最後の決は我が任務~歩兵の本領~

歩のイラスト

軍歌は良いですよね。

基本的に国民を鼓舞して兵隊さんを勇気付けるモノですから、当時の国民や兵隊さんの雰囲気って言うか気持ちが良く判る。

判ると、ブサヨのいい加減な歴史観に腹が立って来ます。

コッチ側に思えるけど、兵隊さんを馬鹿にしとる!

私の大切なFBFが吉田松陰・坂本龍馬・西郷隆盛らの名言を集中的に投下されていました。

その中に「歩兵の本領」の一節がありましたので、ちょっと気になって歌を聞きつつ検索してみたところ、トンでもなブログにぶち当たってしまいました。

「歴史一口話」と名乗って、予備校の講師の方が書いておられます。

気になった記事は「歩兵の本領」の歌詞を解説している(2008年8月30日の記事)んですが、一見の内容はそんなに偏向もしておらず、中立ややコチラ側かな?と思えます。

しかしながら良く読むと
「おいおい、それは誤認じゃ、酷い曲解じゃ」
というお考えばかりなんで、ちょっと皆様に紹介させていただきます。

ただし、先方さんの了解を得たわけではありませんので、リンクは貼りません。
「歴史一口話」で検索すると、閲覧可能です。

2010年を最後に新しい記事も書いて居られないようですので、向こうのブログにコメントなどなさっても反応があるかどうか?ではあります。

まあ、こんな感じです。

「歩兵の本領」という有名な軍歌があります。

この歌の歌詞をじっくり味わってみると、昔の軍人がどういう気持ちを持っていたかがよく分かります。
大日本帝国陸軍の中の、歩兵科の歌です。歩兵は人数が一番多いこともあり、他の兵科(騎兵科とか砲兵科など)よりも大きな顔をしていて、その誇りを歌に歌ったものです。
1911(明治44)年にできた歌ですので、特に歩兵が戦争の一番の花形であった時代をよく反映しています。

ここまで、普通の文章です。私の認識とも大きなズレはありません。以下、歌詞の紹介になります。

「歩兵の本領」は10番まであるんですけど、このブログで取り上げているのは1番・3番・4番だけです。

1番:万朶(ばんだ)の桜か襟の色。花は吉野に嵐吹く
大和男子(やまとをのこ)と生まれなば、散兵線の花と散れ

「万朶の桜」は一杯に咲き誇る桜の花のこと。「襟の色」とは、歩兵の襟には桜のマークがついていて、それで階級を表わしたことを言っています。
そして、皇軍(天皇の軍隊)の兵士は、立派に死んで行くことが誉だったのですから、桜が見事に散って行くことに例えられていました。
「散兵戦」とは、両軍の兵が展開して、派手に殺し合いをする戦闘のこと。「白兵戦」とほぼ同義語です。
日本男児なら、散兵戦で、桜の花のように美しく死ね、と言っているのです。

歌詞は私が修正しました。

この方のブログでは「散兵線」が「散兵戦」になってるんですね。元々の詩では「散兵綫」です。「綫」をコピペしてちょっと調べて頂けば判るように「線」の旧字です。

散兵線の意味が「白兵戦」と同義って(笑)。

仮に散兵「戦」だとしても白兵戦のような超近距離戦闘とは違いますよね。この人、銃剣や将校の帯剣をなんだと思ってるんでしょうか?

日露戦争の白兵戦

日露戦争の白兵戦

 

電脳大本営的な「散兵線の花と散れ」の意味は
「左右に肩を接して守る戦友は居なくとも死を賭してでも守り抜くぞ、このライン」ってことです。

ついでに言えばラグビーのフォワード戦ね、あれが白兵戦。

ラグビーフォワード戦(白兵戦説明用)

ラグビーフォワード戦(白兵戦説明用)

 

体をぶつけあってボールを奪い合ってる、ラックなりモールなりの後方でバックスがラインを作ってますよね。アッチが散兵線です。

続いて「襟の色」ですけどね。歩兵科の襟は緋色、この色を満開の桜に例えたんでしょう。
別に名誉の戦死を「見事に散って行く」と例えたワケじゃないと思いますけどね。

緋色の襟の兵隊さんがいっぱい居る「歩兵科」だから、桜の満開みたいだ、って言うのが妥当な所でしょう。

45式下士官用軍衣

45式下士官用軍衣
明治末~大正期に着用されてたモノ、この襟を満開の桜に例えたんです。

 

襟章が桜って言うのは、私は存じません。

軍装オタクマニアの皆さまのご教示を頂きたいところです(台湾編成の連隊が桜を付けてた、という話を聞いたことがあるような?)。

さらに「皇軍(天皇の軍隊)の兵士は、立派に死んで行くことが誉だった」って?
この方がご自分でお書きのように、この歌ができたのは明治44(1911)年、日露戦争が終わって6年です。

日露戦争では、多くのロシア兵捕虜を得ましたし日本兵も捕虜となりましたが、特にそれを罰したわけでもありません。

日露戦争の意外史「もう一人の東郷」をぜひご参照下さい。

手作り楽器で演奏会を開く捕虜

手作り楽器で演奏会を開く日本兵捕虜

 

少なくともこの当時、「死ぬことが名誉」などという価値観が皇軍にあるわけ無いですよ。電脳大本営的には皇軍に「死ぬことが名誉」はずっとありませんでしたけどね。

だからこそ、わざわざ総理大臣が「生きて虜囚の辱めを受けず」云々と言わなければいけなかったんです。

「花と散れ」とは「死ね」ではなく「桜のごとく見事に咲け、命を惜しむな」です。

先に功をたてる(見事に咲け)って意味で、ただの「立派に死ぬことが誉」とは大違いです。左巻きの洗脳に毒されてます。

3番の歌詞も

3番:軍旗守る武士(もののふ)はすべてその数二十万
八十余箇所に屯(たむろ)して武装は解かじ夢にだも

軍にとって一番大切なものは軍旗です。軍旗は、隊長が宮城に参内して、大元帥陛下(天皇)から賜るのです。天皇から賜ったからこそ、軍旗は大切なのです。
軍旗を失った場合、隊長は自決することがよくありました。
言い換えれば、軍の使命は、天皇を象徴する軍旗を守ることにあった、と言っても過言ではありません。

「二十万」というのは常備兵の数。これが、日本全国の八十余箇所の基地に駐屯していました。
「武装は解かじ夢にだも」とはいい言葉ですよね。非武装中立論を唱える人たちに味わってもらいたい名文句です。

「軍旗は隊長が」って。小隊長や中隊長が参内するわけじゃありません。皇軍において、軍旗は連隊の創設時に下賜されるものです。原則一度だけ。

軍旗が天皇陛下の御手から初代連隊長に渡されることは間違いありませんが、「軍にとって一番大切なものは軍旗」ではありません。

大日本帝国陸軍にとって最も大切なものは「大日本帝国」であり、大日本帝国の臣民(国民でも可)でした。

『敵は幾万』という軍歌の2番には
風に閃く連隊旗、記紋は昇る朝日子よ。旗は飛びくる弾丸に、破るることこそ誉れなれ
とあります。
歴戦の連隊などでは旗はボロボロになって、旗竿と竿頭しか残っていないものを「名誉」としていたのです。ボロボロの、旗としての機能をほぼ喪失したのが「軍にとって一番大切」なワケあるかよ。

確かに軍旗は大切にされていましたが
「軍の使命は、天皇を象徴する軍旗を守ることにあった、と言っても過言ではありません。」
は将に過言ですし、曲解ですし、思考が浅薄に過ぎるでしょう。

電脳大本営の読者の皆さんには、わざわざ申し上げることもないでしょうが、最前線で軍旗を押し立てたところで、そうそう都合よく敵弾が当たってくれるわけではありません。

「旗竿と竿頭」だけ残った軍旗が名誉だとは言いますが、いくら戦地で先頭に軍旗を押し立てても、なかなかそんな風にはならないんです。

それで、各連隊ではこっそり軍旗を破ったり、焦げ目を付けたりなどをしていたようです。

もちろん公式の記録に残っている訳がありませんが、刊行されてない従軍記等では時おり見かける記述なのです。

騎兵16連隊の軍旗

弾雨で?ボロボロの騎兵16連隊の軍旗

 

「軍旗を失った場合、隊長は自決することがよくありました。」って、この方は実例を出して頂けるんでしょうか?

読者の皆さんで「軍旗を奪われた責任を取って自決した連隊長」をご存じの方はいらっしゃいますか?

連隊が壊滅に瀕し、軍旗を奉焼して自決した例はあるようですが、大東亜戦争でのことでしょ?

この軍歌「歩兵の本領」は明治44年生まれですよ。

しかも、大東亜戦争の例にしたって、厳密にいえば「軍旗を失った」わけじゃない。こういう生半可な知識で予備校生を教えるとSEALDsみたいな馬鹿大学生が出来るんです。

もし、北欧の半グレ雌ガキでも教えた日にゃ、大人への敬意の欠片もない、無責任エコを叫ぶだけの環境活動家が出来上がるでしょう。

さらにこのブログ主さんを苛めてやりましょう。過失で軍旗を失って生き恥?を晒した連隊長さんの話です。

明治39(1906)年の10月2日のことでありますから、日露戦争の終結からそれほど日も経っていません。日露戦争の争奪地だった「北韓」の警備に当たっていた歩兵第49連隊の連隊長室から出火、連隊長室と同時に連隊旗を焼失してしまいました。

この重大な過失でも連隊長の太田朗中佐(歩兵・愛知県出身)は自決なんぞしていません。

上級部隊長からの処分を待ち、連隊旗手とともに軽謹慎30日の懲罰を甘受しているのです。自決どころか軍法会議にも掛けられていないし、この件で陸軍を辞めたりしてもいません。

そして軍旗はその年の12月14日に
「曩ニ歩兵第四十九聯隊ニ授与シタル軍旗ハ不慮ノ災ニ罹リ亡失セシニヨリ更ニ此軍旗一旒ヲ授ク」
との勅語とともに再び下賜されたのでした。

さらに次の例は予備校講師(専門は何だか存じぬが)に、「知らんかった」とは言わさん話です。

西南戦争で小倉の第14連隊が軍旗を「賊軍」に奪取されてしまった件です。

この時、第14連隊長は指揮官山縣有朋に対して「待罪書」を提出したのです。自決はしていません。

乃木希典

小倉第14連隊長の後の姿
外国誌のイラストから

 

この事件は「不可抗力である」として連隊長の罪は不問に付された事も広く知られておりますわな。
そうでなければ、後の歴史が変わってしまう。

この連隊長さんは日露戦争で活躍(司馬遼太郎には思いっきり貶されたけど)し、世界的評価も高い武人になる。さらに明治大帝から学習院の院長に任ぜられて、昭和大帝の薫陶に尽力した人格者としても知られた偉人だからな。

ここまでくるともうこのブログ、許しがたいレベルですが、最後の一文(「武装は解かじ夢にだも」とはいい言葉ですよね。非武装中立論を唱える人たちに味わってもらいたい名文句です。)があるから、もうちょっと様子見です。

4番で極まるハンパな理解

4番:千里東西波越えて、我に仇なす国あらば
港を出でん輸送船。しばし守れや海の人

前半は分かりやすいでしょう。
後半に入って、「輸送船」とは、陸軍が兵を海外に輸送するための船。日本のような島国では、陸軍が敵地に行くには船に乗るしかありません。
陸軍も兵の輸送のために、船を持っていたのです。
ところが、敵軍は、輸送船を発見すると、沈めようとします。日露戦争では、ロシヤの戦艦に輸送船が沈められて、相当な戦死者が出た例がありました。
そこで、敵地に上陸するまでは、海軍が駆逐艦を派遣して守ってやるのです。
最後の「しばし守れや海の人」を僕は最初に聞いたときは笑ってしまいました。
陸軍と海軍は仲が悪かったことはご存知でしょうが、ここでも、その縄張り根性を出しているのです。「海の人」というのは海軍のこと。
戦争の本当の主役は俺たち陸軍の歩兵なんだ。しかし、海の上じゃどうしようもないから、敵地に着くまで、しばらくの間は守ってくれよな、海軍さん。そう言って、まあ、半分、海軍を馬鹿にしているのです。

「陸軍も兵の輸送のために、船を持っていたのです」?何度も言いますが、この詩は明治44年だってば。
陸軍が「敵前上陸」の必要性に目覚め、「神州丸」などを整備するのは日支戦争に入ってから。

明治44年の段階では、外征軍の輸送は民間船の徴用ですよ。大東亜戦争に入ってからも、主力は徴用船です。

大発

大発

 

まさか大発や小発を輸送船だって言うんじゃないでしょうね。

小発動艇

小発

 

「海軍が駆逐艦を派遣して守ってやるのです」?なんで駆逐艦限定なんでしょうか。

日露戦争で、ウラジオストック艦隊の通商破壊を本土近海で防止する任務を担った上村彦之丞提督の第二艦隊は、東郷連合艦隊司令長官直卒の第一艦隊(戦艦戦隊)に次ぐ性能の「装甲巡洋艦」の部隊なんですけどね。

ついでに言うときますと、日露戦争で敵の「戦艦」に沈められた大日本帝国の輸送船はありません、一隻も。

ウラジオ艦隊は巡洋艦ばっかりね。だからこそ、東郷司令長官は第二艦隊で対抗可能と判断したの。

他にも理由はあるけんど。この予備校のセンセエには金輪際理解できねぇだろな。

巡洋艦出雲

上村艦隊の旗艦「装甲巡洋艦出雲」
1903神戸にて

 

そして「しばし守れや海の人」が「まあ、半分、海軍を馬鹿にしているのです」と?

実はこの人が(わざとかどうかは判りませんが)触れてない「歩兵の本領」の5番、つまり「海の人」のすぐあとには

「敵地に一歩我踏めば、軍の主兵はここにあり。最後の決は我が任務。騎兵砲兵協同(ちから)せよ」

という歌詞があるのです。この人の感覚だと、歩兵は騎兵も砲兵も小馬鹿にしてた、って事なんでしょうか。

38式歩兵銃を持つ兵士たち

38式歩兵銃を持つ兵士たち

 

陸軍にしても海軍にしても士官は軍人ではありますが、お役人でもあるのです。

陸軍省と海軍省は全く別の「お役所」ですから、セクショナリズムも予算の取り合いもあって当たり前。
まして陸軍にとっては兵員の規模は海軍を圧倒してるのに、もらえる予算は五分五分程度。

拗ねて当たり前なんですけど、現場ではお互いにリスペクトしてます。輸送船を護衛してもらえば、ちゃんとお礼を言うし海軍側も武運を祈って送り出す。

軍歌で海軍を馬鹿にするワケがありません。

陸海軍が不仲なのはどこの国でも当然のようにある事なんです。

ただ大日本帝国の場合は大東亜戦争において、戦争目的を見失って迷走し、それが敗因となってしまいました。

これは私の考えるところ、ほとんど海軍の責任と言って間違いないのですが、宣伝の巧みさもあって海軍はその責任を負わされることがありませんでした。

ブサヨのお粗末なアタマに浮かぶ世界観でも、陸軍の「垢抜けなさ」が責任を押し付けるのにちょうど良かったのでしょう(私は海軍=悪、陸軍=善と言ってるんじゃありませんよ)。

そのブサヨの大東亜戦争観を知らず知らずのうちに引きずってしまうと、やっぱりお粗末な軍歌の解説になってしまいます。判らん事はやらなきゃ良いのにね。

私たちも「知らず知らずのうちに」には気を付けなければなりません。

今でも「最後の決」は歩兵です

陸海軍の伝統的な対立?に加えて空軍も独立。

支那みたいに「ロケット軍」やら「第二砲兵隊」やら訳の分からん「軍」まで登場してきた現在でも、1911年と全く変わらず、戦争の最後の勝利は歩兵がもぎ取るもの…と私は信じています。

歩兵自身も様変わりして、歩いて移動することはもう無いかもしれません。
近い将来、ガンダムみたいなのに搭乗して戦う人たちを「歩兵」と呼ぶようになるかも知れません。

ガンダムやエヴァにならぬまでも、「装着型のサポート・ロボット」が歩兵を大きく強化する可能性は高いように思います。

ヘルメット内臓のウェアラブル・デバイスで情報能力もレベルアップするでしょう。

それでも、戦闘爆撃機や攻撃ヘリでは「勝ち」が決めきれないことは、ロシアのクリミア半島奪取とかアフガン戦争の帰結とか、インドと支那の国境紛争とか見ると良く理解できます。

10式

90式戦車

 

これって、逆に言うと「陸上自衛隊が壊滅するか、降伏するまでは我が国は負けない」、ということでもあります。

「陸上自衛隊が戦闘するなんて、敵が日本に上陸したって事だろ?敵が国土に被害を与えないようにするのが自衛隊の任務なんだから、陸自なんて必要ないじゃん」

なんてことを言う方がいらっしゃいますが、それは極論という物です。

粘り強く戦う陸軍、とりわけ強靭な歩兵が待ち受ける国を侵略するのは至難の業。
そう思わせる事だけでも抑止力なのです。

最後の決は我が任務」この言葉を思いださせてくれたんで、このブログも許しちゃいましょうか?

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最後の決は我が任務~歩兵の本領~” に対して2件のコメントがあります。

  1. ひろ より:

    この歌 はるか昔 陸自に入隊して最初に習った歌です 、まあ その前から親父が聞いてたから知ってはいましたが やる気の起こる歌ですよね〜

  2. manicure より:

    Very good article. I’m going through a few of these issues as well..

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