戦艦霧島の探照灯

戦艦榛名カラー

戦艦「霧島」は明治45(1912)年の3月17日に金剛型巡洋戦艦の4番艦として三菱重工長崎造船所で建造が開始されました。

金剛級戦艦これくしょん(画像集)

金剛型4番艦

前日には川崎重工で同型艦「榛名」が起工されています。
「霧島」と「榛名」の両艦は我が国で初めて民間造船所で建造された主力艦となりました。
大正4(1915)年4月19日、就役。

残念ながら、設計は帝国で行われたモノではなく、一番艦の「金剛」を英国で作ってもらい、その設計を流用しています。

T3榛名 川崎造船所

川崎造船所で艤装中の「榛名」
大正3年

とは言っても、当時は世界最強クラスの巨大巡洋戦艦でありますから、受注した三菱重工は大張り切り。
しかも姉妹艦は三菱のライバルである川崎で建造されていますから、気合入りまくりで順調に建造されています。

巡洋戦艦と言うのは戦艦の一種ではなくて、巡洋艦のおっきい奴です。巡洋艦の速度性能・航洋能力はそのままに、戦艦なみの攻撃力を与えたもの。必然的に防御力は戦艦には大きく劣ります。

このグループの皆さんには余分な解説ですが、霧島の生涯は「巡洋戦艦」のイメージを引きずってる気がしますので念のため。

2回の改装

第一次大戦が起こって、イギリスとドイツの艦隊大決戦が行われました。ユトランド沖の大海戦であります。
海戦後にはどちらの海軍も「ウチが勝ったんや」と宣伝するほどの激戦でした。

無理やり勝敗を付けるとすれば、この後はドイツ側が大規模な艦隊を出撃させることが無くなりましたので、イギリスの判定勝ちってところでしょうか?

T2進水式前の霧島艦尾、スタン・ウォークと舵の取りつけ角度に注意

進水式前の「霧島」の艦尾。
スタン・ウォークと舵の取りつけ角度に注意

 

ただし、ユトランド海戦の結果、一つの明確な戦訓が残りました。それは
「巡洋戦艦の装甲、特に水平(甲板など、海面と水平方向)装甲は薄過ぎて戦艦との殴り合いは出来ない」
というモノであります。

コレはある意味当然でして、当然というより、当たり前。巡洋戦艦はそういうモノとして建造されたんですから。
巡洋戦艦は「大なる通商破壊艦」として使うべきモノで、戦艦に見つかったら、快速にモノを言わせて逃げる…のが本来の戦い方です。

ところが、ユトランド海戦では英独双方が「主力艦」の扱いをしてしまったため、巡洋戦艦に大損害が出てしまったのです。

ドッグ入りした巡洋戦艦ザイドリッツ

ユトランド海戦で大損害を受け、ドッグ入りしたドイツ巡洋戦艦「ザイドリッツ」

霧島を含む金剛級の巡洋戦艦を、やはり「主力艦」として使うつもりだった大日本帝国海軍はビックリしちゃいます。
戦艦と殴り合えないんでは、皇国を守ることが出来ないではありませんか。
さっそく装甲を分厚くしなきゃ!ってところではありますが、帝国海軍は貧乏なのですぐには出来ませんでした。

昭和5(1930)年にいたり、ようやく「霧島」に第一次近代化改装工事の順番が回ってきました。
もちろん、遠距離から高角度で落下してくる巨弾に対して巡洋戦艦の防御が役に立たなかったことに対応するためのもの。

「霧島」(他の姉妹も順次やってます)は重装甲化するのと引き換えに鈍足となり、戦艦に類別変更されています。
新装なった「霧島」は、この年の10月26日、神戸沖で実施された特別台演習観艦式で御召艦の栄誉を担いました。

S5霧島 第一次改装完成

霧島の第一次改装完了写真 昭和5年

 

昭和11(1936)年には第二次近代化改装を実施します。

これは軍縮条約の廃止を見越したもので、機関を換装して出力を倍の136000馬力へと強化。さらに艦尾を延長して相対的にスマートな体型にシェイプアップ。軍縮廃止で排水量制限はなくなりますから、大きくし放題(笑)

「霧島」は戦艦としての防御力・攻撃力はそのままに、30ノットの高速を誇る「高速戦艦」として生まれ変わったのでした。

ガダルカナル

やがて始まった大東亜戦争では、開戦時からその高速力を活かして真珠湾・セイロン島・など、空母機動部隊に護衛艦として随伴しました。

金剛級は帝国海軍の保有する戦艦のうち、もっとも艦齢の古い艦級で使い易かったためか、あちこちの戦場で使われています。

ミッドウェイでの悲劇を経て、アメリカ軍のガダルカナルへの反攻が効果を上げ始めた1942年11月。

霧島2次改装後

霧島2次改装後

「霧島」についに最後の時がやってきます。

ミッドウェイ海戦で帝国海軍は大損害を被りますが、それで大東亜戦争の雌雄が決まったわけではありません。
ガダルカナル島の攻防から始まるソロモンの大消耗戦こそが、「決戦」であったと電脳大本営では考えております。

ガ島そのものの攻防は最初から大兵力を投入し、日本軍が苦労して作った飛行場を占領したアメリカ軍の圧倒的優勢。
日本軍もガ島へ増援を送りますが、ヘンダーソン飛行場の航空機からの攻撃に輸送船団が次々に撃沈されてしまいます。

日本軍の航空隊も上空を守ろうとするのですが、1000キロも離れたラバウルからの出撃でしたから、戦場の上空に留まることが出来るのは、主力の零戦でもわずかに10分。
海軍は米豪遮断の目論見をもって、かなり無理してガダルカナルを占領したのに、中間着陸場すら用意していなかったのです。

この飛行場さえ、一時的に使用不能にすれば…。

T2霧島艦首より一番砲塔のバーベットの装備直前

建造中の「霧島」を艦首より
一番砲塔のバーベットの取り付け準備

大船団によって一気に大部隊を送りこみ、島を奪い返せると考えた海軍は、海上部隊を投入して艦砲射撃による飛行場破壊を試みるのでした。

昭和17年10月13日から翌朝にかけて、姉妹艦の「金剛」と「榛名」がガダルカナル島に接近してヘンダーソン基地を猛撃。
一時的に滑走路の使用を不能にする戦果をあげたのですが、飛行場の機能を完全に奪うには至りませんでした。

その前後にも巡洋艦や駆逐艦がガ島砲撃を決行しているのですが、威力の過少は否めません。連合艦隊は再度の「戦艦による砲撃」を試みるのでありました。

「比叡」の最後

連合艦隊は、ガダルカナル島の飛行場を今度こそ壊滅させようと、第十一戦隊を構成する金剛型の戦艦「比叡」と「霧島」を中心にして「第五次挺身隊」を編成いたします。

「比叡」「霧島」は前回飛行場砲撃に成功した「金剛」「榛名」の姉妹艦で、30ノット以上の高速力を持っていましたから、夜間に(敵機の攻撃を避けるため)突っ込んで、主砲を撃ちまくって、サッサと逃げる…って作戦にはうってつけ、ではありました。

霧島へ砲塔旋回部取りつけ。内部に弾薬筒・換装室・などが組み込まれている

「霧島」への砲塔旋回部取りつけ。
内部に弾薬筒・換装室・などが組み込まれています。

 

しかし、実施部隊の第十一戦隊司令部や各艦の将校は「今回はアメリカ海軍も警戒しているから」との懸念を示していたと言います。
連合艦隊司令長官の山本五十六大将が、「それなら私が大和・武蔵を率いて出る」と言い出したのはこの時であります。

ココまで言われてしまっては、慎重論を唱えると臆病論に聞こえます。第十一戦隊司令部は出撃せざるを得なくなってしまったのでありました。

11月13日、いろいろな事情でガ島海域は日米両艦隊が入り乱れていました。
近傍に敵艦なし、と誤認した挺身部隊司令部は「比叡」「霧島」の主砲弾を飛行場攻撃用の3式弾に換装。まさに発射せんとした時にアメリカ艦隊が出現。

暗夜のことでありますので旗艦「比叡」が探照灯を照射して、麾下の各艦に敵位置を明示。敵の防空巡洋艦「アトランタ」に初弾命中。
しかし、探照灯を点灯したために自艦の位置も敵に晒してしまい、敵艦隊の集中射撃を浴びることになってしまいます。

敵の艦隊は巡洋艦・駆逐艦の混成でしたが、いかんせん距離が近い。比叡は艦橋など上部構造物に50発以上の被命中弾を記録、戦闘指揮も不能となり、それでも各個応戦を続けます。

タービンを取りつける霧島、高圧タービンか。

タービンを取りつける「霧島」、高圧タービンかと思われます。

敵砲が「豆鉄砲」ゆえに艦体そのものに大きな損傷はありません。改造された老嬢とは言え、さすが戦艦であります。
ところが不運にも艦尾喫水線の付近にアメリカ軍巡洋艦主砲弾が命中。この砲弾は不発でしたが、弾体そのものは貫通してしまいます。
コレで艦尾付近の喫水線近くに穴が開き、舵取機室と電動機室に浸水し操舵不能となります。

機関には全く損傷はなく、左右のスクリューを交互に廻したりして、戦場離脱を図る「比叡」でしたが、無情にも夜が明けてしまいます。

夜明けは天敵の航空機がやってくることを意味しています。

探照灯の開発メーカー

「比叡」を結果的に喪失せしめた探照灯(サーチライト)の照射。
帝国海軍に限らず、世界の軍艦には探照灯が積んでありました(もれなく、ってワケではありません)。

たかが探照灯ではありますが、真っ暗な海面で敵を照射するに足る光量を得るためには、それなりの技術が必要でした。でっかい懐中電灯を積んだ訳ではありません。

「霧島」をはじめとする金剛型の各戦艦が、造られた時に搭載していた探照灯は、帝國海軍の探照灯としては第一世代の「110センチ探照灯」と言われるモノで、独シーメンス社の製品です。

探照灯の発光は、アーク放電によるもので大変な熱を持ってしまうんです。
コレが技術的なネックになっていたのですが、シーメンス社(海軍では『シーメン』と呼んでいたようです)は温度の急変に耐えられる構造の鏡を作ることに成功。造船技術については大英帝国一辺倒の大日本帝国海軍でも「金剛型」他に採用されたものであります。

ところが、米国のスペリー社が大正5(1916)年に「高光度探照灯」を開発すると、探照灯の世界に覇権交代が起こり、帝国海軍の艦艇も次々にスペリー式に切り替えられました。

元来探照灯は、ドイツのシーメンス方式で占められていたが、新しく出現したスペリー式高光度探照灯は、海軍の逸早く注目する処となった。
大正10年、東京計器は米スペリージャイロスコープ社と、探照灯及びジャイロコンパスに関する独占製造契約を結んだ結果、探照灯はすべて同社の製造する処となり、其の量は同社全生産金額の60%に達するようになった。

(呉海軍工廠 電気実験部の記録より 電脳大本営が読みやすく編集しております)

この状況に反旗を翻した民間会社がありました。それは富士電機です。

富士電機はシーメンス社と古河の共同出資で設立された会社でした。
それでシーメンス製の探照灯を何とか再び海軍に買ってもらいたい立場であります。
富士電機はダメだしされたシーメンス製の探照灯を、粘り強く何度も改良し、その都度海軍に持ち込みます。

何度も何度も改良を重ね、なかなか採用して貰えなかったのですが、諦めずに作り直し、ついに逆転に成功します。

富士電機は、シ社の新型探照灯によりス社と対抗せんとして、各種のサンプルを提供したが、何れも海軍の要求に適合しないため却下せられていた。
富士電機はこれに懲りる事もなく、シ方式に幾多の改善を加え、海軍当局の指導によって、我々の実験部における研究成果も十分採り入れ、海軍式探照灯を完成するに至って、状勢は一変し探照灯製造の主力は、東京計器から富士電機に移ったのである。
(呉海軍工廠 電気実験部の記録より 電脳大本営が読みやすく編集しております)

 

海軍と民間企業の関係は、航空機開発のありかた等からの連想で『海軍側の過大な要求と、それに苦悩する民間側技術者』のように思いこみがちですが、それだけではないんですね。

これだけ頑張って改良を重ねれば、もう「シーメン式」などと言う必要もありません。
「シ方式に幾多の改善を加え」たものが「九二式探照灯」として採用されたと思われ、さらに改良を重ねて「九六式探照灯」となったものが、「比叡」「霧島」の命取りとなった探照灯であります。

昨日も探照灯照らしたじゃん

大東亜戦争に入って、初めて「戦艦」を喪失した大日本帝国海軍。しかし、損害を受けたからって「ガ島砲撃」を諦めたりはしません。

このあたりが同盟国のドイツ海軍あたりと違うところで、「見敵必戦」の大英帝国海軍を師匠とするだけのことはあります。
ただ、「負けた原因」をちゃんと検証して対策を練っていないキライもありまして。電脳大本営の主テーマの一つ「戦訓を汲む」が戦術レベルで全くできてなかった、のであります。

予定の飛行場砲撃が不発に終わった連合艦隊は、翌日には無事だった「霧島」を再度砲撃に行かせたのです。

T2霧島の進水式バルジに注意

「霧島」の進水式
バルジの形状が良く判ります。

11月14日の深夜、ガダルカナル島とサボ島の間の海域(鉄底海峡/沈んだ軍艦で海底が鉄になったので)において、旗艦の重巡「愛宕」と戦艦「霧島」以下の前進部隊は再度ヘンダーソン飛行場攻撃を目指して、守るアメリカ海軍第64任務部隊と交戦することとなります。

この夜22時1分、「愛宕」と「霧島」は探照灯を照射し、わずか6000mの超近距離にアメリカの新型戦艦「サウスダコタ」を発見しました。

「サウスダコタ」から少し離れていた、同じく新型戦艦「ワシントン」は、「霧島」をレーダーで捉えていました。
しかし、この大型の目標が「サウスダコタ」か日本戦艦(霧島)か判別できず、攻撃をためらっていたところ。
アメリカ軍にとっては幸いなことに「霧島」が探照灯を照らしてくれたので目標を識別することが出来、16インチ砲9門による斉射を開始して「霧島」をボコることになります。

なぜ探照灯を点けたのか

前日にも探照灯を点けた事が原因となって姉妹艦の「比叡」を打ち取られたばかりの大日本帝国艦隊。なぜ「霧島」(と「愛宕」)はわざわざ目立つようなことをしたのでしょうか?

これは、帝国海軍の金剛級の運用方針に問題があるように思われます。

金剛級は高速戦艦として、機動部隊の護衛に多用されたのですが、第二次改装当時から
「空母を集中運用するんで、護衛用に高速戦艦がいるなあ」
とか思っていたワケではないようです。

改装の時点では、暫減作戦(来寇してくるアメリカ艦隊を、水雷戦隊・潜水艦隊の夜襲などで少しづつ減らして主力の決戦を有利にする)を支援するために使う、ってのが用兵者の考え方だったのです。

霧島の航空甲板より艦橋を望む95式水偵

「霧島」の航空甲板より艦橋を望む
搭載機は九五式水偵

アメリカ艦隊に突撃する水雷戦隊の前路啓開、つまり敵の巡洋艦のバリアを金剛級が撃ち破り、水雷戦隊の軽巡と駆逐艦を突進させるために使うつもりで駆逐艦なみの高速が金剛級に付与されたと思われます。

帝国海軍のマニュアルでは、水雷戦隊の夜戦について、次のような戦い方が基本になっています。
一列縦隊で敵に向かい、先頭艦(旗艦)だけが探照灯を照射。後続の駆逐艦は、照射された敵艦に突進しつつ魚雷を撃つ…。

霧島も愛宕も、ともにマニュアル通りにやっただけ、なんでしょう。

米艦隊はどうしたのか?

もう少し戦い方に工夫の余地はなかったものでしょうか?

たとえばこの海戦ではアメリカ側は探照灯ではなくて照明弾を使っています。
「愛宕」の戦闘詳報が残っています。

『本戦闘中敵ハ殆ンド探照灯ヲ使用スルコトナカリシモ我ガ非敵側ニハ敵ノ極メテ有力ナル照明弾見事ニ上空ニ懸吊セラレ、我ハ完全ニ照明サレアリタリ』
『此ノ間敵吊光弾我ガ非戦側上空ヲ見事照明シ』
愛宕戦闘詳報より

非敵側・非戦側と言ってますから、アメリカ艦隊から見て我が艦隊の向こう側に照明弾を撃ちあげて、我をシルエットとして浮き上がらせたものでしょう。

これなら、探照灯を照らした艦が目標にされる怖れはありません。ただ、発射炎を見つけられる可能性はありますけどね。
一度位置が判っちゃうと、暗闇を透かして敵のシルエットを見つけるくらいの視力は持ってますから、帝国海軍の見張り員は。

我が戦艦には弾着観測用の水観(巡洋艦には水偵)が搭載されており(この海戦に先だって陸揚げしていた、との記述もあり)、搭乗員は夜間発着の訓練も受けています。
照明弾の発射炎すら視認されることなく、吊光弾を投下する事も出来た筈なんですが…

離水する零式観測機

離水する零式観測機

 

「霧島」は「ワシントン」の16インチ砲9門で叩かれ、少なくとも6発を被弾、前部電信室・三番、四番砲塔・舵機と被害を受け、火災を鎮めたものの、舵機の故障は如何とも出来ず。

徐々に右舷へ傾斜を強め、反対舷に注水すれば一気にそちらへ傾いてしまう惨状となり、ついに軍艦旗降下、総員退去のやむなきに至ったのでした。

霧島は「朝雲」「照月」「五月雨」の駆逐艦に1100名あまりの兵員を移乗させた後、処分射撃を待つこともなく、自ら鉄底海峡にその姿を消しました。

役に立たなかったどころか、命とりになってしまった探照灯ではありますが、懸命に改良・開発にあたった富士電機は今も重電業界の雄です。

コンビニで販売されているコーヒーのドリップ・マシンは富士電機の開発になるものだそうです。えっ、えらく小せえな?ですって。

じゃあ、デカいのも。富士電機は地熱発電技術では世界のトップランナーで、世界シェアも4割を超えるそうです。

そう、技術ってモノは富士電機のように地道に研究・開発した会社がその栄誉を担うようになってるんです。

KoreaやChinaに出来るわけがありませんよね。

 

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