メディアに弄ばれた軍神~爆弾三勇士~

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昭和7年2月24日の新聞各紙の一面は3人の工兵、北川丞・江下武二・作江伊之助各一等兵の活躍とその戦死を讃える見出しで埋め尽くされました。

爆弾三勇士の誕生

帝国万歳と叫んで…/吾身は木葉微塵/三工兵点火せる爆弾を抱き/鉄条網へ踊り込む(東京朝日新聞)
点火爆弾を抱き/鉄条網を爆破す/廟行鎮攻撃の三烈士/肉一片を留めず(東京日日新聞)
爆弾を抱いて鉄条網へ/壮烈!決死隊以上/廟行鎮の敵陣突破にこの犠牲/無双、三勇士の最後(読売)

毎度おせわになっているWikiによれば、「爆弾(肉弾とも)三勇士」とは、以下のようになっています(下手くそな文章ですが、ご辛抱ねがいます)。

第一次上海事変中の1932年(昭和7年)2月22日、日本軍が蔡廷鍇率いる国民革命軍19路軍が上海郊外(現在は上海市宝山区)の廟行鎮に築いたトーチカと鉄条網とクリークで守られた敵陣へ突入するため、鉄条網を破壊する作戦が決定される。この作戦に約36名が志願し、前述の3名が選ばれ、突撃路を築くため点火した破壊筒を持って敵陣に突入爆破。自らも爆発に巻き込まれて3人は戦死したが、鉄条網の破壊には成功した。戦闘工兵の任務の中でも非常に危険性が高いものではあるが、必死の作戦ではなかった。

満洲とは違い、仮にも支那の正規軍が相手。しかも防御陣地を構築されていただけに、流石の大日本帝国陸軍も少々てこずったのが実相でしょう。
「鉄条網程度なら迫撃砲か歩兵砲で十分でしょ」と言う議論は今日のお話の本線ではありませんので割愛いたします。

 

爆弾三勇士(左から江下・作江・北川)大阪朝日より

爆弾三勇士(左から江下・作江・北川)大阪朝日より

そこへわが身を犠牲にしてまで戦友の進撃路を切り開いた皇軍兵士の登場に、帝国中が沸き立ったのでありました。
新聞ばかりではなく、映画も各社で6本が製作されました。新興キネマの「肉弾三勇士」、河合映画は「忠魂肉弾三勇士」、東活映画「忠烈肉弾三勇士」、日活太秦が「爆弾三勇士」、福井映画「昭和軍神・肉弾三勇士」、マキノ映画「忠烈肉弾三勇士」。
すべて無声映画で、新聞報道があった2月24日から一週間後の3月3日にはもう封切られたのです。
まあ、みんなキワモノでしょうね。ほとんど外国の戦争映画のフィルムを使って日本人の役者は3人だけ、みたいな作品もあったようです。

その質はともかく、三人の勇士の忠烈無比の死に、国中が沸き立ち感動しかつ泣いたのです。

Wikiではわかり難いので、「東京朝日新聞」の記事を参考に「爆弾三勇士」を紹介いたしましょう。
元の「東京朝日新聞」の記事も下手糞な文章ですので、酷い文章なのは(ココに限っては)沢渡の責任ではありませぬ。「」内は新聞記事から現代風に翻訳して引用しています。

『廟行鎮をめざした皇軍は、頑強に張り巡らされた鉄条網陣地に阻止されてしまいます。その時でした。
「我が工兵隊の工兵3名は、鉄条網を破壊して敵陣の一角を切り崩すため爆死して皇軍のために報ずべく、自ら死を志願し出た。
工兵隊長もその悲壮なる決心を涙ながらに『では国にために死んでくれ』と許したので、右3人は今生の別れを隊長始め戦友等に告げ、身体一杯に爆弾を巻きつけ点火して『帝国万歳』を叫びつつ飛び出して行き、深さ(高さの間違いか?)4メートルの鉄条網に向かって飛び込んで直に壮烈無比なる戦死を遂げた。
これがため鉄条網は壊れ大きな穴が出来敵の陣地の一部が破れ、之によって我が軍は此処より敵陣に突入するを得。」
「この三工兵の鬼神をも泣かしめた爆死は、往年の日露戦争における旅順港閉塞船の決死隊以上の悲壮の極みで万に一つの生還を期せず必ず死すの挙にして、これを聞いた師団長始め戦友等は涙を流して、その最後を弔ひ『帝国なほ滅びず』の感に打たれた」』
という第一報でありました。

靖国神社大灯篭レリーフ爆弾三勇士

靖国神社の大灯篭に刻まれたレリーフの爆弾三勇士

報道だけでは飽き足らず

この新聞報道に国民は熱狂しました。

2月26日の午前の時点で陸軍恤兵部に寄せられた恤兵金は40口以上で14,000円を越えました(東京朝日)。
恤兵(じゅっぺい)と言うのは戦地へ送られる慰問品のことなのですが、この場合は三勇士の遺族への義捐金です。恤兵部は個人宛の恤兵を取り扱っていなかった筈ですが、三勇士への恤兵が殺到したために国民感情を考慮して取り扱うことになったのでしょう。

先帝陛下にも奏上され「御平生は御沈着そのものゝ陛下にも痛く御感動遊ばされたのを拝し…」(東京朝日)。

また、新聞各社は「三勇士の歌」を募集し、3月29日にはラジオで放送されることになりました。「大阪毎日」と「東京日日」の共同募集に寄せられた8万4千通の中で一等を取ったのはなんと与謝野鉄幹と言う騒ぎでありました。

爆弾三勇士の歌レコードジャケット

爆弾三勇士の歌レコードジャケット

映画ばかりではなく明治座の舞台でも上演され、その模様がラジオで中継されるありさま。琵琶や浪花節にも取り上げられ、こちらもラジオ中継。
東京日日などは明治座の舞台の紹介の形でこんな「爆弾三勇士」像を記事にしています。

『作江、北川、江下の三人は、後数時間に迫りつゝある死を前にしながら、真に朗らかに談笑してゐる。爆破の方法としては、身体へ爆弾を縛りつけてわれわれ自身が爆弾その物となつて敵の鉄条網に飛び込まう、と決心する。三人は一生の別れにと一本の煙草をのみまわす。(中略)三人斉しくマッチをすり、身に結びつけたる爆薬破壊筒に火を点じ、鉄条網の中に身を投ず…』

あるビール会社(あっ、ポスターに社名が)などは宣伝ポスターに「爆弾三勇士」を採用して売り上げを伸ばしました。もうアイドル扱いですね。

爆弾三勇士ビール広告

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子供たちも熱狂「させられ」ました。
少年向け雑誌の「爆弾三勇士」特集はひきもきらず。
爆弾煎餅・肉弾饅頭などがあいついで発売されて人気を博し、積み木の意匠やブリキのおもちゃまで…
ついには教科書にも取り上げられることになりました。

当然国民の興味は三勇士を育てた環境にもおよび、とりわけお母さんたちが注目を集めました。
涙一つ流さず息子の爆死を受け止めた、毎日地元の神社に薄着のままで参拝して息子の武勇を祈った、などなど。

この後の歴史を知っている私たちには、全国各地でゴマンと出現する「軍国の母」の姿ですが、国民はこれにも涙を流し、お母さんたちは大阪、京都、そして東京に招待されることになります。

お母さんたちはついに陸軍省に招かれ、荒木貞夫陸軍大臣から前に述べました義捐金(荒木陸相からの金一封も入っていたはず)を手渡されることになりました。

90パーセント捏造です

しかし皆さん。
ちょっと考えて頂けば判りそうなものですが、後の航空機や特殊潜航艇や爆装水上艇による、いわゆる特攻とは状況が違いすぎます。

すなわち、いかに抵抗が頑強だとは言え、支那軍に皇土を襲う能力はなく(もう少し後になると台湾、九州の一部を空襲する能力を持ちますが…そのあたりはまた別に記事にいたします)、現地で攻撃しているのは皇軍であって、三勇士が「命を捨てても」と言う状況にはないのです。

大東亜戦争末期の特攻でさえ、心ある軍人は「統帥の邪道」と言ってはばかりません。

この程度の情況で、大日本帝国の陸軍で部下の命を預かる士官が「自爆」を命じたり、許可したり、その志願を募ったり、する筈はないのです。

その事は当時でも気づいて、大日本帝国のために心配する人もいました。

特に軍事の専門家、特に陸軍には「爆弾三勇士」の熱狂ぶりに大いに不満と危惧を抱く人々がいました。

その代表的な人物が、陸軍築城部本部部員の陸軍中佐・小野一麻呂です。

小野中佐は三勇士が散華して半年も経たないうちに「爆弾三勇士の真相と其観察」と言う本を上梓したのです。

安心してください。
電脳大本営が紹介するから、と言って、またもやヒーローを貶めるものではありません。
電脳大本営の基本方針とピタリと一致する、
真実を見据えて、ヒーローの真の凄さを顕彰しよう。そこから現代にも通ずる真の戦訓を引き出そう。それこそ英霊の付託に応える道である。
とのコンセプトで書かれた本です。

一中佐の著作ですが、本の題字は軍事参義官・陸軍大将井上幾太郎が揮毫。
元工兵監・陸軍中将曽田孝一郎と築城部本部長の陸軍中将・山内静夫のダブル序文付き。
公式では無いものの、陸軍、少なくとも工兵部門を代表する見解と見て間違いないと考えます。

破壊筒の爆発

破壊筒が爆発した様子

さて、この本の内容と陸軍教育総監部の井上乙彦大佐による三勇士の原隊への聞き取り調査の報告(この報告は概略が陸軍省新聞班から各新聞社に伝達されています)を元に、「爆弾三勇士」の真の姿を探ってみましょう。

沢渡が全力で真実に迫りますが、たぶん間違いや見落としが沢山あります。
ご指摘いただければ、喜んで訂正いたします。
ただし、大まかな方向性は絶対に正しいと思っておりまする。

三勇士、真の勇気で任務を果たす

爆弾三勇士の所属していた独立工兵第18大隊(久留米)工兵中隊(2個小隊編成)は、前方の鉄条網を破壊して6本の突撃路を切り開くように命令を受けました。

そこで、失敗する事も考慮して、長さ4メートルもある「障碍物破壊筒」を8本、現地で急造しました。

 この「障碍物破壊筒」を3人一組で運び、鉄条網にセットして爆破するわけです。

第一小隊が三組、第二小隊では予備を含めて五組の破壊班を編成し、敵前40メートルの地点に「破壊拠点」を設営。
おそらく掩体壕を掘ったんだと思います。

2月22日05:20、第一小隊の3班が「隠密破壊」命令を受けて出撃、3班とも成功。
2月末の朝5時過ぎなんで、まだ暗かったんですね。

ところが第二小隊の方は、目標からの機関銃攻撃が激しく、「強行前進」の命令に変更となります。

強行と言っても、煙幕を張ったのですが強風で効果が薄く、3組の班員は全員被弾負傷、収容された内4名が翌日までに死亡してしまいました。

ある班の班長(軍曹)はこの情況に発奮、負傷しながらも敵機関銃座に手榴弾10数個を投げ込み、支那兵が怯んだ隙に鉄条網を切断しています。

それでも突撃路は1つだけ。
遂に予備班に「強行破壊」命令が下されました。

これを受けた予備班長内田徳二(朗が付くかも)伍長は、鉄条網に挿入後に破壊筒に点火するマニュアルに反して、突撃前に点火を命じました。

 破壊筒にセットされた導火線は長さ30センチの緩燃性の物で、一秒につき1センチ燃えるそうです。
 たった30秒ですが、されど30秒。

3人で筒を担いで40メートル突っ走り、鉄条網の根元に放り込んで、数メートルだけ退避するには十分な時間と言えます。

 実際にやってみると、少し待ち遠しいほどの時間がありますよ。私のような爺がやって見ても…

そうです。突撃前に点火したことは致命的なミスではありません。それよりも、敵前で点火する必要がない、かえって「安全策」だった、と言えるのではないでしょうか。

急造破壊筒

急造破壊筒

 実際に予備班のもう一組は、このやり方で鉄条網の破壊に成功し、負傷者も出さずに3人とも生還しています。

ところが、不幸にも三勇士の組では、先頭を進んだ北川一等兵が敵弾を浴びて負傷転倒してしまったのです。
後続(一つの破壊筒を一緒に持っていますから、「後」と言って良いかは議論あるでしょうが)の2名も弾みで転んでしまいました。

本来、ここで北川一等兵たちの班は任務失敗です。破壊筒をその場に遺棄して後方へ下がるのがマニュアル。誰も非難は出来ません。
しかし北川一等兵たちは、自分たちの小隊が突撃路をあと一本開けなければいけない事を良く判っていたのでしょう。

誰が言い出したのかはわかりません。
会話など、なかったのかも知れません。

ともかく三勇士は任務続行を選んだのです。

爆弾三勇士破壊筒を持って躍進

爆弾三勇士破壊筒を持って躍進

負傷した北川一等兵は気丈にも立ち上がり、江下・作江各一等兵も続きました。三勇士はついに敵鉄条網に達し、破壊筒を鉄条網に押し込んだのですが、そこで時間と彼らの運命が尽きてしまったのです。

決死隊の募集も、志願もなかった

如何でしょう?

新聞記事で真実を報じているのは、三勇士も含めた工兵隊の活躍で皇軍の前進を阻んでいた敵陣が攻略されたことだけです。

志願しただの、涙ながらに特攻爆破を認めただの、身体に爆弾を巻きつけて、など、全部ウソです。新聞記者の捏造です。

では、何故各社いっせいに同様の捏造報道をやらかしたのか?
これは今からでは史料だけで謎を解くことはできないと思います。

ただ、満州事変に続く「皇軍の快進撃」のニュースを渇望していた当時の国民感情を考えると、引っかかる証言があるのです。

昭和7年2月22日の夜、朝日や毎日の上海特派員たちは日本人クラブで食事をしていました。
そこへ前線から帰った陸軍将校が立ち寄り、
「今朝3人の工兵が爆弾を抱いて鉄条網に飛び込み、突撃路を作った」
という話をした、と言うのです。

特派員たちは三勇士の死に方に興奮してしまい、翌23日に現場にも行かず、三勇士の原隊にも取材せずに第一報を東京本社に送ったのではないかと考えられるのです。
爆弾の形も突撃状況もわからないままに、
点火せる爆弾を身体に結びつけ
などと壮烈な自爆物語を作り上げたのではないか?と私には思えます。

この程度の記者どもですから、特ダネ競争を回避するために「談合」して各社共通の「自爆物語」を創造していてもおかしくないではありませんか?   

こういう不明朗な報道で、似非英雄にされてしまった三勇士は
「事故説(導火線を短くし過ぎて爆発しちゃった、など)」
「荒木貞夫(陸相)捏造説」
「ドンくさかった説」
「部落出身者説(小隊長が部落出身の3人を指名した)」
などなどと、あれこれ言われる結果となってしまいました。

三勇士こそ、本当に真の勇者です。

実行が極度に困難な任務に敢然と立ち向かい、成功寸前でメンバーが負傷。
大きな時間的ハンデを負いながら、負傷をおして再挑戦。
見事任務を達成しながら、自分たちの退避が間に合わずに無念の爆死…

これのどこに「捏造」しなければ報道できない事実がありましょうか。
志願の必死攻撃ではなく、任務と命令にどこまでも忠実。
これ以上の勇士がどこの国にありましょうか。

新聞記者どもは、自分たちは日本人クラブで酒を喰らいながら、断片的な情報で適当な記事をでっち上げて爆弾三勇士の至情を汚したのです。

英霊をもてあそぶことは、日本人が許さない

次に引用しますのは侮日新聞の最近の紙面です。


2015年11月5日の毎日新聞記事

1932年、第1次上海事変で敵陣を突破して爆死し、「爆弾三勇士」と名付けられた3人の兵士に、作戦実行を命じた上官が残した直筆メモが、佐賀市の遺族宅で見つかった。「軍神」とあがめられた3人は死後、歌や映画にもなり戦意高揚の役割を担わされたが、上官は部下を助けられなかったことへの自責の念をつづっていた。【柴山雄太】

3人は、旧陸軍の工兵第18大隊(福岡県久留米市)所属の作江伊之助(さくえいのすけ)、江下武二(えしたたけじ)、北川丞(きたがわすすむ)−−のいずれも1等兵で、32年2月22日、上海郊外で中国国民党軍の鉄条網を爆破する際、爆発に巻き込まれて死亡した。
メモは3人が所属した破壊隊の班長だった内田徳次伍長=旧満州(現中国東北部)で36年に戦死=の佐賀市の実家で、おいの内田一明さん(79)が見つけた。今年3月、実家の仏壇を取り換えた際に、仏壇にしまわれていた軍刀などの遺品と一緒に発見したという。
表紙に「MEMO 戦斗日記 D2小隊第三分隊長 内田伍長」と記したメモ帳(縦約8センチ、幅約5センチ)に、日々見聞きしたものや思ったことなどが鉛筆で書き込まれている。32年2月2日、徳次さんが召集された日から約50日分(計61ページ)の記述があった。
鉄条網の破壊を実行した2月22日には、自身が「破壊筒(爆弾の一種)に点火を命じた」と書き「爆音天地を動かし約10米(メートル)を破壊す。成功だ自分は思わず立って万歳を唱えた」と続く。だがその後、江下、北川両1等兵が爆死していることに気付いた。さらに、ただ一人生存していた作江1等兵を救護している最中に徳次さん自身も脚を撃たれて負傷した。
メモの続きによると、徳次さんが再度救護に向かった時には、作江1等兵も事切れていた。「分隊の者を露天に残したかと思えば涙を止めえなかった」。翌23日、部下を救出できなかったことへの自責の思いを率直につづった。
徳次さんは、この時のけがで戦線を離れ、上海の野戦病院に入院、3月に帰国した。だがその後再び召集されて4年後に戦死した。
一明さんが、父で徳次さんの兄、雙太(そうた)さん(故人)から聞いた話では、徳次さんは帰国した際、英雄視された3人について語ることはなかった。一方で「俺は人を殺した、人を殺した……」と言いながら仏壇を拝んでいたという。
一明さんは「戦争を始めたのは大本営の偉い人たちだが、最前線で亡くなったのは叔父や『三勇士』をはじめ20代の若者だった。若者を見捨てる戦争は絶対にしてはいけない」と話した。
徳次さんは破壊作戦の遺物と伝えられる鉄条網や爆弾の一部などを持ち帰っており、遺族は今年7月、久留米市教委に寄贈した。市教委は史料を精査したうえで、上海事変や満州事変を考える展示会を開く予定という。

この記事のどこに捏造の反省がありますか?

三勇士は絶対にお許しになりません。

私たちも、捏造マスゴミを許してはならん、と思うのであります。

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