真の太平洋戦争(Guerra del Pacífico)を知ろう(笑)

イキケの海戦

第二次世界大戦の一部であり、太平洋と東南アジアを中心に主に日米の激闘が繰り広げられた、1941年から1945年にかけての戦争を「太平洋戦争」と呼ぶ人と、私は友達になりたくありません。

「アホっ!この記事の題が『太平洋戦争』じゃねえか」とおっしゃる声が聞こえてまいります(笑)が、今週は息抜き編でありますので。

スペイン語ですから

お題をよく見てくださいよ、(Guerra del Pacífico)って書いてますでしょ。スッペイン語ですよスペイン語ぉ。

スペインは内戦の際にドイツに思いっきり助けて貰いながら、大戦中はずっと中立を保ってたはず…いえいえ、もっともっと前のお話なんです。

ペルーイメージ(マチュピチュ)

ペルーのイメージ(マチュピチュ)

Guerra del Pacífico(儂はスペイン語なんぞ知らんけど、Guerraが戦争でPacíficoが太平洋だぞ、たぶん)は1879年に勃発したボリビア共和国+ペルー共和国連合vsチリ共和国の資源地帯を巡る戦争でありまして、1884年まで足かけ6年もの間続いた「大戦争」です。

資源地帯と言っても石油や鉄鉱石などといった、私たちが考える資源とは違い採れるモノは硝石でありまして。
硝石なんぞ肥料作るときに要る程度だろ?と思いがちであります。

ところが、この時代はまだ黒色火薬が幅を利かせておりました。

黒色火薬を作るには硝石が大事な材料となりますので、当時の硝石は戦略物資と言っても良いモノです。

戦略物資を国家同士が奪い合ったのですから、「大戦争」で間違いありませぬ。

しかも戦争を続けたボリビア共和国・ペルー共和国・チリ共和国(面倒なんで、以下は共和国を省きます)三国は地続きなのに、戦争は主に海上で行われました。当然太平洋上ってことであります。

ボリビアイメージ(ウユニ塩湖)

ボリビアのイメージ(ウユニ塩湖)

「太平洋戦争」と呼称するにふさわしい戦争ではありませんか(笑)!

だから、後から起こった「太平洋を巡る戦争」が幾ら大規模で、一方の島帝国の兵隊さんたちが、いずこの国も足元にも及ばぬ英雄的な戦いを遂行して国家を護らんとした、としても「太平洋戦争」とは名乗れないのです。

たとえ強大な戦勝国が敗戦側の意に反して名称を押し付けたとしても、であります。

少なくとも「第二次太平洋戦争」とするとか、ボリビア・ペルー・チリの各国に「太平洋戦争」の名称を譲ってくれ、と相応の謝礼を包んで頼み込むとかしないと、名乗れません。

だって、先に「太平洋戦争」を戦ったのはあの三国であります。

というわけで、「真の太平洋戦争」の様相、ちょっと知りたくありませんか(笑)

南米諸国、独立はしたものの…

南アメリカ諸国、現在のブラジル・アルゼンチン(ラグビー強いぞ)などなどは、大航海時代にスペインやポルトガルに「発見」されて16世紀には植民地になっていました。

南アメリカの歴史をムッチャンコ大雑把に時代区分しますと「先コロンブス時代」「植民地時代」「独立国家時代」になろうかと思います。

思いますってか、我が国ではこの考え方が主流みたいです。現地の人がどう考えているか?儂は知らんwww

チリイメージ(イキケ東方の旧硝石工場)

チリのイメージ(イキケ東方の旧硝石工場)

「先コロンブス時代」は興味惹かれるところですが、詳しいことはそのうち書かせていただく(可能性は低いな)として、1521年にスペインのコンキスタドール(征服者)のコルテス君が「アステカ王国」を滅ぼし、1533年に同じくスペイン王から征服を請け負ったピサロによって「インカ帝国」が滅ぼされて時代が終わります。

この後、主にスペインとポルトガルの植民地支配の時代になるんですが、植民地支配としては「先駆的」ではあっても、まったく「洗練」されたものではありませんでした。

スペインとポルトガル人は、現地の人たちの財宝を奪った後はプランテーションでゆる~く支配する程度。

アフリカ大陸から奴隷として肌の黒い人をいっぱい連れてくるんですが、後の大英帝国などとは違って徹底的な差別はしなかったようで、南米地域の「人種構成」は複雑を極めることになります。

すなわち、本国生まれの白人・新大陸生まれの白人(クリオーリョ)・白人と現地人との混血(メスティーソ)・白人と黒人の混血(ムラート)・自由人の黒人・奴隷の黒人・現地人(インディオ)、などなど。

これが南米の魅力的な文化を形作る元でありますが、各国の歴史に陰も投げ掛けちゃうんであります。

ナポレオン・ボナパルト

いつも起きてるナポレオン・ボナパルト

さてさて、1787年に南米からは遠く離れたヨーロッパ大陸のフランスで起きた「絶対王朝への反乱」は、12年もの歳月をかけて英雄ナポレオン・ボナパルトによるヨーロッパ征服戦争へと発展します。

フランス革命は結局「資本主義の発展」やら「人権の保障(をうたう憲法の成立)」を世界にもたらす偉大な歴史事象となるのであります。
電脳大本営的に言わせていただきますと、フランス革命でもっとも注目すべきは「国民国家」の成立じゃないか?と思うんですね。

国民国家は1848年革命(「諸国民の春」革命とも)で成立…というのがほぼ定説でありますが、私はフランス革命でその端緒が切られていたと思うのです。

なぜかと申しますと、ナポレオンが動員し得たフランスの国民軍の存在です。

ナポレオン戦争は革命の広がりを嫌う周辺諸国からの干渉からの防衛が端緒なんですが、「国民意識」に燃えるフランス国民は大量の兵士動員によく応えてナポレオンを支えました。

旧来の王様がオーナーであった「傭兵」による国軍と比べると、桁違い、それも二桁以上違うほどの兵員数です。

逆に一時的に征服されてしまった国や、ナポレオンにやられっぱなしで危機に追い込まれた国々でも、傭兵から国民軍への転換が進みました。

これが「フランス革命をきっかけに国民国家が成立した」、と電脳大本営が申しあげる理由であります。

この「事件」は南アメリカの植民諸国にも大きな影響を与えました。19世紀は南アメリカの独立の世紀ともなったのであります。

ホセ・デ・サン=マルティンさんにより1818年にはチリが、1822年にはペルーが独立しました。

ホセ・デ・サン=マルティン(アルゼンチン、チリ、ペルーの解放者)

ホセ・デ・サン=マルティン(アルゼンチン、チリ、ペルーの解放者)

注目しておくべきは、アジアやアフリカ諸国の独立とは異なり、独立を志向した人たちが、もともと現地にいた人たちだけじゃなかった、という点でしょう。

クリオーリョやメスティーソやムラーノも頑張ってスペイン・ポルトガルを追い払ったんですね。

その後シモン・ボリバールとアントニオ・ホセ・デ・スクレという軍事指導者によって南アメリカ解放戦争が進展します。

スペイン軍最後の拠点だった「アルト・ペルー」が1825年に解放されて、南アメリカ大陸から植民地が姿を消すことになりました。

この年、アルト・ペルーの指導者たちは、解放者シモン・ボリバール (Simón Bolívar) にちなんで国名をボリビア (Bolivia) と改めるのでありました。

内戦続く

独立した南アメリカ諸国はこのあと、それぞれの国造りに邁進したら良かったのですが…まあ、どこでもそうなんですけど、独立したらしたで、主導権争いが起こるモノでして。

特に南米の場合、旧支配層に近い「白人」の有力者が地方地方で軍事指導者になっていたので(要は軍閥を作ってたんですな、儂の理解では)、なかなか「平和」にはなりませぬ。

平和どころか自分の豪奢な生活だけを目指す「独裁者」も出てきちゃうんです(一般的に言って、ですからね。当ブログは南米の歴史専門サイトではないので)。

南米の地図

南米の地図

中でもペルーとボリビアでは「カウディージョ」と呼ばれる地方の軍事指導者の間で内戦が続きます。
国内だけでやっとけば良いのに、近隣諸国にも手を出すのが人の世の常(笑)ってか、ほぼ同時期に独立を果たした「南米国」の地方政権同士の内戦みたいなモノかもね。

1836年にはボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領がペルーを征服して、ペルー・ボリビア連合が成立したりします。

この連合はチリとアルゼンチンに攻撃されて1839年に崩壊してしまい、ボリビアは無政府状態に陥ります。

ペルーでは1845年にラモン・カスティージャさんがこの混乱を収束、イギリス資本からの借款でグアノ(鳥糞石=肥料の材料です)を開発、そこで得た資金を背景に1868年頃までは経済的にも安定を見ました。
公共事業が大いに進められ、とくに鉄道が各地に建設されていきます。

1860年代に入ると、スペインがペルーの再植民地化を狙って攻めてきます。

第一次大戦後に国際連盟とかがほざいていた
「民族自決」とか「現地の人が自(分で統)治できるようになるまで統治してあげる」
みたいな屁理屈がなくて、力vs力の純粋な支配権争奪だから、判り易くて大変けっこうな「侵略」です(笑)

シモン・ボリバール

シモン・ボリバール

しかし1866年5月2日の「カヤオの戦い」でペルー軍はスペイン侵攻軍を粉砕し、スペインの南アメリカ再植民地化の希望は木っ端微塵となるのでした。

電脳大本営的に言うと、この頃のスペインは大航海時代に人材が出て行って、いわばポンカス(麻雀用語である、差別語ではないぞ)しか残らなかった、その子孫だからな。
植民地支配を脱したばかりの、元気な発展途上国に勝てるワケが無い。

1870年代に入るとペルーの積極的な鉄道建設は莫大な赤字を生んで、対外債務が激増し貧しさ故に内政も混乱するようになります。

ボリビアはマヌエル・イシドロ・ベルスーさんが長く君臨していたんですが、1864年にベルスーさんが暗殺されちゃいます。

暗殺者のくせに大統領になったマリアーノ・メルガレホさんがトンでもないヤツだったようで。

メルガレホさんは奢侈に耽るために紙幣を乱発し、さらにはアタカマの硝石採掘権もチリに売ってしまった(Wikiによってますからね、こんだけ悪口言われると、ホントは違うんじゃね?と思ってしまう私がおります)んであります。

これは確実に悪性のインフレが発生しておりますな。南米とインフレ、現在も付きモノか憑き物か。

「太平洋戦争」開戦当時の国境

「太平洋戦争」開戦当時の国境

それだけではメルガレホさんの贅沢欲は納得しません。インディオの共有地を解体して大土地所有者にカネ取って分配。

「自由貿易」を導入して保護されていた国内の手工業を崩壊させ、この政策に反対したチチカカ湖周辺のインディオを虐殺。

こうした暴政を繰り返したメルガレホさん、ついに1871年に追放されたのですが、独裁者一人を放り出してもボリビアの政治はなかなか安定しませんでした。

ペルーやボリビアと違い、チリは独立後も比較的国内政治が安定していました。ラテンアメリカの中ではパラグアイと並んで群を抜いた安定ぶりだったようです。
これはディエゴ・ポルターレスさんなどの保守派が強力な指導力を発揮したためで、1833年には憲法を制定、国家の安定と強国政策を実現したのです。

この時代の「富国強兵策」でありますんで、南部のパタゴニア先住民(マプーチェ族など)を討伐しておいて、その地域で硝石を始めとする鉱山開発を進めたりします。

やがてアタカマ砂漠で硝石や鉄鉱石の鉱脈が発見されますと、チリ企業(イギリス資本)がボリビア国境地帯まで進出。ボリビア領のアントファガスタ県・ペルー領タラパカ県で採掘権を獲得したのです。

ペルー・ボリビア同盟

鉱山開発で調子の良いチリに対して、メルガレホさんを追放しても財政難の続くボリビア。
ペルーの方もグアノ(鳥糞石)が枯渇した上に価格も暴落。

両国は硝石の採掘で苦境を打開することをめざしました。
しかしながら両国ともに単独では先行するチリを追い越せそうにありません。

1873年、ペルーとボリビアの両国は「硝石地帯防衛のための秘密同盟」を結びます。
対チリを念頭に置いたものであることは間違いありませんし、チリの方もそれは認識していたようです。

1874年にチリの圧力によって、ボリビアがこれ以上チリ&イギリス系の企業に対して輸出税率を上げないことを決めた条約が結ばれたのですが。

チリ企業が(ボリビア国内の鉱山で)採掘権を持ってるって言っても、本国へ硝石を持ち出すのは「輸出」となりますからねぇ。

グラウ提督の旗艦「砲塔艦ワスカル」

ペルーのグラウ提督の旗艦「砲塔艦ワスカル」

4年後の1878年12月、ボリビアのイラリオン・ダサ大統領はチリ系企業に対して輸出税の税率を上げます。
チリはこれを1874年の条約違反として拒否。

これを受けてボリビアは硝石を禁輸とし、チリ企業を接収してしまいます。
年が明けて1879年2月にはチリが反撃。兵力5000人を派遣してアントファガスタ県を占領し、ボリビアの太平洋地域を制圧したのです。
ボリビアのダサ大統領はペルーに援軍を要請したのですが、チリの方が準備万端だったようで、4月5日にはペルー・ボリビア両国間の秘密条約破棄を要求して両国に宣戦布告したのでありました。

開戦

陸上兵力ではボリビア・ペルー同盟側が上でしたが、チリは海外線が長いという特徴から、海軍の整備を進めていました。

経済面での結びつきの強いイギリスの指導で、小さくても屈強な海軍だったのです。

一方同盟側はボリビアが長い内政の混乱と財政逼迫で海軍力はほぼゼロ。ペルー海軍だけでチリと戦うしかありませんでした。

チリ海軍装甲艦「アルミランテ・コクレーン」

チリ海軍装甲艦「アルミランテ・コクレーン」

戦端が開くと同時に、チリは2隻の艦隊をペルー沖へ出動させてタラパカ州のイキケ港を海上封鎖したりします。

5月になるとペルー海軍の殲滅を試みるのですが、ペルー艦隊のミゲル・グラウ提督がなかなかの猛者でありまして。

グラウ提督はチリ艦隊のこの攻撃の時には兵員輸送の護衛に出ていて、戦闘には至らなかったのです。
帰ってきて、敵艦隊の来寇を聞くと、逆にイキケ港の封鎖を破るべく、チリ艦隊に襲い掛かります。

5月21日にはイキケ港口で「イキケの海戦 」が勃発。ペルー海軍の装甲艦「ワスカル」(グラウ提督座乗)が果敢な衝角攻撃を見せて砲艦「エスメラルダ」を撃沈したのですが、ペルー艦隊も主力の1隻が座礁して後に沈没。

チリ海軍「エスメラルダ」イキケ海戦で撃沈される

チリ海軍「エスメラルダ」イキケ海戦で撃沈される

なお、この「エスメラルダ」は後に大日本帝国に買い取られて「和泉」となる防護巡洋艦の先代です。

同数の喪失ですが、劣等戦力側の打撃が大きいのは小学生にも判る帰結であります。

戦術的には「完勝」のグラウ提督、座礁に泣く。

制海権はチリ側の圧倒的有利となり、ペルー海軍はグラウ提督が直接指揮する「ワスカル」が輸送船を襲ったり、港湾施設を奇襲したりするのが精いっぱいとなります。

10月8日にはアントファガスタ沖で「アンガモス海戦」が生起します。
この海戦でグラウ提督はついに戦死。「ワスカル」がチリ艦隊に拿捕され、制海権は完全にチリのものとなってしまいます。

余談ですが、この戦勲艦「ワスカル」はイギリスのフリゲート艦「シャア」から、海戦史上初の魚雷攻撃を受けた軍艦として有名です。魚雷は外れましたけど。

ってなワケで私などは赤い彗星が
「それ見たことか。付け焼刃に何ができるというか。」
ってなことをおっしゃると、故・西城秀樹の名曲が頭の中で鳴り響きます。~ブーメラン、ブーメラン~

シャア・アズナブル

「赤い彗星」シャア・アズナブル

閑話休題。

これで、陸路に頼らずに侵攻軍を送り込むことや、補給を届けることが可能になったチリはペルー・ボリビア同盟を陸上でも徐々に追い込んでいきます。

チリ軍は1880年6月にはペルー領のアリカとタクナを占領、10月にはペルー南部のピスコに上陸作戦を敢行、イカを占領。

領内に優勢な敵を迎えたペルー軍の将兵やインディオは各地で壮絶な抵抗を展開、「玉砕戦闘」も頻発するのですが、敗勢は覆りません。

チリ軍はペルーの首都リマに向けて進撃。1881年1月にはリマ郊外に達します。同月中には25000のチリ軍が市内に入ります。

ペルー政府はアンデス山脈に逃げ込んで「最後の抵抗」を試みますが、チリ軍は強大でした。

ミゲル・デ・イグレシアスさんが新たにペルー大統領に就任し、チリ軍に降伏したのでした。

ボリビアも休戦。ってかケチつきまくり

チリとペルーは1883年10月20日にアンコンで講和条約(アンコン条約)を締結。
翌1884年の4月4日には抵抗を続けていたボリビアもチリとの休戦を決意。バルパライソで休戦条約(バルパライソ条約)が締結されました(正式な講和は1904年)。

両講和条約(片一方は休戦条約ですが)によって、チリはペルーからタラパカ県を、ボリビアからはアントファガスタ県などの海岸沿いの領土を割譲させました。
さらにペルー領からタクナ県とアリカ県を獲得(タクナは1929年に返還されています)。

チリ艦隊の砲撃で損傷する「ワスカル」

チリ艦隊の砲撃で損傷する「ワスカル」

こうして戦争の果実として「鉱物資源」を獲得したチリは経済成長することが出来ました。ちょっとやそっとの成長ではありません。

「南米の大国」とされていたブラジル(このころは「帝国」)やアルゼンチンと並んで「ABC大国」と言われるようになったのです。

ペルーはこの後チリと国交を回復し、国境を越える鉄道も建設。両国を通過する高速道路(パンアメリカン・ハイウェイの一部)も走っています。

一方ボリビアは、と申しますと。

いまだにチリとは国交のない状態が続いているそうで、この戦争で太平洋に接する国土を失って内陸国になったために、唯一といってよい輸出用資源の天然ガスも、アルゼンチン領内にパイプラインを引いて、大西洋を越えて運んでいるそうです。

ボリビアの縮小

ボリビアの縮小

さらにボリビアちゃんったら、海に相当な執着心を持ってるようで。
現在でも内陸国のくせに、ちゃんと海軍を持っているんです。チチカカ湖やアマゾン川に展開してるんで、実質「水軍」ですけどね(笑)

ボリビアはこの後も近隣諸国と戦争を繰り返し、どんどん領土を蚕食されていきます。今でも領土の大きさだけなら我が国の三倍もあるのに、戦争は下手だったんですね。

真の太平洋戦争でも「戦争は勝たなきゃね」「勝てる戦争だけ、やろうぜ」っていう電脳大本営流「平和の主張」に沿った結論が導き出せるのでありました(笑)
もう、大東亜戦争を間違っても「太平洋戦争」などと言わんようにね、パヨクの皆さん。

来週からは、おふざけなしでちゃんとやります!などと嘘ついて、今週はお終いであります。

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