帝国海軍の自動操縦研究
大日本帝国海軍が隠れた名機を遠隔操縦して運用しようとしていた、と言うお話であります。
『水上機の川西』の原点
『水上機の川西』の原点はこの飛行機にあり、と言われる(私以外の人が言ってるのは聞いた事がありませんが)名機、九四式水上偵察機を御存じでしょうか。
昭和7年、大日本帝國海軍は、七試水上偵察機の開発を川西航空機と愛知航空機に競争試作させることにしました。それまでの水上偵察機があまりパッとしなかったからです。
海軍の要求は
1、カタパルト射出が可能なこと。
2、航続距離が長いこと。
3、安定性が良好なこと。
4、最高速度は241km/h以上。
川西航空機はそれまで中島飛行機に劣らぬ歴史を刻んでいましたが、空技廠などが設計した飛行機を作るのがメインで、業績面では中島に大差をつけられていました。
そのため、この競争試作こそ挽回のチャンスと力が入っていたのでした。
堅実さの中に新工夫
川西航空機は奇をてらうことは避け、その代わりに各部門で細かいけれども新しい工夫を加えて性能を確保する事にしました。
胴体、翼ともに手なれた金属の骨組みに羽布張り。ただし、布を張る時には細心の注意と技術に塗装方法も工夫して金属表皮よりもツルツルに仕上げます。
主翼は複葉ですが、上下翼を前後にずらし(上が前)て偵察員の視角を確保。
フロートはジュラルミン製で、それまでと比べて空気抵抗が少なく耐波性の良好な物を考案。冷却器(当初のエンジンは液冷)や銃座を引き込み式にして空気抵抗の軽減を図りました。
こうした工夫を重ねて、川西の試作1号機は昭和8年2月6日にテストを受けました。
今までの水上機をはるかに凌ぐ
最高速度だけは海軍の要求値を満たせませんでしたが、今までの水上偵察機よりはるかに速く、抜群の安定性と航続力を持っていると認定されました。
昭和9年5月には九四式水上偵察機として制式採用が決まり、量産が開始されたのです。
これをきっかけに川西は2大メーカー(三菱・中島)に次ぐ飛行機メーカーとしての階段を上り始めるのです。
94式水偵の成功がなければ、97式大艇も2式大艇も強風も、産まれなかったのではないでしょうか?もちろん紫電改も・・・
初期の機体は広廠九一式水冷エンジンを載せていましたが、性能向上のために三菱瑞星空冷エンジンに換装しました。
この改造で実用性はさらに向上したので、昭和13年に九四式2号水上偵察機として制式採用され、それまでに生産された型は九四式1号水上偵察機と改称されました。
九四式水上偵察機は昭和10年頃から巡洋艦や水上機母艦に主力偵察機として搭載されたほか、各地の基地にも配備されました。
大東亜戦争開戦時にはすでに旧式化していましたが、哨戒や船団護衛、連絡等で終戦まで運用されました。
全長: 14.41 m、全幅: 14.00 m、全備重量: 3,000 kg、最高速度: 239 km/h
乗員: 3 名、航続距離: 2,200 km・航続時間: 12 h、武装:7.7 mm機銃 × 1(前方固定) ・7.7mm機銃 × 2(後方上面、下面旋回)
自動操縦装置の開発へ
さて、この94式水偵の航続距離の長さ、飛行の安定性や3座から来る機内容積の充分な事を利用して無人飛行を実験するプロジェクトが行われました。昭和12年の秋の事でありました。
海軍航空技術廠の富沢技術少佐を中心に行われた研究です。
危険な攻撃や偵察などを行わせることが主目的で、長時間の滞空偵察なども視野に入れていたようです。
ドイツ・ジーメンス社製の「電気式自動操縦装置」を輸入して、独自に改良を加えて使用しました。
油圧によって三舵(エルロン・ラダ―・エレベータ)やエンジンを無線操縦するものだったようです。実験をしてみると、空中での操作はおおむね良好で実用に足る物でした。しかし、オリジナルのままでは離着水時の操縦が困難であるのも露見したのです。
それを補うために、富沢技術少佐は「自動発進装置」と「自動着水装置」の二つを開発します。「自動」とは言っても、昨今のクルマの自動運転とは全く違います。
そもそもが「電気式自動操縦装置」だって自動ではなくて「遠隔」操縦装置なんですから、当たり前でありますが。
「自動発進装置」はカタパルトによる射出が前提でありまして。
あらかじめエルロン・ラダ―・エレベータを風向き・風の強さなどを勘案してスムーズに発進・上昇するようにセットしておきます。
もちろん、コンピューターなどはありませんから、調整はベテランパイロットが行ったのでしょう。三舵それぞれをクランプで固定してしまうのですから、射出された瞬間に機の微妙な動きを察知して微妙な修正…ってワケには行きません。
で、射出された際に受ける大きな衝撃によって時限装置が働き始めるようになっています。時限装置はエルロン→ラダ―→エレベータの順に舵を固定したクランプを解除していきます。
こうして一定高度までは事前にセットされた舵通りに「自動上昇」、射出の衝撃後一定時間の経過後に無線操縦に切り替わるというものです。
「自動着水装置」の方はコントローラーからの信号を受信すると、着水高度を検知するアンテナが機体下部に自動的に展開され、それと同時にエンジン出力が絞られるモノであります。
徐々に速度が落ちまして高度も低下、やがてアンテナが水面に接触いたします。と、スイッチが作動して自動的に機首上げの「着水態勢」がとられ、スイッチの作動後40秒でエンジンが自動的に停止する、と言うものでした。
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こうして実用化にメドが付きますと、地上での基礎実験が行われて成功。続いて昭和15(1940)年9月末には敷設艦「沖島」から第一回の発艦テストが行われて大成功。ところが、肝心の弾着観測のために戦艦「山城」から射出される二回目のテストで失敗してしまいました。
幸いにも失敗の原因は艦長の飛行機に対する無関心にあり、射出に際して艦を風に立てず、充分な合成風力が得られなかった為と解析されました。
高くつくから、や~めた
無線操縦水上機の実験は続けられました。
やがて自動操縦装置は「ほぼ完ぺきな完成度」に達した、と認定されて6機の94式水偵が無線操縦機に改造されました。
しかしながら、コストの問題からそれ以上の実用化は見送られてしまいました。
仮に大量の「94式水偵・自動操縦タイプ」を作っても、用途は主力艦の砲戦時の「弾着観測」しかなさそうです。
そう、この自動操縦は(すでに書きましたが)スタンドアローンからは程遠い「遠隔操縦」に過ぎませんでした。母艦内(上甲板か司令塔かも知れませんけど)に居る操縦者から目視できる範囲内でしかコントロールできないのです。
もちろん30キロ内外の砲戦であれば、敵艦上空に(パイロットの安全を考慮せずに)観測機を飛ばしておくことは非常に有効です(ただし、リアルタイムで映像を伝送できたか?には疑問があります)。
ただ、海軍がこれ以上の「自動操縦装置」の研究を止めてしまった原因はあくまでも「コスト」の問題であります。
この無線操縦装置一式を製作するのに当時で5万円以上かかったそうです。
量産すれば半額程度になるだろう、との試算もあったのですが、パイロットの養成の方は1万円くらいで出来たそうで、海軍首脳は安い方を選択してしまったのです。
ちなみに、開戦当時の海軍の教育課程は、正規将校と正規予備将校の初等訓練が6ヶ月間、練習機で60時間の飛行。さらに4~6ヶ月の実技訓練では実用機で100時間、その後3ヶ月以上の戦術訓練で150時間以上となっています。
少なくても1年半の養成期間と300時間以上の飛行時間をつかって「ヒヨッコ」を育てていたんですね。
士官ではなくて兵隊さんの方を見ても、飛行予科練(下士官飛行整備員も)なら初等が練習機で44時間。実技訓練が60時間で戦術訓練が150時間以上となっています。コチラも250時間の飛行時間を確保しているのです。期間は士官の場合と同じですね。これに飛行前の座学教育期間がありました。
費用の1万円はコチラが該当したと思われます。
時は流れます。「自動操縦装置」の開発放棄から僅か数年。たった数年でありますから、開発研究を続けていても、スタンドアローンで内地の基地から離陸して敵艦に突入するような装置の開発はムリだったと思われます。
ただ帝国海軍は昭和19年のはじめから「自動追尾噴進弾」の開発を開始しています(これも艦政本部内の造船部門である第四部が主導したために砲・火薬担当の第一部が非協力だったり、と戦訓を汲むべき事案ですが)。
このロケット弾は「奮龍」と名付けられてB29の撃墜を目指して実験が続けられたのですが、本土防空に間にあうことはありませんでした。
一方で陸軍の方もこの時期、「エロ爆弾」(実験中に温泉旅館の女風呂に着弾したので)などと揶揄されながら、誘導弾開発を進めています。
ラジコン水偵を研究してづけていたら、データが共有できたでしょうに。
九四式水上偵察機、沖縄へ
劣勢が隠せなくなった帝国海軍はありったけの飛行機を特攻に使うようになります。とっくに時代遅れとなっていた「九四式水上偵察機」も例外ではありませんでした。
パイロットを養成する時間も、そのための石油も機材も不足していましたので、戦技や長距離飛行の訓練などできるワケもありません。
超旧式となった九四式水上偵察機に搭乗して沖縄防衛のために飛びたつのは(ベテランも混じっていましたが)、やっと飛びたてる程度の訓練を受けただけの若者たちでありました。
それでも、国と愛する人を守るべく「神風特別攻撃隊『琴平水心隊』や『魁隊』」と名乗った純真な若者たち。彼らは臆することも躊躇うことも無く時代遅れの九四式水上偵察機を操り、救国と回天の志を胸に時速250キロにも満たない速度で沖縄へと向かったのでした。
たとえトンでも無く高価であっても、兵器の能力向上のための研究費をケチってはなりません。
英霊に心からの感謝を捧げます。
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