超音速機、英国面に堕ちる(笑)
大英帝国は無敵艦隊「アルマダ」を撃破して以来、長きに渡って世界に覇を唱えていた軍事大国です。産業革命を先導したお国柄だけに、進取の気性と堅実なる精神が程よくまじりあって、数え切れぬほどの珍笑兵器を産み出しています。
世界初の「壁」越え
お笑い兵器の数々なら、私たちの隣国(半島)も負けてはいません。って言うか質量ともに大英帝国を圧倒していると思います。
ただKoreaのお笑い兵器には、なんて言いますかエスプリが効いてないんですね。ただ単純に「ダメじゃん」なんです。時おり、敵ながら哀れになるほどひどいのもあります。
それに比べますと、大英帝国は(大外れもありますが)豊かな精神性と科学力と合理性に裏打ちされた「お笑い兵器」なんです。だから儂、大好き。
その中でも、大英帝国が完全に「世界帝国」の座から滑り落ちる第二次大戦中から直後の《笑兵器》は、儂の年寄り臭い感性を著しく刺激するんであります。ってなワケで今回は大英帝国が「音の壁」を越え損ねた話です。
人類史上、初めて音の伝播速度より早く「水平飛行」したのは、アメリカのベル社の高速実験機「X-1」です。この時のパイロットがチャック・イェーガー氏、1947年10月14日の事でしたね。
ところが、です。この実験機はロケット機でありまして、「高速を出す」事に特化し過ぎて「自力で飛び立つ」ことが出来ない子だったんです。
10月14日も、母機用に改造を受けたB29の下に吊り下げられて発進しています。
大英帝国は驚くなかれ、そんな「インチキ」に背を向けていました。ちゃんと地上から飛び立って音の壁をぶち破る計画を着々と実行中だったのです。それもアメリカよりちょっと早いくらいのペースで。
この計画を空軍から受注していたのが「マイルズ・エアクラフト」と言うあんまり有名とは言い難い航空機会社でして、まずはこの会社の話から紹介申し上げましょう。これが結構興味深いんですわ。
兄弟で創業、嫁も参加
マイルズ・エアクラフト社は1925年、フレッドとジョージのマイルズ兄弟によって、イングランドのショアハムと言う町で設立されました。
兄ちゃんのフレッドはアマチュア・パイロットで、当時のご多聞に漏れず「独学」で飛行機を設計することも出来たようです。自分で創った会社で、飛行機を製造できるようになるとテスト・パイロットも自分で務めたと言いますから、クルト・タンク技師みたいな人ですかね。
ただ、この人相当な遊び人助兵衛だったような気がします。
会社を設立した後でフレッド・マイルズ氏はマクシーンさんと言う女性に操縦を教えることになります。
このマクシーンさんは、実は超名門の女性なんですね。マクシーンさんの父親はサー・ジョンストン・フォーブス=ロバートソンと言う人。役者さんとして有名だったようですが、「サー」ですよ、「サー」。そんでもって、お母ちゃんも女優のガートルード・エリオットさん。
きれいでお金持ちで、才能も溢れるほどで、恵まれまくった女性を絵に描いたみたいですね。実際に「ブロッサム」と称されるほどの美貌。
でもって、マクシーンさんはマイルズ・エアクラフト社が造った最初の飛行機、複葉の「マートレット」を買ってくれたんです。
そこで、創業者自ら、お客様に操縦法のレクチャーをすることになったワケですな。この時点でフレッド・マイルズが「狙ってた」かどうかは不明です。
この授業には数ヶ月かかったようなんですが、フレッド・マイルズ先生、その数ヶ月の間に生徒に手ェ出しちまったんですね(生徒が先生を誘惑したかも知れません。私は男女の仲には不調法なもんで)。
この時、マクシーンさんは結婚しておられて、それも子爵婦人(貴族のムスメだから、当然か)だったんですけど。で、マクシーンさんはアッサリ子爵さんと離婚してフレッド・マイルズと再婚。フレッドは初婚、結婚時27歳。
こんなある意味「しょうもない」事を書いてますのは、このマクシーン・ブロッサム・マイルズさんが、この後マイルズ・エアクラフト社に入社して設計はするわ、テストパイロットを務めるわの大活躍をなさるからでありまして。
東洋の島帝国の、ありもしない政権の悪口を言うしか能がない不倫国会議員とは違って、この不倫女性は国の役に立ったんでありますね(笑)
艦上戦闘機計画
電脳大本営をお読み頂いている方がたでも、「『マイルズ・エアクラフト』社なんて聞いたことも無え!」って向きは多いだろうと存じます。有名な軍用機は全く作ってませんから。
でも、マイルズ社はそこそこの設計能力とか制作技術は持っておりました。設備も「ちゃんと」してました。単発やら双発の軽飛行機(ツアラー₌旅行機)や軍用だと連絡機や練習機を得意分野にして、割と堅実に業績を稼いでいたようなんです。
このうちの練習機「マスター」なんて当時の主力戦闘機「ハリケーン」に迫る速度と操縦性で大量に造られ(パイロットが大量に必要だったから、って言う方が正解だけど)、派生型で「標的曳航機」まで作られたほど。
フレッドが「もう一歩頑張って、ウチも大企業の仲間入りだ!」って気になるだけの業績を上げてたんですね。で、1941年にフレデリック・マイルズは素晴らしいアイデアを思い付くのでありました…っと。
それは、進行中の対ドイツ戦、祖国が追い込まれつつある第二次世界大戦で、絶対に必要とされるハズでした。フレッドが思い付いたのは航空機を「画期的に小型化出来る」システムだったのです。もちろん、性能を落して、ではありません。
性能を落とさずに、サイズを小さくできる、って事は艦上戦闘機としてピッタリです。形が小さければ、同じ航空母艦に沢山積めます。スペースの限られた空母の格納庫での整備もラクでしょう。
イギリス海軍は護衛空母の足りませんので、船団護衛のため、貨物船(MACシップ)にシーファイアやハリキャット(シーハリケーン)と言う陸上戦闘機改造の艦上戦闘機を1機だけ、無理やり積んでいました。
これも小さくなれば、複数積めるかも知れませんし、そもそもシーファイアやハリキャットはほぼ使い捨て(このMACシップから飛び立つ護衛戦闘機のパイロットの勇敢さ!いささか悔しいけど、我が英霊にも比肩し得るモノです。我に大和魂あれば、彼にはジョンブル魂あり)ですから、小さい=資源を少ししか使わない戦闘機の方が良いに決まっています。
フレッド・マイルズ社長、大いに張り切るわけでありました。
串形翼
フレデリック・マイルズが1941年にひらめいた「理想的な艦上戦闘機」と言いますのは、「串形翼」とか「タンデム翼」と呼ばれる、前後に主翼を設けた形式の機体です。
タンデム翼(串形翼)と言いますのは、複葉機の一種と言うことが出来る機体です。二枚の主翼を上下じゃなくて、前後に配置します。水平尾翼をデッカクしたと言っても良いでしょう、役割はちょっと違いますけど(タンデムの二枚の他に尾翼を付けた機もあったようです)。
前翼と後翼がどちらも揚力を発生させるので、飛行時の安定性が高くなるし、同じ翼面積の単葉機よりも機体をコンパクトにまとめることができるのです。
マイルズ社は設計と試作機の製作が早いのが評判でした。社長の思い付きは即座に形となり、早くも翌42年5月には試作機「M35リベルーラ」がテスト飛行するのであります。「リベルーラ」は、全長6.2メートル、全幅6.1メートル、130馬力の「デハビランド・ジプシー・メジャー」空冷エンジンを機体後部に1基搭載。
なんと、我が「震電」と同じプッシャー式じゃないか、暗黒面英国面のくせに(笑)。
プッシャー式の特徴を生かすために、コックピットは機体の最前部に配置。パイロットの視界が超広いんですよ、この配置は。
肝心の前後の主翼のうち、前翼にはフラップと昇降舵が、後翼にはフラップと補助翼が装備されて、垂直尾翼は後翼の両端に取り付けられていました。
「リベルーラ」のテスト飛行の結果は上々でした。縦方向の制御が難しかったものの、これはタンデム翼機はどれだってそうなるモノで、マイルズは実用化できると判断していました。
さらにエンジン2基を装備したより大型のタンデム翼実験機を作成し、テストを重ねたのです。このチャレンジにはイギリス政府もある程度の興味を示したのですが、アメリカからの援助で護衛空母が陸続と到着してくると、「小さな艦上戦闘機」の必要性が薄れてしまいました。
つまり、わざわざ通常とは変わった形式の「タンデム翼機」を開発する必要性が無くなってしまったのです。これで、マイルズ社の「メジャー昇格」は夢のまま終わりそうでありました。
捨てる神、拾う神
1930年代の終わりごろから、戦闘機が急降下したときに昇降舵が効かなくなるとか、機首の引き起こしが出来ないとか、速度が付き過ぎて空中分解してしまった、とかの事象がいろんな国で散見されるようになります。
こんな事件が出始めた時はサッパリ原因が判りませんでしたが、やがて「尾翼周りの気流が音速に近づいて、衝撃波の中に入った昇降舵が効力を失ってる」と考えられるようになります。
急降下する戦闘機だけじゃなく、世界も安定を失っている時代であります。各国は他国より少しでも優秀な武器を開発しようと躍起になっていました。中でも航空機の開発競争は熾烈で、その速度もドンドン早くなっている時でした。
速度が上がり続けると、機体の一部から局部的に衝撃波が生じて抵抗が急増し、激しい振動を招きます。
音速に近い領域(まだ超えてません)での空気抵抗の急激な増大。これを当時の科学者たちが「音の壁」と呼び始めたのです。
プロペラ機の場合、機体そのものが音速に達するはるか前にプロペラ先端の速力が音速に到達し、効率が大きく低下します。
実際、RAE(ロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント=英国の海空軍機の審査や研究を行う機関。電脳大本営には「王立」なのか「民間」なのかよく判りませんが、ロールスロイス・マーリンエンジンの欠陥を直したりしています)が1943年にスピットファイアを使って急降下実験をしたんですが、そのときはマッハ0.92でプロペラが木端微塵になっています。
プロペラ推進では、音速は超えられない壁のままになりそうでしたが、しか~し!イギリスにはジェット・エンジンがありました。空軍少佐フランク・ホイットルが発明していたのです。
戦争が始まってからではありますが、1941年の5月にはホイットルジェットエンジン付きの「グロスターE28」が初飛行に成功しています。飛虎亜さん、コレ知ってたらさっさとMe262を純粋な戦闘機として大空に放ってたんじゃないかな(笑)
大英帝国は「音速突破」の挑戦権を持っていた、とも言えるワケでして。当然のようにイギリス航空生産省(軍用機開発を統括するお役所)は「超音速研究機」の要求を提示いたします(E24/43)。
その内容は高度3万6000フィート(1万973メートル)で時速1000マイル(1609キロメートル)。望みはデッカくマッハ1.5ですぜ!
繰り返しの確認になりますが、この時点で誰も、どの国も音の壁を越えてません。
そして面白いというか不思議というか、航空生産省はこの超音速研究機仕様を公表しなかったみたいなんですね。マイルズ・エアクラフト社だけを呼びつけ、研究開発担当官がフレッド・マイルズ社長に直接伝達したんです。
しかも計画の存在を社外に漏らすな、って言うご注意付きで。
戦争中でありますから、画期的な超高速機を秘密のベールに包んでおこう、って気持ちは判りますよね。
普通の航空機会社なら、経営面・技術面と責任者って言うかリーダーがいますから、受注の判断だけでも「計画の存在」は多人数で共有されちゃいます。
ところが、マイルズ社だったら社長のフレッド・マイルズが経営をやり、自分で設計図を引いて実験機に乗り、ついでにブロッサムにも乗る、と言う体制でありますから、秘密がバレにくいって事なんでしょうか?
あるいは「M32リベルーラ」艦載戦闘機計画が「空の藻屑」と消えた補償措置のつもりだったんでしょうか?
もっとありそうなのは、他の有力航空機メーカーが戦争に必要な軍用機を作ったり改造したりするのに手一杯だったから、って事だと思います。これはアメリカの超音速機が「ベル社」で造られたのと同じ理由かと(ベルさん、ヘリコプター専門を馬鹿にしてるワケじゃないからな、許せよ)。
どれか一つに絞らなくても、この3つの理由が交じり合って、「マイルズ一社専任」になったんじゃない?ってな理解で宜しいかと存じます。
ただ、ココには一つの大きな落とし穴が開いておりました。実はマイルズ社のヤツ、全金属製の飛行機なんぞ、造った事が無かったのであります((笑)って書かないけど、笑うとこですからね)。
慌てたかどうかは判りませんが、航空生産省はパワージェット社(ホイットルの会社)・国立物理研究所・RAE(ロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント)をマイルズ社に協力するよう手配するんでありました。
こうして体制を構築した1943年10月8日、「超音速機」の計画開始が正式に指示されたのでした。
アメリカよりもはるかに先を
フレッド社長はこのチャレンジに大張り切りだったようで、この指示を貰うと即日愛妻のブロッサムを伴い、技術陣トップの弟ジョージをはじめとする幹部社員を集めて一席ブチました。
新チャレンジの試作機は「M52」と名付けられて開発が始まりました。
先に書きましたように、試作機を作るのが早いのがマイルズの社風。とはいえ、1940年代初めの世界はどこを探しても超音速風洞の設備などありません。もっぱら木と布で飛行機を作っていたマイルズ社の技術者は、空気力学のデータなしで設計を進めたのでした。
この当時、超音速で飛ぶ物体が全く無いワケではありません。銃弾・砲弾はずっと昔から音速を超えて飛んでましたから。マイルズ社の技術陣は砲弾のカタチを参考にM52の設計を進めました。
円筒形の胴体・直線翼の主翼と尾翼・機首は鋭く尖って、コクピットは機首に埋め込み。何だかベル社の超音速機「X-1」にソックリですが、それは逆っていうモノでして、アメリカ合衆国と大英帝国の技術交換によってマイルズのデータがベル社に提供されたと言われています。
技術的な内容は、リヒート(アフターバーナーの英国面的呼び方)によるジェット・エンジンの推力向上・薄翼による超音速域での抗力低減・全可動尾翼(フライングテール)による操縦性能確保・ステンレス機体による空力加熱の対策・ショックコーンの採用などと多岐にわたります。
M52は直線翼だったとは言え、主翼と垂直尾翼の先端はナナメにカットされています。もちろん、機首からの衝撃波を避けるためでしょう。写真や図ではよく判りませんが、当時としては「超薄翼」を採用しています。
薄翼の方が高速飛行に適していることは前々から判っていましたが、実用機ではいろんな事情で限界があります。例えば引き込み脚システムのために「薄翼化」に限界が…みたいなハナシ。
M52は実験機ですから、離着陸時の不安定を承知で超薄翼化を達成しています。翼厚比で言うと、当時の一線級戦闘機の半分の7.5パーセント。
ちなみにX-1だと1号機と2号機が8パーセントなんですけど、3号機は10%に後退してます後退翼じゃないけど。どっちにしても、現代のリンゴの皮がむける程の薄翼じゃあありませんけどね。
これほどの薄翼は、じゃあ低速時の飛行特性がどうなるか?って事も判っていませんでしたので、マイルズ社は「M3Bファルコン」って言う自社の軽飛行機に木で作った同じ形の薄翼を取り付けてテスト飛行したり、熱心に研究しています。
アメリカの「自力で飛び立てない超音速機」と違って、マイルズ社は滑走路から飛び立つことを目指してますから。
この(当時としては)超薄翼を取り付けられた軽飛行機は「ジレット・ファルコン」と呼ばれ、低速でも安定して飛行できることが実証されたのです。
ジレット…今でもあるカミソリ・メーカーやな。儂は貝印派じゃ、安いから。
低速での安定が確認されたと言っても、M52の着陸速度は274キロメートル/時で、同時代では極めて高速。となると、薄翼化のために主翼におさまらなかった主脚の行方が気になります。
はい、ご想像通りに胴体の下に配置されておりまして。という事は降着時の主車輪のトレッドは胴体の幅分しかないって事であります。これは不安定でありますね。儂ならこれで降りるのは御免蒙りたいところです。
1945年の初頭にはM52の基本設計は完了していたようです。春が本格化するころにはさしもの大戦争も終わり、夏には最後まで抵抗していた東洋の島帝国も降参。
その間、マイルズ社はM52の細部設計に全力を挙げ、ついに1946年が明けるころ、いよいよ実機の製作段階に入るところまで来ていたのです。
この年の夏には初飛行が予定され、制作される予定の3機分の材料も手当され、エンジンをより強力なロールスロイス「エイヴォン」ターボジェットエンジンに換装する計画も進んでいました。
大英帝国のR4
テストパイロットもマイルズ社の飛行試験主任のK・F・ウォーラーさんが名乗りを上げ、念のために液体ロケットエンジンを搭載する「改良型」の計画までたてられ、マイルズM52が「世界初の音の壁突破」の栄冠を勝ち取るのは時間の問題だと思われたのでした。
ところがマイルズの思いとは全く別のところで、暗雲がビッグベンの方から広がっておりました。ビッグベンってウェストミンスター宮殿(以前は寺院)、つまり大英帝国議会が議事堂にしてる建物の一部ね(笑)。
イギリスの政界と申しますのは、ナチスドイツとの激戦の間は挙国一致内閣を作って安定していたのです。が、ドイツが降伏すると、途端に労働党が連携を解消すると言い出しやがったのです。
1945年7月(まだ東洋では戦いが続いとるのに)には総選挙があり、チャーチルの保守党が惨敗。労働党のアトリー政権が成立したのです。
イギリスの労働党は我が国の「何とかミンス」などと言う政党よりだいぶんマシなんですが、それでもパヨはパヨであります。
R4みたいなアポーンな女性政治家がいたかどうかは定かではありませんが、政権は「二番じゃ駄目なんですか?」と言い出したみたいで、供給省の予算は大幅削減、あおりでM52計画もすべて中止となってしまったのです。
技術交換によって「ライバル」のアメリカはベル社に渡ったM52の技術やアイディアは、1947年の10月14日に水平飛行で音速突破!って言う花を咲かせますが、「本家」のマイルズ社は、と言いますと。
開発中止が決定した後、M52を1/3にスケール・ダウンした、しかもロケット動力にした無人の無線操縦実験機で試験飛行を敢行。ついにマッハ1.5を記録したのですが、その機を回収することはできず、開発もそれまでになってしまいました。
ついでにマイルズエアクラフト社も資金難に陥り、1947年に破産。翌年にF・G・マイルズ・リミテッドが設立されて航空機生産を続けたのですが、それも1961年まで。
お笑い兵器を書き始めたのに、なんだか悲しい事になってしまったぞ。
こんな事をやってるから、大英帝国は凋落して行ったんですよ。労働党政権のせいで。
我が国も民主パヨチン政党にやられるところだった。