エリートと視覚障害者~帝国海軍は護衛が大嫌い・特別編
「帝國海軍は護衛が大嫌い」のその1で佐藤鉄太郎という海軍軍人の戦史研究家を紹介申し上げました。
佐藤鉄太郎が現役中に、潜水艦の脅威に気付ける可能性があったことも。
対潜は聴音
残念ながら、佐藤はその危険を察知できなかったのですが、コレは佐藤だけの問題ではありませんでした。
実際に演習で痛い目に合わされても、大日本帝國海軍は潜水艦の脅威を深刻に考えなかった、というのが「帝國海軍は護衛が大嫌い」のその2のお話でありました。
それで、今回は「佐藤」つながりで「佐藤吉五郎」と言う人物をモチーフにして、海軍の「対潜教育」の実際について考えてみたいと思います。
さらに対比する形で障害を持った方の国防への協力を。
「佐藤吉五郎」なんてご存じない方が多いのではないでしょうか?
佐藤吉五郎は一介の音楽家でありますから当然の事です(音楽教育の世界では結構な有名人らしいですよ)。
「対潜はすなわち聴音」でありますから、音楽家が出てくるまでは海軍のいい加減さと言うより慧眼ですが、教育を受ける方が残念な人たちだったのです。
コトバンクより 佐藤吉五郎とは
職業;バイオリニスト 専門;音楽教育 肩書;綜合音楽教育連盟会長
- 生年月日 明治35年 11月21日
出生地 秋田県由利郡由利町
- 学歴 東京音楽学校甲師科〔大正15年〕卒
- 経歴
- 大正15年岡山県女子師範学校教諭となる。
昭和9年大阪府堺市「視学」に転出。
18年海軍教授となり、神奈川県久里浜の対潜学校に赴任。
戦後、新制大船中学校で教鞭をとり、その間、文部省実験学校として、鎌倉市玉縄小学校を指導。
28年退職。著書「和音感教育」「和音感・合唱教授法」「和音を基調とする綜合音楽教育法」などがある。
- 所属団体 日本民謡協会
没年月日 平成3年 9月9日 (1991年)
*太字と視学の「」は電脳大本営による改変。他にも改行の変更等あり
少しコトバンクを修正しますと、久里浜に「対潜学校」が設けられたのは昭和19年の3月ですので、この記述は誤りです。
おそらく水雷学校の教授として、潜水艦の探知方を教えていたんだと思われます。
なお、「対潜学校が出来たのが昭和19年かよ!」と言う点については改めて論じてみたいと思います。
「視学」というのは当時の教育委員長みたいなもの、と言ったら良いでしょうか?教育の運営状況を管理・監督する役職でした。
佐藤吉五郎はこの地位を利用して、昭和17年から堺市内の小学校・幼稚園で一斉に「絶対音感教育」を実施しました。
これを聞きつけたのか?初めから航空機探知の目的があったのか?
前後の事情がはっきりしないのですが、陸軍技術研究所の所員が米軍機の爆音を記録したレコードを持ってテストにやってきたそうです。
音感教育を受けた小学生や幼稚園児は100点満点を連発。「吉五郎メソッド」はたちまち陸海軍に広く知られる所となったようです。
(この音源については、この記事後半でそれに近いものにリンクを貼っておきます)
で、こういう時に上手く立ち回るのは「スマート」がウリの海軍でして、市長と直談判して佐藤吉五郎を無理やり海軍教授として雇ってしまいました。
航空機の爆音を聞きわけた所で、空気中での音の速度は水の中に比べて圧倒的に遅いんですから、佐藤が陸軍で教えても、大して役に立たなかったに違いありません。
絶対音感は対潜学校でこそ役に立っただろう、とは思われますからこれで良かったのかも。
潜水艦を発見するためには、海中を伝わる音を感知することがもっとも有効とされていましたので、その専門員を養成するため、超一流の人材が対潜学校の嘱託に選ばれました。
東大医学部耳鼻科の颯田教授、魚類の鳴声研究で著名な東大農学部の檜山教授、音響学の大家の田口理学博士、ピアニストの笈田氏の4名だそうです。
ただ、この豪華な嘱託陣は実地の指導には当たりませんでした。実際の指導を担当するのが、教育者の佐藤吉五郎だったのです。
出来の悪い教え子
ここで佐藤吉五郎の教え子に登場頂きましょう。
第4期兵科予備学生だった野口藤三郎と言う人です。
この人は昭和18年の学徒動員で海軍を志望した人で、水雷学校(対潜学校が出来るまで対潜教育を行っていました)に入学します。
「学徒動員」って言うと、だいたいの評価が
「行かなくても良い戦争に、勉学を放り出して行かされて…」
みたいな話になっちまうんですが、学徒(此処では徴兵が免除されてた大学生などを言います)じゃない人に比べたら、すっごく優遇されてました。
そもそも、予備とは言っても士官扱いで軍隊に入るんですから。
まあ、その予備士官を「特攻の主力」に使った海軍もあるんで、同情すべき、ちゃあすべきなんですけどね。
この人が書いた文章を見ていきます。
水測(水中測的)術というのは、艦船の発する水中のスクリュー音を聴いて、それがどういう船であるかということを判別する能力と技術です。これには当時、水中聴音機という機械を用いました。これで音の聞こえる方角も分かりますし、熟練してくると音の大きさで距離まで解かるようになります。
さらに超音波探信儀という機械を併せて用いることで…(これは、ポ~ンと超音波を発射して、その先に何か遮蔽する物体があれば、超音波がそれに当たって跳ね返ってきますから、その波形をモニターに表示して)…やはり敵艦の位置を知ることができました。この2つが水測兵器です。
要はソナーですね、パッシブもアクティブも教育受けてるんだ。
ですから、水測術で一番大切なのは聴力、とりわけ音感だったのです。このために上野の東京芸大出身の佐藤吉五郎という有名な「絶対音感」の先生が来て、6ヶ月間みっちりと教育を受けました。ただ、その頃の海軍の兵隊といえば概ね農家の次男坊・三男坊という…ほとんど音感の訓練のしていない人ばかりだったからね。みんな音感は苦手だったようです。
ボクは音感に関しては常に100点満点でしたから、佐藤先生には随分かわいがってもらい、戦後もずっとお付き合いさせて戴きました。「演奏家と音楽教育家という違いはあれ…君と僕は莫逆の友であり、君はわが愛弟子である」なんて手紙も貰いました。佐藤教授の後日談では、ボクのほかに100点満点を取った人に、当時天才二少年と言われたヴァイオリニストの江藤俊哉さんとピアニストの豊田耕二さんが居られたとのことです。
ともかく、飛行機で攻撃されたら別ですが、ボクの乗ってる船は潜水艦には絶対沈められんぞ…という密かな確信さえありました。
太字のところ、やなヤツですねぇ。このあたりから、儂の大っ嫌いな「根拠のない優越感と自信」が全開になります。
「俺は学徒動員って言っても大学生(当時はスーパー・エリートです)だぜ、一級国民は一般国民とは違うんだ」みたいなちっぽけな糞エリート意識丸出しです。
はっきり言ってしまうと、貴方の受けた訓練では米潜水艦の脅威には殆ど効果がなかったのに、
「ボクの乗ってる船は潜水艦には絶対沈められんぞ…という密かな確信さえありました」
まあ一介の予備仕官では、受けてる訓練の良否なんて判断できませんから、これはいたし方無い所でしょうか?
続けてお説を伺いましょう。
実際にどういう音がするか…ですが、ボクにとってみれば「あんなもんはいっぺん聴いたらすぐに判るだろう」と思うのですが(笑)、ともかく一番肝心なのは魚雷の音と潜水艦の音を一刻も早く発見し識別することだったのです。
まず、大型の戦艦の場合はタービンでエンジンが回っていますから《キィーン》という鳴音がします。商船とか小さい駆逐艦なんかの場合はディーゼルエンジンですから《ドゥルルルル…》という連続音なのですぐに分かります。一般の商船や貨物船などはレシプロエンジンですから《ゴットントン、ゴットントン…》というピストンエンジン特有の周期音が、漁船などの小型船は焼玉エンジンなので《ポンポン、ポンポン…》という発動機特有の音がします。
「あんなもん」にボカボカ沈められて、真っ当な反撃もできない海軍のエリート聴音員(候補)がほざきそうな言葉じゃありませんか!
儂、冷静さを失くして大日本帝国海軍が嫌いになりそうじゃ。
「大型の戦艦」ってか?ってことは貴公、大型の戦艦と「小型の戦艦」の航走音を聞かせて貰ったんだな?で、小型の戦艦(艦名はいくら考えても判りませぬなぁ)は「タービンでエンジンが回ってい」なかったのか?
いやいや、駆逐艦もタービンだと思うぜよ。
まあ、アメリカの護衛駆逐艦ならディーゼルも使ってるけどね、あなたの乗ってるフネがこの時点でアメの護衛駆逐艦の推進音を探知できるまで近づくことは99パーセントあり得ないし。
貴公は「小さい駆逐艦」とおっしゃてるが、貴公の教育期間で一番小さい駆逐艦は松級だろう。松級も艦本式タービンね。
さらに酷いのは「一般の商船や貨物船などはレシプロエンジンですから」の一文。
コレは「商船とか小さい駆逐艦なんかの場合はディーゼルエンジンですから」を受けてる文章だけど、帝国の駆逐艦がディーゼルエンジン使ってないことはすでに書いた。
もっと問題なのは貴公が「レシプロ」を「ガソリンエンジン」のつもりで使ってるように思えることだ。
貴公のようなスーパー・エリートにはどうでも良いことかも知れぬが、儂の様な庶民にとって「レシプロ」とは「往復動機関」の事じゃ。たぶん、世界中で往復動機関の事じゃ。
つまり「ディーゼル」もこのあと出てくる「焼玉」もレシプロなんだよ、スーパー・エリート様以外にとってはね。
「《ゴットントン、ゴットントン…》というピストンエンジン特有の周期音が」とお書きだけんど、ディーゼルエンジンだって「ピストンエンジン」なんだけど。
焼玉エンジンだって、点火機構がかなり変わってるだけで、ピストンエンジンに変わりはないぞ。
まあね、確かに「空気中」で聞こえてくるエンジン音は仰る通りかも知れん。
儂だってガソリンエンジンとディーゼルエンジンの「音」は判る。ついでに言うとガソリンでも水平対向とロータリーはなんとなく判る。
あくまでも「空気中」だけどな。儂はソナーの音を聞いたことが無いので、空気中しか判らん。
で、焼玉エンジンの《ポンポン、ポンポン…》って言うのは水中音じゃなくて、空気中を伝わってきたんじゃないのか?
ガキのころ、近くの漁港(琵琶湖の、じゃ/正確には瀬田川だが)に行けばポンポン漁船が居たので、これも判る。
さて、問題の潜水艦ですが…(現在の原子力潜水艦は別ですが)…水上を走っている際にディーゼルエンジンで発電機を回してバッテリーに電気を充電しておき、いざ水中に潜ると(空気がないので燃焼エンジンは使い物になりませんから)電池で電動機を回して推進の動力とします。ですから、(潜水中の)潜水艦の音はかならず電動機特有の三連符で《タカタ、タカタ、タカタ、タカタ…》という綺麗な音がするのです。
日本の潜水艦は、これらの三連符に加えて《クイッ、クイッ、ゴトンゴトン》という機械音が混じります。これは造機技術の未熟さからくるもので…船底に据え付けたエンジンに防振ゴムをかませてなかったために、エンジン音が船体に響くようになっていたわけです。
防振ゴムの件は遣独潜水艦の伊八が、ドイツ側に指摘され装備してもらった例もある通り事実です。
ただ細かいことを突っつくようですが、水中で「防振ゴムをかませて」ないのでやかましかったのはエンジンじゃなくて電動機の方ね。
貴方自分で言ってるじゃん、『いざ水中に潜ると(空気がないので燃焼エンジンは使い物になりませんから)電池で電動機を回して推進の動力とします。』って。
長くなってしまいました。
学徒動員で英霊となられた方も多いのに、こういうせこいエリート野郎も居た、ということです。私はこういうエリートが大嫌いなんです。お許しください。
実際のところ、残念ながら敗戦まで、我が海軍の対潜レベルは「世界一流の海軍国」としてはお粗末の域を出ることはありませんでした
教授が優秀でも、生徒がこの程度じゃね…。
佐藤吉五郎先生が悪いんじゃないんですよ、教え子が悪いんですけど。
いや、こんなヤツを放置したどころかヨイショしてる佐藤、やっぱりお前も悪いわなぁ。
大日本帝国の国民はもっと真剣だった
しかし、こんな低劣な「エリート意識持ち」だけが大日本帝国の国民だったわけではありません。
兵士ではなく、そのうえ「五体不満足」な身の上で国防のために身を投げ出した人たちも居られたのです。
京都府立盲学校で、あるレコードが発見されました。
このレコードは日本コロムビアが発売していたもので、シンガポールなど戦地に残されていた米軍の爆撃機を、実際に飛ばして録音したもの。
売国TV局NHKが提供している音源なんですが、実際に聞くことが出来ますので、一度飛んでみて下さい。
大東亜戦争中は空襲から身を守るために国民学校などで子供たちにも聴かせていたと思われます。
日本コロムビア社が保存しておられるチラシによれば、
「軍は一般家庭でもこのレコードを常備し、敵機の爆音を判別できる聴覚をつくることを要望している」
との事で、実際にどれほど普及したかは不明ですが、多くの人の利用を見込んでいたことが判ります。
で、何故このレコードが京都府立盲学校で発見されたのか?です。
答えは簡単で、盲学校ではこのレコードで在校生を訓練していたのです。
記録によって、石川県のデパート屋上の「防空監視哨」で防空監視員を務めた視覚障害者がいたことが判っており、2005年にはその人の証言が記録されています。
良く左巻きが言うように、戦時下の障害者の方は迫害されていたわけではなく(そのような事例があったことも事実ですが=聾の方が、見かけで判らないので徴兵忌避と間違われた、などの事例)、自発的に「お国の為に」と防寒具も支給されないままに厳寒の雪国で防空監視任務に就いたのです。
さて、この「防空監視哨」とは「防空監視隊」の隊員が詰めるところです。
「防空監視隊」は法的根拠がややあいまいなんですが、昭和12年の「防空法」で創設された、とするのが正しいかと思われます。
本格的に防空監視任務にあたったのは大東亜戦争の開戦後のことでしょう。
残念ながら、石川県の資料がありませんが、私の地元滋賀県の(ちょっとしかありませんが)防空監視隊の資料をご覧いただきましょう。
Wikiでは「防空監視隊」は内務省管轄なんですが、県が任命してますね。
正本の「友軍機便覧」は持ち出し禁止なので、上の中江隊員が自習のために筆写したもののようです。私は本物を見ましたが、墨書です。
この用紙で敵機の発見を伝えるワケですね。
さて、敵機の音を聞きわけたところで、空気中の音速なんて時速1200キロほど。
音源(B29など)は時速600キロほどで接近してきますから、音を聞いて来襲を察知出来たとしても、時間的な余裕はほとんどありません。
もちろん、監視哨の任務ははるか後方(金沢の場合なら京都・大阪や名古屋方面)へ警告を送る事なんですが、監視哨に電話が有るならともかく、書面を回してる間に爆撃が終わっちゃいます。
しかし、「目が不自由でも国の為に役立ちたい!」と言う情熱で、多くの盲学校生徒が寒風の中で金沢のデパートの屋上に立ったと思われます。
前半に紹介申し上げたエリートとの落差を感じてしまうのは私だけでしょうか?
陸海軍の(特に海軍に多い)闘志も能力も情愛すら欠如したように見える将官・高級参謀と、自分のカラダを張って戦う兵士や下士官や下級士官との違いにも似てる、とも思うんであります。
ちょっと感情が入り過ぎてしまったようですが、障害をもった方々も国の為に戦った事を、お伝えできたら幸いです。
この方々こそが、「国防のための最高の資産だ」と言ったら差別ですかね?
儂は差別主義者だと言われてるからなぁ、左の方では(笑)