目立たない功績7~標的艦たちの生涯~
軍艦の砲撃というものは当たらないモノでした。
敵は動き回るし波で揺れるし、そもそも発射する側だって安定してませんから。
最初の標的艦
だから、東郷平八郎は大敵に接近戦を挑み、手数も増やして(速射砲重視)完勝しました。もちろん、猛烈な訓練を積んだ上での事であります。
東郷元帥の後輩たちは、被弾を恐れず接近する勇気はどこかへ置き捨ててしまったようですが、猛訓練は元帥から引き継いでいました。
大日本帝国海軍の砲撃訓練は多くの場合、瀬戸内海の無人島を目標にしていました。
あるいは係留した旧式艦船を目標としていたのですが、どうしても動目標が撃ちたくなるのは、人情ってモノであります。
そこで考え出されたのが、標的幕を張った艀(はしけ)を雑役艦などが長~いロープで引っ張る、という方式です。
ただ、これも回避運動などは実物とは全く違いますし、速力も出ませんから不満がなくなったわけではありませんでした。
廃物利用
そんなところに「朗報」が飛び込んでまいりました。
大正11(1922)年、ワシントン海軍軍縮条約が誕生して主力艦(戦艦と巡洋戦艦)の保有に制限がかけられる事になったのです。
廃艦にしなければいけない弩級戦艦「摂津」を「標的艦」にする事が検討されることになりました。
しかし、残念ながら軍縮条約の規定を満たすためには主砲や副砲を撤去したり、速力を出なくする為に機関を減らしたりだけではなく、各所の装甲板まで取り外す必要がありました。
装甲板を取っちゃえば、演習用とは言え、砲弾を喰らって浮いてるわけには行きません。
結局せっかくの弩級戦艦も、やはり標的(別に準備された廃艦対象)を曳航するのが仕事の「標的艦」になってしまったわけです。
それでも「摂津」は元々が戦闘用の艦艇ですから、馬力もあり操縦性も良好でありました。
これが大正12年のことでありまして、艦艇類別の「特務艦」の中に新たに「標的艦」が設けられて「摂津」はココに類別されたのであります。
「標的艦摂津」は結構有名ですが、「廃棄戦艦・摂津」が初めから「標的」だったワケではないのです。
「動標的」になるのは、ワシントン条約の失効を待たなければいけなかったのでありました。
砲撃目標から爆撃目標へ
大日本帝国がワシントン条約から抜ける頃になると、「標的艦」に求められるのは戦艦や巡洋艦の砲撃目標から、艦上爆撃機からの投弾目標へと変化していました。
新兵器「飛行機」の威力が徐々に理解されるようになっていたのです。
コチラには大砲の弾が届かない遠くで敵艦隊を撃滅出来る可能性が出て来たのですから、これを利用しない手はありません。
まあしかし、
「向こう(敵)だって同じことを考えるじゃろう」
という普通の人間なら当然思うことを、マジで考えて対策を打った形跡がないのが、大日本帝国海軍の「エラい人」のおマヌケなところであります。
英米に遠慮する必要のなくなった標的艦「摂津」には、再び装甲が取り付けられる事になりました。
もちろん相手にするのは演習用の爆弾ですから、弩級戦艦であったころとは違う装甲です。
演習用の爆弾と言うのは、爆薬の代わりに砂やガラスの粉やモルタルなどが詰められた、重量30キロから50キロの模擬弾であります。
標的艦「摂津」にはこの演習用の爆弾の直撃に耐えられるよう、上部露天部分にDS鋼鈑が敷き詰められました。
艦砲の射撃(コチラも同様の演習砲弾です)にも対応して、舷側にも装甲を施しています。
ちゃんと基準も作られていまして、1万7千~2万メートルからの20cm演習砲弾、7千メートルからの15センチ演習砲弾、5千メートルからの14センチ演習砲弾にそれぞれ耐える事とされていました。
摂津の改装は装甲だけではありません。
自らを爆撃・砲撃の標的にして逃げ回るためにはさらなる進化が必要でした。
ラジコン装置
爆発しない演習爆弾や演習砲弾に対して、有効な装甲で備えてるとは言っても、直撃を喰らえばその衝撃は大変なものがあります。
「摂津」の乗員たちだって、貴重な訓練を積んだ水兵さんであります。
水兵さんの安全を確保するためか、優秀な水兵さんを養成する費用を惜しんだのか?
儂にはどっちでも良いのですが(水兵さんを大事にするなら、その動機は問いませぬ)、帝国海軍は標的艦・摂津の運用にあたり、遠隔操縦を採用することにしたのであります。
遠隔操縦装置は基本的な概念をドイツから導入して、昭和4年から実験が始められました。
この実験・研究はなんと足掛け6年もかかり、昭和10年になって漸く実用にゴーサインが出されていたものです。
他艦からの無線信号により、機関の始動・停止、増速・減速だけではなく取舵・面舵も可能っていう、標的艦としてはもってこいの装置でありました。
演習海面までは「摂津」の固有の乗員が操縦して行きます。老朽化してきた駆逐艦「矢風」が同行しています。
演習時には、乗員たちは随伴の「矢風」に移乗して遠隔操縦、と言う運用で我が海軍の砲撃技量向上に大いに貢献したのであります。
もちろん、初期の海軍航空隊の技量の向上にも貢献しています。
真珠湾はともかく、プリンス・オブウェールズやレパルスを屠った陰の功労者は間違いなく「ラジコン戦艦・摂津」であります。
ところが昭和14年ころになると、練習させてもらっている立場?の海軍航空隊から「摂津じゃあトロ過ぎて練習にならん!」と言う苦情が出るようになり、撤去していた機関を再搭載することになりました。
これで「ラジコン戦艦摂津」の速力は17.5ノットまで回復したのであります。
しかし、航空隊はあくまでも我儘でありました。新時代の新戦力となるべき意欲の表れとも取れますけどね、もちろん。
まあ、電脳大本営は大艦巨砲主義者ですから(笑)
すなわち
「無線操縦の不自然な回避行動では練習にならん」
と言うわけであります。
「ちゃんと摂津に乗り込んで操船しろ!」と言うことなんですね。
無茶を言う物です。
爆発はしませんが、時速400キロは軽く超える急降下で、重量50キロもあるものをぶつけてやるから、その的に乗ってろ、とはね。
摂津の水兵さんと同じ釜の飯を食った海軍サンの言うことではありませぬ。
しかし、大日本帝国海軍の「標的艦・摂津」乗り組みの水兵さんたちは勇敢で誠実で思いやりに溢れていたのであります。
貼りなおしてもらった装甲を頼りに、航空隊の要求を聞き入れて「直接操艦」に踏み切ったのであります。
その当時の「摂津」の要目は排水量2万650トン、全長163.3メートル、全幅25.5メートル、出力1万6千馬力(タービン2基)、速力17.5ノット。
因みに、戦艦だった頃の「摂津」の要目は排水量21,443 トン、全長160.6メートル、全幅25.6メートル、出力2万5千馬力、速力20ノット。
もちろん30.5センチ砲12門(50口径と45口径の混載ですから、摂津は「立派な弩級戦艦」ではありません)も積んでいました。
これは「神様(T郷神社、ってお宮さんにお祀りされておられます)」が悪いと言われていますが、それはまた別の話にいたしましょう。
これ、理解できた方はかなり立派な大日本帝国海軍フリークであります。
航空隊ばかりではなくて
摂津が「乗員直接操舵」に復帰したことによって、我が海軍航空隊の急降下爆撃と雷撃の技量は飛躍的に向上いたしました。
「標的艦摂津」は国内海面で主に海軍航空隊の雷・爆撃標的の任務を全うしていたのです。
大東亜戦争勃発後も外洋に出ることなく内海(瀬戸内海のこと)にあり、敗戦時まで健在でした。
摂津の功績は航空隊の技量向上だけではありませんでした。
帝国海軍では、軍艦の艦長職はエリートたちの通過点でありました。
一線級の大戦艦であれば将来の海軍大臣・連合艦隊司令長官が、その他の艦艇だったら提督となり艦隊を率い、建艦計画を定める役職に就くはずの「大佐」が艦長を経験して行くのでした。
「標的艦摂津」の艦長職も例外ではありません。
「摂津」艦長を経験して出世した人を、ざっと上げてみましょうか。
コロンバンガラ島沖海戦において旗艦「神通」とともに戦没された第二水雷戦隊司令の伊崎俊二中将(戦死後昇進)
回天部隊の指揮を執り、戦後は回天顕彰会を立ち上げて英霊の賞賛に努めた第7潜水隊司令の島本久五郎少将
フィリピン防衛戦で第33特別根拠地隊司令官となり8隻の甲標的を駆使して撃沈20隻の戦果を報告した「特殊潜航艇の育ての親」の原田覚中将
などが大佐時代に摂津艦長を務めているのです。
彼らは摂津艦長を経験することで、海軍において脇役がいかに重要かを学んだはずです。
しかもそれだけではなく、航空機からの攻撃を回避する方法も学んだのではないか、と考えられるのです。
彼らと並んで摂津艦長を務め、四航戦司令官としてレイテ沖海戦に航空戦艦「伊勢」「日向」を率いて参加した松田千秋少将がその典型例でしょう。
松田提督の四航戦はエンガノ岬沖で小沢オトリ艦隊(空母部隊)が壊滅した後も健在で、米軍機の集中攻撃を受けることになりました。
しかし、「伊勢」「日向」艦長は松田提督の薫陶を受けて爆撃回避に熟達していました。
「伊勢」と「日向」は山城、扶桑とならんで操艦の難しい(はっきり言えば設計ミス)艦とされていましたが、松田艦隊は見事に攻撃を回避しつつ多数の米軍機を撃墜し、無事に帰投することを得たのです。
松田は摂津艦長時代の経験をもとにマニュアル
「爆撃回避法」
を作成し、希望者に配布していたのであります。
「標的艦・摂津」はこうして、海軍全体に貴重な経験値を提供していたのです。
後輩たち
矢風
「摂津」をコントロールした駆逐艦「矢風」は有名ですが、「矢風」自身もまた標的艦とされました。
「摂津」は機関を乗せなおしても17.5ノットしか出ず、航空隊の演習用としては低速で運動能力も低かったため、高速がウリだった「元駆逐艦」を使おう、と言うことになったのです。
対弾防御のため重量が増加したとはいえ、元々は39ノット超の駆逐艦でしたから、今でも24ノットの高速を発揮でき、回避行動も摂津に比べればはるかに迅速。
「矢風」は昭和17年3月~5月に改装され、南方進出。
10月2日にはトラックへ到着し空母「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」の爆撃訓練に協力しています。
10月9日、機動部隊の爆撃訓練を終えてマロエラップ環礁へ回航、14日から23日まで基地航空隊の訓練に協力し、前線への輸送任務・護衛にも従事しています。
「矢風」は訓練・輸送、そして船団の護衛にまで奮闘を続けましたが、昭和20年7月18日 、横須賀港に係留中に敵艦載機の攻撃を受けました。
直撃弾を受けることはありませんでしたが、爆風や破片により損傷してそのまま敗戦を迎えました。
波勝
「摂津」の運用で大なる効果を確認しつつあった海軍は、矢風を標的艦へ改造するとともに、昭和17年度の計画で新たな「専用標的艦」の建造を行いました。
艦上爆撃機、艦上攻撃機の搭乗員大量養成が目的です。
コレが帝国海軍初の標的専用艦「波勝」です。
排水量1641トン・全長96.0メートル・全幅11.3メートル・速力19.3ノット。
12センチ単装高角砲2門・25ミリ3連装機銃・25ミリ単装機銃多数。
電探・水中聴音機も装備しているはずですが、形式不明。
これは輸送船団護衛にも使うつもりだった、と言うことでしょうかね?
「矢風」が属する「峯風型駆逐艦」より少し大きな艦型で、船首楼甲板を艦体全長まで延長した特異なカタチをしています。
この最上甲板が爆撃目標になります。
船体から幾本もの支柱で支えられていて、また舷外に張り出せる折り畳み式の支柱も装備しています。
この支柱を展張し、キャンバスを張って目標を大きくする工夫がされていました。
波勝の船殻重量は706トン、付加した装甲が240トンですが、爆撃目標の甲板を高く設定したためにトップヘビーとなり(甲板は重装甲されていましたから重量が嵩みます)、復元性に問題がありました。
トップヘビーの矯正のために、「波勝」の船底には固定バラストが積まれ、海水バラストタンクも装備されています。
昭和18年11月18日竣工、12月24日に呉港を出港してトラックに向かいました。
トラックでは爆撃訓練に従事していましたが、翌昭和19年2月17日のトラック島空襲で損害を受け、パラオに退避して工作艦「明石」に修理してもらいました。
3月以降はリンガ泊地やダバオで訓練に従事し、9月に台湾へ回航。
10月1日に基隆発の船団を護衛し10月6日に呉に帰着。
その後内海での爆撃訓練に従事し、無傷で敗戦を迎えました。
戦後は1年半にわたって復員業務に従事し、その後解体されてしまいました。
大浜
「波勝」19.3ノット、「矢風」24ノットの速力はまだまだ航空隊の要求を満足させるには不足でした。
海軍は昭和18年度計画により、新たな標的艦「大浜」を計画したのであります。
そんなことしてるより、一隻でも沢山輸送船つくれよ!って事も言えそうですが、私は追い詰められても訓練を重視する姿勢は評価されるべきだと思います。
排水量2,670トン・全長119.75メートル・全幅12.05メートル・速力32.5ノット。
12センチ単装高角砲2門・25ミリ3連装機銃4基12挺・単装20挺、3式二型爆雷投射機4基・爆雷投下軌条(10個搭載)1条・二式爆雷36個。
「大浜」は昭和20年1月10日竣工し、その後木更津沖で訓練待機。
7月からは宮城県の女川港で防空砲台(広い目標甲板に機銃を増設したようです)として活用されました。8月9日に敵機の攻撃を受け浸水して着底(被爆擱座とも横転ともいわれます)そのまま敗戦となり、解体されました。
標的艦「大浜」は同形艦が5隻計画されていましたが、2番艦が起工されたものの建造途中で中止となり、他の3隻は資材の集積すら行われませんでした。
もっと早く大浜型を作っていれば・・・
「目立たない功績」シリーズを紹介させていただきます。
目立たない功績1「測量艦と観測船」
目立たない功績2「一等輸送艦」
目立たない功績3「二等輸送艦と予備艦長」
目立たない功績4「海軍とクレーン」
目立たない功績5「陸軍特種輸送船、南氷洋に散る」
目立たない功績6「伊豆丸の奮戦」
あわせてお読みいただければ幸いです。