先帝陛下の全国巡幸

佳子さまイラスト

8月15日を前にして

最近仲間に入れて頂いたフェイスブックのグループで、「V2号がバッキンガム宮殿に一発着弾した」と言う事を教えて頂きました。

当該グループは「ナチスドイツの軍備」について語り合う場所ですので、残念ながらこれから書く話題は遠慮しなければなりません(たいへん良質なグループで、メンバー以外の方も投稿閲覧が可能です)。

でも、大きく刺激を頂きましたので、管理人さんをはじめ、メンバーの皆さんにあつくお礼を申し上げます。

英国王室がロンドン爆撃を受けて、地方へ避難されたかどうかは存じませんが、我が皇室は東京大空襲などを受けてどのように対応されたのでしょうか?

皇室の「疎開計画」

サイパン島を失い、首都・東京の近くまで爆撃を受けるようになると、天皇陛下をはじめとして皇族方の避難が検討されるようになりました。

最初に打診を受けたのは昭和天皇のご母堂、貞明皇太后(弱者救済に御熱心で、国民的な人気も絶大)でしたが、「東京に残る」と頑なに拒否されました。
そのため、各皇族方は東京残留を決意されたのですが、昭和天皇が「東京は私たちだけで良い」と疎開を裁決されたのです。

これは臣下の警護の負担を減らすとともに「血の保全」の意味もあったようで、男性皇族は全て別々の土地に疎開されることになったそうです。

このご決意を受けて、政府は皇居と赤坂離宮に「御文庫」という名の防空壕を設置しました。

「文庫」とは古い表現で、多くの書籍を収拾した「図書館」を意味しています(金沢文庫など)。
また赤坂離宮は、貞明皇太后が(皇太子時代の)大正天皇と新婚生活を送るために建設されたものです。

やがて皇居の明治宮殿と御所が空襲で焼失すると、昭和天皇と香淳皇后ご夫妻はこの御文庫でお暮らしになるようになり、なんと戦後も昭和36年までそのご不自由な生活を続けられました。

もちろん、「国民生活の再建を優先せよ」のお気持ちからです。

爆撃で焼失した明治宮殿

爆撃で焼失した明治宮殿

長くお暮しになっていたお住まいを焼き払われたことを、恨みには思っておられたようです。

レーガン大統領が日本を訪れ、宮中で歓迎晩餐会が催された時のこと。

大統領夫人が「この宮殿は新しいですね。」と昭和天皇に申し上げると、陛下は即座に
「前の宮殿は貴方がたが焼いてしまいましたので。」

さて、長い前置きはここまでです。

先帝陛下の責任

私には、大東亜戦争の責任論で衝撃を受けた思い出があります。まだ中学生のころの話ですから、もう50年以上も前のことです。

それは何処の新聞だったか?の記事で、あの撃墜王・坂井三郎氏が「天皇陛下に戦争責任がある」と仰っていた事です。
そしてそのシンプルな論理。

「止めろと言って止められたのだから、戦争をした責任は当然。」

しかし、坂井三郎氏は触れておられませんが、先帝陛下は昭和20年8月15日以降、玉体がついに生に耐えれなくなるまで、責任を取り続けておいでになりました。

それを私めが、坂井氏に成り代わって少し紹介させて頂きたく存じます。

全国巡幸

昭和天皇が全国御巡幸の決意を示されたのは、早くも敗戦直後の昭和20年10月でした。
宮内府次長の加藤進に対してに次のようにご指示があったのです。

この戦争により先祖からの領土を失ひ、国民の多くの生命を失ひ、たいへん災厄を受けた。
この際、私としては、どうすればよいのかと考へ、また退位も考えた。

しかし、よくよく考へた末、全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励まし、
また復興のために立ちがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。
このことをどうしても早い時期に行ひたいと思ふ。

ついては、宮内官たちは私の健康を心配するだらうが、
自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、
健康とか何とかはまつたく考へることなくやってほしい。

宮内官はその志を達するやう全力を挙げて計画し実行してほしい。

この計画を打診されたGHQは「石でも投げられたら良いんじゃ」的なノリで「許可」を出したそうです。

大日本帝国の天皇陛下のご希望に対し奉るに「許可」とは、不敬の至り、増上慢の極みじゃ。

マジメに申し上げると、昭和天皇は投石どころか『狙撃を受ける』という体験をお持ちでありますから、陛下の
「親しく国民を励まそう」
というのは大変に勇気の必要なご決断だった、と思われます。

津々浦々へ

先帝陛下はお言葉とおり、非常なご決意で巡幸にあたられました。

良く知られたエピソードを幾つか紹介して参りましょう。

神奈川戦災復興住宅にて

神奈川戦災復興住宅にて

 

全国御巡幸は近県から開始されました。巡幸を仰せ出だされて僅かに4カ月。

翌年の2月には川崎市に巡幸され、昭和電工の川崎工場を視察されました。

ここでは、食糧増産に必要な化学肥料(硫安)を生産していたのですが、空襲で大半の設備が破壊され、社員は懸命に復旧に努めていたのです。

一列に並んだ工員たちに、先帝陛下は「生活状態はどうか」、「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」とお聞きになられました。

感極まって泣いているものも多かったそうです。

この年は関東・東海各県を巡幸なさいました。

翌昭和22年前半は大阪・兵庫・和歌山と近畿圏を。

真夏には東北各県へ。

国内は敗戦の混乱からまだまだ立ち直れていません。

天皇陛下のお宿すら、ロクにありません。

お召し列車の中で御休みになったり、学校の教室に泊まられた事もあったそうです。

しかし、昭和大帝は初志をお曲げにはなりませんでした。

戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ

とのお言葉を賜り、巡幸は続けられました。

周囲のものは
「真夏にわざわざ東北へご巡幸なさるのは、食糧増産のこともご心配なのだろう」
と見ていましたが、陛下の御目論見はさらにさらに上を行っておられました。

全国巡幸3釜石

全国巡幸 釜石

 

当時、我が国のエネルギーの多くは石炭に依っていましたが、福島県の常磐炭坑は、その出炭量の40%を占める重要なエネルギー供給基地だったのです。

陛下の想いは、劣悪な環境で石炭増産に努める鉱夫たちを激励する事にありました。

40度を超える酷暑のなか、背広をお召しのまま、ネクタイも緩められず、地下450mの坑内を歩かれて辿りついた現場では上半身裸の男たちが作業を続けていました。

坑内に「天皇陛下万歳」の声が響いた事はいうまでもありませんが、鉱夫たちの先頭で万歳を叫んだのは共産党員の労働組合長だったそうです。

御製 『あつさ つよき 磐城の里の炭山に 
         はたらく人を ををしとぞ見し

 

この昭和22年は秋になってさらに甲信越地方9日間の御巡幸にお出マシになっています。

最初に浅間山山麓の大日向開拓村を訪問されました。

大日向村は満洲への分村移民(自治体ごとに移民団を組織して入植する)を全国で最初に実行した村でした。

しかしソ連の満洲侵略により、移民した村人694名中、半数の323名だけが生き残って村に帰ってきていたのです。

帰ってきても移民するにあたり、以前の農地は手放してしまっています。
引揚げて来た人々はやむなく、標高1000mを越える荒れ地を切り開いていたのです。

先帝陛下はこの事情をも、良く御承知であらせられました。

初雪の積もるなかを、2キロの道のりを踏みしめて登って行かれたと伝えられています。

全国巡幸1

全国巡幸

御製 『浅間おろし つよき麓に かへりきて
 いそしむ田人 とふとく(尊く)も あるか

行幸はさらに昭和29年まで続きますが、GHQから中止が司令されたこともありました。

幾多の困難をモノともなさらずにお続け下さった行幸は、沖縄を除く全都道府県に及びました。

お立ち寄りになられた箇所は1411か所であるとされています。

奇跡のような日本の復興は、先帝陛下の巡幸をそのスタートとしているのです。

これこそ、まさに前向きな帝王の責任の取り方と申すべきでしょう。

昭和63年9月。
昭和大帝がついに病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約九百万人が記帳に訪れた、とされています。

しかし戦後の御巡幸で、陛下に親しくお目にかかった臣民の数はこれをはるかに上回っていた事は間違いありません。

昭和大帝はそのご病床で
「もう、だめか」
と医師たちにお訪ねになったそうです。

もちろん、ご自分のお体のことではありません。

「沖縄訪問はもうだめか」

と問われたことは間違いのない事であります。

この先帝陛下のお気持ちは今の上皇陛下がお引継ぎになり、平成5年にようやく果たされることとなります。

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