特攻を企画した卑怯者2~桜花を創った真犯人~

神風アタックを受ける戦艦テネシー

「桜花」を発案して、生産を推進したチャラ男を皆さんはご存知でしょうか?

桜花の発案者は屑だった

その無責任男の名は大田正一(最終階級大尉)といいます。

大田正一は、高等小学校卒業後呉海兵団に入団、偵察練習生として訓練を受けた航空兵(旧軍の「高級官僚」が悪の根源、って言う私の主張からはややずれてしまいます)ですがパイロットの適正は無かったようです。

イ号一型乙誘導弾

イ号一型乙誘導弾 実験中に女風呂に突っ込んだため、通称エロ爆弾といいます

大田は陸軍の誘導ロケット弾(俗称エロ爆弾)計画などに刺激を受け、「有人体当たりロケット」を着想し、自分の上司や東大航空研究所(航研)、航空技術廠など研究機関を巻き込んで「桜花」を実用化していきました。

そのとき、関係者を説得する決め台詞は「私が乗って行く」でした。

大田は偵察員から操縦員への転換訓練も受けているのですが、そのときの判定は「適正ナシ」で、「桜花」を操縦する見込みは全くありませんでしたが。

大田正一は英霊を戦果も上げられぬまま送り出したあと、敗戦後の8月18日、茨城県の神ノ池基地から零式戦闘機を奪い「東方洋上に去る」と書き残して飛び立ってしまいました。

責任を感じて自決したのだと解釈され、(公式には遭難殉職)大尉に昇進しましたが、どっこい大田は生きていました。
この卑怯者は操業している漁船を狙って近くに着水・救助され、そのまま身を隠してしまったのです。

靖国神社で展示されている桜花

靖国神社で展示されている桜花

その後は「樺太からの引揚者」と名乗ったり、「義勇空軍のパイロットとして支那へ渡る」と言って金をせびってみたりの詐欺まがいを続けながら1994年まで生きていたのです。死んだのは京都ブパティスト病院。
戦中戦後ともに(汚い)生き方を貫いた、と言う意味ではちょっと尊敬してしまいます。

誰が書いた紹介状だったのか

大田正一は履歴からも判るように、海軍のエリートではありません。

大日本帝国海軍は陸軍以上に硬直した組織でしたので、たかが特務(兵学校出ではない)少尉がどんなに秀逸なアイデアを着想しても、急速に実用化されるような事は通常あり得ません。

大田正一が「桜花」を実現できたのにはある秘密がありました。
その秘密とは、大田が東大航研や航空技術廠を訪ねるときにもって廻った「紹介状」にあります。

大田正一はこの「紹介状」を持って、東京帝国大学工学部附属航空研究所の小川太一郎教授を訪ね、桜花の設計を依頼しました。

小川太一郎教授はこれを快諾しています。航研もこの設計のために予算を計上しています。

こうして出来上がった設計データと「紹介状」を見せて、大田正一は上司の菅原英雄中佐に採用してくれるように申し出ました。

菅原英雄中佐は海軍航空技術廠の和田操中将を紹介。和田中将は大田正一を連れて部下の三木忠直少佐に「桜花」を作るように要求したのです。

三木忠直少佐は一式陸攻の後継機である傑作爆撃機「銀河」の設計者です。
「銀河」の設計では速度を重視して胴体の幅をぐんと絞り、米軍が新型戦闘機と誤認するほどの運動性をもたせた人です。

桜花の設計者三木忠直

桜花と新幹線の設計者三木忠直

 

「一式陸攻にこんなものをぶら下げたら、速力がまるで落ちます。それでなくても防御に弱点のある一式陸攻はたまったモノじゃありません。投下する前に親子もろともやられます。」
と技術者としても一線の指揮官としても、至極まっとうな反論を試みたのですが、和田中将は
「素人が考えたこういう新兵器を、専門家の立場から設計しなおせ。」
と押さえつけました。

こうなってしまうと「命令」でありますから、三木少佐は設計するしかありませんでした。和田中将も経験のある専門家ですから、「桜花」のムリは百も承知だったでしょう。「紹介状」には逆らえなかった、と見るのが妥当では無いでしょうか?

「紹介状」はこれほどの威力を持っていたのです。

源田実の可能性?

源田実は皆さんご存知の事と存じます。
私はこの「紹介状」は状況から源田実が書いたものと考えています。

源田実

源田実

物的証拠は残念ながらありません。状況証拠のみですが、私はかなり自信があります。源田は公式には特攻反対派だったように言われます(私は疑っています)が、「桜花」については積極的だったようです。

状況証拠を上げておきましょう。
桜花開発当時の源田実は軍令部航空部員であったことは、頭の片隅に置いてお読みください。

航空技術廠の和田操中将は、出来上がった三木少佐の緊急設計を航空本部に上げたのですが、航空本部は採用の方向で源田に報告(ココがそもそもおかしい)、昭和19年の8月5日の軍令部会議に源田が提案して開発許可を取っています。

8月16日には改めて航空技術廠に対して桜花の試作が命じられ、桜花は正式に海軍の兵器として開発されることになったのです。

そもそも源田は「攻撃」が好きな人で、海軍の防御力軽視の航空機政策は「源田が源流」と言ってよいかも知れません。

 

96式2号艦戦、増槽装備

96式2号艦戦、増槽装備

九試単座戦闘機(九六式艦上戦闘機、零戦の前任で世界レベルを凌駕した傑作機)にも速度よりも複葉機並みの旋回性能を求めています。
また、戦闘機を急降下爆撃に使うことを研究したり、攻撃的に運用することを提案(1930年代の戦闘機とは、やって来た爆撃機に対する防御のための飛行機)したりしています。

自分が一定の操縦テクニックを持っていたためか、速度や防弾板よりも操縦技量で回避することが出来る、と思っていた時代錯誤の人なのです。

あまりに高位の軍人だと、大田正一と接点すらありませんが、当時の源田中佐なら接触できた可能性は高いと思います。
「速度より旋回性能」の源田がロケットグライダーは似合いませんが、「攻撃一点張り」と言う意味では「桜花」は源田好みなのです。

ともあれ、源田が軍令部で反対していれば桜花が創られることはなかった筈なのですが、「特攻反対」(戦史叢書やWikiによる)だった源田は「桜花」に反対することはありませんでした。いや「桜花」を推進したのです。

桜花設計者の戦後(余談です、飛ばしてお読み下さい)

いやいや「桜花」を設計させられた三木忠直少佐は、この経験で航空機の設計を止めてしまいました。

しかし、設計者としては生きていかねばなりません。

大東亜戦争の敗戦後、三木は「クルマを設計すれば戦車になる。フネを設計すれば(三木は東大工学部船舶工学科卒)軍艦になる。それで平和利用しか出来ない鉄道を選んだ」として、新幹線の初代0系を設計することになります。
もしもし?装甲列車、列車砲なんてのもありますけど。
列車輸送が内線作戦のキモだった時期もあったんだけどな。

雷撃の名手も反対

さて、こうして急速に実戦配備された「桜花」は第721海軍航空隊(通称神雷部隊)で運用されることになりました。

この部隊は昭和19年10月1日に編成されています。「桜花」開発が軍令部で承認されて2ヶ月経っていません。
この間に(8月頃から)「決死新兵器」の搭乗員募集も行なわれています。

三木少佐が「桜花」の試作を開始したのが前述のように命令を受けた8月16日、試作機の完成を見たのが10月23日です。
つまり、海軍は新兵器の実物も見ずに実戦投入を決めて搭乗員を募集(前述のように「決死」であって「必死」の特攻兵器であることは隠していました)し、運用部隊(発足時は桜花の実験・開発と練成部隊の名目)を立ち上げているのです。

神雷部隊の司令は岡村基春大佐。源田と並び称される名パイロットですが、早くから特攻を主張していました。

岡村はマリアナ沖海戦後の昭和19年6月19日、第二航空艦隊司令長官福留繁中将(ゲリラに捕まって暗号書を奪われても無駄に生き延び、処罰もされない奇跡の人)に
「戦勢今日に至っては、戦局を打開する方策は飛行機の体当たり以外にはないと信ずる。体当たり志願者は、兵学校出身者でも学徒出身者でも飛行予科練習生出身者でも、いくらでもいる。隊長は自分がやる。300機を与えられれば、必ず戦勢を転換させてみせる」(戦史叢書)
と意見具申しています。

福留繁

福留繁

岡村基春は、司令はやったものの、実戦部隊を率いて飛ぶことはせず。
もちろん桜花にも乗らずに戦争を生き延びました。
「いくらでもいる」と言った兵学校出身の体当たり志願者は(無かったとは言いませんが)数えるほど。学徒出身者と飛行予科練習生(予科練)が特攻隊員の主要供給源となりました。

こんな神雷部隊にも「男」はいました。
雷撃の名手として知られた野中五郎少佐。

「桜花」の航続距離は30キロほどしかありませんから、一式陸攻などでアメリカ艦隊の近くまで運んでやらなければいけません。その母機隊の指揮官として昭和19年10月、第721航空隊飛行長に着任。

開戦直後のフィリピン空襲から太平洋で暴れまくってきた野武士でした。
一式陸攻のペイロードは1トンしかありませんが、「桜花」は小さいと言っても2トンもありました。

ただでさえ、鈍重で防御が薄い「一式ライター」がこんなに重たいものを、機外にぶら下げてアメリカ艦隊から30キロまで…近づけるわけがありませんでした。

桜花を抱いた一式陸攻

桜花を抱いた一式陸攻

野中五郎少佐は、ギルバート諸島やマーシャル諸島でも敵機動部隊攻撃をやっていますから、迎撃戦闘機の性能も、パイロットの技量も、熾烈な対空砲火も知り尽くしていたのです。
その上、米軍のレーダーの性能は飛躍的な向上を続けており、それでなくても有り余っていた迎撃戦力の運用が効率的になりつつありました。

「桜花」の機首に仕込まれた1トンもの炸薬も、発射前に母機ごと撃墜されてしまえば何の役にもたちません。

飛行隊長には就いたものの、野中五郎は桜花の実戦投入には絶対反対でした。

野中一家

野中五郎少佐は若い頃から任侠好みだったようで、べらんめえ調でしゃべり、自分の飛行隊を「野中一家」と名付け、「子分」たちの身の上には十分以上の気を使う隊長だったようです。

そんな野中少佐の「桜花」語録を並べておきましょう

「この槍、使い難し」

「こんな軽業みたいなもの兵器じゃねえ」

「おれは桜花作戦を司令部に断念させたい。もちろん自分は必死攻撃を恐れるものではないが、攻撃機を敵まで到達させることができないことが明瞭な戦法を肯定するのは嫌だ。クソの役にも立たない自殺行為に、多数の部下を道づれにすることは耐えられない。司令部では桜花を投下したら陸攻は速やかに帰り、再び出撃せよ、と言っているが、今日まで起居をともにした部下が肉弾となって敵艦に突入するのを見ながら自分たちだけが帰れると思うか」

「そんなことは出来ない、桜花投下と同時に自分も目標に体当たりする」

「ろくに戦闘機の無い状況ではまず成功しない。特攻なんてぶっ潰してくれ。これは湊川だよ」

*この項はすべて講談社刊「特攻」より

出撃

昭和19年11月、航空本部は「○大兵器(桜花の秘匿名称)に関する部隊要望事項」を発出して各部署に対し、721空の機材・人員の手配などを優先的に計らうように通達しました。
「桜花」の試験飛行が成功すると、45機の桜花が供給されて11月中旬から訓練が開始されました。
と言っても、練習用桜花での訓練は各人一回きりでした。一回乗ると、自動的に技量Aになる、素晴らしい教育システムです。

訓練の代りに、お歴々が続々とやってきました。

昭和19年11月13日、戸塚道太郎航空本部長が視察に訪れたのをかわきりに、
11月20日永野修身元帥が視察、隊員に賛辞を送りました。
11月23日 及川古志郎軍令部総長も視察。
12月1日豊田副武連合艦隊長官の視察。鉢巻と短刀を授与。
12月3日米内光政海軍省大臣が視察。飛行場で閲兵式。

だれもが無謀で効率的でないことは理解できていたでしょうが、止めるものは一人としていませんでした。

野中五郎

野中五郎

年が改まった3月。力戦奮闘を続けた硫黄島の小笠原兵団の、補給も増援もない戦いが峠を越えつつあった21日。
ついに「野中一家」に出撃命令が下ります。

神雷部隊司令の岡村基春大佐は、第五航空艦隊(721空が直属していた)の宇垣纏中将に「戦闘機の護衛がなくては失敗必至」と一応の反対を表明しますが、「今使わなければ桜花を使うときは無いよ」と説得されてさっさと自説を引っ込めています。

全滅

出撃は721空陸攻隊の全力を挙げてのものではありませんでしたが、野中少佐は自ら先頭機の操縦桿を握りました。

護衛の戦闘機は50機を超える予定でしたが、機材の不調などで実際には20数機だったと言われています。

この時期、西日本の海軍機の大半を握っていた宇垣纏の性格かも知れませんが、後の戦艦大和の沖縄突入戦でも、宇垣は約束の直援機の機数を減らしていることは大東亜戦争終末期の航空機運用の注目ポイントだと考えています。

結果、野中一家はアメリカ艦隊のはるか手前で全滅してしまいます。
画像は米軍機のガンカメラが捕らえた野中機の撃墜の様子です。

米軍機のガンカメラが捕らえた神雷部隊の一式陸攻撃墜

米軍機のガンカメラが捕らえた野中少佐の一式陸攻撃墜

 

*上の画像は動画からのカットです。元の動画はユーチューブにUPされていました。涙が止まらなくなっても良い方はどうぞ。

野中少佐の腕前なら、追い詰められたときに「桜花」を切り離せば逃げ切ることは可能だったでしょう。

しかし、野中少佐はそれをしませんでした。

切り離しは、「桜花」搭乗員の「無駄死」を意味しています。
野中少佐の指揮官としてのプライドが許さなかったのでしょうか?
部下に戦果を上げさせるのは、指揮官としての最低限の義務なのですから。

「野中一家」の全滅を受け、721空では「桜花」をバラバラに出撃させる運用に改め、ようやく突入に成功する「桜花」が出るようになりました。

野中少佐はなぜ出撃したのか

推進派の岡村司令でさえ(一回だけですが)反対した「桜花」の出撃に、野中少佐が素直に従い、多くの部下を道連れにしてしまったのは何故でしょうか?

確かに、正式な命令ですからコレを正面から拒否することは出来ません。
しかし、実際には桜花をぶら下げて出撃し、天候不良やエンジン不調を理由に帰還したケースは幾らもあるのです(なんと5回も「切り離さずに」帰還したパイロットもおり、「そんな事は出来んよ」と言う証言も残っています)。

野中五郎にその程度の知恵が廻らなかった、とは思えません。

実は野中少佐にはそんな振る舞いが出来なかった理由がありました。
それは実兄の野中四郎の存在です。

野中四郎2.26の中心人物

野中四郎

そう、2.26事件の首謀者の一人の野中四郎陸軍大尉は野中少佐の一つ上の兄でした。
野中四郎陸軍大尉は、裁判を待たず自決してしまったのですが、「逆賊」として葬儀や法事は禁止され(法的にどのような処分だったかわかりません)廻りから白い眼で見られることも多かったと思われます。
自身でも「俺は出世しねえんだ」と語っているように、海軍部内でも「差別」があったのかも知れません。

野中五郎少佐は「差別」と戦うために自分の技量を磨き、部下を大切にし、危険な戦場に躍動していたのかも知れません。

それでも野中五郎には「卑怯な振る舞い」と取られる恐れのある行動を取ることは出来なかったのです。

大東亜戦争では多くの特攻隊員が英霊となられましたが、海軍での特攻死の最高位は戦死後の特進前だと関征男などの「大尉」であるとされています(このこと自体が特攻の理不尽を物語っています。源田「大佐」行ってくださいね)。

野中五郎少佐は「桜花」特攻に殉じましたが、「特攻」の仲間には入れて貰えないようです。

カーチス・ルメイ

カーチス・ルメイ

電脳大本営はココにも海軍の「悪意」を感じてしまいます。

ともあれ源田実は大東亜戦争を無事に生き延び、戦後は航空自衛隊の育成に関わって第3代航空幕僚長、国会議員にもなります。

その地位を利用して、かつて歯が立たなかったライバルのカーチス・ルメイに、わが国の勲章をくれてやることに奔走いたしました。

ルメイ叙勲の新聞記事

ルメイ叙勲の新聞記事

最後に、フランスの文人政治家のアンドレ・マルローが遺した「至言」を特攻に出て下さった英霊に報告させていただきたいと思います。

『日本は大東亜戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。それは、世界のどんな国も真似のできない特別特攻隊である。
ス夕-リン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特別特攻隊員たちはファナチックだったろうか。

断じて違う。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。

戦後にフランスの大臣としてはじめて日本を訪れたとき、私はそのことをとくに陛下に申し上げておいた。
フランスはデカルトを生んだ合理主義の国である。フランス人のなかには、特別特攻隊の出撃機数と戦果を比較して、こんなにすくない撃沈数なのになぜ若いいのちをと、疑問を抱く者もいる。
そういう人たちに、私はいつもいってやる。
《母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見すごせるものだろうか?》
と。私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、 いさぎよく敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである』

特攻は企画し、推進し、命令した者と、実際に飛びたって下さった英霊を峻別して語られるべきだと、私は考えます。

特攻を企画した卑怯者1」「特攻を企画した卑怯者3

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特攻を企画した卑怯者2~桜花を創った真犯人~” に対して2件のコメントがあります。

  1. 参謀上等兵 より:

    桜花でも回天でも「特攻作戦」はすべてが外道だ。
    「絶対に負けられない」などと粘って、採用を検討する時点で戦闘も負け、戦争も敗北なのだ。大本営指導部は空襲による非戦闘員の大量殺戮が凶行される前に、停戦工作に全力を傾注し、責任を果たすべきだったのだ。
    このサイト、素晴らしい内容ですね。

  2. 離人彷辺 より:

    神雷部隊司令、岡村基春大佐は、終戦後、船をチャーターして部下隊員たちの突入海面まで出て、洋上慰霊祭を挙行したあと、旧海軍茂原基地付近の鉄道に飛び込んで、自決されております。その翌日、実妹の江草聖子氏(真珠湾第二次攻撃隊 空中指揮官江草中佐の妻、戦後高知大学英米文学教授)は、兄と思われるものが、口ぐちに「空の勇士、空の勇士」と讃える多くの小さなものにとりかこまれて帰ってくる夢を見たとのこと(聖子氏の著書「夫は艦爆の神様と呼ばれて」より引用)岡村大佐は戦後を生き延びたりしてはおりません。長編「徳川家康」を書いた、作家 山岡荘八氏は、当時報道班員として鹿屋にあり、のちに、岡村司令は、隊員たちとの約束を守って自決した、微塵の嘘もなかった、と回想記に記しています。

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