四式15糎自走砲、飛行場を守る

三八式十五糎榴弾砲

日露開戦を受けてドイツに発注した「三八式15糎榴弾砲」。
日本への到着が遅れて対ロシアには役に立たなかったのですが…

多種を同時発注

この骨董品みたいな大砲が、大東亜戦争で意外な活躍をしています。そして、その前にも「帝国陸軍、意外に国際派やん!」みたいな行動を(笑)。すんでのところで大砲が世界一周する所だったんです。
そいつを纏めてご紹介しちゃいましょう。

まあ、活躍と言いましても、電脳大本営好みの
「粘って大敵に一泡」
ってヤツでして、大勝利!とは参りません。残念ですがご承知おきのほどを。

明治37(1904)年、日露戦争が勃発いたしますと、大日本帝国陸軍はドイツのクルップ社に近代火砲を注文することにしました。
「三八式野砲」「三八式12糎榴弾砲」「三八式10糎加農砲」と「三八式15糎榴弾砲」
であります。

「三八式十五糎榴弾砲」とはWikiによれば、
『駐退機を持たない克式十五珊榴弾砲を補完〜更新する目的の、野戦重砲兵向け』
の大砲でした。

38式15糎榴弾砲発射シーン

三八式15糎榴弾砲発射シーン

 

ちなみに榴弾砲は「りゅうだんぽう」と読むんですよ(笑)
「りゅうだんほう」っていう人はモグリだね。儂のパソコンはちゃんと教育してあるから「りゅうだんぽう」と入力すればちゃんと変換します。

ついでに榴弾砲は砲身がそんなに長くないヤツ(大砲)って理解でOKです。長くないから野戦向けなんですね、運びやすい。

「三八式15糎榴弾砲」の諸元ですが、面倒なのでWikiからパクっておきます。

なお、「糎」は「cm」の事ですよ。読みは「センチ」。
Wikiで使ってる「珊」は糎の前に使われてた字で、やっぱり「センチ」ね。
うっ、パソコンのヤツめ、「せんち」と入力したら「戦地」と変換しやがった、アホめ。

制式名 三八式十五珊榴弾砲
全備重量 2095kg
砲身重量 770kg(閉鎖機共)
後座長 590mm
砲口径 149.1mm
砲身長 1880mm(12.6口径)
砲口初速 275m/s
最大射程距離 5900m
俯仰角 0〜+43度
水平射角 左右1.45度
使用弾種 破甲榴弾
九二式榴弾
十一年式榴弾
代用弾甲
製造国 ドイツ 日本
総生産数 224門

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、このシリーズは急いで作ってもらったんで、流石のクルップさんも日本人や日本の馬の体格までは気が回らなかったみたいなんです。

大砲のガタイがデカすぎたんです。
そのせいで「小型で燃費が良い」ってのがウリの大日本帝国のお馬さんは8頭掛りで引っ張らなきゃいけなくなりました。

曳き馬が多くなると、牽引棒も長くなる道理でありまして。
8頭立ての三八式15糎榴弾砲はクネクネした道は通れなくなってしまいました。
帝国陸軍の予定戦場にはロクな道路はありませんし、暑い所へ行ったらお馬さんがへばってしまいます。

せっかくの「野戦重砲」が移動困難になってしまったんです。

38式野砲

三八式野砲

 

余談になります。
この弱点を克服すべく、砲身と砲架を分けて6頭づつのお馬さんで牽引できる「四年式15糎榴弾砲」が開発されたのですが、評判は良くありませんでした。

だって、撃つときには砲身と砲架をくっつける必要があったんですけども、それがやたらと手間が掛かって、マッチョな兵士にもたいへん辛い作業だったんですから。

4年式15糎榴弾砲

四年式15糎榴弾砲

 

だいたい、この4種の大砲たち、クルップ社は頑張って急生産したものの、我が国に到着したのが奉天大会戦の後になってしまいました。
なんと、せっかくの新鋭輸入大砲が、日露決戦の戦場には出ることが出来なかったんです。

役に立たなかったけど国産化

 

戦場に間にあわなかった「三八式15糎榴弾砲」とその同級生たちですが、「兵器先進企業のクルップ社による大砲」はやはり魅力が有ったようです。

上記のように4つとも「三八式」シリーズとして制式採用され、大阪砲兵工廠で生産される事になるのであります。

と言っても機動力のない「野砲」では生産数はたった224門に留まってしまいました。
後で書きますが、平和になって生産力に余裕があったこの時に「三八式十五糎榴弾砲」をもっと作って置いたら…

ともあれ、「三八式15糎榴弾砲」は大正7(1918)年に「野戦重砲兵連隊」が独立編制になると「四年式15糎榴弾砲」と置換えになり予備保管兵器とされます。

日支戦争が勃発すると動員され、戦場写真にしばしば登場したりしています。

まあ、こんなトコロが「三八式15糎榴弾砲」の主な(知られている)戦歴なのであります。

しかしながら「三八式15糎榴弾砲」は日支戦争の前に戦場に出ているんですよ。それも「ロシア帝国陸軍」の大砲としてね(笑)

以下は旧「ロシアの声」(現スプートニク)の記事です(改行等をして読みやすくしています)。

1914年8月4日、つまり第1世界大戦開始後、3日の段階ですでに、日本企業の数人の代表者らはロシアに日本製の武器、弾薬の供給の提案を行っている。

パヴロフ氏は、ロシアはこの提案に抑制的な態度をとったと指摘している。
この間、ロシア帝国と日本の間では3つの合意が結ばれ、その中には中国、モンゴルにおける影響の項目も含まれてはいたものの、両国関係は疑惑に満ち、悪化の兆しが感じられていた。

ロシア帝国から見た日本は近隣諸国の中でも最も危険な国で、おそらく日本は新たな攻撃をしかけ、また新たに露日戦争がはじまるのではないかと深刻な憂慮の念がもたれていた。
それでもロシアは日本の提案を受け入れた。というのも、軍事行為を開始するとすぐに、ロシアの司令部は戦争までに備蓄された分では足りないことがわかったからだ。

こうしたわけで軍の買い付けのための一連の代表団が日本へと送られ、「有坂銃」とそれ用の薬莢、火薬、大砲、医薬品、外套、靴が購入された。

1914-1917年、ロシアは日本における軍備品買い付けに約8千万ルーブルを費やしたが、これは外国から買い付けた軍備品の総額の3分の1を占める額だったと思われる。
パヴロフ氏の著書では日本があたかもロシアに対し、自国に必要のない、時代後れの軍備だけを供給したといわれていることに対し、これが作り話だとして否定されている。

「ロシアの砲兵らは日本製の大砲が軽量で使用しやすく、射撃速度が速いと評価していた。有坂銃は信頼性が高く、これに類似した米国製の銃の半額でロシアは買い付けることができた。」

日本の軍産品があまりに高品質であったため、ロシア側の研(「検」の間違いだろうね)収員らはかなりの部分の武器品目の受け入れ納入品の作業を日本人自身が行うよう任せた事実をパヴロフ氏は指摘している。
ロシア人の役人、閣僚は日本製武器の価値を指摘し、これなしにはロシアは戦うことは一切できないことを認めている。

 

ここには直接「三八式15糎榴弾砲」は書かれていませんが、ロシア帝国と戦うために注文された大砲たちは第一次世界大戦中にロシア帝国に輸出されたことは間違いありますまい。

なお、この記事中には第一次大戦当時でも日露間に緊張関係が有ったかのように書かれていますが、電脳大本営的にはこの時期は日露間が最も友好的だった時期であると認識しています。

38式15糎榴弾砲フィンランドに渡る

三八式15糎榴弾砲
フィンランドに保存されている

 

せっかく大日本帝国が武器を譲ってあげたのに、ロシア帝国は第一次世界大戦の最後まで持ちこたえることが出来ませんでした。
革命が起こって、対独戦線から脱落してしまい、革命派(赤軍)と白軍(皇帝護持派)の内戦が激化していきます。

大日本帝国からやって来たドイツ製の「三八式15糎榴弾砲」は白軍が大切に使ったようです。

我が国の兵隊さんは持て余した「十五榴」でしたが、体格だけは立派なロシアの兵隊さんにはピッタリだったみたいで、ソ連が成立するころには赤軍に分捕られ、赤軍でも大事に使われていました。

分捕られた「十五榴」は冬戦争にも「従軍」したのですが、フィンランド軍の奇襲を受けて、またまた分捕られちゃうのであります。

さすがの「十五榴」もこの頃には旧式化していました。
フィンランドの兵隊さんは、分捕り兵器を使わせたら世界一の名人なんですが、さすがに「十五榴」は古すぎって事で倉庫にしまってしまいました。

まあ、これが私の申し上げる「世界一周し損なった」所以です。

この後、継続戦争ではフィンランドはドイツと同盟してソ連と戦い、利あらずとなるとドイツ軍を追い出します(ラップランド戦争/ソ連を誤魔化すナアナアの戦争)。

ドイツ軍は北へ逃げノルウェイに脱出していくのですが、この時に「お土産」に「十五榴」を持たせてあげれば、めでたく世界一周だったのに。

馬でダメなら

ドイツ=フィンランド同盟が不利になって行くころ、大日本帝国の戦勢もどんどん劣勢になっていました。

太平洋を巡る戦いは、肝心の海軍が次々に負け戦を重ねていました。

昭和19年の6月には「マリアナ沖海戦」で多くの航空機と搭乗員を失い、続く台湾沖海空戦でも再建途上の航空隊に大損害を受けてしまいます。

ここに至って陸軍は、フィリピン防衛によって米軍を撃砕しようと決断するのであります。

そのために不足していた対戦車兵器として、使い道のなかった古い「三八式15糎榴弾砲」に着目いたします。

M4シャーマン

M4シャーマン
昭和20.2.28マニラにて

 

従来どおり、お馬さんに曳かせていたのでは、とてもとてもアメリカ軍の「M4シャーマン」には対抗できそうもありません。

そこで「九七式中戦車」の砲塔を取り去って、代りに十五榴を積んだらどうか?って考えた知恵者がいたんですな。

この当時「九七式中戦車」は各地の防衛拠点で必要とされていたので、とても改造に廻せる数はなさそうですが。

ちょうど車体の生産様式が変わって溶接構造(一式中戦車)に変更になり、改造に使いやすかったんでしょう。

こうして「四式15糎自走砲」が出来上がる事になります。

四式15糎自走砲(ホロ)の諸元は
全長:5.73メートル、全幅:2.3メートルm・全高:2.36m・重量(全備):16.3トン・装甲:車体&砲塔前面25ミリ、側面&後面8~20ミリ・乗員数:6名。

武装:12.6口径149.1ミリ砲1門(携行弾数28発?)・動力:V型空冷12気筒ディーゼル170馬力・最大速度:38キロ/時・航続距離:200キロメートル。

九七式中戦車

九七式中戦車

 

昭和19年7月22日に「兵政技機密第16号」で設計開始が命じられると、志水亢技師によって8月には設計完了という素早さ。

圧倒的な兵力と火力で上陸してくるアメリカ軍。
この強大な相手を迎え撃つ防衛戦では、大砲を秘匿・温存しても、コチラから発射した瞬間に反撃破壊されてしまいます。

大砲設置後の移動は困難ですし、敵の砲撃下で牽引砲を機動するなどは論外です。
ただ、大砲を自走化すればある程度の反撃は可能になりましょう。

「三八式十五糎榴弾砲」の射程の短さ(6000メートル)も機動性でカバーできるに違いありません。

57ミリや47ミリの「九七式中戦車」の主砲ではアメリカ軍の「M4」を破壊できません。
しかし「十五榴」なら戦車の装甲貫徹は不可能かもしれません(砲身が1.88mと短く初速が遅いから)が、大口径の爆発力で戦車を行動不能にする事ぐらいは出来るでしょう。

97式中戦車の走行

九七式中戦車の走行

 

こうして出来上がった「四式15糎自走砲」は、「ありあわせ」の作品でした。

ハッキリ言っちゃえば「九七式中戦車」の砲塔のない車体に明治時代の骨董品「三八式15糎榴弾砲」を載せただけ。
ただ単純に乗せただけではありませんが、自走砲としてはこれで十分だったのです。

装甲は「一式自走砲」の半分ほどしかありません。
前部と側方にはもうしわけ程度の装甲板をつけていますが、上と後ろはガラ空き。

まあ、各国の自走砲・突撃砲・砲戦車もこんなモンですけどね。
このテの兵器って、元になる戦車の砲塔の回転とか防御力とかを犠牲にしてでっかい大砲を積む、がコンセプトですから。重量の関係もあってね。

一式砲戦車

一式砲戦車(自走砲)

 

「四式15糎自走砲」の場合は重量の他に、こうしなければいけない(オープントップにしておく)大きな理由がありました。

それは一発36kgもある「三八式15糎榴弾砲」の砲弾を装填する乗員の苦労です。
密閉式の戦闘室だと、装填作業の間にアチコチぶつかって、装填の苦労が何倍にもなってしまいます。

あと、携行できる弾数は28発(24発説や12発との説もあります)しかありません。
しかも弾薬箱は車体後部の上面に「置いて」ありました。狙われたらひとたまりもありません。
戦闘室(天井と後ろの壁がないけど)に入れたところで、たいした装甲はありませんから、どうでも良いっちゃあ良いんですけどね。

三八式15糎榴弾砲そのものは大した変更はありませんが、直接照準器が付けられました。
こんなところに「対戦車兵器」としての期待の大きさが判りますね。

総生産台数はよく判りませんが、たぶん12両です。120両でも1200両でもありません。

車体も大砲もどちらも実戦に出て実績があるんですから、実用性を心配せずにガンガン作っちゃえばよかったと思うんですけど、たった12両です。

試作車両が完成した昭和19年8月。

既に絶対国防圏の一角のサイパン島は陥落していました。アメリカ軍はフィリピン奪還を狙う所まで来ていたのです。

車体・搭載砲ともに実績があるとは言っても、「四式15糎自走砲」は新作兵器ですから射撃・走行などのテストをして、至らない所は改修しなければいけません。

しかし「四式15糎自走砲」にその時間は与えられませんでした。

四式十五糎自走砲ホロ

四式15糎自走砲ホロ

 

「四式15糎自走砲」は大本営(電脳大本営じゃなくてホンモノの方だぞ)が決戦を呼号するフィリピンに投入される事になったのであります。

このために昭和19年12月8日、「四式15糎自走砲」を装備する部隊が編成されました。
「第一自走砲中隊」であります。

中隊の要員は野戦砲兵学校・野戦砲兵学校幹部候補生隊・戦車学校などの将校・下士官・兵を選抜して編成されました。

第一自走砲中隊は12月22日に「四式15糎自走砲」を3輌受領すると、フィリピンに向けて門司港を出港。

大日本帝国の陸海軍は台湾沖航空戦で300機以上を失っていました。

その上海軍はレイテ沖で大敗北を喰らって「艦隊」としての機能をほぼ喪失。なんとか生き残った艦艇さえもがほとんど傷ついていたのです。

この当時、本土と南方を結ぶ海上輸送の隘路は台湾とフィリピンのルソン島の間の「バシー海峡」でありました。
バシー海峡にはアメリカ潜水艦がゴロゴロいて、その上航空機も避けなければいけません。

第一自走砲中隊の乗った輸送船団は幸いにも潜水艦には遭遇はしませんでした。
中隊は昭和20年の元旦には無事サンドフェルナンド港に到着します。
ところが揚陸作業中にアメリカ海軍機の攻撃を受けてしまい、「青葉山丸」が沈没。
「青葉山丸」に積載されていた「四式15糎自走砲」1両が一緒に沈んでしまいました。

青葉山丸

青葉山丸

 

第1自走砲中隊はフィリピン防衛戦を戦う前から戦力が2/3になってしまったのですが、これでもこの時期のフィリピンへの輸送としては上出来の部類でしょう。

肝心の自走砲が2輌になってしまったので第一自走砲中隊は隊長の名前を取って「仮編自走砲独立鷲見文男中隊」と改編されます。

鷲見は「すみ」と読みます。もちろん臨時編成です。

「レイテ決戦」を呼号しながら、あっけなくレイテ島を失った大日本帝国軍は、山下大将が本来目論んでいたルソン島での持久抵抗の方針にも兵力不足をきたしていました。

急遽レイテに兵力を出してしまったからです。

山下奉文大将

山下奉文大将

 

目前に迫るアメリカ軍のルソン島上陸(1月9日上陸)に対して、たった2輌ですが、「鷲見文男中隊」の四式自走砲は貴重でした。

鷲見中隊には「独立戦車第8中隊」とともにクラーク地区の飛行場を守る任務が与えられました。

鷲見中隊の四式自走砲が任地に移動している間に、アメリカ軍はルソン島に上陸。

鷲見中隊の移動も危険視されましたが、1月20日には守備地域になんとか無事到着、即日任務につきました。
独立戦車第8中隊はクラークフィールド飛行場を、鷲見中隊は隣接するクラークマルコット飛行場を守備することになっていました。

鷲見中隊が守備に付いて1週間後の1月27日。

それまで自走砲中隊は守備陣地の構築と補強に全力を挙げていたのですが、ついにアメリカ軍が姿を見せました。
お決まりの猛砲爆撃の後、「M4シャーマン戦車」が飛行場に突入してきたのです。

M4シャーマン

M4シャーマン イラスト

 

激しい砲撃の着弾で砂が舞い上がり、加えて砲煙が立ち込めて周囲が見にくくなってしまい、帝国軍にとってはもっけの幸い的な状況となりました。

すなわち至近距離での戦闘となったのです。
四式自走砲は300m以内から一発撃っては移動、を繰り返します。

徹甲弾を使っているとは言っても、元が榴弾砲で砲身が短かくて初速が出ません。
欧州戦線では非力で、数で押すしかなかったM4シャーマン戦車ですが、四式自走砲にとっては難敵で、中々破壊できません。

それでも撃っては移動を繰り返し、粘り強く戦うと次第に攻撃が効果を発揮してくるものです。

生き残りの兵隊さんによる証言だと、7両の敵戦車を戦闘不能にしたそうです。
アメリカ軍は恐れを為したか、この日は一旦退却。

四式15糎自走砲2輌で米軍を撃退したのですが、中隊も無傷では済みませんでした。

中隊長他6名が負傷してしまったのです。

ただ、四式自走砲と一緒に守備していた独立戦車第八中隊の九七式中戦車(新砲塔チハ)は大損害を出していますが、四式自走砲は2輌とも無事。

1日置いて1月29日、アメリカ軍は再攻撃を発起します。

鷲見中隊は攻撃される独立戦車第八中隊の援護射撃が役割だったのですが、独立戦車第八中隊も機動戦闘を行って戦場が錯綜。

鷲見中隊は爆煙に紛れ込み、またしても移動しながらの砲撃で奮戦。

しかし、四式自走砲の活躍もここまででした。

2月8日には、敵戦車を迎撃すべく谷底にあった四式自走砲に対して、山上から機関銃が乱射されました。
戦車による攻撃は囮で、四式自走砲の弱点に気づいての「待ち伏せ攻撃」だったのでしょう。
これで乗員4名が戦死、車輌は大破炎上。

残された1両も3月初めにM4シャーマン戦車と交戦して撃破されてしまい(下画像の車輛だと思われますので、燃料切れなどで放棄された可能性もあります)、唯一実戦に参加した「四式15糎自走砲」は2輌とも失われたのでありました。

米軍に鹵獲された九七式中戦車と四式自走砲

米軍に鹵獲された九七式中戦車と四式自走砲

 

残された乗員は歩兵となって敗戦まで戦い抜きました。

わずか2輌ではありましたが、急遽作られた「間に合わせ」の自走砲がアメリカ軍に一泡吹かせた痛快譚であります。
その上、搭載されてたのは「明治の大砲」ですから。

「四式15糎自走砲」は沖縄戦にも投入されたとも言われますが、数も戦績も電脳大本営にはよく判りません。

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