小型で安上がりで高性能!2等駆逐艦樅型の数奇な運命
2014年1月10日の産経新聞にこんな記事が載っています。
「日本の「軍艦」などを祭っている台湾南部・高雄市の道教霊廟(れいびょう)「紅毛港保安堂」の新堂が完成し、仮堂から神像や神艦を遷座する落慶祭がこのほど行われた。
高雄は日本統治時代、海軍と軍港の街として知られた。同堂によると、終戦直後、漁師が漁網にかかった頭蓋骨を地元の廟に祭って慰霊したところ、大漁が続いたため、1953年に保安堂を建立。その後、頭蓋骨が「日本海軍38号哨戒艇の艇長」を名乗って漁師の夢枕に立ち、「部下を日本へ連れて帰れなかったのが 残念」と語ったと伝えられている。そこで漁師有志が90年ごろ、「魂だけでも帰れるように」と、「日本の軍艦」の模型を作り神艦「38にっぽんぐんかん」 として奉納、追悼供養したという。
港に面した旧堂は再開発で2007年に移転を迫られ、堂管理委員会では神艦などを仮堂に遷座し、08年から3500万台湾元(約1億2200万円)を投じて新堂を建設。うち100万元(約350万円)は邦人有志の寄付という。
昨年末に行われた落慶祭には、陳菊・高雄市長も参列した。
市中心部から遠く、邦人参拝客は少ないが、亡父が海軍志願兵だった縁など から毎年、団体で慰霊訪問を続けてきた福岡市の専門学校経営、小菅亥三郎さん(66)は「日本人としてはとてもありがたいこと」と謝意を表明。管理委員会 常務監察役の趙麗恵さん(53)も「新堂で新年を迎えられてうれしい。日本からも多くの方にお参りにきてほしい」と語っていた。」
こんな感じで、ちょっと私たちの慰霊の感覚とはフィットしませんが、ありがたいことではありませんか?
「38にっぽんぐんかん」と書かれた「日本軍艦の模型」は全く往時の雄姿を伝えてはいませんが、元のフネは樅型2等駆逐艦の19番艦「蓬(よもぎ)」だと思われます。
「蓬」は1922年8月19日に石川島造船所で竣工。
1940年4月1日には哨戒艇に類別変更して第38号哨戒艇に改称。
1944年11月25日、バシー海峡にて米潜アトゥルの雷撃により戦没しています。
上の画像は同型の哨戒艇が米潜から撃沈の模様を撮影された物です。
駆逐艦ハイ&ロー計画
樅型駆逐艦は1917年度予算で18隻、1918年度追加予算(八六艦隊計画)で3隻の合計21隻が建造されました。
排水量:770t(基準)、全長:83.82m、
二等駆逐艦「樅型」の計画当時は、英国からの技術移転に頼っていた主力艦(戦艦や巡洋戦艦)も国産で一流品が出来るようになっていました。
駆逐艦は英国産を模倣した設計で造っていたのですが、次の仮想敵が米国となり、活躍の舞台を太平洋に移すことになると、凌波性能や航続距離に不満が出てきました。
そこで、帝国海軍がそれまで溜め込んだ技術と経験を注ぎこんで作り上げたのが「峰風型一等駆逐艦」(1215トン)でした。
峰風型は世界でも一流の性能を発揮しましたが、当時としては大型の駆逐艦でした。
身に余る「八八艦隊」を計画中だった大日本帝国海軍の予算では大型駆逐艦を沢山そろえることが出来ません。
使いやすい駆逐艦
そこで、一等駆逐艦の大きさを少し小さくし、性能の低下も我慢して数をそろえるために実用的かつ安上がりに造ったのが「二等駆逐艦」で、その第一シリーズが「樅型」(770トン)でした。
二等駆逐艦の模型は少ないですね。見敵必買です
樅型駆逐艦 模型
台湾の人たちに奉ってもらった38号哨戒艇も、そのうちの1艦だったのです。(二等駆逐艦「蓬」が転籍)
特徴的なことは、建造を担当した造船所でそれぞれ違った型式のタービンを搭載し性能を比較したことです。
実験艦の要素もあったのですが、その割に実用性は高く、大東亜戦争の開戦時には駆逐艦籍からは引退していましたが、哨戒艇として各地に転戦しました。
また、哨戒艇となってからは大発を搭載して輸送・揚陸艇としても活躍しています。上の撃沈される画像の艦尾にスロープが認められますね。
大発を載せていないときは爆雷60発を載せたようで、対潜にも相応の能力を発揮したことでしょう。
不幸にも大東亜戦争前に訓練中に沈んだ艦もあります。
1927年8月24日のこと、連合艦隊は「軍縮条約での兵力劣勢は訓練で補わん」として島根県美保関沖で夜間無灯火演習を実施しました。
水雷戦隊の夜間襲撃訓練でした。
「神通」「那珂」の第五戦隊第2小隊(駆逐艦隊後続)が戦艦部隊を仮想敵として接近・襲撃しようと試みました。
ところが、戦艦「伊勢」「日向」軽巡「由良」「龍田」などから探照灯の照射を受け、接敵失敗と判定されたため、転舵・離脱しようとしたのですが、後続の駆逐艦部隊に突っ込んでしまいました。
軽巡洋艦「神通」と駆逐艦「蕨」が衝突、「神通」は艦首を喪失する大破、「蕨」は沈没。
このとき後続の軽巡洋艦「那珂」も「神通」を避けようとして駆逐艦「葦」に衝突し「那珂」「葦」ともに大破となってしまいました。
「美保関事件」と言われるもので、連合艦隊の訓練の凄まじさが伝わってまいります。
また、同型艦の「二等駆逐艦 藤」は36号哨戒艇となり、ソロモン、パラオで輸送船を護衛して活躍し、大東亜戦争を生き延びました。
36号哨戒艇は1946年6月、復員船となって兵隊さんを輸送しているとき、インドネシアの武装船に襲われて拿捕されてしまいます。
急報を受けた英蘭海軍の艦艇が出撃して、インドネシアから36号哨戒艇を取り返してくれたのですが、翌年になると戦時賠償艦としてオランダに持っていかれてしまいました。
インドネシアはもちろん、オランダ海軍でさえ、ほんの少し前なら鎧袖一触だったものを、戦争に負けるとはこういうことですね。
悲しくなってしまいますが、これが現実。
海上自衛隊の沿海域戦闘艦構想は『新二等駆逐艦』なのか
小さな優秀駆逐艦の悲しい運命から、私たちが考えるべきなのは自衛艦隊の今後の軍備のことではないでしょうか。
最近は大型艦の進水・就役の話題が続きますが、大型優秀艦ばかりを取り揃える予算はありません。
空自や特に陸自の予算も考えて上げなければなりません。
海自も小型の新型護衛艦を導入予定のようなのですが、それは果たして「樅型」ほどの優秀さを発揮するんでしょうか?
米国の「沿海域戦闘艦」のコンセプトを真似ているようでは、樅型の足元にも及ばないと思うのですが…。