帝政ドイツの通商用潜水艦 -その知られざる航跡-
1. 英国の海上封鎖を突破せよ!
前世紀、潜水艦は二度にわたる大戦で輸送船を襲う海の狼として猛威を振るいました。とりわけ「Uボート」の名で知られるドイツ海軍のそれは、海洋国家たる大英帝国の重大な脅威となり、同国の軍需生産のみならず国民生活までもが累卵の危に瀕したことは、広く知られるところです。
一方で、際立った隠密性を生かして海上封鎖を潜り抜け、中立国と交易を行った潜水艦が存在したことは、わが国では殆ど紹介されていないのではないでしょうか。
通商用潜水艦(merchant submarine)と呼ばれるその船は、第一次大戦下に、外ならぬ帝政ドイツによって建造・運用されました。
本稿では、限られた紙幅ではありますが、このパラドキシカルな艦種の誕生から終焉までを素描します。
開戦から1年半を経た1916年3月、北ドイツの港湾都市、フレンスブルクの民間造船所で、1隻の潜水艦が進水しました。「ドイッチェラント」と命名されたその船は、全長65メートル、全幅8.9メートル、排水量2,300トン。当時ドイツ海軍の主力だった航洋型潜水艦MS級(全長70メートル、全幅6.3メートル)に比べると、ずんぐりした船体をしているのが分かりますね。それもその筈、この船の役割は外国と貿易をすることにあり、船内に最大700トンもの荷物を載せることができる輸送スペースを備えていたのです。
ここで彼女を「艦」ではなく「船」と呼んでいるのには理由があります。なんと、「ドイッチェラント」はれっきとした民間船として扱われていました。既に書いたように私企業(フレンスブルク造船所)によって造られ、運航を担当するのは北ドイツロイド船舶会社(現ハパック・ロイド)の子会社、ドイツ大洋海運会社(Deutsche Ozean-Reedrei)。もちろん武装はありません。これは、かろうじて中立を保っているアメリカ合衆国との通商を維持するために、ドイツ側の当局者が考えに考え抜いた苦肉の策だったのです。
*通商用潜水艦 ドイッチェラント
*ドイッチェラント船内
当時、大英帝国本国艦隊に数で圧倒されたドイツ大洋艦隊は、艦隊温存主義に則り母港に立て籠もることを強いられていました。当然、北海からバルト海に至るドイツ沿岸海域の制海権は連合軍の手に帰し、海上交通は完全に遮断されて久しく、国内に天然資源の乏しいドイツの経済は日に日に貧窮の度合いを深める一方。
ドイッチェラントに課せられた使命は、ですから非常に重大でした。強大な英国艦隊の封鎖を突破して6,000キロの彼方にあるアメリカまで辿り着き、戦争継続に不可欠な希少金属を入手、再び敵の目をかいくぐってこれを本国へ持ち帰ること。それこそが彼女の存在意義だったのです。
2. ささやかな成功
1916年6月23日、ドイッチェラントは遥かな新大陸を目指してブレーメンを出港します。指揮を執るのは、北ドイツロイド船舶会社から出向してきたパウル・ケーニヒ船長。乗員は船長以下士官4名と船員25名の総勢29人でした。
同船は潜行して敵の警戒海域を通り抜けた後、ドーバー海峡をも乗り越え、7月9日、無事米国東海岸の港湾都市、バルチモアへ到着します。
当時、米独の政府関係は愈々緊張の度合いを増していましたが(ルシタニア号事件は前年5月)、バルチモアの市民はこの奇妙な「商船」を意外にも歓迎したようです。
入港翌日のバルチモア・サン紙は次のように報じています。
「ドイッチェラントはこれまで設計された中で最大級の潜水艦である。…彼女は16日でブレーメンからやってきたが、これは普通の貨物船とさして変わるところがない。武装はなく、運航は民間企業が行っている。積み荷は500トンの化学染料と山のような郵便物で、外にかなりの量の金塊を持ってきたという話もある。皇帝ウィルヘルム2世からウィルソン大統領に宛てた親書を携えているとも聞くが、これは疑わしかろう」
「『ハロー、ドイッチェラント!』記者が声を掛けると、ブリッジもハローと返事をした。
『航海中アクシデントはありましたか?』と問うと、『何もありませんでしたよ』との答え。
『イギリスやフランスの軍艦を見ましたか?』『一隻も見ませんでしたね』
『本当ですか?追跡されたりは?』『ですから、本当にただの一隻も出会わなかったんですよ』
このとき、船にちょっとしたトラブルが生じたため、インタビューはここで打ち切らざるを得なかった」
*バルチモアで記念写真を撮るドイッチェラントの乗員 中央が船長
*ケーニヒ船長
ドイッチェラントは8月2日までバルチモアに留まった後、340トンのニッケル、93トンの錫、348トンの天然ゴムを積んで帰途に就きました。
700トンの積載量を超えてるって?オーバー分は天然ゴムを船体の外に括り付けていたようです。
復路も難なくこなした同船は、8月24日にブレーメンへ入港しています。
往復で15,650キロに及んだ航海で、潜行していたのは350キロだけでした。ソナーも対潜哨戒機も存在しない「時代」ゆえの話なのか、ケーニヒ船長以下の乗員が優秀だったのか。恐らく、その両方なのでしょう。
持ち帰った積荷の価値は1,750万ドルに上り、これはドイッチェラント建造費の4倍に相当します。(たった1回の航海でモトをとるなんて凄いですね)
何より、これらの資材は、ドイツの軍需産業の数か月分の需要を満たすことが出来るものでした。
かくして同船は、見事にその役割を果たしたのです。
*ドイッチェラントのバルチモア入港を記録した映像
3. 英仏の阻碍を超えて
ドイッチェラントの成功は、敵国であるイギリスとフランスにとって到底看過しがたいものでした。両国は直ちに米国に抗議します。臨検ができない潜水艦を通商に用いることは国際法上認められず、従って、商船として扱うべきではないと。
これに対して米国は、例え潜水艦であろうと、武器を帯びていない限り商船として貿易に携わることを禁じる理由はないとして、英仏の訴えを退けました。
こうなれば行動あるのみです。英国海軍は1916年9月、アイスランド沖を航行していたドイッチェラントの姉妹船、ブレーメンを撃沈します。同船の乗員は全員が死亡。戦時下において国家の意思を体現するのは、国際法でも外交交渉でもなく、武力であることを示しました。
それでも、ドイツにとって米国との貿易は続行されねばなりません。ブレーメンの悲劇から一か月後、ドイッチェラントは再び米国を目指して出港します。
ドイツ海軍はしかし、彼女を無為に単独で送り出しはしませんでした。最新鋭のUボート、U53を先行して北米沿岸海域へ派遣、陽動作戦を展開したのです。同艦は連合国の船舶5隻を水底深く葬り去るなど、大いに暴れまわり、敵の警戒を一手に引き受けます。ブレーメンの撃沈に対する、これがドイツの回答でありました。
その隙をついて、ドイッチェラントは無事に米国のニューロンドン港に辿り着きます。時に1916年11月。今回も大量のニッケル、錫、生ゴムを積み込み(6.5トンの銀も運んだという説もあり)、同年12月、母国へと帰ったのでした。
英国海軍もってしても、通商用潜水艦の行く手を阻むことはできない-ドイッチェラントの活躍は、世界の人々にそう信じさせるに十分なものでした。
*U53
*ニューロンドンに停泊するドイッチェラント
4. 通商用潜水艦の終わり
ドイッチェラントの健闘に、一縷の希望を見出したドイツ当局は、同型艦の量産を決定、1917年の初頭には6隻が建造の途上にありました。
しかし、これらの船が通商に携わることはありませんでした。
1917年4月、米国がついに連合国の側に立って参戦すると、存在意義を失った彼女たちはドイッチェラントと共にドイツ帝国海軍へ編入され、その長大な行動能力を生かして潜水巡洋艦として運用されることになったのです。
ドイッチェラントはU155と改名され、6門の50センチ魚雷発射管と2門の15センチ単装砲を装備、遥かな遠洋へ獲物を求めて出撃しました。同艦は結局、3度の戦闘航海で43隻、12万トンもの敵船を撃沈する戦果を挙げ、戦争を生き延びます。そして戦利品として英国へ引き渡され、ロンドンのテムズ河畔で晒しものにされた挙句、1921年に解体されてスクラップとなりました。
*ロンドンへ廻航されたU155
6隻の姉妹艦は、それぞれ異なった運命を辿ります。六女のU156は44隻の敵船を撃沈、さらにはアメリカ本土を砲撃するなど鬼神の如き戦いぶりを見せるも、終戦を2か月後に控えた1918年9月、北海の機雷原で乗組員全員と共に壮絶な最期を遂げました。
次いで大きな戦果を挙げたのは次女のU151。37隻の輸送船を沈めたのちに終戦を迎え、フランス海軍の手で標的艦として見るも無残な姿になるまで撃ちのめされ、海没処分されています。
残りの4隻はさしたる活躍もなく、3隻が生き残るも、1922年までにすべて解体されました。
かくして、通商用潜水艦というオリジナリティ溢れる艦種は、その束の間の栄光と悲劇的な幕切れについての微かな記憶を除いて、何の痕跡も遺すことなく、世界から消え去ったのです。
【ドイッチェラント 諸元】
全長65m、全幅8.9m、満載排水量2,300t
水上速力12.4ノット、水中速力5.2ノット
航続距離46,000㎞、潜行深度50m
本稿は「ツェッペリン飛行船団による英国本土戦略爆撃-第一次世界大戦下のバトル・オブ・ブリテン」の補章です。