マジマジ戦争と日本の植民地?支配

松島幸太郎

高校で世界史を学ぶと、チョロっと出てくるかも知れない?『マジマジ反乱』に思わず笑っちゃった方もおられるかも知れませんね。

私はヨーロッパ帝国主義が勝手に「反乱」と言っている、あれはタンザニア地域に元から住んでた人たちの「防衛戦争」だと思ってますから「マジマジ戦争」と呼びます。

植民地支配とは

第一次大戦で東アフリカ植民地に派遣されたドイツ帝国の小型巡洋艦「ケーニヒスブルク」のお話をいたしました。

そのドイツ領東アフリカは当時「最も統治の行き届いた植民地」とされていて、第一次大戦でのドイツ領東アフリカは地元民の支持を得て抵抗を続けることが出来ました。でも、初めからそうだったわけではありません。

ドイツ軽巡ケーニヒスブルク(初代)

ドイツ軽巡ケーニヒスブルク(初代)

ヨーロッパの列強は1880年代からアフリカ大陸を分割し、それぞれ統治するようになりました。
エチオピアとリベリアを除き、広大なアフリカ大陸が英仏独伊、スペイン、ポルトガル、ベルギーの7カ国の領土になってしまったのです。

広いアフリカですから、それぞれの植民地で収穫できる産物には差があります。
でも、それを支える生産体制はほぼ一様であり、その生産体制を維持する支配の形はどの国でも同じようなものでした。

宗主国のやることは強制労働と弾圧で、現地の人たちがなすのは抵抗だったのです。
問題のドイツ領東アフリカでも何度か反乱?が起きています。1891年から3年もの間抵抗を続けた『ムクワワ』の反乱が有名です。

ムクワワは「ヘヘ族の酋長」とされていますが、実質的には「へへ国の王様」だったと考えます。
ムクワワは周囲12キロの城壁を築いた要塞を落とされると、ゲリラ戦に移行、ついに攻囲されると拳銃で頭を撃ち抜いて自決。

反乱は終結したのですが、その頭蓋骨はドイツ本国に持ち去られ、後々まで国際的な問題となっていきますが、それはここでは扱いません。

プランテーションで搾取

1898年から、ドイツは東アフリカ植民地で人頭税を取り始めます。

そして総督に就任してきたグスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェンが南部で綿花栽培が金になりそうだ、と考えました。
最初は「ドイツ植民会社」という民間会社による統治だったのですが、ムクワワの反乱などに対応するためにドイツ政府が乗り出していたのです。

植民地政府は、アラブ人の郡長(アキダ)などを通じて綿花の栽培を奨励しました。
綿花栽培は、郡長の家周辺にある畑への強制労働が多く、日数も増えて、手当ても支払われないなどで住民の不満は強まっていきました。

呪術師キンジキテレ登場

ドイツ領東アフリカ(タンザニア)の首都、ダルエスサラームの近郊、ルフィジ川(小型巡洋艦「ケーニヒスブルク」が隠れた川)沿いにある、マトゥンビ族のンガランベ村。

その日も女たちが集まって不満をぶつけ合っていました。
「腹が減った」「食べ物を造る男たちは赤土(ドイツ人やアラブ人の蔑称)に使われて」「綿花畑に駆り出されて帰って来ない」

傍らの粗末な家からはなにやら祈祷のような声が聞こえてきます。
その家から呪術師キンジキテレが出て来ると、太鼓を激しく叩き地面を這って川に入り沈んで出てこなくなりました。

家族や村人はキンジキテレは死んだと諦めた(厄介払いできたと喜んだかも)のですが、翌日には生きたまま、それも濡れずに川の中から還ってきました。
取り憑かれた表情でお告げを口走ります。

『私は「命の水」(これをMaji=マジといいます)を与えられたのだ。「マジ」を飲めば「赤土」の弾丸は水に変わる。「赤土」を追い出すのだ、マコンデ族・ザラモ族・ルフィジ族・ポゴロ族・ンゴニ族にも伝えるのだ…』

1905年7月、ンガランベ村の近くのナンデテ村のプランテーションで綿花の木が3本、引っこ抜かれました。
これをきっかけに「マジマジ戦争」が始まったのです。

戦争始まる

ドイツによるタンガニーカ(現在のタンザニア本土)の植民地支配(ドイツ領東アフリカ)が始まって20年経過していました。

呪術師キンジキテレが始めた「マジ信仰」は、多くの呪術師たちによって近隣の部族(キチ、ンギンドなど)に伝えられ、マトゥンビ族を超えて広がっていました。

マジマジ戦争100年記念式典

マジマジ戦争100年記念式典

戦争勃発後、キンジキテレはドイツ植民地当局に捕まって絞首刑にされますが、反ドイツ側に付く部族はどんどん増え続けます。

ドイツ領東アフリカの南部地域には、『マジ』を携えた呪術師が使者として行きかっていました。
「弾丸が水になれば、赤土どもなど恐れることはない。」

「赤土(ドイツ人・アラブ人)」の横暴に対する怒りは周辺部族に蔓延しており、ムウェラ・マクア・マコンデ・ポゴロ・ムブンガ・ベナ・サガラ・ヴィドゥンダ・ルグル・パングワ・ンゴニ・マテンゴ・ニアサなどの部族(日本の「藩」だと思ったら良いのかも)が反独戦線に加わります。

一口に部族といっても、その統治のやり方はいろいろありました。
首長国と言ってよい部族もあれば、首長さえはっきり決まっていない部族もあったのです。
首長国があった部族では、首長一族の内紛などで敵味方に分裂したところもあり、首長が決まってないような部族は大半が反独戦線に参加したようです。

ただ、隣接する部族との対立関係でドイツ側についたヤオ、サンガや、ムクワワの反乱の傷が癒えず、民族の統一が取れていなかったヘヘ族など、原住民が連帯してドイツと戦ったのとは少し違っています。

タンザニアの地図

タンザニアの地図

南部は占領された

8月13日にはリンディ州の県庁が陥落。
16日にモロゴロ州のイファカラが占領され、同州マヘンゲの県庁が包囲されて、植民地政府には緊張感が高まります。
首都ダルエスサラームでもアフリカ人の「反乱」を恐れ、ドイツ人による自警団が組織されました。

ダルエスサラームから南には、兵隊588人と警官458人が居るだけで、総督グスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェンはあわてて兵隊を増派しました。

『マジマジ軍」側には、ンゴニ族の首長チャムブラマが参戦。
ンゴニ族は強力な軍隊をもっていて、反ドイツ勢力はさらに強くなりました。

この時期、一人の首長が雄たけびを上げたそうです。
「これは戦争ではない。何故なら、私たちが一方的に赤土を殺すだけだから。」

しかし軍事行動が統一されていたわけではありませんでした。

時間とともにドイツ植民地政府が海外からの増派を受け、近代兵器の数が揃って来ると、各地で私たちの想像する通りの結果が出て来ます。

弾丸は弾丸、水にはならなかった

「マジ」は全く効果がなかったのです。弾丸は弾丸のまま、アフリカ人たちの体を貫きました。

殆どの「反乱」部族は各個撃破され、リーダーは戦闘中に射殺されたり、捕らえられて処刑されたり、お隣のモザンビークに逃げ込んだり。
組織的といえそうな抵抗は1906年には終わりを告げます。
最後まで逃げていた、ベナの首長ムカンギレが1908年7月に殺され、「マジマジ戦争」は終わりました。

この戦争での犠牲者は25万人とも30万人とも言われます。

このうち、ヨーロッパ人は15人。
植民地当局側についたアフリカ人兵士が73人(他にドイツ側のアラブ人若干名)。
終わって見れば反乱側が一方的に殺されてしまったのでした。

ゲツェン総督

ゲツェン総督

ゲッツェン総督の取った戦術は「焦土作戦」でした。
反乱地域の村を焼き払い、食料を徴発し、非戦闘員は集団キャンプに閉じ込め、耕作を禁じたのです。

ゲリラ戦術を恐れての対策であることは明らかでした。

ただ、ゲッツェンはやり過ぎました。
反乱の中心だったンゴニ人地域で、食料が入手できるようになったのは1908年4月からで、ンゴニ人住民の数は3分の2に減ったと言われています。

集団キャンプから元の村に帰っても、家は焼き払われ、畑は森林と化し、ゾウや野生動物が闊歩していました。

第一次大戦後、この地はイギリスの植民地となりますが、その時期にアフリカ最大のゾウの保護区「セルー」が設定されました。

セルーはこの反乱を始めたマトゥンビ人やンギンド人たちの故地だったのです。

物理的な力がなければ、国民は守れない

マジマジ戦争は、タンザニアの歴史の中(私はタンザニアの歴史は他に知りませんけど)で最大の反植民地闘争とされ、部族を超えた連帯という輝かしい価値を持っているそうです。

でも、これがなかったら、南部タンザニアは今、もっと豊かだったかも知れませんね。

「反乱軍」がマジではなく、銃と銃弾を手に入れていたら、結果は違っていたかも知れません。

ドイツ帝国は統治方法を反省し、善政を敷いて第一次大戦に至ります。

善政といっても植民地に変わりはありません。他の列強より少しマシだったに過ぎません。

けっきょく

植民地経営とは、かくも過酷なものであります。

地下鉄を作ってやったり、大学を建ててやったり、初等教育を充実したり、人間かどうかわからぬ土着生物を精強無比の軍隊に採用してやったりするのは、とても「植民地支配」とは呼べるモノではありません。

糞半島を統治するなら、徹底的に「植民地経営」を行うべきだったのです。
優しい日本人には出来そうもありませんけどね。

さらに、タンザニアに元から暮らしていた人たちには失礼な事を申し上げますが、何かきっかけがあれば叛乱を起こすのが被支配者なのです。
昭和20年の在朝鮮陸軍にはそのことが微塵も判っていませんでした。

ヒントはあった筈です。このマジマジ戦争も然り、国内には関東大震災のときの朝鮮人の暴動もあったのです。

8月15日、先帝陛下の玉音放送の後。

帝国の一部として、「内地」と同様に発展させてもらっていた「半島」の住民は、半島居住の日本人や大陸から半島を通って引き上げる人々を襲うようになります。

ところが、半島に派遣されていた帝国陸軍幹部や半島総督府のエライ人達は、敗戦後の治安を心配をする前に、のんきに「準皇族」とは言え、朝鮮人の葬式に出てたのです。

治安の維持は降伏した日本軍でも禁止されていません。

半島人のやり口をちゃんと理解し、最低限の警備兵を配置して内地への引き揚げ者を保護していたら、防げた悲劇は多かったと思われます。

かえすがえすも残念でなりません。

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マジマジ戦争と日本の植民地?支配” に対して1件のコメントがあります。

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