敗戦前の対馬海峡を飛んだ飛行機
制空権を喪失し、危険極まりない状況の対馬海峡を、原爆を落とされた広島から半島へ、半島から内地へ…それぞれ飛んだ軍用機がありました。
滅亡した帝国の王家を優遇
いったい何のために、危険な飛行をあえてしたのか?
そこには「最後まで誠意を尽くすもの」と「義務から逃げ出すもの」教極限状況が露にする人間のデキが…。
ほぼ確定した敗戦を前に「日本人」の真価が問われた象徴的な出来事を紹介させていただきましょう
明治43(1910)年のいわゆる「日韓併合」によって、李氏朝鮮(大韓帝国)は滅亡することとなりました。
李氏朝鮮は統治能力を無くした自然消滅であり、大日本帝国が朝鮮の棄民モドキを救済するために、併合という名目で保護してやった…というのがこの後の半島政策などから見た実態ですが、まあここでは「日韓併合」としておきます。
国が滅べば、その国を専制支配していた王家も滅亡してしまうのは、世界中どこでも当然のことです。
しかし朝鮮の王家には幸?にもその運命は訪れませんでした。「自分たちの国を滅ぼした」相手に保護されることになったのですから。
「韓国併合ニ関スル条約」では、その第3条で
「日本国皇帝陛下ハ韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其ノ后妃及後裔ヲシテ各其ノ地位二応シ相当ナル尊称威厳及名誉ヲ享有セシメ且之ヲ保持スルニ十分ナル歳費ヲ供給スヘキ事ヲ約ス」
と、朝鮮「皇帝」以下の朝鮮「皇族」に対し、相応の待遇や称号や金をくれてやることを定めていました。
また第4条にはそれ以外の「朝鮮王族」についての同様の規定があります。
この条約によって、李家は王公族として日本の皇族に準じる待遇を受けることになりました。
朝鮮半島出身の王公族と日本の華族との結婚も積極的に行われましたが、戦後になると一例を除いてすべて離婚しています。
半島出身者からの申し出であることは言を待ちません。
準皇族だから当然軍人に
ここに李鍝(り・ぐう)殿下という準皇族がおられました。
朝鮮人であっても、当時の我が皇室が「準皇族」として遇したのですから、私も敬意を表さねばなりません。嫌で嫌でしょうがないけど。
李王家の中での血筋は、まあ「皇帝になれた見込みはほぼゼロね」ってくらいのところでしょう。
1913年と言いますから、自分の家が「大日本帝国の居候」になってからお産まれというワケですね。
なんとも贅沢な居候どもですが、「準」がついても「皇族」である以上、そこには義務もつきまといます。文明国では当然ですが。
大日本帝国はどこかの半島や大陸国と違って、未開王朝ではありませんので、貴族階級は威張りかえるだけでは駄目なのです。
必ず果たすべき義務が付きまといます。
で、当時のお約束どおりに李鍝殿下は陸軍に入隊いたしました。
もちろん士官学校・陸大などは優先的に入れて貰えますから、1945年には陸軍中佐となりやがって(いかん、おなりになって…が正しいぞ)在広島の第二総軍司令部で教育参謀を務めておいででした。
えっ、もう話のスジが見えちゃいました?
カンが鋭すぎると、嫌われるぞ(笑)
そして8月6日
たかが中佐の参謀とはいえ、李鍝殿下にはちゃんと「副官」がついておりました。
吉成弘中佐です。
運命のこの日、吉成中佐は持病の水虫が悪化してしまい、李鍝殿下に先駆けて第二総軍へ出向いて薬などを貰っておりました。
李鍝殿下は、いつものように馬で司令部に出勤したのですが、途中で原爆に遭遇してしまいます。
李鍝殿下は意識を失い、連絡が付かなくなってしまいました。
広島市内は原爆投下直後の大混乱状態だったのですが、軍当局は「準皇族」の李鍝殿下の捜索・救出に全力を挙げ、ついに重傷を負って倒れているところを発見(これには異説もあります)。
広島湾の似島(にのしま)にあった陸軍臨時救護所(民間人も救護してますよ、勿論)に収容しました。
しかし手当てのかいもなく、7日未明に死亡、享年32。
米軍の爆撃による出勤途中の死ですから戦死であります。
死亡が確認されると、東京から皇族や軍首脳が駆けつけて通夜が営まれました。
敗戦寸前にまで追い詰められた状態で、ですよ。
さらに通夜だけではありません。
翌8日になると、遺体は市内の吉島飛行場から陸軍の双発機によって、夫人など遺族の待つソウル(京城)に運ばれました。
たぶん、これで運んだんじゃないかな?
制空権をほぼ喪失している中、良くぞ運ぼうと思ったものです。
「準皇族」への敬意と言う以外には理解のしようがありません。
臨時救護所では棺を送り出した後、李鍝殿下のお付の武官だった吉成弘中佐が自決しました。
殿下を十分に保護できなかったという責任意識からでしょう。
儂は声を大にして言いたい。日本人こそ大切!なんでちょ…以下自主規制します。
さらに8月15日
遺体を受け取った朝鮮総督府では、朝鮮総督の阿倍信行をはじめとする各界要人が出席してあたらめて通夜を執り行いました。
繰り返しますが、敗戦直前の混乱期です。
実はこの通夜の日取りがいまひとつはっきりしませんが、遺体を空輸した8月8日は長崎に原爆が投下され、9日にはソ連が満州侵略を開始しているときなのです。
それでも、大日本帝国は「異国の準皇族」に対して最後まで礼を尽くそうとしていたのです。
極めつけは李鍝殿下の正式な葬儀です。
皇族の戦死ですから、葬儀は『陸軍葬』として京城運動場(現在は東大門運動場というらしいです)で、通夜と同様に朝鮮総督以下の各界要人が参列しておこなわれたのです。
それがなんと8月15日。それも、玉音放送の流れた後の午後1時からの葬儀だったのです。
李鍝殿下は現在でも靖国神社にお鎮まりなのであります。
が、
「葬式などに構ってんと、日本人が無事に引揚げる算段をせんかい!」
とも思ってしまうのであります
朝鮮の元山からも
一方、8月11日。
李鍝殿下の2度目の通夜が営まれていたかも知れない頃、1機の海軍機(機種不明)が朝鮮の元山航空隊基地を飛び立ちました。
搭乗していたのは海軍の元山航空隊司令、青木泰二郎大佐とその家族、一部の高級幕僚でした。
元山空はもともと練習航空隊(15空から分かれたはじめの元山空とは別)でしたが、戦況の逼迫とともに教官や練習生の戦力化が進められ、「七生隊」として特攻隊も出すようになります。
青木大佐は特攻出撃に特別に熱心であったといわれ、予備役の学徒出陣パイロットに
「貴様の戦死は明日と決まった。」
と出撃を命じたことで有名です。
海軍の特攻隊全般に言えることですが(陸軍は少しだけマシです)、この元山空では「正規の海軍兵学校出身」の将校は殆ど特攻には出ていません。
兵学校出身者と予備将校
海軍の将校となるためには、海軍兵学校で教育を受ける必要がありました。兵学校の出身者が正規将校です。
学徒出陣した大学/専門学校生たちは、志願の形を採っていたために「予備士官」として採用され、極端に短い訓練時間でパイロットにされた者が多くいました。
青木泰二郎司令(だけではなく、海軍全体ですが)が目をつけたのが、この予備士官たちでした。
元山航空隊から特攻にでたのは、故障帰還・不時着を含めて46名を数えますが、正規将校は海兵71期の宮武信夫大尉と72期の田中(名前が表記不能)中尉の2名だけなのです。
予備から使う
ところが特攻機を米軍艦船に突っ込ませるための護衛である「制空隊(戦果確認も任務)」には正規将校をあて、予備将校から制空隊に入った人は、予備13期の土方敏夫中尉ただ一人でした。
「機械の部品などは正規品が壊れてから予備を使うのが常識だと思います。でも、予備から使うっていう、常識を超越した軍隊もあるんですね。」
そのように笑って飛び立った予備少尉も居たそうです。
そんな隊運営を続けていた青木大佐でしたが、どこで嗅ぎつけたんでしょうか?
「このままではヤバイ」
と思ったようです。前記のように家族を伴って内地へ逃げてしまったのです。
職業軍人が家族を引き連れての敵前逃亡と言うのは、日本の歴史をどこまで遡っても他に例はないと思いますが…
残された元山航空隊の隊員たちは、海軍部隊としては珍しくシベリア抑留を経験することになってしまいました。
逃げた青木大佐は敵前逃亡を追及されることもなく、元部下の身を案ずることもなく、昭和36年まで恩給を貰い続けていたそうです。
この「青木大佐」はミッドウェイで沈んだ空母「赤城」の艦長でした。
沈没に際し「艦と運命をともにする!」と主張したのですが、回りにとめられて生還。
ところが、生きて帰った卑怯者…と評価されて予備役に編入。即日再召集で元山空の司令になった人です。
同情の余地があることも、公平を期して付け加えます。
また、最後に書き加えるのは失礼とはぞんじますが、こんな司令に命令されたとしても「国民と国を守らん」と飛び立った英霊は私たちの誇りであることも申し上げておかねばなりませぬ。
電脳大本営は、たぶん大方のコッチ側の方々よりも「特攻」に対して批判的でありますが、批判の対象の代表がこの記事のような軍人です。
命令されて、あるいは自らの意志で、国と愛する人々を守らんと飛立ったご英霊には感謝と称賛意外にささげる物はありません。
軍人にもいろいろありますねぇ。