ツェッペリン飛行船団による英国本土戦略爆撃-第一次世界大戦下の『バトル・オブ・ブリテン』-第2章:緒戦の凱歌 1915 前篇
第2章:緒戦の凱歌 1915 前篇
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Zeppelin, flieg, 飛べ、ツェッペリン、
Hilf uns im krieg, 我らを勝利へ導き給え、
Flieg nach England, 飛べ、英国へ!
England wird abgebrannt, 彼の国は、業火で焼き尽くされん、
Zeppelin, flieg. いざ飛べ、ツェッペリン!
(第一次大戦中の戦意高揚歌より)
1914年8月、遂に第一次大戦の火蓋が切って落とされました。人類史上稀にみる災厄がここに幕を開けたのです。
戦闘の開始と共に、ドイツ陸軍は切り札である飛行船部隊を最前線へと送り出しました。
しかし、その結果は惨憺たるものに終わります。開戦から1月足らずで、陸軍が保有する6隻の飛行船の内、4隻までもが失われたのです。
主な原因は、白昼堂々、敵の戦闘部隊に爆撃を強行したことにありました。初期型のツェッペリン飛行船は図体が大きい割に飛行高度が低いため、容易に地上砲火の的となってしまったのです。
例えば1914年8月21日にはLZ22(陸軍名Z7)とLZ23(同Z8)が、アルザス戦線で後退中のフランス軍を捕捉、果敢に爆撃を仕掛けましたが、その際の対地高度は僅か800m。両艦は地上から撃ち出される多種多様な銃砲弾のためにガス嚢を打ち抜かれ航行不能となり、敵地への不時着を余儀なくされたのでした。
地上部隊を強襲するには、当時のツェッペリン飛行船の能力はまだまだ不十分だったのです。
《地上砲火を浴びて大破するLZ22》
以後、ドイツ陸軍は止む無く攻撃の主目標を防備の手薄な敵の都市に切り替えました。早くも8月25日にはLZ25(陸軍名Z9)がベルギーのアントワープを夜襲、爆弾の一発は王宮付近に命中して王族の心胆を寒からしめます。この出来事が、ベルギーの国民に深い衝撃を与えたことは言うまでもありません。以後、アントワープはツェッペリン飛行船による相次ぐ空襲に見舞われることになります。
1914年の年末までに、陸軍は新たに3隻の新鋭飛行船を受領し、攻撃の対象はパリやワルシャワなど、東西両戦線の大都市に拡大されていきました。ここに、世界初の戦略爆撃が開始されたのです。
《アントワープ上空のLZ25》
それにしても、開戦劈頭に4隻もの飛行船を喪失したことは、ドイツ陸軍にとって手痛い打撃でした。陸軍は「ツェッペリン飛行船有限会社」に新しい艦を大量に発注するとともに、当面の戦力不足を補うため、DELAG社の客船の徴発に踏み切ります。かくして、「ヴィクトリア・ルイゼ」、「ハンザ」、「ザクセン」の3隻が軍務に就くことになりました。彼女たちは比較的安全な地域での偵察や、訓練など、補助的な役割を主に担うことを期待されていました。陸軍としては、虎の子を失い、猫の手も借りたくなった、と言ったところでしょうか。
しかし、最新鋭の客船だった「ザクセン」は、上層部の予想を遥かに上回る獅子奮迅の戦いぶりを見せつけることになります。同艦の指揮をとるのは、エルンスト・レーマン艦長。「ザクセン」が客船だった頃、550回もの航海を無事故で成功させたDELAG社が誇るベテラン中のベテランです。彼は飛行船の長所と短所を知り尽くしており、戦闘においてもその豊かな経験と抜きんでた才能を遺憾なく発揮したのでした。
《エルンスト・A・レーマン艦長》
*写真は第一次大戦後のもの
彼は艦を可能な限り空高く飛ばし、雲を隠れ蓑に使ってゲリラ的な攻撃を仕掛けるという独特の戦法を編み出します。現場を知らない司令部のエリートには到底思いつかない、まさに奇策でした。
互いに気心の知れた名艦長と手を携え、ザクセンは暴れまくります。アントワープに800キロの爆弾を投下したのを皮切りに、ベルギーやフランスの諸都市を空爆するのみならず、ドーバー海峡を越え、イギリス本土への攻撃にも参加するのです。
戦前、DELAG社が独英間に国際航路開設を企画していたことに思いを致すと、これほど皮肉な巡りあわせがありましょうか。
レーマンとザクセンのコンビは、当時はまだ未熟だったドイツ陸軍の飛行船乗りたちに、ツェッペリン艦の運用方法の真髄を、行動で示したと言っても過言ではありません。
これがレーマンの輝かしいキャリアの第一歩でした。この後、彼はドイツ陸軍が新鋭飛行船を就役させるたび、その指揮官として活躍します。第一次大戦後はDELAG社に復帰、巨大客船ヒンデンブルグ号の爆発事故で帰らぬ人となるのですが、この話は後の章に譲らせて頂きましょう。
DELAG社から徴発された残りの2隻、「ヴィクトリア・ルイゼ」と「ハンザ」は、戦闘に参加する機会こそ殆ど無かったものの、訓練艦として十二分に活用されました。彼女らの存在がドイツ陸軍の飛行船戦力再建に果たした役割は非常に大きなものでした。何しろ、新型艦の建造と同時並行で、搭乗員を養成できるのですから。しかも客船時代以来の古参クルーから実践的な教育を受けられるとあっては、その効果は抜群というもの。
かくして、陸軍のツェッペリン部隊はDELAG社が築き上げた成果を存分に活用・継承する形で立て直され、発展していくのです。
《徴発された客船、「ハンザ」で訓練を受ける陸軍の飛行船搭乗員》
一方、ドイツ海軍の開戦時の飛行船戦力はお粗末極まりないものでした。実戦配備に就いていたのはLZ24(海軍名L3)のたった1隻のみ。
海軍は飛行船の採用が陸軍に較べて遅かった上に、せっかく受領した3隻の艦のうち2隻を開戦前に事故で喪っていたのです。とりわけ最初の1隻だったLZ14(海軍名L1)は、北海上空を航行中に嵐に巻き込まれ、操艦不能に陥り海上に墜落、搭乗員の大半を失うという悲劇を引き起こしました。これは、海軍が飛行船を艦隊決戦の補助戦力と位置付け、遠洋での哨戒や支援攻撃に用いようとしたことに起因します。
言うまでもなく、飛行船は悪天候に対して極めて脆弱です。対して、軍艦は時化の下でも作戦を遂行してナンボのもの。必然的に、海軍の飛行船は天候の替わりやすいバルト海上空で、不利な気候条件にも耐えて艦隊に随伴し、任務を継続することを強いられていました。つまり、陸軍同様、運用思想そのものに無理があったのです。実際、その後も3隻の新鋭艦が開戦から約1年の内に海難事故で喪われています。これは、戦闘による喪失(2隻)より大きなものでした。
《荒天を衝いて航行するLZ24》
《艦隊上空を護衛するツェッペリン飛行船》
一時は風前の灯かと思われた海軍飛行船部隊を再建し、英国本土を恐怖に陥れる強力な空中艦隊へと育て上げたのは、たった一人の若く、有能な将校でした。彼の名はペーター・シュトラッサー。大戦の勃発を1年後に控えた1913年9月、若干37歳でドイツ海軍飛行船部隊の指揮官に就任します。
《ペーター・シュトラッサー》
*イケメンだぜ。
尤も、シュトラッサー本人は当初この人事を左遷と捉えていました。無理もありません。着任時、可動状態にある飛行船は1隻も無かったのですから。飛行船部隊など、書類の上の存在に過ぎませんでした。弩級戦艦ヴェストファーレンを始めとする主力艦に乗り組んできた優秀な砲術士官にとって、満足のいくポストではないことは確かです。
シュトラッサーが着任してから1か月後、海軍待望の2隻目の飛行船、LZ18 (海軍名L2)が公試中に爆発炎上し、多数のクルーと共に喪われました。残された海軍の搭乗員は僅か3人。海軍飛行船部隊はいよいよ蜃気楼じみたものとなってしまいます。
DELAG社の旅客船は多数の乗客を乗せ、毎日のように安全にドイツの空を飛んでいる。海軍軍人になぜ同じことが出来ないのか?こう考えたシュトラッサーは、ツェッペリン伯爵の下を訪れます。「海軍飛行船部隊指揮官」の苦悩を見抜いた伯爵は、即座にDELAG社の幹部、フーゴー・エッケナーを顧問としてシュトラッサーに付けることを約束します。
エッケナーは伯爵の片腕として、かつて相次ぐ事故により存亡の危機に瀕したDELAG社を救った有能なブレーンであり、同時に客船「ドイッチェラントⅡ」や「シュワーベン」の指揮を執った経験豊かな船長でもありました(詳細は1章後編をご参照下さい)。まさに、これ以上ない適任です。
《右から、シュトラッサー、ツェッペリン伯爵、エッケナー》
シュトラッサーとエッケナーは意気投合し、互いをニックネームで呼び合う仲になります。英文資料から直訳すると、シュトラッサーは「神」、エッケナーは「法王」と呼ばれていたようですが、これではあまりに大仰すぎますね。日本語の文脈に置き換えるとどう表現するのが適切なのか、正直私には良く分かりません。
エッケナーは、飛行船運用の理論と実践について、懇切にシュトラッサーに手ほどきをしました。特に悪天候に対する脆弱性と気象情報の大切さを、繰り返し若き「飛行船部隊指揮官」に説きました。これを受けてシュトラッサーはドイツ沿海部に気象観測所を設置、北海の気象情報を3時間ごとに更新するシステムを構築します。当時の技術では、残念ながら遠洋の情報を得ることは出来ませんでしたが、それでも大きな前進でした。
エッケナーは、続いてDELAG社の客船に乗り組み、操船の実際を体得することをシュトラッサーに提案します。シュトラッサーがこれに飛びついたことは言うまでもありません。
シュトラッサーが乗り組んだ客船はあの「ザクセン」、船長はもちろん先述のエルンスト・レーマンです。幸運もここまで来ると星の巡りとしか言えませんね。
フネも無ければ、部下もロクにいない。「司令部」にいても暇なだけ。この逆境が、却って幸いしました。肩書ばかりの「飛行船部隊指揮官」は、ツェッペリン伯爵とその部下たちから薫陶を受け、本物の空中艦隊の提督へと成長を遂げていきます。
ツェッペリン伯爵は、若き海軍将校に繰り返し自分の考えを説いて聞かせました。それは、次のようなものです。
飛行船のとび抜けた航続力と積載量を活用して、遥か遠方にある敵の心臓部を猛爆する。艦隊の消耗を抑えるため、攻撃は天候の良い夜間に、高空から行われる。これならば、難破事故はもちろん、敵の高射砲や邀撃戦闘機による損害も最低限に抑えられるであろう。但し、夜中に高高度から爆弾を投下するとなれば、精密爆撃は難しい。よって、目標はさしあたり産業地帯や港湾施設などの大規模なインフラが適当である。しかし、敵国民に与える心理的なダメージの大きさを考えるなら、もっと有効な目標があるのではないか?
そう、例えば…大英帝国の首都ロンドンのような。
シュトラッサーはたちまち伯爵のアイデアを飲み込み、精緻化して海軍上層部へ具申しますが、反応は冷たいものでした。二度の相次ぐ事故で、彼らは飛行船に対して再び否定的になっていたのです。それでもこの士官は諦めません。今やツェッペリン伯の夢に心酔していたのです。執拗な要請に根負けした海軍はもう1隻、飛行船を建造することに同意しました。
シュトラッサーは、直ちにツェッペリン飛行船有限会社に対し、自らが欲する飛行船の性能を提示します。実用高度3,000メートル、最高速力100㎞/h、500㎏の爆弾を積んで英国まで飛べること。ツェッペリン会社の技術陣にとって、これはとんでもなく高いハードルでした。当時最新鋭の量産型軍用飛行船、H級に比較して、速力と搭載量で3割増し、高度に至っては5割増しです。
シュトラッサーが要求したスペックはしかし、冷静かつ緻密な計算に基づいたものでした。第一次大戦直前期にあたる当時、まだまともな高射砲は存在せず、対空射撃技術すら確立されていません。高度3,000メートル程度をとれれば、地上砲火など恐るに足りないのです。一方、邀撃戦闘機はカタログ上、最高速力150㎞/hを出せるとはいうものの、高度3,000メートルに上昇するまで約30分を要するという有り様。しかも1914年の時点で、夜間飛行の技術は存在しませんでした。従って、シュトラッサーの要求が実現された暁には、大英帝国の防空システムは無効化され、その本土はドイツ空中艦隊によってなすがままに蹂躙されるところとなるでしょう。
実際、英国のツェッペリンに対する備えは全く不十分なものでした。開戦時にブリテン島に配備されていた高射砲は僅か30門。しかもそのうち25門までが有効射高1,000メートルに過ぎない1ポンドポンポン砲だったのです。航空機は総数50機を揃えていたものの、機関銃で武装しているものはたったの2機。これでは、新型ツェッペリンに対抗することなど、土台無理な話というもの。
《1ポンド ポンポン砲》
ツェッペリン会社の開発チームは、大いに奮起しました。伯爵子飼いの天才技師ルートビッヒ・デュールを筆頭に超人的な努力を見せ、僅か数ヶ月で設計を完成します。
かくしてドイツ初の本格的な戦闘艦の量産規格であるM級が誕生したのでした。
一番艦であるLZ24(海軍名L3)が初飛行したのは、開戦を3か月後に控えた1914年5月。シュトラッサー本人が乗り込み飛行テストを繰り返し、期待通りの性能であることを確認します。今やドイツは対英戦における強力なカードとなり得る戦略的兵器を手に入れた訳ですが、そのことを本当に理解している人間はドイツ軍内でも少数でした。
《M級1番艦 LZ24 海軍名L3》
それでも、シュトラッサーには確信がありました。飛行船は戦争の様相を一変させる新兵器であり、いずれ海軍上層部もこの事実を認めざるを得なくなるだろう、と。ならば、いま自分が為すべきことは、優秀な搭乗員の確保に他ならない。なんとなれば、飛行船は2~3ヶ月で建造できる。だが、人材育成となるとそう簡単にはいかない。そして、経験を積んだクルーを欠いた飛行船部隊など、張子の虎に過ぎないのだ。
このように考えたシュトラッサーは、躊躇なく行動を起こしました。親友であり、飛行船運用技術の師でもあるフーゴー・エッケナーを海軍飛行船訓練部隊の監督官として招聘するとともに、DELAG社の客船「ハンザ」をチャーター、搭乗員の大量養成に取り掛かかったのです。これが如何に先見の明のある策であったかは、間もなく明らかになるでしょう。
「ハンザ」は開戦後に陸軍に徴発されますが、エッケナーは海軍訓練部隊に残り、50組(50隻分)、1,000名の搭乗員を養成することになります。
陸軍同様、海軍の飛行船部隊建設も、ツェッペリン伯が築き上げた成果を抜きにしては語ることが出来ないのです。
《「ハンザ」で訓練を行う海軍搭乗員》
*ブリッジ上、中央にシュトラッサー、左隣にツェッペリン伯
1914年8月、第一次大戦が開始されると、「飛行船部隊指揮官」シュトラッサーは自らLZ24(海軍名L3)に搭乗して海上での哨戒行動や、艦隊への随伴任務に勤しむことになります。飛行船「部隊」といっても戦力が絶望的に不足しているのですから、或る意味当然なのかもしれませんが、単に当時の海軍飛行船戦力のお寒い実情の証左であるだけでなく、シュトラッサーの徹底した現場精神を体現しているように思われます。
それにしても、開戦後の数ヶ月はシュトラッサーにとってこの上なくもどかしい時期であったでしょう。飛行船は専ら北海上空を戦術的哨戒任務の為に飛び回っているだけでしたから。というのも、大英帝国海軍に数で劣るドイツ大洋艦隊司令部は艦隊温存主義を採り、港に籠って極力敵との戦いを回避する戦略に出た為、飛行船部隊は戦闘に参加する機会すら殆ど与えられなかったのです。
限られた例外と言えば、開戦直後に生起したヘルゴランド海戦に、シュトラッサーの乗り組むLZ24(L3)と、就役直後の僚艦LZ27(L4)が参加した程度。しかも、戦闘はわずか数時間でドイツ側の一方的な敗北に終わり、「飛行船部隊」は何らの活躍も出来ず仕舞いだったのです。
《英国艦隊と交戦するツェッペリン》
しかしながら、ドイツ艦隊のある種の「不甲斐なさ」が、結果として飛行船戦力の飛躍的な強化に繋がるのですから、歴史というものは実にパラドキシカルです。東西両戦線で絶対的な数的劣勢を覆して奮闘する陸軍に対して、戦うことを避ける海軍。戦略としては如何にそれが正しいとはいえ、栄えあるドイツ帝国の軍人であることに誇りと自負心を感じる海軍の提督達は、次第にフラストレーションを高めていきます。
「何らかの新兵器を用いて、英国海軍を、否、大英帝国そのものを震撼せしめるような戦果を収め、ドイツ海軍の威信を取り戻したい」
彼らがそのような考えを持つに至るまで、それほど時間はかかりませんでした。そして、ドイツ海軍指導部には、二つのカードがありました。言うまでもなく、一つは飛行船、もう一つはUボートです。二次元(水面上)の戦力では大英帝国海軍に抗しがたいと考えたドイツ海軍は、ここに、三次元(空中と海中)の戦いへと移行することを決断したのです。
《空中と海中のパイオニア、ツェッペリンとケーニヒ》
かくして、シュトラッサーの飛行船部隊は飛躍的に拡充されていきます。1914年の年末までに部隊は新たに5隻のM級戦闘艦を受領、開戦前から保有していたLZ24(海軍名L3)とあわせて6隻の空中艦隊が編成されました。搭乗員は予め養成されていたため、各艦は就役後直ちに臨戦体制に入ります。シュトラッサーの読みは見事に的中しました。
また、M級の構成材は3番艦以降、アルミからジュラルミンへと変更され、性能を落とすことなく強度が向上したことも付言しておかなくてはいけません。
一方、大打撃を受けていた陸軍の飛行船戦力も、1915年の年初には9隻にまで回復します。このうち、新鋭艦は5隻(M級4隻、N級と称される一品物の試製高性能艦1隻)で、その他は開戦前に完成した旧式艦が1隻、DELAG社から徴発した客船が3隻(「ザクセン」含む)という構成でした。陸軍も海軍に劣らぬ数の新鋭艦を揃えたのです。
かかる状況を背景に、陸軍は海軍に対して英国本土爆撃の共同作戦を持ちかけます。シュトラッサーに散々焚き付けられていた海軍上層部はこれを受諾。いよいよツェッペリン伯爵の念願が叶う時が来たかと思われました。
ところが。英国本土空襲には意外なところから「待った」がかかるのです。難色を示したのはドイツ皇帝、ウィルヘルム2世その人でした。ビクトリア女王を祖母とするカイザーは、当然のことながら英国の王室と血縁関係にありました。また、戦線から遠く隔たった街に住む市民を無差別に標的にするという発想も、受け入れがたいものだったのです。お世辞にも名君とは言えないドイツ皇帝ですが、人間性は髭の伍長よりも遥かにマシだったのかもしれません。
《ドイツ皇帝 ウィルヘルム2世》
しかし、戦線が膠着し、凄まじい失血を伴う長期持久戦が現実のものとなると、悠長なことも言っていられなくなります。「戦いはクリスマスまでに終わる」、そう信じていた多くのヨーロッパ人の一人であったウィルヘルム2世は、いつ果てるともしれない血塗られた戦争に早期に終止符を打つべく、遂に非常にして非情なる手段に訴えることを認めます。1915年、1月10日のことでした。
それでも彼は、英国空爆に際して幾つかの条件を付けました。英国王室の宮殿および文化的建築物を目標としないこと、ロンドン市街を攻撃しないこと、事前に英国政府へ警告を発すること。
かくして、限定的ながらも、英国本土に対する爆撃がいよいよ実行に移されることになったのです。
《英国本土初空襲のため、ドーバー海峡を越えるツェッペリン艦隊》
*戦意高揚のための想像画。右下に描かれているのはツェッペリン伯の肖像
1915年1月19日、午前9時38分。シュトラッサー自らが乗り込み、LZ31(海軍名L6)は、ノルドホルツ基地を出撃しました。高度300mに達すると、速力を時速50㎞/hに上げます。針路は2-8-0。その先に、目指す英国本土があるのです。ドイツ政府は既に飛行船による空襲の開始を通告しており、当然ながらイギリス軍は最高度の防衛体制を敷いていることが予想されました。
《LZ31 海軍名L6》
《ノルドホルツ基地》
*海軍飛行船部隊の母港の一つ
《ノルドホルツ基地の格納庫》
*風向に合わせて360度回転する。サンダーバードに出てきそう。
LZ31(L6)は北海沿岸でハンブルグ基地から発進したLZ24(L3)、LZ27(L4)と合流、3隻の編隊を組んで洋上へと乗り出します。午後2時のことでした。
しかし、途半ばでLZ31にエンジントラブルが発生、落伍を余儀なくされたため、残された2隻で敵地へ向かうこととなります。悲願の英国本土初空襲に参加できなくなったシュトラッサーの胸中は察するに余りがありますが、最高指揮官が最前線にホイホイ出てくるのは如何なものかと個人的には思います。特にドイツ海軍飛行船部隊の場合、シュトラッサー個人の能力とリーダーシップに依存するところが極めて大きかったので、万一彼を失えば、組織そのものが瓦解してしまうでしょう。そして、この懼れは、後に現実のものとなるのです。
尤も、そのリスクは恐らくシュトラッサー本人が誰よりも理解していたはずで、それでも出撃したのは、作戦の成功に余程の自信を持っていたのか、実戦を知らない者に正しい意思決定は出来ないと考えていたのか、或いは、将兵と苦楽を共にしてこそ真の指揮官たり得るという信念があったのか。この辺の判断は拙文を読んで下さる皆様にお任せしたいと思います。
いずれにせよ、シュトラッサーは重要な作戦では常に最前線に立ち続け、遂に英国上空にて壮烈な戦死を遂げることになるのですが、これはまた後の話。
筆が滑りましたが、LZ24(L3)とLZ27(L4)の2隻は無事ドーバー海峡を突破、夜の帷が下りるのを待ってヤーマスやリンなど英国南東部の港湾都市を襲撃して回り、合計で18発の50㎏焼夷弾と7発の小型爆弾を投下しました。
これにより4人の人命が失われ、負傷者は16人を数えました。リンでは発電所が破壊されるなど、物質的な損害額は7,740ポンド(現在価値にして約4.4億円)。大英帝国の国力に鑑みれば蚊に刺された程度のダメージでしたが、心理的な効果は絶大であったことが間もなく明らかになるでしょう。
《LZ24(L3)とLZ27(L4)の襲撃経路》
《英国初空襲》
《破壊されたリンの市街地》
また、この空襲により、英国の防空体制は全くの無力であることが露呈されました。監視哨からの報告で司令部はツェッペリンが接近中であることを察知しましたが、連絡網の不備のため、情報の収集と展開は終始後手に回りました。結果、多くの街は全く不意にツェッペリンの攻撃に晒され、静かな夜を過ごしていた市民の頭上に、突如爆弾の雨が降り注いだのです。
地上の防空部隊は装備が貧弱で何の役にも立たず、戦闘機隊は2機が緊急発進したものの、敵を見つけることすらできずに燃料切れで基地へ引き返すほかありませんでした。結果、2隻の飛行船は全くの無傷でドイツへと帰還したのです。
戦いは、あまりにも一方的でした。戦闘と言うよりは、殺戮と言った方が良いくらいに。
「ツェッペリン、英国本土を空襲!」。一夜が明けると、世界の新聞各紙はこぞってトップニュースで取り上げました。
ドイツのケルン・ガゼット紙は2隻のツェッペリンが英国を爆撃したことを大々的に伝え、Fremdenblatt紙は飛行船搭乗員が成し遂げた「偉業」に最大限の賛辞を惜しみませんでした。
一方、英国ではタイム紙が「ツェッペリンは兵器では無く、無辜の市民の命を野蛮なやり方で奪う殺戮機械であることが明らかとなった。…奴らはまた来るだろう。…我々は自らの手を血で汚す戦いはしない。…我々は名誉あるやり方で戦う」と書き立て、国民の戦意を煽る一方で、デイリー・メイル紙は「ツェッペリンはあらゆる町や村を空から襲撃することが出来る。これに対して防御手段を講じることは極めて困難である」と悲観的な論調の記事を載せました。
両紙のスタンスは、当時の英国民のアンビバレントな心理を良く表していると言えましょう。彼らは、罪のない女や子供が攻撃の対象とされたことに強い憤りを覚えると共に、それを防ぐ手立てがない現実にやるせない想いを抱いていたのです。このような国民感情は、やがて「ツェッペリンによる爆撃は非人道的かつ非文明的な行為であり、即刻中止されねばならない」という世論を生み出し、メディアや、政府高官もこれに同調していきました。
しかし、ドイツ側がこれを受け入れることはありませんでした。シュトラッサーは次のように記しています。「今日、“非戦闘員”なる者は存在しない。近代戦とは総力戦なのだ。」ツェッペリン伯爵もまた、英国の世論について記者から尋ねられた際に、次のように答えています。「イギリス人たちは、自分たちが同じものを造れないからと言って、非人道的だなんだと言いふらし、我々ドイツ人に飛行船を手放させようと目論んどるのじゃろう。」
今や、英国本土に「安全地帯」は存在しなくなりました。「大艦隊(グランド・フリート)」がある限り、ブリテン島が戦場になることは無い-つい昨日まで、イギリスの善男善女はそう信じていたのです。彼らにとって、戦争はまさに、対岸の火事でした。それが単なる迷妄に過ぎなかったことが否応なく明らかになりました。かくして、たった2隻のツェッペリンから降り注いだ25発の爆弾は、大英帝国の安全神話を跡形もなく吹き飛ばしたのでありました。
《空襲翌朝の英国の新聞》
*ツェッペリン、東海岸を攻撃
《空襲翌朝の英国の新聞その二》
*ドイツの空中艦隊、英国を攻撃す
《空襲翌日のアメリカの新聞》
*ドイツの空中艦隊がノーフォーク地方に侵寇、6名を殺害
《新聞に掲載されたヤーマスの惨状》
*英国民に深い衝撃を与えた。
以後も、ツェッペリン飛行船による英国本土空襲は繰り返され、1915年4月までに計6回(初空襲含む)の攻撃が行われました。これにより59発の50㎏焼夷弾と163発の小型爆弾が投下され、2万3千ポンド(約13億円)の損害が生じました。英国の地上部隊と邀撃戦闘機隊は相変わらず無能ぶりを発揮し続け、この間、英国本土攻撃任務に従事して撃墜されたツェッペリンは皆無。ドイツの飛行船乗りを悩ませたのはもっぱら天候不順やエンジントラブルでした。逆に言うと、それさえなければツェッペリンは英国上空を我が物顔で飛び回り、任意の地点に爆弾の雨を降らすことが出来たのです。
いえ、もう一つ、ドイツの飛行船の行動を大きく制約するものがありました。ロンドン攻撃を禁じた皇帝ウィルヘルム2世の意志です。しかし、地上戦での膨大な損害と、対英航空作戦の効果の高さに、さしもの皇帝も考えを改めざるを得ませんでした。1915年5月、ウィルヘルム2世は軍の要請を受け入れ、ロンドンに対する空爆を許可しました。
ここに、戦いは新たな局面を迎えるのです。
後編へ続きます。
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