レスキュー駆逐艦『濱風』
「浜風」とは甲子園名物の強い風のことで、幾多のドラマを生みました。
って、冗談です。私は殆ど高校野球を見ないし、見ても覚えてません。
雪風と同型
ここからは濱の字を使います。
「濱風」は駆逐艦陽炎型(不知火型とも)の13番艦です。
陽炎型は傑作駆逐艦「特型」の後継者と呼べるだけの実力を備えた、大東亜戦争に参戦した駆逐艦の中でも最強クラス。
姉妹艦には幸運の不沈駆逐艦「雪風」もいる、常に激戦に投入された駆逐艦たちでした。
Wikiから新造時の要目を紹介しましょう。
公試排水量2,500トン、全長 118.5m・全幅 10.8m、速力35ノット、乗員239名。
兵装は50口径12.7cm連装砲 ×3基6門・25mm連装機銃× 2基4門・61cm四連装魚雷発射管 2基8門・(次発装填装置付き、魚雷16本)・爆雷投射機 1基(94式/たぶんY砲と思われる)・爆雷投下台 6基(爆雷 18個、掃海具を降ろして36個)、九三式探信儀・九三式聴音機。
いかん、兵装について語りたくなってきました。ちょっとだけにしときますから、しばしお付き合いください。
入渠中の写真から
大日本帝国海軍が超絶的な性能を誇る「酸素魚雷」を開発し、秘密兵器として活用したことは良く知られているところです。
魚雷は大きな武器で、海戦ゲームなどでは乱射しているのを見かけますが、そんなにたくさん積めるものではありません。
画像をご覧下さい(左が艦首側)。
アリューシャン作戦で受けた損傷を修理している濱風の同型艦の「不知火」です。
2本の煙突の後ろの甲板上、前後をキャンバスで覆われたデカイのが4連装魚雷発射管です。
これは艦の前部にもあって、装填されている魚雷が計8本。
英米の駆逐艦だとこれを撃ってしまえば、魚雷はお終い(予備魚雷があっても、戦闘中に装填は不可能)なんですが。
発射管の後部にある平たい装置が、大日本帝国海軍の誇る「魚雷次発装填装置」です。
ここにも魚雷がセットされており、日本の駆逐艦は戦闘中でも迅速に次の魚雷をセットして発射することが出来ました。
ただ、良いことばかりではありませんでした。
戦闘中の被弾で誘爆してしまい、我が駆逐艦の生残性の低さの一因となってしまったのです。
電脳大本営的には画像の一番左側、干してある洗濯物の方に興味を惹かれるんですけどね。
水測兵器は開戦後
電脳大本営ではしつこく指摘していることですが、「陽炎型」も日本の駆逐艦の例に漏れず対潜兵装が軽視されていました。
九三式探信儀(アクティブ)と九三式聴音機(パッシブ)がソナーなんですけど、(Wikiに逆らっちゃいますが)新造時には装備されていません。
濱風の場合はミッドウェイ海戦後に本土へ帰ったときに装備したか?と推測されます。
また、爆雷投射機(94式/Y砲と思われます)も新造時には積んでないようで、ソナーと同時かもっと後でしょう。画像で検証できる「不知火」の場合でも同様です。
上の画像のさらに艦尾方向に振った写真です。
Y砲と言いますのは、Y字型をした両舷同時に投射できる爆雷投射装置です。
艦の後部中央に設置しますので、砲塔の後部で工事している部分に設置しているんじゃないかと推測しています。
さあ、それでは本題に戻ります。
濱風の戦歴
「濱風」の戦歴をざっと見ていきましょう。それで「レスキュー駆逐艦」と名付けた理由も見えてまいります。
濱風は昭和16(1941)年6月30日に竣工、半年も経たないうちに真珠湾攻撃に随伴。
その後の緒戦期では「第17駆逐隊」(他は同型艦の「浦風」「磯風」「谷風」)の一員として、機動部隊を護衛してラバウル攻略、ダーウィン空襲、ジャワ島攻略、セイロン沖海戦に参加しています。
濱風が一歳になる直前、ミッドウェイ海戦がありました。これが濱風の転機になります。
濱風は磯風とともに被弾炎上する空母「蒼龍」を看取り、「蒼龍沈没ス」の無電を送ると、乗組員を救助することになったのです。
このときの蒼龍は、火災が消えたり燃え上がったりしながら、かなりの時間浮いていたために海面からの救助ではありませんでした。
昭和17年8月7日、アメリカ軍がガダルカナル島に上陸しガダルカナルの攻防戦が始まりました。
濱風は8月18日から19日、第4駆逐隊司令有賀幸作大佐(大和撃沈時の艦長)指揮の下、陽炎型5隻(嵐、萩風、陽炎、谷風、浦風)を僚艦として陸軍の一木支隊先遣隊をトラックからガダルカナルへと輸送します。
この濱風が送り届けた一木清直大佐以下の陸軍約900名は、濱風がラバウルに入港するまでにイル川の渡河戦(8月21日)に失敗、全滅してしまいました。
陸上へのレスキュー
昭和17年8月24日、天龍・龍田・谷風・浦風・濱風と駆潜艇2隻は2隻の輸送船、南海丸と幾内丸を護衛してラバウルを出港。
東部ニューギニア作戦への兵力補給のためでありました。
連合軍機の空襲を排除して進撃、翌25日の夜にはミルン湾への上陸に成功したのですが、海図の不備で揚陸地点を間違えてしまいました。
上陸した海軍陸戦隊も陸上地図を持っていないという杜撰さで、上陸部隊はピンチに。
しかしまだ艦隊が引き上げていません。
軽巡が筆頭の「小艦隊」とはいえ、野戦部隊との砲力くらべなら圧倒的に有利なのです。
龍田、浦風には輸送船を護衛させてラバウルへ帰し、濱風をはじめとする護衛部隊は支援砲撃をおこないました。
しかし上陸させた部隊とは無線での連絡がはかどらず、効果は上がりません。
天龍・谷風もラバウルへ帰投すると、単艦残った濱風はミルン湾に突入して陸戦隊との信号連絡に努めましたが、悪天候と視界不良のため成功しませんでした。レスキュー失敗。
こうして東部ニューギニア作戦は敗北に終わり、濱風はガダルカナル戦域で活動することになります。
ガ島でもレスキュー
ガダルカナル島を巡っても、状況は思わしくありませんでした。
昭和17年8月7日にアメリカ軍が上陸してから5ヶ月、2度の総攻撃を行ってもヘンダーソン飛行場は奪回出来ません。
それどころか、輸送を妨害されて弾薬や食料の補給ができなくなり「餓島」と言われる惨状を呈します。
海軍は高速の優秀輸送船や駆逐艦・潜水艦まで輸送に投入しますが、かえって航空機と搭乗員とともに大量の駆逐艦を喪失することになってしまいました。
大日本帝国は昭和17年12月31日、異例の御前会議を開いてガダルカナル島からの撤退を決めます。
濱風は3次にわたるこの撤収(ケ号作戦)にすべて参加することになりました。「レスキュー駆逐艦」ですから。
最初の撤収は2月1日。駆逐艦20隻で、エスぺランスとカミンボで海軍250名、陸軍5,164名を収容。
損害は巻波が空襲で航行不能、巻雲が触雷により航行不能、処分。魚雷艇の襲撃もありましたが、これは難なく撃退しています。
2回目は2月4日、ガダルカナル島に到着した駆逐艦隊は予定通り5000名弱を収容しました。この時、陸海軍の脱出将兵を満載した駆逐艦の上空は陸軍の第11戦隊第1中隊の一式戦「隼」が護衛していました。
「隼」隊は二度のアメリカ軍機の攻撃で2機を喪失しましたが、3機を撃墜して艦隊を守りました。
また、魚雷艇が出撃してきましたが日本の水上偵察機7機が警戒にあたり、駆逐艦隊との接触を許しませんでした。
駆逐艦で救う
こうしてガダルカナルの陸軍部隊は最後の救出を待つばかりとなったのです。
しかし、「ケ号作戦」を担任する第八艦隊司令部は第三次の救出作戦を前に、駆逐艦の出撃を渋るようになったのです。
連合艦隊が駆逐艦の喪失増大を大きな脅威と見ていた(おかげで傑作松型が出現するんですが)ことが、第八艦隊にも影響したのだと思われます。
第八艦隊は第三次救出は駆逐艦ではなく、小型の舟艇を使って島伝いに脱出させようと言う計画を提案します。
ガダルカナルへの進出は、嫌がる陸軍を無理やり海軍側が引っ張ったのに、無責任もいいところのやり口です。
陸軍側は、海軍の作戦会議に出席して
「舟艇による脱出では成功の可能性が下がる」
と駆逐艦隊の出撃を要請します。
第八艦隊司令部は頑として認めず、議論が平行線を辿った時でした。
身勝手気ままな海軍もここまで腐ったか?と思われたのですが…
「濱風」の上井艦長が「雪風」の菅間艦長とともに立ち上がりました。
「予定通り駆逐艦でやるべきです!」
臨席していた駆逐艦長全員もこれに賛同し、第三次作戦も駆逐艦隊で行う事が決定したのでした。
上層部がこれほど腐っていても、わが身を盾に戦う戦士は腐ってはいなかったのです。
これぞ大日本帝国海軍の神髄です。
ガダルカナル島からの最後の撤収は2月7日、駆逐艦18隻で実施されました。
途中空襲で磯風が損傷して引き返しましたが、残りの艦は無傷で海軍25名、陸軍2224名を収容しました。
「ケ号作戦」は濱風をはじめとする駆逐艦たちの活躍で、3回の撤収で陸海軍あわせて13000名に及ぶ兵員を救出することになり、大成功の裡に終了したのです。
損害は駆逐艦1隻沈没、3隻の損傷のみでした。
マリアナ沖海戦
ガダルカナル撤退後も中部太平洋では激戦が続きました。
濱風はクラ湾夜戦で撃沈された旗艦神通(軽巡)の乗員を救助したり、輸送船の乗組員を助けたりしながら、空襲で損傷して内地へ帰っています。
そして昭和19年6月19日。パラオ諸島の近傍海域で日米空母艦隊決戦である「マリアナ沖海戦」が生起しました。
マリアナ沖海戦では「濱風」はタンカーに衝突して沈没した「白露」の乗員を救助、さらに正規空母並みの能力を備えていた改装空母「飛鷹」の乗員も救助。
10月には起死回生を狙った「レイテ沖海戦」が生起、もちろん「濱風」も勇躍参加。
シブヤン海では、「武蔵」と「金剛」の護衛に当たりましたが、「武蔵」は天文学的な米機の大爆撃で沈没。
敗残の帰投途中には「金剛」と同僚の駆逐艦「浦風」が米潜水艦に撃沈(金剛の場合はダメコンに疑問が残りますが)され、濱風はまたまた乗員救助。
「濱風」は戦闘よりも乗員救助に忙殺されることが宿命なのでしょう(浦風は一瞬で轟沈したので、救助が出来ませんでした)。
不運、不沈空母「信濃」
レスキューに次ぐレスキューで貴重な戦力の「歴戦の兵隊さん」を救い続けた濱風は、やっと本国に帰り着いたのですが休む暇は与えられませんでした。
大和型巨大戦艦の三番艦を改装した、帝国海軍の最後の希望ともいえる重装甲大空母「信濃」の護衛を命じられたのです。
「信濃」は横須賀海軍工廠で建造されていました。
進水も終えて艤装工事が着々と進行していたのですが、このころ上空を米軍偵察機が頻繁に飛ぶようになり、狙われていると心配した海軍が呉に廻航して完成させようとしたのです。
実際のところ、米軍機はこの段階では「信濃」の存在を把握できていませんでしたが…
また、呉への廻航は熟練作業員が不足し、勤労動員の学生ばかりになっていた横須賀の技術レベルを心配したため、と言う説もあります。
信濃はまだ完成していない状態で呉へ回航される事になったのです。
艦内には艤装工事を進める工員さん達も乗っていました。
虎の子の大空母を無事に内海へ入れるため、濱風(司令艦)・雪風・磯風の3隻が周りを固めていたのですが、米潜水艦「アーチャーフィッシュ」は護衛をかい潜り、4本の魚雷を発射しました。
魚雷は4本とも命中。
本来なら片舷に4本の魚雷を受けても、「信濃」は耐えきった筈です。いや、耐えるどころか、戦闘力を落とすことすらなかったでしょう。速力は少し落ちたかも知れませんが。
しかし、「信濃」はまだ完成にはほど遠く、操船に慣熟した乗組員がいたわけではありません。
乗っていたのは臨時の廻航要員と航海中にも工事を続ける工員さんたちだったのです。
耐えることができたであろうわずかな損害で「信濃」は実戦に参加することなく、その巨体を沈めてしまったのでした。
現在に至るまで、「信濃」は潜水艦が狩った最大の「獲物」であり続けています。
それはそれとして「濱風」は今回も懸命に乗員の命を救います。
途中、「濱風」水雷長はさらなる潜水艦の攻撃を恐れ、前川艦長に救助の切り上げを具申しました。
しかし前川艦長は
「ここに泳いでいる人達は、我々が助けなければ誰も助けてくれぬ。だが我々が救助中に攻撃を受けるかどうかは運だ。運に賭けて最後の一人まで助ける」
これまで幾度も激戦地を駆け回り、数えきれないほどの人員を助けてきたレスキュー駆逐艦「濱風」の面目に賭けて、と言い換えても良い名言でした。
そして前川艦長は賭けに勝ったのです。磯風が雪風とともに守り切った命は1,400名。
沖縄へ
大日本帝国の「本土」の一角にも敵の魔の手が迫っていました。(電脳大本営的には沖縄も硫黄島も本土です)
残り少ない大日本帝国海軍の艦艇は、基本的に陸揚げが可能な兵器・弾薬は下して、残りを浮き砲台として活用することが基本方針だったようです。
皆さんご存知の戦艦「大和」も例外ではなく、水上特攻への出撃直前の4月3日には少尉候補生が大挙乗艦して候補生教育がスタートしています。
この記事では主題と違いますので詳しく触れませんが、「大和特攻」が4月に入ってから、それもごく一部の人間の策謀で急遽決定された証拠であります。
ともあれ、成功の見込みもなく、可能性を少しでも大きくする努力も無く大日本帝国海軍最後の攻勢作戦が発動される事となったのであります。
濱風は軽巡「矢矧」に率いられて「大和」を護衛して出撃。
4月18日には坊ノ岬沖に到達、米軍機との死闘が始まりました。
「濱風」は第一次空襲で早くも直撃弾をもらってしまい、航行不能になります。空襲下で復旧を急いだものの、艦体中央部に魚雷を受け、真っ二つに引き裂かれて轟沈。
最後の海戦で歴戦の「レスキュー駆逐艦」はついにレスキューされる側に回ってしまったのでありました。
濱風の属する「陽炎型駆逐艦」は前型の朝潮型、改良版の夕雲型とほぼ同型と言っても良く、大東亜戦争では常に第一線で活躍を続けました。
3型あわせて48隻の大勢力を誇ったのですが、大東亜戦争を生き延びたのは幸運艦なのか?周りを沈没させる不幸艦なのか?議論は常に白熱する、あの戦闘妖精「雪風」だけでした。