海軍とボイラ
明治の建軍以来、フネを動かさなければお話にならない海軍は、その性格から日本の動力開発を担ってきました。
初めての国産動力
ペリー艦隊が「蒸気船」であったように、蒸気は帝國海軍の終焉まで長く軍艦の動力であり続けました(蒸気力を推進力に変換する方法はレシプロからタービンへと変わりましたけど)。
蒸気を造るためには、お湯を沸かしてやれば良いのですが。
ヤカンで沸かした程度では、思うように巨大な軍艦を動かすことは出来ません。
そこに登場いたしますのが「ボイラー」で、帝国海軍では『罐(かま)』と呼びました。
しばらくの間は欧米の、特に英国技術の輸入と模倣に終始していた帝國海軍だったのですが、ようやく明治29年に至って国産の動力源(罐)を手にいれます。
通算16年もの間、英国への留学を繰り返した海軍技術将校の宮原二郎が、その経験と研鑽によって「宮原式水管汽罐」を発明したのです。汽罐とはもちろんボイラーのこと。
宮原成叔の長男として生まれ、幕臣宮原木石の養子となる。静岡学問所を経て、1872年、海軍兵学寮予科に入学。その後、イギリスに留学し、グリニッチ海軍大学校3年課程で学んだ。1883年3月、中機関士任官。主船局機関課、イギリス駐在、艦政局機関課長、兼東京帝国大学工科大学教授、横須賀鎮守府造船科計画科長、造船造兵監督官(イギリス出張)などを歴任し、1896年4月、造船大監に進級。
海軍省軍務局造船課課僚などを経て、1900年5月、機関総監に進級。艦政本部第4部長を勤め、1906年11月、海軍機関中将となり、1909年8月、予備役に編入された。のち、貴族院議員となる。1899年3月、工学博士号を取得。1907年9月、男爵の爵位を授爵し華族となる。
この罐(かま)は、当時の世界の標準価格の半分位と安価で、しかもメンテナンスが簡単、耐久性も高く、加えて燃費が良く、小型でしかも高馬力と言う、後年の日本製の車を思わせる画期的な発明でありました。
海軍は1902年に防護巡洋艦「橋立」に「宮原ボイラー」を採用すると、それ以降はこれをさらに改良・進化させた「艦本式ボイラー」を採用し続けました。
この宮原ボイラーで高速化した(だけじゃないですけど)大日本帝國海軍の艦艇は、対馬沖で世界史上に残る大勝利を上げます。その要因の一つとして、宮原ボイラーの性能も世界からも注目されることとなりました。
少し寄り道して三景艦のこと
初めての国産ボイラーを搭載した防護巡洋艦「橋立」は、日清戦争に備えて清国北洋艦隊の主力艦「定遠」「鎮遠」の巨砲に対抗するために建造された三景艦の一艦です。
その特徴は、38センチ32口径と言う巨砲を無理やり5000トンに満たない艦に搭載したこと。
この主砲は役に立たず、北洋艦隊に引導を渡したのは速射性能に優れた副砲でしたけど。
以下ウィキの記述から引いてみましょう。
本型のボイラーは欧州の最新技術を採用した。ボイラーが生み出す蒸気は、日本巡洋艦として初のフォックス波形炉筒と鋼製煙管を採用して高温・高圧化された が、これらは当時の未熟な日本の技術能力では高度すぎる装置であり、「厳島」では故障が続発して日清戦争時代には「厳島」は12.8ノット、「橋立」は 11ノット程度しか発揮できなかった。このため黄海海戦時には「松島」が旗艦を務める事例が生まれ、、カタログデータ通りの性能を出すことは難しかった。 そこで竣工後の1901年から1902年にかけ、本型は円缶から水管缶8基への換装が行われ、「松島」と「厳島」がベルヴィール式、「橋立」はボイラーを 国産の宮原式に換装した。これにより遠洋航行に耐える性能が付与された。
「フォックス波形炉筒」が良くわかりませんが、日本にとって高度すぎるんじゃなくて、これから書きますようにどうも「煙管」の効率が良くなかったように思えます。
以下、橋立の画像2枚です。ボイラーの換装前後で煙突の形も変化しているのが判ります。
ボイラにもいろいろありまして
世界的に見ると、初期のボイラーは煙導式(どんな仕組みか判りません)や煙管式と言い、箱形をしていました。
イラストは煙管式ボイラーです。煙管と言っても、熱せられた空気が通る管と思った方が良さそうですね。
煙管式の特徴としては、「保有水量が多いので、突然の負荷の変化にも余裕を持って対応出来る」点が挙げられます。
この特徴は、突然戦闘状態に入るかも知れない軍艦にとっては、もってこいの性質だったのですが、後に現れる水管式ほどの高温高圧は望めませんでした。
これは外形が四角だったこともありますが・・・
やがて高温高圧に耐えられるように、とカタチを円筒に変えたボイラーが造られるようになりました。
この形状のボイラーをスコッチボイラー(円罐)と言いまして、蒸気圧を2倍近くまで上げることが出来るようになりました。
軍艦で初めてこのボイラーを搭載したのは1853年に建造されたイギリスの植民地警備用のスループ艦「HMS マラッカ」です。
マラッカは1871年にはなんと日本海軍が購入して「筑波艦」(後に「筑波」)と名付け、海軍兵学寮練習艦、測量、海防任務にあたりました。
世界初のスコッチボイラー搭載艦は大日本帝國海軍の艦だったのです(笑)
本命、水管式ボイラーの登場
その後、スコッチボイラーよりも、もっともっと高温高圧に耐えられる水管ボイラー(water tube boiler)が実用化されました。
水管ボイラーの実用化で軍艦にはスコッチボイラーは次第に使用されなくなります。
この水管ボイラーが宮原ボイラー、艦本式ボイラーの形式です。
艦本式ボイラーにはイ号、ロ号、ハ号、ホ号の4種がありますが、イ号は英国ヤ―ロ―社の「ヤ―ロ―式」の小改良型で、ロ号はイ号の腐食しやすい欠点を修正した最多生産型。
ホ号は小出力用のボイラを開発したもので、効率が大変良く、補助ボイラ(艦内の電気供給や炊飯のために常に焚いて置くもの)や小艦艇の動力用として用いられました。
ハ号は扶桑型の戦艦の改装時に2隻だけ搭載されています。
*注意;ボイラーのイラストは仙台市企業局の「ご協力」を勝手に頂戴しましたので、熱源は「都市ガス」となっていますが、当時の軍艦は当然石炭です。
ボイラーはどんどん高温、高圧へと進化していく、それに伴って軍艦も高速・大型化していくのですが、決定的な改革はボイラーの進化ではなく、意外な所からやってきました。
タービンの登場であります。