東條英機をやり込めた少将
川島四郎という「軍人」をご存じでしょうか?
軍人にカギ括弧を付けましたのは、この人が戦後は栄養学の権威として活躍し、数々の著作もあるお方であるからです。
エピソード満載の方
川島四郎さんは大正7年に陸軍経理学校を卒業(12期)して歩兵第一二連隊付・第一一師団経理部員・第八師団経理部員・独立守備歩兵第四大隊付兼関東軍経理部員などを歴任。
経理部員として優秀な能力を発揮したようで、昭和2年5月には経理学校高等科(5期)を卒業すると、東京帝大の農学部農芸化学科に派遣されて昭和5年3月まで研究に勤しみます。
以下、面倒なのでWikiを丸曳きします。
1930年3月、陸軍糧秣本廠員兼陸軍航空本部員となり、経理学校教官兼陸軍航空技術研究所員、航空技術研究所員兼糧秣本廠員などを経て、1941年(昭和16年)8月、主計大佐に昇進した。
1941年12月、航空技術研究所第7部長に就任。1942年(昭和17年)3月、「軍用糧食の研究」により農学博士号を取得。同年10月、第7航空技術研究所長となり、1945年(昭和20年)6月、主計少将に進んだ。同年9月、航空本部経理部付となり、同年12月、予備役に編入された。
戦後、栄養学者として桜美林大学教授、食料産業研究所長などを務め、栄養に関する本を多数書いた。
90歳過ぎまでナイロビなどアフリカへの旅行をし、現地に滞在して食事を研究した。1986年、ナイロビで感染したマラリアが元で逝去。
何だか、最後が野口英世っぽくて尊敬しちゃいたくなるな。って訳でもう少し詳しく、川島さんの軍歴を見ておきましょうか。
川島さんは大正7(1918)年12月に歩兵第6聯隊(名古屋)で3等主計に任官。満洲の部隊勤務の後に、昭和2(1927)年5月、経理学校高等科学生を修了して、「員外学生」として東京帝国大学農学部農芸化学科に入学。
農学部農芸化学科はその名から想像するような学科じゃなくて、鈴木梅太郎(「オリザニン」を発見した優秀化学者)らが教えていた農作物と栄養との関係を学ぶ学科でありました。
川島さん、昭和5年に学士号を取得、兵食の研究を主務といたします。すなわち、糧秣本廠や経理学校に勤務しつつ、航空本部や航空技術研究所で研究に従事したのであります。
ただ、川島さんは研究室に籠って試料と思料をこねくり回す、なまっちろいヤツではありませんでした。
大正7年のシベリア出兵には第一一・第八師団の司令部附として従軍して、寒冷地での糧食研究を行なっているのです。
満洲事変・第一次上海事変・第二次上海事変・広東上陸作戦・支那事変(北支四月攻勢)などにも参加される、という実戦経験豊富な「経理官」だったのであります。
電脳大本営としては、特に第一次上海事変でのご活躍を紹介申し上げたいと思います。
この時、川島さんは「支那派遣軍経理部員」として従軍したのですが、前線で良質な飲み水が不足すると、自ら野戦作井隊を組織するんであります。
この「作井(さくせい/鑿井)隊」とは自動車に作井機を積んで水質の悪い前線で井戸を掘り、地下水を採取する部隊であります。川島少将はこの「作井機」を自分で開発して、その隊長として前線で井戸掘りしてたのであります。
ね、タダの経理将校では無いでしょ?
この人は戦前戦中、極々マジに兵隊さんの喰いモンを考えた、経理部員の鏡のような人なんです。ところが、軍人から栄養学者に商売替えすると、何ともお茶目なエピソードがタップリとあるんですね。
それをいくつか紹介させて頂き、川島四郎将軍の人となりを判断いただきたいと存じます。
連合赤軍事件にイッチョ噛み
川島少将は軍用の糧食研究の一環として、白ネズミを飼っておられましたが、同じ母ネズミから生まれた12匹を、6匹ずつの2グループに分けました。
Aグループには通常の餌、Bグループにはカルシウムと青野菜抜きの餌を与えて育てたのであります。両グループとも生育状況をチェックするために、毎朝体重を測ります。
そのとき、Aグループのネズミは大人しく捕まりますが、Bグループは激しく抵抗して助手の手は傷だらけ。
この経験は川島博士の記憶に鮮明に残っていました。
連合赤軍が討ち取られて、凄惨なリンチ事件が明るみに出てくると、先生はすぐに群馬県警へとやって参ります。
連合赤軍の馬鹿どもの食生活についてお調べになったのです。
都合の良い事に集団馬鹿の一人が細かく出納帳をつけていたそうで、調べは簡単に付きました。馬鹿どもは12月はじめから、捕まった3月中旬までの100日の間、インスタント食品ばかり買って食べていたことが判ったのです。
連合赤軍の食生活は青野菜とカルシウムが摂取出来ていなかったんですね。
「百日もカルシウムと青野菜をとらなければ、気持ちが荒れて来て、残酷なことも残酷と感じなくなるんです」とは川島博士の弁。
いや、儂はただの人間的な欠陥だと思うぞ。欠陥人間だから、マルクス・レーニン主義なんぞを信奉しちゃうのさ。
アフリカまで行って何見てきたんだ?
先生はこのように青野菜とカルシウムが大好きであられました。
ご自分も好んでお召し上がりになったのですが、どんな動物も「青野菜とカルシウム」が好きと信じて疑われませんでした。えっ、肉食動物もか?
先生、ある生態観察フィルムをご覧になったそうです。そこにはライオンがシマウマを襲い、獲物の腸から半消化の草を出して、食べているシーンが…ご覧になった先生は「バンザイ」と叫んだそうです。
ちょっと待てよ、内臓の方が食い易くて栄養価も高い、ってだけの話じゃ無いのか?
川島先生は何度もアフリカを訪れて、ライオンが半消化の草を食べるシーンをその目でご確認されています。そして、
「ライオンのお腹には、草を消化する能力や酵素がないので、草食動物の腸内の消化酵素と、半消化の野菜を摂るという自然の仕組み」
と仰っています。「草を消化する能力や酵素がない」のは、草を消化する必要が無いように進化してきた、って言うことだと思うんだけどなぁ。
戦前・戦中はチャンとしてた
大東亜戦争で勝ちやがって、一時的とは言え大日本帝国を占領統治していたアメリカ軍。
偉いのは、破れたとは言っても最後まで勇戦敢闘したかつての好敵手を、ちゃんと研究していた事です。
研究は武器だけじゃなく、喰いモンの分野にも及んでいました。
種々の糧食を調べると、「夜間視力増強食」や「元気食」など、素晴らしいものが多数あったそうです。そしてその糧食開発にあたったのが川島陸軍主計少将であることも、アメリカ軍の知るところとなります。
GHQのフォード少将から川島少将に対して「貴殿の永年の研究資料をぜひ貸して欲しい」という申し入れがあったと言います。
先生、一度はお断りになるのですが、かつて奉職した陸軍はもはや在りません。絶対権力者のGHQに逆らうワケにも行かず、先生は説得に応じてしまいます。
貸与した資料は約束の返却日の2日前、アメリカ陸軍次官の礼状を添えてきちんと返却されたそうです。
アメリカ陸軍が礼状出すほどの研究だった、ということでありましょう。
しかし、川島少将は「反骨の人」でもありました。次のエピソードこそ、この記事で私が紹介したかった「大東亜戦争中の国内事情」のひとコマなんであります。
玄米喰え!
川島さんは大東亜戦争中に「第七航空技術研究所」の所長として航空糧食の試験や研究に没頭して居られました。
昭和17年には『軍用糧食に関する研究』という論文で東京帝大農学部から博士号を授与されてるくらいでありますから、軍人にしておくのは惜しい(笑)ほどの碩学なんです。
ココからは川島さんが最も輝いていた時期の話でありますし、「さん」付けは止めますね。「川島主計少将」で行きます。
川島主計少将は糧食研究の専門家でありますから、国民すべての喰いモンが不足する時に、国民一般から「知恵を貸して欲しい」と望まれるのも当然でありましょう。
ある婦人雑誌(「日本女性」という雑誌らしいのですが、国会図書館のデータ調べても、該当する号はありませんでした)に頼まれて『玄米食は必ずしも適当とはいえない』と言う記事を書いちゃったのであります。
時は政府を挙げて食糧の節約に血道を上げている時です。政府のトップの東条英機総理大臣はどこでどう考えたのか?「白米止めて玄米喰いましょう!」という政策を推し進めようとしておりました。
「玄米食の奨励」につきましては、「効果が見込めない」(理由はこの後、川島少将が語ってくださいます)などで反対も多く、特に農林大臣の井野碩哉が大反対でした。
井野は東條の「玄米食に関する法案」の提出をことごとく阻止してしまいます。
そこで東條は昭和18年4月の内閣改造で井野農林大臣を更迭した上、11月に「戦時行政職権特例」を改正。
総理大臣の各大臣に対する「指示権」の範囲が主要食糧政策にも及ぶようにしました。
これで、やっと東條が望んでいた「玄米喰え」政策が実行できるようになった、その矢先の川島少将の寄稿でありました。
逆に見てみますと。大戦争遂行中で、「軍部独裁」(私は「軍部」って言う行政組織は大日本帝国に存在してなかったぞ派)と言われていた国で、白米を玄米に変えることすらママならぬ「独裁者」って何なんでしょうかね?
独裁者ではないけれど
東條英機総理大臣は独裁者ではありませんけれど、大きな権力を握っていた事は間違いありません。「一強体制」と言われる今の安倍晋三さんより、自分の意思を通す力は百倍以上も強かったでしょう。
その強力な総理大臣兼陸軍大臣兼参謀総長の肝いりで進められている「玄米喰え!」政策。その政策を真っ向から否定する雑誌の記事。
川島少将は経理畑とは言っても「陸軍軍人」であります。総理大臣はともかく、「陸軍大臣としての東條英機」は紛うことなき上官です。
軍人の「抗命」は、タダの「命令違反」で済む問題では無い事は、説明申し上げるまでもないでしょう。
出版物全般が事前に検閲されている時代でありますから、川島少将の記事はすぐさま東條陸軍大臣に報告されたのであります。
川島少将は即刻東條陸軍大臣から呼び出しを喰らい、翌朝に陸軍省大臣室へ出頭するのでありました。
以下は川島少将の回想録をもとに、会話調でお送りしたいと思います。イザ、戦闘開始!
「おれは総理大臣であるが、一面、陸軍大臣でもある。その陸軍大臣が玄米を食えと命令しているのに、軍人のお前がこれにさからったことを書いている。これは明らかに命令干犯である」
川島少将は直立不動で東條陸相の前に立っていました。最初に浴びせられたのが、この罵声だったのです。
川島少将が大臣の部屋へ入った時、東条大臣は正面からジッと睨んでいたそうです。大臣の執務机の上には婦人雑誌が一冊。その雑誌に一ヶ所のドッグイア(折り返し)。
何の呼び出しか知らされぬままに大臣室を尋ねた川島少将も、それを見た瞬間に「ア、これか」と思ったそうです。
東條大臣、折り返しのところをパッと開くとグルッと回し「これは君が書いたのか!」
川島少将は、原稿を出したきりで活字になったのをまだ見ていなかったそうです(私はこれは嘘だと思いますね)。
陸軍大臣の攻撃だ
「命令干犯」というのは帝国軍人にとってはもっとも忌み嫌われる辛いことです。
陸軍刑法では命令干犯の罪は(ことと次第によっては)銃殺です。まさか「玄米ダメ記事問題」で、それも女性雑誌への投稿一つで銃殺はないでしょうけど、とにかく「左遷」では済みません。軍歴に傷のつく処罰問題です。
この危機に、川島少将は冷静に対応します。持ち前の「食品に対する知識」を武器に、堂々と攻勢を凌ぎ切ってしまうのであります。
「実は私も玄米が好きです。糠(ぬか)という字は米偏に健康の康と書きます。タンパク質もビタミンBも脂肪も無機質もたいへん多く含んでいます。玄米から糠を取ってしまい白米にすれば、これらが失われることはよく知っております」
少将が好きなのは「青野菜とカルシウム」じゃん(笑)。
しかし、怒れる上司を説得しようとする時、いったんは相手の主張を認める。これは戦術の基本でしょう。
川島少将の防戦準備を見て、東條陸相はやや語気を弱めて続けます。
「そういう栄養論もあろうが、現在の食糧が極度に不足するいま、玄米を食えば100%国民の腹に入るが、搗いてしまって4%の糠を捨ててしまう事になる。国民は96%しか食べられない。どうしても戦争に勝たねばいけないときに、栄養のある糠を捨ててしまって白米を食おうという贅沢が間違っているのだ」
川島少将、「やったぁ!」と思ったでしょうね。命令干犯で攻められると川島少将には反撃のよすがも無かったところ。ところが東條英機さんは誘導に引っ掛かってくれて、「栄養論争」に迷い込んだのです。
「お言葉を返すようでありますが、糠は決して捨てているのではなく『生きた兵器』の軍馬に食わせています。
馬が糠を喰ってくれれば全部消化いたしますので、その方が国家的に見たら大いに効率が上がるんです」
陸軍大臣は微かに頷いたように見えたそうです。川島少将の反撃は続きます。
少将が反撃した
「重ねて言葉をお返しすることとなって恐縮でありますが、消化吸収の点でも『玄米食』には欠陥があります。
白米を食べますと、98パーセント消化出来るのですが、玄米の場合は73パーセントしか吸収いたしません。
しかも(お食事中の方はココからしばらくは読まない方が宜しいかと)、玄米だけが尻から出てくれれば良いのですが、ヒトは他に肉や魚を食っております。それらも一緒に出てしまう。
そうすると大変な損失になるではありませんか。」
一方的にやられて黙っていては、陸軍統制派総帥(何時からだよ)の名が泣きます。
「吸収を良くするには噛めばいい。よく噛むことが玄米食にはいいのだ」
川島主計少将、即座に反応します。自分の土俵に上げたら金輪際逃がさねぇ!って感じで陸軍大臣の戦線が整わない隙をつきます。
「玄米食を推奨する人たちは必ずよく噛めとおっしゃいます。しかし、よく噛むための食事時間はふだんの3倍にも4倍にもなってしまいます。
いまは国家総動員のとき、危急存亡のとき、寸刻を惜しんで働くべき時でありましょう。ゆっくり飯を喰うのは平時のことであります」
川島先生!飯はゆっくり食わせた方が、胃腸の健康も含めて、労働生産性は上がるぞ。東條さんにそんな知識はあるまいが…
沈黙する陸相。川島主計少将、容赦なく追撃。決戦場での勝利は効果的な追撃・殲滅戦によって確定するのであります(笑)。
「豆を洗う・芋を洗うと申しますが、コメに限っては『研(と)ぐ』と申します。『研ぐ』とは硬いものに硬いものをすり合わすという意味であります。
コメの『研ぐ』の意でありますが、昔は玄米を水に漬けておきまして、糠が軟らかくなってからゴシゴシと研ぎおろして、糠を取り去ったなごりだと言います。
現在の『玄米食論者』が言うように、糠が少しでも取れないように、そっと大事に玄米を炊いたようなものでは無いのです。」
歴史分野にまで戦域を広げやがった(笑)
儂としては共感するところ大ですが、対陸軍大臣戦闘としてなら、この戦法は失敗というべきでありました。
この戦域拡大で東條さん、基本的な方針の誤りに気付いたようなのです。「コレは玄米の話をする場じゃなくって、命令干犯を追及する場だった」と。
東條英機の評価はこのところ回復気味(電脳大本営的には、昔っからの「能吏ではあるけれど、非常時の指導者には精神的に全く不足」って評価は変わりません)でありますが、こういう「小戦闘の上手さ」こそが能吏の能吏たる所以であります。
川島少将は自分の犯したミスに目をやるゆとりもなく、傍目には「カサにかかって」攻勢を続行します。
「玄米を炊くには、白米の2倍半の時間がかかります。従いましてその分、余計に燃料を消費いたします。燃料節約をしなければいけない時にこれは如何なモノでしょう。」
勝ったような負けたような
陸相は沈黙を続けます。
コチラの攻撃に反撃なく沈黙する敵軍は、「何らかの反攻を準備中」と思った方が良いのですが…
前線で井戸を掘ったとは言っても、川島少将は経理官。やはり、状況の微妙な変化に気づかず。
「軍は率先して玄米食をしなければなりませんが、現用の飯盒では玄米を上手に炊けません。炊く途中で水を足して、火の回りや、玄米の膨張度を考えながら炊かなければなりません。
アルミ資源の不足している現在、飯盒の取り替えや改良はできない相談です。
その上に炊飯時間が2倍半にもなり、喫食の時間も長くなれば、野戦では追撃が鈍ってしまい、敵は逃げてしまいます。
さらに玄米は白米に比べて変敗の惧れが大きい。夏場や南方戦線での食料事情は悪化しますよ。」
東條陸軍大臣は理詰めの説明にすっかり納得した、ように見えました。怒りも収まったようでした。と思ったのは川島少将だけでした。
川島少将の回想からお言葉を借用いたしますと、次のような強烈な反撃が飛んできたのであります。
「私の書いた中にイギリスのスコットランドのことわざがある。それは、『馬を水際に引っ張って行くのは一人でも引っ張って行けるけれど、その馬に水を飲ませるには、10人かかっても、馬がいやなら水を飲ますことはできない』と。
だから、国民がいやがる玄米を無理に食わせようとしても無理だ、ということを書いたんです」
たかが「スコットランドの」という点を突いて絶対不利の戦局を打開しちゃうのは、さすが能吏というべきでしょうか。
東條陸相曰く「お前は日本人だろう。なにも戦争をしている敵のイギリスのスコットランドの諺を持ち出すことはないだろう、けしからん!」
川島少将もココで戦局の転換したことを悟ったのでしょう。
「こりゃ、どうも迂闊なことを書きまして」と頭を下げざるを得ませんでした。
ココで川島少将のように闇雲に攻撃しないのが、場数を踏んだ東條の凄いところでしょう。
陸軍大臣、ニヤッと笑うと
「どうも世間の女どもは、陸軍大臣の俺のいうことよりも農学博士のお前のいうことをみな信用しよるから困る。もうこれから玄米の悪口を言うな。二度と玄米の悪いことを書くな」
さすがに川島少将もこう答えるしかなかったそうです。
「これは功罪論でして、最初に悪いところを書いたのですけれど、来月号は褒める方を書くつもりです。その点をご承知願いたい」
あらためて東條英機の評価
命令干犯で大臣室に呼び出されたのに、川島少将はこれ以上のお咎め無しでその場を引き上げることが出来ました。
普通なら銃殺は無くても、第七航空技術研究所の所長は解任。良くて予備役編入(陸軍クビ)、悪けりゃ南洋の孤島送りです。
そもそも、東條大臣は何故自分のところへ直接呼びだしたのか?川島少将の上司は統帥系統上では航空本部長です。航空本部長は第七航空技術研究所を直轄しています。
また職務の上なら川島少将は「経理部将校」として経理局長の統制を受ける身。東條陸軍大臣としては、陸軍航空本部長か陸軍省経理局長を呼びつけて説明を求めれば良かったのです。
航空本部長や経理局長なら、的確な反論など出来なかったでしょうし、やろうとも思わなかったでしょう。
記事の内容を言い聞かせて、「川島を処分せよ」と命じてやれば、それでこの件はお終いです。
電脳大本営がこんな記事を書くことも無く、
「川島経理少将?言ってることは正しいけどさぁ。東條に逆らうなら部内でやれよ。何も外部の、それも婦人雑誌に意見を開陳することないじゃん。」
ってな評価で終わった筈なのです。
私はココに東條の凄味・有能さを感じちゃいますね。
東條は特に川島少将を処罰したかったのではないでしょう。
ただ、同じような記事やら論文を何本も発表されてはかなわない、という所だったと思われます。また、川島少将のような「跳ね返りモノ」が続いて出てくるのも好ましい事じゃない。
少将の上司を通じて叱責すれば、重い処分になってしまうので、直接呼びつけて注意を与えておこうってな判断だったのではありますまいか?
呼びつけたら呼びつけたで、ガツンって叱って、叱りっぱなしにせず、じっくり言い訳話を聞いてやっています。
そしてもう一度叱ってなだめて言い聞かす…。
それで実際にこの件は穏便に収まりましたし、それどころか叱られた川島少将本人が
「東条閣下は自分の言う事をちゃんと認めてくれた立派な方だ」とか言い出して、すっかり東條のファンになってしまったのです。
私の40年に渡るビジネス体験でも、「叱り方の上手い奴」はだいたい有能でした。まして、叱り飛ばした部下に慕われる上司はメッタに居ません。
川島少将が東條を「立派だ」とか言い出したのは、東條が亡くなった後、彼の評価が最低だった時期の事ですからね。これは大したモノです。
大東亜戦争中の東條の首相・陸相・参謀総長については現在も批判がたくさんあります。近頃盛んになっている擁護論にしても、東條の能力よりも「騙された」とか「責任を押し付けられた」とか言う話が多いようです(騙されるのは騙される方の能力不足ですよ)が、東條の能力そのものを再評価するむきは少ないように思います。
でもね、省部(陸軍省と参謀本部)の中堅どころの軍人の東條評では「仕事はやりやすかった」と言ったモノが沢山でてきます。
部下を気持ち良く働かせるのは、「有能な上司」の証拠です。
さらに、このような証言もあります。
川島主計少将は大本営の佐官級の中堅幕僚たちにひどく評判が悪かった、というのです。
「川島などという経理部将官は、この重大な時局に『これは便利である』というようなものを研究発表しておる。今は『これは必要だ』というものをたくさん生産しなければならない時機であるのに、川島は戦況に無関心なのか」
この話は、私にはウラが取れていませんのでナンですが。
事実とすれば、促成栽培されたエリート(陸軍大学校でガリ勉して良い成績を上げ、机上の作戦用兵第一で地位を築いた人たち)には、「大戦争は国民すべてに渡る裾野の広がりを必要とする」という事実が理解できない事を表しているような気がします。
でも、東條はその「理解されない経理官」すら手間を掛けて救ってやったのです。電脳大本営が東條英機を「平時の能吏」だけれど、「非常時のリーダー」ではなかった、と評価する所以であります。
長くなりましたので、次のエピソードで変人・川島少将のお話を終わりにしたいと存じます。
昭和25(1950)年、川島博士は突然アメリカ軍に招かれました。北朝鮮軍が朝鮮半島南部へ侵攻を始めていた時であります。
川島博士はKorea陸軍向けのレーションの内容について、アメリカ軍から諮問を受けたのです。博士の進言の内訳が良く判らないのですが、「糞でも喰わせとけ」とは仰らなかったようで。
糞半島で消費される(特にKorea軍向けの)レーションは我が国内で生産される事になりました。
「朝鮮半島における東西両陣営戦争」での知られざる特需です。わが国の戦後復興の一助になったことは間違いないところでありましょう。
ゑは皆本物ですね。週番(とかいった)たすき、うーん。川島さんは戦後陸軍出身の栄養学者と言うのは思いだしました。なお、川島さんが アフリカへ行って ライオンだかの食事を観察した。この記事は文春にでたのでは。 内務班の内幕知って 嬉しいです。東條さんはイロイロ言う人要るけど大好き。戦後お気の毒でした。---週番将校と言われていたと記憶してます。