戦闘飛行艇、ジェットエンジンを付けてもらう

サンダース・ロウSR.A1

シュナイダーカップレースで見たように、水上機の性能が陸上機に見劣りしない時代もありました。飛行機の性能が飛躍的に発達した第一次大戦で活躍した戦闘機の中には、水上戦闘機も混じってたりして。

オーストリアの戦闘機が圧勝

「水上戦闘機」と言えば大日本帝国海軍の十八番でありますが、そのご先祖は意外なお国にあるのです。しかもその形態たるや。
いや、あんがい理にかなってるんですけどね。

セルビアの一発で始まった第一次世界大戦でありますが、いくら皇太子殿下の暗殺であっても、ヨーロッパ中の国々が対戦するのは不思議だと思われませんか?

両勢力ともに「すぐ終わるさ」と思い込んでた誤算がつもりに積もって長期戦…ってのが大方の理解で、私もまあ正解だと思います。
ただ、それならそれで「すぐ終わるさ」と思い込んじゃった理由とか、長期戦になった理由とかを知りたくなるのが人情ってもんじゃありませんか(笑)

まあ、完全に「これだ!」ってな答えはたぶんありませんけどね。

それで、でありますよ。イタリアが英仏側について参戦しちゃったのも誤算と言うか長引いた理由の一つと申しますか。もともとイタリアはドイツ・オーストリアと同盟を結んでいたんですね。中央同盟ですな。それなのに、実戦では英仏側に付いて大戦争に参入いたします。

未回収のイタリア

未回収のイタリア(赤い所ね)

それにもちゃんとワケがあって、イタリアが「統一王国」になった時、あの半島の北の方とその東側がオーストリア領に取り残されちゃいました。
これを「未回収のイタリア」って言うんですけど、独墺側に居たんでは戦争に勝っても未回収のままになりそうでした。

って事で英仏側に寝返っちまうんです。領土欲しさにやらんでも良い、勝ち目のない戦争をやらかすのは、わが国の同盟国となった「あの戦い」と同じでイタリアの病弊であります(笑)
で、やってみると個々の兵隊さんは驚異的な頑張りを見せるモノの、「国の軍隊」としては極々ヘタレなのもこれまた第二次大戦と同様であります。

ヘタリアイタリアは勇んでアドリア海に面した「本来の領土」を取り戻しにかかるのであります。相手は新進気鋭のドイツ帝国を避けて、老衰大国の「オーストリア=ハンガリー二重帝国」。

戦略的奇襲にもなっていましたので、「回収」はすぐに完了かと思われたのですが。オーストリアの戦備は意外に堅く、イタリア軍の進撃は国境で止められてしまいます。

それどころか、新しい戦闘領域の「空」ではイタリア軍はオーストリアの戦闘機に全く歯が立たなかったのであります。そのオーストリア空軍の「超優秀戦闘機」が「ローナーL型戦闘飛行」であります。

ローナーL戦闘飛行艇

ローナーL戦闘飛行艇

戦闘飛行艇ですよ、戦闘飛行艇。飛行艇って言いますと、私たち大日本帝国の国民は九七式・二式と続く川西の傑作大型飛行艇や、その流れを汲む海自の飛行艇を思い浮かべますので、デッカイものだと思い込んじゃいますよね。

でも、コイツは戦闘機なんです。全長10メートルちょっと、全幅は少し大きくて16メートル強。自重1トンちょい。

我らの誇る「零式艦上戦闘機」より少し大きいくらいで、重さは半分。艦上機でも艦載機でもないからね、ちょっとくらい大きくても問題ないし、機体構造は木製布張りで速度も遅いから強度は要らぬ、つまり軽い。

レシプロ戦闘機の王道のプロポーションです(笑)。これにイタリア軍は手も足も出なかった。ところが幸いな事に、1915年5月27日にオーストリア軍はイタリアの都市ベネチアを空襲するのでした。

「ローナーL」も数機がこの空襲に参加したのですが、そのうち1機が不幸にもエンジンに被弾。機体はほとんど損傷することなく、イタリア軍に捕獲されてしまったのです。

九七式飛行艇

飛行中の九七式

 

まるっきりオーストリア版「アクタン・ゼロ」ですな。で、「アクタン・ゼロ」を得て研究する方向がアメリカとイタリアの差を如実に表していて面白いのでありんすよ。

丸パクリ

アメリカはアクタン・ゼロを回収・解析して零戦の得意技を見つけ出しました。そう、「格闘戦」であります。同時に「不得意技」も見つけます。「急降下」ですね。

アメリカにとっては、これが大きなアドバンテージになります。すなわち、零戦に対しては一撃離脱のみ、初撃に失敗すればダイブで逃げる…こんな単純な機動だって「素人でも出来る」ってなモンではありませんが、「名人上手でなければ出来ない」ってワケでもありません。

アクタン・ゼロ

アクタン・ゼロ

自前でちゃんとした戦闘機があったら、当然こうなりますよね。

ところがイタリア軍はそんなふうには考えませんでした。ほぼ完璧に残っている「歯が立たない敵機」を鹵獲したんですから、「当然」のようにコピーしちゃうんであります(笑)

もともとの「ローナーL型戦闘飛行艇」を子細に眺めると、フランス技術の影響を色濃く感じることが出来ます。
艇体が平べったく出来ていて、並列複座(第二次大戦になると、複座戦闘機=ダメ戦闘機の公式が一般化されますが、この頃は並列の幅の広さが問題にならなかったんですね)。

複座で複葉のくせに主翼には上下とも後退角がついてるし、下翼はかなり小さいし(セスキ・プレーンってほどではありません)。

イタリア軍は「丸パクリ」なのに、さらにラクをしようとしたのか?鹵獲した機体をマッキ社(当時はニューポール=マッキ)に渡して「おんなじの造ってね」とか言ったのであります。

鋼管フレーム・布張り、上下の主翼は支柱と補助張線で支持され、その間に水冷エンジン、固定ピッチの2翅プロペラを推進式に配置。尾翼は胴体よりも高い位置に取り付けられています。
全くの丸パクリです。見ているコチラが恥ずかしくなるほどの丸パクリです。ココまで見事にパクると、いっそ清々しいくらいです。

ローナーL保存機

ローナーL保存機

私ども日本人は、隣国がいっつも他国の兵器を丸パクリすることを知っています。しかも止せば良いのにちょっとだけイジッて「ウリジナル荷駄」とか言っている事も知っています。
さらにその結果大幅な「劣化コピー」になって失敗作になる事を良く知っております。
それを考えると、イタリアの清々しいまでの丸パクリは見事と言っても良いんでしょう。少なくとも劣化コピーではなかったようで。

イタリアのマッキ社が造った機体は「マッキL.1」と呼ばれ、オリジナルの「ローナーL」と同レベルで対戦できたのであります。

水上戦闘機

第一次大戦で活躍した「戦闘飛行艇」は、しかしながらコレッキリでありました。

「水上機の優位」は簡単に覆されてしまい、戦闘機は基本的に陸上または航空母艦から発進するモノとなりました。
第二次世界大戦では世界で唯一、極東の島帝国だけが「水上戦闘機」と言うジャンルを開拓するのですが…これも「飛行艇」ではなく、機体の下に巨大なフロートをぶら下げた「下駄ばき」型でありました。

ところが、戦争が終ってエンジンもレシプロからジェットが全盛になる頃、「水上戦闘機」にインスパイアされる国が現れたのであります。なんとそれは海軍のお師匠はん、大英帝国。

ドリーに乗った強風

ドリーに乗った強風

ってワケで今回も「暗黒面への道」の話だったりして。いやいや「二式水戦」や「強風」の話もしなきゃね。

大英帝国は第二次大戦で強豪アメリカを味方につけることに成功し、なんとか勝利側に滑り込むことが出来ました。しかし、イギリス富貴の源泉だった植民地は次々と独立を指向し始めます。

工業力も相対的に低下して「世界の工場」の座を滑り落ち、技術力もアメリカの後塵を拝することに。一時は「日の没することのない」大帝国を誇り、強力な海軍力で七つの海(う~む、レトロな表現じゃ)を圧した大英帝国も、僅かになった海外領を警備するだけの軍艦を持ちきれませんでした。

その上第二次大戦中、大英帝国が本国防衛にテンヤワンヤだった間に、大日本帝国とアメリカが太平洋を巡る激戦で「海でも航空戦力が優位」って事を証明しちゃいました(と言う通説ですが、電脳大本営はちょっと疑問を持っています)。

二式水戦

二式水上戦闘機

つまり、イギリスが少なくなった植民地を防衛したり、独立派を駆逐したりするためには、今までの巡洋艦より遙かにカネのかかる航空母艦を派遣しなきゃいけなくなったのです。それは凋落しつつある大英帝国にとって、とてもムリな相談。

そこで大英帝国が思いだしたのが、東洋の弟子。大日本帝国は離島での飛行場設営能力不足を自覚し、防空能力を素早く展開するために「水上戦闘機・強風」を作り出します。
「強風」は完全オリジナルで、かなりの難産でした。完成が待ちきれ無い帝国海軍は零式艦上戦闘機を改修して「二式水上戦闘機」をも生みだしていたのです。

大日本帝国海軍の水上機部隊の活躍はコチラ

戦闘飛行艇復活!

水上戦闘機は、落ち目の英国にとってはすんごく魅力的でした。海上が比較的穏やかでさえあれば、海岸に発進基地を作る事も出来ますし、水上機母艦で運用することも出来ます。
水上機母艦なら飛行甲板が要らない分、空母に比べたらだいぶん安上がり(本当は機体の補給・整備・修理スペースが何方の「母艦」でもキモなんですが)になりそうです。
つまり「水上戦闘機」は海に囲まれた太平洋地域での運用に最適だと思われたのです。

大日本帝国が実際に運用し、大きな成果を上げた水上戦闘機ではありましたが、英国側には大きな不満もありました。巨大な浮子(フロート)式降着装置をぶら下げている事によって、飛行性能が同じクラスの陸上戦闘機に比べて見劣りしてしまうのです。

「零式観測機」F6Fを撃墜した複葉機

「零式観測機」 観測機ながら、F6Fを撃墜した実績あり

「マッキL.1」や「ローナーL」のような戦闘飛行艇なら、フロートを使わずに機体(艇体)で水面に浮かびますが…通常のように機首にプロペラを配置したら。
ペラの先端が水面を叩いて飛び立つどころじゃありませんね。したがって、ローナーもマッキもエンジンとプロペラは水面から離れた上翼と下翼の間にありました。

しか~し!大英帝国には新しい航空機エンジン・ジェットエンジンがあるじゃないか!

そう、推進にプロペラを使う必要のないジェットエンジンなら、機体内部にエンジンを搭載できそうです。
陸上機に負けない空力性能を獲得できるんじゃないでしょうか?ジェットエンジンのパワーもありますし、うまくやれば音速だって超えられるかも…

サンダース・ロウ

大英帝国には航空機メーカーがたくさんありました。もちろん、どの会社も大量の注文が入る、なんてことがあるワケはありません。

殆どの会社が大メーカーの機体を受託生産したり、機体の一部だけ(主翼だけ、とか)を作らせてもらったり、の営業を続けておりました。そんな会社の一つに「サンダース・ロウ」って会社がありました。

サンダース・ロウは飛行艇に特化していた会社なんですが、第二次大戦時にはスーパーマリン社のウォーラス飛行艇とシーオッター飛行艇の生産を請け負ったりしています。どっちもこの時期に複葉だけどなあ(笑)

まあ、こんな会社でも時々「量産機」にチャレンジしたりするんですな。

サンダース・ロープリンセス飛行艇

サンダース・ロウプリンセス飛行艇

それが乗客数105名の超巨大飛行艇「プリンセス」。『( ,,`・ω・´)ンンン?内側2基のプロペラが…』って思った貴方、素晴らしい観察眼であります。

なんとコヤツ、10発なんですよ。胴体側各2基のエンジンナセル内には、それぞれ2台のエンジンが仕込まれてましてね、2重反転ペラをそれぞれ廻す、っていう仕組み。外側はエンジン1基ずつだから、合計10発。

さすが大英帝国のマイナーメーカー、絵に描いたような暗黒面行きでありますが、幸いにもこの巨大飛行艇は試作だけに終わりました。

このサンダース・ロウ社が前記のごとき「ジェット戦闘飛行艇」という妄想を抱きまして、「サンダース・ロウSR.A/1」という提案を大英帝国航空省に持ち込んだのであります。
これに試作発注を与える、っていうところがさすが、というか大国の余裕と申しますか、暗黒面の影響と申しますか(笑)

サンダース・ロウSR.A/1は、先述のように大日本帝国海軍の「二式水上戦闘機」や「強風「」といった水上戦闘機の成功に着想を得たものです。

サンダース・ロウ戦闘飛行艇

静かな海面に佇む「サンダース・ロウ戦闘飛行艇」

サンダース・ロウは当時新しく開発されたターボジェットエンジンが水上戦闘機の弱点を克服する手段になると考えたんですね。
もう書きましたけれど、プロペラがなければ水面までのクリアランスが不要、胴体をより水面に接近させることができます。つまりジェット推進にしたら、ブザマな下駄ばき(フロート付き)じゃなくて、スマートな「飛行艇式」の水上戦闘機ができるんじゃね?と思いついたんでありました。

サンダース・ロウから提案を受けたイギリス航空省は「仕様E.6/44」として1944年5月に原型機3機の開発契約を結びます。まあ、この時はまだ戦争中だからねぇ。でも、こんなのに貴重なジェットエンジンを使わせるってのも、なかなかの勇断ですけどね。

飛行艇専門のサンダース・ロウ社でありましたが、「水上戦闘機」ていう分野に実績があるワケじゃなく、小型機を設計・製造した経験もなく、「E.6/44」の製造は結構時間がかかってしまいます。

1号機が飛んだのは発注から3年以上経過した1947年7月15日。続いて2号機・3号機も完成して順次試験が行われました。
それぞれ性能、取扱いともに良好な成績をあげたんですが、戦争が終ってたモンですから、航空省の予算は削減されていました。
また、機体の外形のわりにコックピットが小さく窮屈で、小さいキャノピーの窓枠が太くて視界不良。

サンダース・ロウ戦闘飛行艇1

離水した「サンダース・ロウ戦闘飛行艇」

これらの要因が重なり、1951年5月にE.6/44水上戦闘機計画は中止されてしまったのであります。最後の「キャノピーの窓枠が太くて視界不良」なんて、ほとんど因縁付けるのに近いと思うけどね。

金持ち国でも

航空機の「ジェット化」はアメリカ軍でも第二次大戦中から進んでいました。
ただ艦上戦闘機に限っては、離着艦能力と航続距離の分野でレシプロ機の後塵を拝する状態から抜けきれていませんでした。

敵対する共産圏とのジェット機開発競争を考えると、今後の機体の大型化・大重量化・高速化は必須…と思われました。
それはスペースが限られる航空母艦上での運用の大きな障壁となることでしょう。
超音速ジェット艦上機(世界初の超音速機である「ベルX-1」の音速突破は1947年のことでっせ)が登場すれば、既存の航空母艦では運用できなくなるのでは、と考えられたのでした。

シーダート

シーダート
イラストだとカッコ良いんだけど

既存の航空母艦でダメなら大型の航空母艦を作ればよさそうなモンですが、大戦争が終った後でありますので、さすがのアメリカも予算節減。
ってな状況でして、1950年代に入ってもアメリカ海軍の艦載機はレシプロ戦闘機を新規生産していたほどなのでした。
攻撃機(爆撃機と雷撃機が統合されたヤツ)に至っては1960年代までレシプロ機が現役だったのであります。

このような現状に危機を感じたアメリカ海軍は1948年に「超音速ジェット水上戦闘機」についての研究を開始することにしたのです(笑)。

1948年10月、アメリカ海軍は国内の航空機メーカーに対し「超音速飛行も可能なジェット水上戦闘機」の要求案を提示いたします。

いままで見てきましたように、水上機は空力的に大きなハンディを背負います。実験機(ベルX-1)が音速を突破した、と言っても、陸上発進の実用機は音速を越えていない時代に、「超音速飛行可能な水上機」は過酷すぎる要求であります。
まして戦闘機となれば、空戦性能も要求されます。速く飛んで、素早く向きを変える必要があるワケなのです。

この無茶苦茶な要求に対して、あるマイナーメーカーが立ち上がりました。それがコンベア社であります。
コンベアは水上機の性能上の欠点はフロートにあり、と見抜き(誰でもそう思うけどな)フロートを使用しない水上機を構想したんです。

サンダース・ロウみたいに「飛行艇型」に逃げよう、というのでもありません。飛行艇タイプはフロートをぶら下げるよりはマシですが、水面に降りるために艇体下部を「ボート型」に成形しなければなりません。

これでは超音速にチャレンジするには「空力的に洗練されている」とはとても言えないのであります。

私をスキー「で」連れてって

そこでコンベア社は水上スキーの原理を用いて離着水をやろうじゃん!と、良からぬ妄想構想を抱いたのです。
この構想に基づいた設計案を提示してみると、アメリカ海軍はなんとこれを採用してしまい、1951年1月19日より「F2Y」として開発計画がスタートしちゃったのでありました。

F2Yは「シーダート」という愛称も与えてもらい、デルタ翼を採用したためか、ドイツ人のリピッシュ博士も設計のお手伝いをしてくれる力の入れようでした。

シーダート後方より

後ろから見るとデルタ翼が良く判ります。

サンダース・ロウ社と違って、手っ取り早い仕事がウリ?だったコンベアは試作1号機を1952年12月に完成させます。「水上スキーの原理を使ったジェット水上機」という史上初のコンセプトを、たった2年でモノにしちゃったのであります。さすがアメリカ。

この年の12月14日には早くも「水上滑走テスト」を開始。年が変わって1月14日には高速滑走テスト中に機体が飛び上がってしまう「事故」を起こしています。
飛び上がった機体は1000フィート(約300メートル)も空中を移動したのですが、コレはあくまでも滑走中に衝撃で飛び上がってしまったので、公式な初飛行とは認められていません。
コレ、この先シーダートの運命に暗い影を投げ掛けちゃう「事故」なのでありますが、この時は誰も危険性に気づかなかったみたいです。

シーダートが正式に「離水」に成功したのは1953年4月9日ですが、搭載していた「J34ターボジェットエンジン」にはアフターバーナーが付いていないこともあって推力不足が否めません。
このままでは要求された超音速飛行などは到底困難であると判定され、アフターバーナー付の「XJ46ターボジェットエンジン」(試作品)に換装されました。

1954年8月4日にはXJ46の正式量産型である「J46-WE-2」が完成し、コレを搭載した「XF2Y-1」が、緩降下時に音速突破に成功。これは現在でも「水上機としては唯一の音速飛行」であります。

栄光の陰で

こうして「世界初」で今に至るまで「世界で唯一」の称号を一つ手にしたシーダートでありましたが、機体設計のキモである「水上スキー式降着装置」に対する不満が海軍筋から表明されるようになります。

超音速達成とほぼ時を同じくして、離着水装置部、つまり水上スキーの再設計が行われているのです。この時は「小変更」程度で済んでますが、滑走する時の振動が想定以上に激しく、再々設計に追い込まれていきます。

その時は2本使っていたスキーを一枚に変更する大幅変更。それって、スキーじゃなくてウェイクボードじゃないのか?

こうした努力にもかかわらず滑走時の振動が大きい、というシーダートの弱点は一向に解決されませんでした。
まあ、常識的に考えたって「水面を高速で滑走する」以上、よほどの好条件に恵まれなきゃ波による振動が激しいのは当たり前であります。

我が国の誇る救難飛行艇は、波高4メートルまでの海上での離着水が可能、とされていますが、シーダートなど及びもつかない技術的な工夫がなされているのと同時に、超短距離での離発着が可能だからね。ごくごく低速で飛び上がっちゃうから、それほど波の影響を受けないんですね。

超高性能救難飛行艇

超高性能救難飛行艇

高速を狙うシーダートはUS-1みたいな「フネ」じゃなくて、水の上を滑る方式でスピードを出さないと、離水すらできない。逆に言うと、高速のために穏やかな水面が必要なんですね。

そもそも、シーダートは「ジェット戦闘機は航空母艦で運用するにはデカ過ぎて航続距離も短すぎる」から開発されているモノです。

海面のうねりが大きくなる外洋で実戦運用が出来なきゃ意味がありません。そんなことは計画を発案した時点で判りそうなモノでありますが、アメリカ海軍の技術陣は「何とかなるさ」とでも思ってたんでしょうね。

しかも緩降下時の音速突破には成功した、と言ってもそれ以上の高速化や水平飛行時の超音速は出来そうもありませんでした。と申しますのは、機体(というか艇体)下部の形状が、やっぱりボートっぽいのであります。

水上スキー(改良後はウェイクボード/滑走性能は低下しちゃったみたい)によって水面を滑る、と言っても速度を落とせばスキーは沈みます。結局、艇体そのもので水に浮かぶ局面は必ずできてしまうんですね。
そんなわけで、シーダートのコンセプトそのものに疑問が呈されているさ中の1954年11月4日、XF2Y-1の試作1号機がデモフライト中に空中分解事故を起こしてしまいます。
XF2Y-1は墜落、テストパイロットが死亡するという惨事になり、「シーダート計画」は縮小の憂き目に。

水上スキー

水上スキーを楽しむジェット戦闘機

ココまで来ると、「ダメ飛行機誕生」のパターンに完全に嵌まってますな。

一方で、アメリカ海軍はロイヤル・ネイビーから譲りうけた「スチーム・カタパルト」の技術を成熟させ、新発想の「アングルド・デッキ」を実用化することによって、ジェット戦闘機を空母で運用することが現実味を帯びてきていました。

これらによって、アメリカ海軍は艦載機を全てジェット化できる超大型の空母を建造する方向に方針転換してしまいます。こうしてシーダートの開発は1956年に中止されてしまったのでありました。

水上戦闘機、復活しねえかなあ。

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