えるならドレッドノート以上を」とか願う海軍は多くて、どんどん艦形は大きくなり、備砲は強力になっていったのです。

そんなことになろうとは、ドレッドノートを送り出した大英帝国は夢にも思ってなかったようですが、コレが「武力」に関する技術の現実であります。

ドレッドノート

ドレッドノート

 

「ドレッドノート」は蒸気タービンによる高速力・中間砲や副砲を排し単一口径の連装主砲塔5基を搭載した強武装・統一照準による高い命中率の「合わせ技」によって時代を変えたんですが、これらのテクノロジーは一流~二流くらいの海軍ならどこでも既に(単体で)実現しているモノばかり。

これを三つ組み合わせて「戦艦」という最強艦種にのっけたのが英海軍のアドバンテージなのでした。
逆に言えば、真似ようと思えばいつでも誰でも可能なのであります。

一方で、大日本帝国海軍は一流海軍からトップを目指して、「戦艦」の国産化を目指しておりました。
その仕上げとして、新たな艦種である「巡洋戦艦」を超ド級タイプとして建造することにいたしました。それが「金剛級」の4隻です。

シリーズの設計を基本的に英国に発注(日本の設計家も参画)、ネームシップ「金剛」のみ英国で建造してもらい、2番艦「比叡」は横須賀海軍工廠で建造。

3番艦と4番艦は民間造船所に任せて、国としての造艦能力も飛躍させよう、という計画でした。

初めて民間造船所で建造

巡洋戦艦「榛名」は明治44(1911)年4月、金剛級の3番艦として神戸川崎造船所(後の川崎重工)に注文されました。

民間造船所で主力艦を建造するのは、帝国海軍始まって以来初めてのことです。
金剛級戦艦これくしょん(画像集)

大正2年、日本へ廻航するために出航準備中の「金剛」

大正2年、日本へ廻航するために出航準備中の「金剛」

 

川崎造船所は大いに発奮してドイツから大型ガントリークレーンを導入し、さらにイギリス製の艤装用クレーンを買い入れるなどの大型投資で「榛名」建造に備えていました。

明治45(1911)年3月、「榛名」は三菱長崎造船所の4番艦霧島と同時に起工されます。

工事は2つの造船所で競うように進んでいきました。しかし、一つの問題がこの建造競争には隠れていました。

それは機関の問題です。

世界の趨勢は「タービン機関」の採用に向かっていたのですが、わが国では民間造船所でタービンを扱った所は一つもありませんでした。

そもそもタービン駆動で主力艦を動かす、と言うのは問題のイギリス戦艦「ドレッドノート」で世界で初めて実行されたものです。
日本では金剛型の前型の巡洋戦艦「伊吹」で実験されたのが最初で、これは世界的にも英国を除けばもっとも早い「主力艦への採用」だったのです。

タービンはまだまだ国産とはいかず外国製のライセンス生産でお茶を濁している段階ではありましたが、

「世界最先端の高性能機械を、民間造船所で世界最強の巡洋戦艦に装備する」

と言う使命感と高揚でどちらの造船所も熱気に包まれ、工程はどんどん進みました。ちなみにこれ以降、帝国海軍で単純に「機械」というと「タービン」か「機関全体=罐+タービン」を指すようになります。

現代の三菱長崎造船所

現代の三菱長崎造船所

 

大正3(1914)年、両造船所は機関(罐+タービン)を試運転する準備を整えていました。

ところが「榛名」の川崎造船所で小さな故障が見つかったのです。その為に大事を取ってテストの予定が6日だけ遅れてしまいました。

三菱長崎造船所は予定通りテストを実施して成功に終わっています。

この、テストの6日間の遅延に大きな責任を感じたのでしょうか?

川崎造船所の機関(ブラウン・カーチスのタービンをライセンス生産)の最高責任者であった造機工作部長の篠田恒太郎(しのだ・こうたろう)が自殺してしまったのです。

篠田の死から半年後、巡洋戦艦「榛名」は、予定から遅れることなく同型艦「霧島」と同時に竣工しました。
大正4(1915)年4月15日のことでありました。

榛名は折から勃発した第一次世界大戦で支那・北支・北方(ロシア)方面などへの警備活動に出撃しました。

方位盤射撃照準装置

この時期に重要なのは、英海軍の試作品だった「方位盤射撃照準装置」を帝國海軍ではじめて搭載したことです。

ウィキペディアより引いて見ると

「これは全砲門で同一目標を攻撃する際、一括して指向・発射を行う、一種のリモートコントロールシステムである。」

とありますが、とんでもない。これはただのコントローラーじゃなく、機械式のコンピューターを複雑に組み込んだ、射撃照準計算機兼一元発砲装置なんです。

決して射撃術が上手いとは言えなかった榛名ですが、方位盤射撃照準装置を導入した一年後には成績が大いに向上。有効性を確認してこの装置は主力艦に標準装備されるようになります。

2度の大改装

ユトランド沖海戦の戦訓から、「榛名」をはじめとする巡洋戦艦は水平防御の強化が必要と判断されました。
遠距離の砲戦をやりますと、敵弾は上から降ってくるワケでありますが、巡洋戦艦は水平防御、すなわち甲板の装甲が薄かったのです。

金剛級の各艦は順次工事に入ることになり、「榛名」は大正13年から工事に入りました。
小さな改良はたびたび行われてきましたが、これが榛名の第一次改装と呼ばれる大掛かりな工事で、金剛級4姉妹のトップを切ったものでした。

日本戦艦の特徴であるパゴダ・マストに換えられたのもこの時で、これも日本の戦艦としては初です。

2枚の画像(榛名じゃないですけど)で艦橋構造物の変化をご確認ください。
画像はクリックで拡大します。

T2金剛英にて公試に向け航海中

完成時の金剛級

S5霧島 第一次改装完成

第一次改装後
画像は霧島

この改装で速力が低下し金剛4姉妹は巡洋戦艦から戦艦へと類別変更されています。

続いて昭和8(1933)年9月、海軍軍縮条約が失効することを前提にして大規模な近代化改装が行われることになりました。

今回も4姉妹では榛名が最初でした。この第二次近代化改装には丸1年をかけ、動力部の刷新(タービンと罐の換装)で出力を新造時の倍にし、船尾を延長(相対的に細身になります)して速力30ノットを超える高速戦艦に生まれ変わりました。

上部構造物も近代化改装が行われ、砲戦距離延長に伴って後部艦橋を高くしたりしています。

大東亜戦争へ

大東亜戦争は緒戦から金剛以下の姉妹と行動を共にし、陸軍のマレー上陸作戦支援を皮切りに、フィリピン上陸作戦・蘭印(インドネシア)攻略作戦などを支援しました。

この間、英国東洋艦隊(プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス基幹)を迎撃すべく行動しましたが、日本軍航空隊に先を越されてしまいました。

ミッドウェーでは南雲機動部隊の護衛に当たり、一撃を逃れた飛龍を護りましたが、榛名も至近弾数発(米機は直撃と報告)を受けました。

続くガダルカナルの攻防では金剛とともにヘンダーソン飛行場に殴りこみをかける奮迅の働きを見せますが、滑走路完全破壊にまでは至りませんでした。
そんな中、第三次ソロモン海戦で「比叡」「霧島」が相次いで撃沈され、金剛級4姉妹は半分になってしまいます。

マリアナ沖海戦では空母艦隊が壊滅してしまいますが、榛名もついに艦尾に直撃弾を受けて、以降は自慢の高速を発揮する事が出来なくなりました。

続くレイテ沖海戦では、栗田中将指揮の第一遊撃部隊として参加。
サマール島沖で米護衛空母部隊に遭遇する、と言う千載一遇のチャンスを得ます。
海戦では他の艦艇とともに米艦隊を追撃した榛名ですが、速力が出ません。

ついに榛名の巨砲は米空母を捉えきれず、姉の「金剛」のように勇名を轟かせるには至りませんでした。
その金剛も潜水艦の雷撃で沈みました。

姉妹を全て失った榛名も座礁事故を起こし、修理のために内地に廻航されて、燃料もなく呉に繋留されたままとなります。

それでも対空戦闘を続けた榛名ですが、7月も終わり近く、20発以上の直撃弾を受けてついに大破・着底。そのまま敗戦を迎えました。

江田島で爆撃される榛名

江田島で爆撃される榛名

2次にわたる世界大戦を戦いぬいた高速戦艦の淋し過ぎる最後でした。

高速戦艦「榛名」は大東亜戦争で他の3姉妹ほどの活躍をすることは出来ませんでしたが、「存在感」だけは十分にあった、といったところでしょうか?
彼女の「最盛期」は、実はもっと前にあったのです。

「榛名」は昭和3(1928)年の御大礼特別観艦式でお召し艦を務めています。
昭和天皇のご即位を記念したもので、参加艦艇は諸外国の船も含めて186隻に上り、飛行機も多数登場、我が国史上最大の観艦式でした。

御大礼特別大観艦式のお召艦榛名

御大礼特別大観艦式のお召艦榛名

 

さらに、同年の熊本行幸にもお召し艦を務めています。

このお帰りの際、県民有志が天皇をお慰めしようと海岸に松明を並べてお見送りをしたのです。

このお見送りは正式なものではなく、政府や県庁もあずかり知らぬところ、供奉する人たちも榛名の乗組員も知らなかったのです。

しかし、なぜか昭和天皇はこれをご存知だったのではないか?と思われるのです。

人々が松明を掲げている海岸に差し掛かるずっと前から、お一人で甲板へとお出ましになったのです。
昭和天皇は直立不動で海岸に向かうと、静かに敬礼を返されていたそうです。

この事実はもちろん報道されることも無く、戦後になってこの時に供奉していた方たちの証言で判明したことです。

県民有志にも、このようなことは伝えられなかったようです。

しかし、私は県民有志には昭和天皇のお姿が見えたに違いない、と信じています。
陛下の御まなこにも、心を込めてお見送りする国民の姿が映じていたのではないでしょうか。

この昭和3年が「榛名」の絶頂期だったと電脳大本営は考えます。

先帝陛下の敬礼と川崎造船所・篠田恒太郎の自決。
「榛名」も栄光と責任感に彩られた、わが国を代表する「巡洋戦艦」だったと思います。

Follow me!

金剛型戦艦「榛名」と日本人の責任感” に対して1件のコメントがあります。

  1. 岩本一昭 より:

    何時も読ませていただきます。
    FBでは時々反論するようなことを書かせていただき申し訳もございません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA